第106話 数百年の我慢
「よし、さっさと死ね」
短い言葉と共に、バイラヴァはすぐさまヴェロニカに攻撃を仕掛けた。
簡易な魔力弾。ただ魔力を固めて、撃ち出すだけである。
だが、それを破壊神が撃つとなると、話は大きく変わる。
その威力は凄まじく、掠っただけでも人体の一部が持っていかれるほどの威力がある。
「あはぁ。こんな至近距離でぇ、いきなり撃つなんてひどいわぁ」
しかし、ヴェロニカはその退廃的な笑みを崩すことなく、あっけなく避けて見せる。
目的であった彼女に当たらなかった魔力弾は、少し離れて湖面にぶつかり……大きな水柱を作り上げたのであった。
深くえぐり取られた湖は、一時的にとはいえ大きな穴を空けるほど。
すぐさま腐った湖水が補ったので、また元に戻ったが。
「んふふぅ。そうして遊ぶのもいいかもしれないわねぇ……」
何かを企んでしまったヴェロニカは、にんまりと笑う。
「貴様からも攻撃したらどうだ? 別に、逃げ回り続けるつもりはないのだろう?」
挑発するように笑うバイラヴァ。
逃げに徹されるよりも、攻撃にも比重を置かれた方が、攻撃を当てやすいのは当然だ。
一撃。たったの一撃を当てることができれば、必ず勝つことができるとバイラヴァは確信していた。
だからこそ、このようなことを言ったのだが……。
「うーん……別にぃ、それでもいいのよねぇ。神様はイライラして私と遊んでくれるでしょうしぃ……」
「止めろ」
絶望的なことを言うヴェロニカに、バイラヴァは真顔になる。
自分のファンと呼称する彼女と、これ以上長く一緒にいるのはストレス以外のなにものでもなかった。
「でもぉ、やっぱりずっと待っていたからぁ。ちゃんとぶつかって遊ばないとつまらないものねぇ!」
しかし、ヴェロニカもそのようなことを求めているわけではないのだ。
もっと刺激的で、凄惨な遊びをしたいのだ。
「ちゃんとぉ、攻撃しているわよぉ。しっかり見てよねぇ、神様ぁ」
「ちっ……!」
その言葉を聞いて、バイラヴァは舌打ちをする。
自身の懐に入り込むようにして、ひらひらと舞う蝶を見たからである。
普通の蝶ではない。黒く、禍々しい蝶だ。
それは、生物ではない。
ヴェロニカの力で作られた、魂のない無生物である。
ひらひらと遊ぶように飛ぶ黒い蝶。
それが、カッと光ったのを見て、バイラヴァはとっさに飛びずさる。
その直後、ズドドドド! と音を立てて、次々に蝶が炸裂した。
爆炎と爆風は、近くにいる者の命を容易く刈り取る。
「鬱陶しい……!」
大したダメージはないが、腹立たしさは確実に積みあがる。
煤が身体に付いて汚れれば、誰だって苛立たしさが生まれるだろう。
「まだこのようなつまらんことを続けるか!」
ひらひらと再び黒い蝶が飛んできたのを見て、バイラヴァは怒りを爆発させる。
苛立たしさを炸裂するかのごとく、下から顔面に向かって飛びあがってくる蝶に向かって足を振りおろし……。
「あ、しまった」
ボソリとバイラヴァが呟いた瞬間、彼の足が蝶を踏み潰す。
ぐちゃりと羽が折れて潰れる蝶。
そして、その勢いのまま小島に彼の足が着弾し……。
ズガァン! という凄まじい音と共に、小島が粉砕した。
一つの小さな小島が、沈没したのである。
足を踏み下ろしただけだ。それでも、地形を変えるだけの力を、破壊神は持っているのである。
これだけだったら、バイラヴァも誇らしげにヴェロニカを見ていたことがあったかもしれない。
しかし、それがないのは、小島があった場所である。
湖の上……それも、腐った湖水に満ちたところだ。
であるならば、その小島を粉砕してしまえば……。
「ぐおおおおおおおおおおおおお!?」
鼻が曲がりそうになる腐った水が、バイラヴァに降りかかるのは当然だと言えた。
ビチビチとよく分からないほどの小さな生物がぶつかってきて、グチャリと柔らかな身体を潰す感覚は、さしもの破壊神でも耐えられるものではなかった。
一方で、ヴェロニカはちゃっかり避難し、悶えている彼を高みの見物と決め込んでいる。
慌てるバイラヴァの姿を、本当に楽しそうに見ていた。
「…………」
ざあっと噴きあがっていた湖水が、雨のように降り注ぐ。
腐った水で身体が明らかに臭くなる。
バイラヴァは、じっと下を見ていた。
「(静かねぇ……)」
しかし、これが嵐の前の静けさであることは、当然ヴェロニカは知っていた。
「……まあ? 本来であれば、貴様は悪くない。我のミスだ。愚かにも、自分から腐った水を頭からかぶった。馬鹿としか言いようがないな。だがな……」
ギロリと、見据えられるだけで心臓が潰されるほどの圧が、ヴェロニカを襲う。
「貴様、わざと仕掛けただろう。こうなるように、誘導しただろう」
「さあ、どうかしらぁ?」
ニッコリと笑みを返すヴェロニカ。
誤魔化しているが、その通りである。
彼女は、意図的に誘導した。
今まで、ずっとバイラヴァのことを観察してきたのだ。
彼の性格なら、こうすればこうなる、ということが簡単に想像できてしまう。
その結果が、腐った湖水を頭から被り、小さく震えている破壊神の出来上がりである。
「はぁぁぁ……! 可愛いわよぉ、神様ぁ。ギュッと抱きしめてあげたいくらいよぉ」
自身の豊満な肢体を抱きしめ、ブルブルと震えるヴェロニカ。
火照った頬と蕩けた瞳は、むせ返るような退廃的な色気を吐き出す。
腐った水が彼の全身を覆っているが、そんなことは関係ない。
たとえ、糞尿にまみれていたとしても、今のように震えるバイラヴァのことは全身を使って抱きしめることができるだろう。
「――――――死ぬがいい」
もちろん、バイラヴァがそんなことを望むはずがないのだが。
吹き荒れる殺意と暴力の風。
それは、先ほどまでとは比べものにならないほどだ。
髪が大きくたなびいても、ヴェロニカは目を閉じることもなく、ただただ艶然と微笑むのであった。
「あらぁ……やっぱりぃ、神様って凄いわぁ」
そう言ってヴェロニカは首を反らし、視線を上げる。
空中には、轟々と音を立てて黒い魔力が収束していっていた。
それは大きな塊になり、内部でバチバチと反目し合っているような音が鳴り響く。
そして……。
「堕ちろ」
バツン! と留めが外れたように、その塊の形が崩れる。
ドバっと黒い液体が降り注ぐ。
黒い雨というには水量が多いが、まずそのどす黒い色を見て身体に良いものだと思う者は誰もいないだろう。
「うーん……流石にこれを被るのは厳しいわねぇ。神様の汗とかなら受け入れるのにぃ」
バイラヴァが腐った湖水を被ったのとは、比べものにならない。
あれを被れば、ヴェロニカは存在すらこの世界から消えてしまうだろう。
そんな異質な力が込められているように察知していた。
しかし、とっさに動いて逃げることはできない。
暴風とも言える空気の渦が、彼女の身体をその場に縫い付けているのである。
バイラヴァに抜かりはなかった。
彼女を風で動けなくして、その頭上から黒い雨を降らせる。
その作戦は見事に成功しており、あとはヴェロニカの存在を飲み込むだけ……。
「あはぁ」
何もすることができないヴェロニカは、そのまま黒い雨に飲み込まれた。
黒い液体は腐った湖にも広がり、どんどんと塗り替えていく。
『終わりね。ビックリするくらいあっけなかったけど』
ヴィルはそう判断した。
戦いは終わった。この湖を汚されたのは少し困るが、まあもともと腐っていたのだから、これくらいは良いとしよう。
これから、また作り直せばいいのだ。
バイラヴァにも、全力で手伝ってもらおう。
そう思っていたヴィルだったが……。
『まだ終わらせないわよぉ?』
死んだはずのヴェロニカの声が響く。
これに驚愕するヴィルだったが、次の瞬間。
ドロドロとした黒い液体が、ふっと消えた。
まるで、最初から何もなかったかのように。
腐った湖に広がっていた液体もそうだ。綺麗に描き消えてしまっていた。
「だってぇ、この日のために数百年我慢してきたんだからぁ」
そして、黒い液体の中から無傷で現れたのは、退廃的に微笑むヴェロニカであった。
戦いは、まだ終わらない。




