【事件】恐怖に囚われた信徒たち
サーペントウォールの中腹――
風の噛み方が、急に変わった。
先ほどまで頬を撫でていた細い風が、
ここではまるで“飲み込むような渦”を巻いている。
振動が岩肌に吸い付いて、音が詰まる。
声さえ、途中でちぎれて消えるようだった。
レミルたちが近づくにつれ、
その異様さの中心がはっきりと見えてきた。
祈りの声を押し殺すような風。
その中で、十数名の巡礼者たちが
岩肌に貼り付くように、身じろぎもせず固まっている。
杖を落としたまま座り込む女。
片手で崖をつかみ、震え続ける男。
小さく祈りの言葉を繰り返す子ども――
みな、どこか一点を“恐怖”に縫い付けられた姿勢だった。
「……動けねぇで固まってる。」
カインが低く呟き、眉をひそめた。
「これは普通じゃねぇ。」
エルゴは風向きを読むように指先を鳴らし、
耳をたてて、その揺れを計測する。
「恐怖反応が誘発されてる。
信仰依存の過剰反射……だな。」
感情の色をほとんど持たない声だった。
「信仰を……“過剰反射”……?」
リゼルがかすかに震える声で言い返す。
祈りの言葉が、ここではむしろ祈り手を締め上げているように見える光景に、
瞳が揺れていた。
「神の道が……彼らを苦しめているのですか?」
その一言に、応える風はない。
ただ、重苦しい沈黙の渦だけが四人を包む。
エルゴの冷静さと、リゼルの動揺。
カインの苛立ち。
三人三様の反応が、
それぞれの“価値観”の形にそのまま現れていた。
高度は同じでも、
同じ景色は見ていない。
この崖は、
四人の間に横たわる考え方の溝までも照らしだし始めていた。
▼1)子ども――風に浮かぶ錯覚
崖のくぼみにへばりつくようにしていた小さな子どもが、
突風に煽られ、足元が浮いたように感じた瞬間――叫び声が弾けた。
「やだ……! 落ちる、落ちる、落ちる……!!」
指先はすでに白く、岩肌を掴む手は震えで滑りそうになっている。
その泣き声がまた隣の大人の心を揺さぶり、恐怖の波をひとつ増やした。
▼2)大人の巡礼者――祈りに縛られる
別の巡礼者は、岩に額を押しつけたまま動かない。
まるで岩そのものになろうとしているかのような、固まった姿勢。
「祈れば……祈れば救われるはず……祈れば……」
祈りの言葉は、風に吸われ途中でちぎれ、意味を失う。
しかし本人はそれに気付かない。
祈るほどに肩がこわばり、視界を閉ざすほど恐怖に盲目になっていく。
▼3)狂信寄りの男性――恐怖を煽る者
そして、その祈りを否定するように、
ひとりの男が岩の上で叫び散らしていた。
「試練だ! 振り返るな!
恐怖を見つめたら堕ちるぞ!
まだ足りん、もっと祈れ! 耐えろ、耐えろ!」
叫ぶ声は風に割れ、響きが乱れるたび、
周囲にいた巡礼者の呼吸が乱れ、手が震え、
崖全体に“恐怖の連鎖反応”が走る。
まるで恐怖自体が生きていて、
渦の中心から一人ずつ喰らおうとしているようだった。
風が揺れれば、人の心も揺れ、
揺れた心がまた次の誰かを揺らす。
サーペントウォールはただの断崖ではなかった。
“恐怖が伝染する場所”――
古来、試練の場と呼ばれた所以が、ここにあった。
▼リゼル:焦りと罪悪感の震え
リゼルは両手を胸元に当て、必死に祈りの形を結びながら、
岩に縫い付けられたように動けない巡礼者たちを見つめていた。
「……皆、こんなにも祈っているのに……
どうして神は応えてくださらないの……?」
声が震えている。
祈りが通じない現実に、純粋な信仰が罅割れていく。
助けたいのに、どう助ければいいか分からず、
その無力感が彼女の足をさらに縛る。
▼カイン:力で救おうとしてしまう男
対照的に、カインは体を投げ出す勢いで行動した。
「子どもが先だ……!」
ロープを固定し、足場を確かめ、
恐怖に泣き叫ぶ子どもへ手を伸ばす。
しかし――
恐怖に呑まれた子どもは、彼の腕を受け入れられない。
「やだっ、近寄らないで! 落ちる、落ちるぅ!!」
暴れる手足がカインの腕を打ち、
その反動でロープが跳ね、彼の体勢も乱れる。
「ちっ……! 落ち着け! 大丈夫だって言ってんだろ!」
怒鳴り声ではなく必死の声――だが届かない。
“力づくの優しさ”は、この渦では逆効果でしかなかった。
▼エルゴ:冷静さが、冷たさに変わる
その様子を見ていたエルゴは、
風の振動と巡礼者の挙動を観察しながら、
呆れたように息を吐く。
「信仰を心の支柱にしすぎた反動だ。
恐怖の自己制御が壊れてる。
この状態じゃ合理的判断なんか――」
その言い方は、あまりに容赦がなかった。
リゼルの表情が一気に強張る。
「……あなた、信仰を侮辱する気ですか?」
エルゴは眉をひそめ、むしろ苛立ったように返す。
「侮辱じゃない。事実を言ってるだけだ。
祈りに頼りきると、こういう時に足をすくわれる。」
風より冷たい空気が、二人の間を走った。
■三者三様の“手詰まり”
・祈りは届かず
・力は通じず
・理屈は拒まれ
救いの形が見えず、崖の渦はさらに深まっていく。
――この鬱屈した暗さ。
この絶望の縁。
だからこそ、この後に続く
“レミルの光”が、誰よりも鮮烈に映えることになる。
崖の中腹――恐怖が渦を巻く中心に、
レミルは、まるで風に誘われるように一歩前へ出た。
足場ぎりぎり。
下は吸い込むような深い谷。
彼女の薄い外套が、風の刃に切られるみたいに翻る。
その瞬間、
三人の声が重なって弾けた。
「レミル!?」
「危ないッ!」
「おい、何してる――!」
リゼルの声は悲鳴に近く、
カインの声は焦燥に濁り、
エルゴの声は驚きと計算の入り混じったものだった。
だが――
レミルはただ、
やわらかく、少しだけ大人びた笑みで首を振った。
風が彼女の髪を横切るたび、
その笑みだけが、世界の中心で静かに燃えているようだった。
恐怖に囚われた巡礼者たちのすぐそばで、
崖の端に立つ少女は、
まるで“恐怖そのものを見つめ返している”ようだった。
崖を渡る風が、レミルの声をすくい上げるように運んだ。
それは震えてもいなければ、強がってもいなかった。
ただ、まっすぐで――あまりにも静かだった。
「――いいのよ。怖くて。」
その一言だけで、
岩に貼りついていた巡礼者たちの数人が、
かすかに顔を上げた。
泣き腫らした子どもの目にも、
祈りの言葉を呟き続けていた大人の耳にも、
過剰な信仰に飲まれかけていた男の胸にも、
届く速度で沁みていく。
レミルは自分の胸に手を当て、
もう片方の手は、風の方へ開いた。
「恐怖を押し殺すんじゃない。
祈りで上から覆うんじゃない。
誰かの言葉にすがって、消してもらうものでもない。」
そう告げる彼女の頬を、風が優しく払う。
その表情は“強くあろう”とした顔ではなかった。
むしろ、風に揺れる瞳の奥に、
恐怖の影がまだかすかに残っている。
――だからこそ、言葉に重みがあった。
「恐怖は……」
息を吸う。
重力が胸の奥でひとつ鳴動する。
「登る理由に変えられるの。」
それは祈りではなく。
命令でもなく。
救いの言葉ですらなかった。
ただ――彼女が、一度“落ちた”者だけが持つ、
揺るぎのない実感だった。
谷底から吹き上がる風が、ふいに脈を変えた。
レミルの指先へと、重力の名残がそっと集まり、
岩肌を這うかすかな振動が――まるで彼女の呼吸を真似るように整ってゆく。
レミルが、崖の上で静かに手を伸ばした。
その瞬間だった。
風が、ふっと弱まる。
縒れ、逆巻いていた気流がほどけ、
谷全体の揺れがゆるやかに鎮まっていく。
まず、岩場を叩く不規則な振動が消えた。
それに合わせるように、足を奪っていた揺れが落ち着き、
へたり込んでいた巡礼者たちの重心が自然と整う。
恐怖が暴れていた胸の奥に、
“落ち着くための余白”が生まれた。
泣き喉を詰まらせていた子どもが、
まるで息を思いだすように泣き止む。
祈りにすがっていた大人が、
祈りの言葉をやめ、ゆっくりと顔を上げる。
狂気に呑まれていた男は、
言い募りかけた言葉を喉の奥で凍らせた。
谷が――応えている。
レミルはその変化を、まるで当たり前のように受け止め、
ほっとしたように微笑んだ。
「ほら。
あなたが『怖い』って言ってくれたから……
風も、ちゃんと聞いてくれた。」
その言葉には誇張も祈りもない。
ただ、彼女自身が体験によって知った“真実”だけが宿る。
瞬きできぬほど自然に、
レミルは彼らの中心に立っていた。
守られる側の少女ではなく――
恐怖の片側を照らし、
他者の歩みを“導いてしまう”巡礼者として。
レミルの差し出した手が風を鎮めてからも、谷には奇妙な静けさが残っていた。
それは恐怖の名残ではなく――
誰もが言葉をなくすほどの“余韻”だった。
三人の反応は、その余韻の中で静かに立ち上がる。
▼リゼル
レミルの言葉が胸の奥で何度も反響する。
“怖くていい”“恐怖は登る理由になる”
祈りを否定しない。
むしろ――祈りの根にあったはずの“弱さを抱く力”を、
彼女はたった一言で思い出させてくれた。
リゼルは口元を押さえた。
いつのまにか涙がにじんでいた。
「……神は、恐怖そのものも……お創りになった……?」
その呟きは、震えているのに、祈りよりも澄んでいた。
▼カイン
レミルの横顔を見つめたまま、言葉が出てこない。
さっきまで子どもを抱きかけて焦っていた自分と、
風を受け止めながら微笑む少女。
その落差が胸に刺さる。
「……お前……なんでそんな顔で笑えるんだよ……」
嫉妬ではなかった。
悔しさとも少し違う。
胸の奥が、熱い。
守っていたつもりの相手が――
自分より先に、不安の中へ踏み出している。
どうしようもなく、誇らしくて、苦しい。
▼エルゴ
ただ風を見ていた。
いや、風“だけ”見ていたはずだった。
だがさきほどの変化――弱まり、収束し、再び均衡を取り戻すような動きが
自然の気まぐれにしては、あまりにも“整いすぎていた”。
エルゴは唇を固く結ぶ。
「……今の、君が起点……?」
それ以上は分析できない。
理論が追いつかない。
観測した現象として、胸に刻むしかなかった。
彼の沈黙は、驚愕に最も近い形だった。
レミルを中心に、
三人それぞれの視線が交錯する。
風はもう穏やかで、
しかし彼女の立つ場所だけが、世界の中心のように感じられた。
信徒たちは、まるで深い眠りから覚めたように、
ひとり、またひとりと膝を起こした。
さきほどまで岩に額を押しつけていた大人が、
震える手で衣を整えながらレミルを見る。
「……ありがとう……ございます……」
子どもはまだ涙の粒を頬に残したままだが、
レミルが膝を折って目線を合わせると、
怯えた呼吸がすう、と整っていった。
狂信的だった男さえ、今は声を失い、
ただ呆然と彼女を見つめていた。
やがて信徒たちは互いに支え合いながら、
崖を慎重に登り直しはじめる。
その歩みは不安定だが――
もう“恐怖に縫い付けられたまま”ではなかった。
レミルが静かに手を下ろす。
小さな吐息が、風に溶けた。
三人がそっと彼女の周りへ寄る。
崖の残響が遠のき、四人だけの空気が生まれる。
リゼルはその横顔に祈りを重ね、
カインはまだ実感の追いつかない胸の熱を押さえ、
エルゴは分析不能の沈黙を飲み込む。
その中心で――
レミルはただ、確かな呼吸をしていた。
目の前の恐怖に寄り添い、
風を整え、
誰かの歩みに手を添えた。
それは“奇跡”と呼ぶにはあまりに静かで、
“偶然”と片付けるにはあまりに力強い。
その瞬間、
彼女の旅は、目的を変えた。
ただ登るためでも、
ただ祈るためでも、
ただ守られるためでもない。
――自分の足で、自分の心で、この山に問いかけていく旅へ。
レミルはそっと立ち上がり、
前方の天を仰ぐように、淡く微笑んだ。
次の風が、四人を迎えに来ていた。




