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『断崖令嬢 ―The Cliff Chronicle―』 ― 高所恐怖症だった悪役令嬢、世界の崖を制す ―  作者: 南蛇井


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8/13

【巡礼開始】始まりの崖《サーペントウォール》

山脈の切れ目を抜けた瞬間、視界が開けた。

 レミルは思わず息を呑む。そこに横たわっていたのは――“壁”と呼ぶにはあまりに生々しい、巨大な断崖だった。


 岩肌は幾重にも曲がり、背骨の節のように折れ曲がっている。

 日光が差すたび、剥き出しの岩片が鱗のように煌めき、風が這うように吹き抜けるたび、低く長い唸りが尾を引いた。


 まるで、眠る蛇が深い呼吸をしているようだった。


 

 ――壁ではなく、生き物だ。

 そんな錯覚を抱かせるほど、サーペントウォールは重々しく横たわっていた。


 

 レミルは無意識に首を仰け反らせ、その全貌を追う。

 はるか天へ伸びるその“背骨”の先は霞に溶け、見えるだけでも数百メートル。

 背中に、じわりと冷たい汗が伝った。


(……ここを、登るのか)


 呼吸が浅くなる。

 指先がひやりと震え、谷で感じた“重さ”の記憶が、胸の奥で目を覚まし始めていた。


 

 隣で、リゼルが静かに祈りの印を結んだ。

 その横顔には恐れの影はない。

 むしろ神聖な儀式を前にした修道士のように、穏やかで揺らぎがなかった。


 

 少し前では、カインが険しい目つきで崖の斜面を舐めるように観察している。

 足場、岩の割れ目、風向き――すべてを判断材料として、淡々と頭に刻みつけていた。

 だがその背に、どこか焦燥にも似た固さがあるのをレミルは感じ取る。


 

 一方、エルゴは風の唸りを耳に当て、何かを測るように眉を動かしていた。


「……この鳴動、岩盤の空洞構造と干渉してるな。

 でも、気味悪さの方が勝つか……ほんと、生きてるみてぇだ」


 肩をすくめる声は軽いが、眼差しには好奇と緊張がせめぎ合っていた。


 

 四人の視線が、それぞれ別の意味を抱えながら同じ一点――

 “蛇の背骨”に向けられていた。


 レミルの喉が、静かに鳴った。

 この崖の前では、誰もが対峙するのだ。

 自分自身の恐れと、過去と、そしてこれからの物語と。



サーペントウォールの根元へ近づくにつれ、

 レミルの胸の奥が、ざわり……と逆流するように波打った。


 息を吸うたび、体の中心がずしりと重くなる。

 それは恐怖ではなく――いや、恐怖そのものなのだが、

 単なる“感情”では済まされない、もっと物理的なもの。


 谷で覚醒した《落下の瞬間》が、重力ごと彼女の中に刻みついていた。


 

 指先から力が抜ける。

 視界の端がゆら、と揺れる。

 足裏だけが勝手に高さを思い出し、地面が遠くなる錯覚が走る。


(……来る)


 重力が、過去を引きずり上げるように呼びかけてくる。

 あの落下の感触――空気が裂け、世界が裏返るように沈んでいった瞬間。

 体が勝手に震え、膝がかすかに笑う。


 だが、その震えの奥で、別の響きが生まれていた。


「恐怖は、落とすためにあるんじゃない……

 登るための火だ。」


 これは、自分を鼓舞する呪文ではない。

 もっと静かで、もっと深い理解の泉から立ち上がる言葉だった。


 恐怖は敵ではない。

 あの瞬間、死の縁で彼女の心に灯った“方向性”――

 それが今、胸の奥で小さく明滅している。


 

 そのとき、脳裏にセラの声がよぎった。


「あなたは“奇跡”を証明しなさい。

 落ちぬことも、登ることも、そのすべてで。」


 途端に呼吸が重みを増した。

 胸の鼓動が押し潰されるように早くなる。


(証明……証明、か)


 恐怖の火は確かにある。

 でもその上に、セラが置いていった見えない鎖が絡みついている。

 その重さが、足首を、胸を、喉を締めつける。


 

 レミルは一歩、崖の前に進み出た。

 震える足でも、前へ。


(私は……落ちるためでも、誰かの奇跡になるためでもない。

 この恐怖を、私の方向へ使うんだ)


 風が蛇の呼吸のようにうなり、

 重力が胸の奥で脈動する。


 登攀は、まだ始まってもいないのに――

 レミルの物語は、もう動き出していた。



サーペントウォールを前にすると、

 崖そのものよりも、四人の関係の“形”がむき出しになった。


 風が低くうなり、岩肌が鈍く光る。

 レミルが呼吸を整えようとしたその瞬間――

 最初に動いたのは、リゼルだった。


▼1)リゼル:祈りを盾にする


「レミル様。」

 柔らかい声が、崖の裂け目に吸い込まれる。


「恐れは神が与えた試練です。

 お心のままに……どうか、恐れを憎まないで。

 私は、常にあなたの背を守っています。」


 両手を胸の前で組む仕草は、

 まるで“庇護”そのものを形にしたようだった。


 けれどレミルは、胸の奥がきゅっと痛む。


(そんなに……そんなに信じられるほど、私は強くないよ)


 リゼルの純粋さは、優しさの形をしているのに、

 なぜか肩に重くのしかかった。


▼2)カイン:守護の責任が重圧になる


「……怖いなら言え。」


 寡黙な男の声は、祈りとは正反対の重みを持つ。


「俺が前を行く。

 どんなときでもお前の手は離さねぇ。……今度は。」


 “今度は”。


 その一言が、レミルの胸に冷たい針のように刺さる。

 彼の視線は常に真っ直ぐだが、どこか怯えた色が混じっていた。


 守られている実感よりも――

 彼の罪悪感が自分の背中に貼り付く感覚の方が強い。


▼3)エルゴ:恐怖の解析を試みる


「ほら、レミル。脈が速いな。」

 エルゴは祈りも謝罪もせず、淡々と観察していた。


「重力反応が過敏化してる。

 理性で抑えられる確率は……まあ、半々だ。」


 そう言いながら、大げさな器具を取り出す。


「もし発作が来るなら、僕が支点を確保する。

 落ちるよりはマシだろ?」


 合理的で、まっすぐで、

 でもレミルの心の温度とはまるで噛み合わない。


(そんな風に言われたら……もっと怖くなるじゃない)


▼4)レミル:四者四様の“支え”に挟まれる


 祈りも、

 守護も、

 分析も――


 全部が自分を思ってくれているのだとわかる。

 それでも胸が詰まった。


(誰も、私のことを“私”として扱ってない)


 優しくされても苦しい。

 守られても重い。

 分析されても逃げ場がない。


 四人の影が、自分の影の輪郭を消していくようだった。


 吹き抜ける風が、蛇の低い呼吸のように鳴る。

 サーペントウォールは沈黙のまま、ただそこに横たわっている。


 だが、最初にぶつかり合うのは崖ではなく――

 四人の価値観そのものだと、レミルは痛いほど理解した。


(登る前から……もうこんなに苦しいなんて)


 それでも、崖の前で足を止めなかった。


(だからこそ……ここから始めるんだ)



 レミルが、そっと足先を崖肌へ乗せた。

 その瞬間だった。


 世界が、二重に揺れた。


 足裏がふっと軽くなり、

 まるで地面のほうがレミルから離れていくような錯覚に襲われる。


 視界が、上下にずるりとずれた。

 自分が立っているはずの場所が遠ざかる――

 そんな“ありえない”感覚が全身を一気に冷やす。


 耳鳴りが、風の中に紛れてうねり始めた。

 低く、長く、擦れるような音。


 ……蛇だ。

 蛇が、崖の奥で息をしている。


 そんな気配がすぐ背後まで伸びてくる。


 手のひらが急に熱を持ち、

 汗がにじみ、

 岩肌に触れた部分から、

 「吸われる」ように冷たさが這い上がる。


 谷の底――

 あの落下寸前の、時間が伸びるような恐怖。


 重力そのものが意思を持って、

 足を掴んで引きずり込もうとしていたあの感覚がよみがえる。


(また……来る。

 この感覚。

 でも――違う。)


 レミルは、一度ぎゅっと目を閉じた。

 そして、ゆっくりと息を吸い込む。


(これは私を落とすためのものじゃない。

 登るために、まだ残っている“徴”なんだ。)


 恐怖が火になる。

 伸びる腕を灼く、確かな熱になる。


 レミルは次の一手を探るように岩肌へ指をかけた。

 崖が語る残酷な気配を、

 今度こそ自分の意志で踏みしめるために。



 レミルは、崖の最初の足場に身を置いたまま動けずにいた。

 風が、耳の奥でゆっくり渦を巻く。

 地上は遠ざかり、落下の気配だけが背骨を撫でてくる。


 胸の奥が、どく、どく、と鳴る。

 それは恐怖の鼓動。

 だが――その震え方が、前とは違っていた。


 逃げ出したいほどの冷たさの中に、

 微かな熱が混ざっている。


 レミルはゆっくりと、深く息を吸い込んだ。

 肺の奥が熱を帯びる。

 その熱を、両腕へ、指先へ、足裏へ流し込む。


(怖い。

 でも――消えない。

 なら……使えばいい。)


 目を開けた。


 崖はまだそこにあり、

 恐怖もまだそこにある。


 けれど、その形がわずかに変わって見えた。

 追い詰める闇ではなく、

 前へ押すための圧力のように。


 レミルは、低く、静かに呟く。


「恐怖は、落とすためにあるんじゃない……

 登るための火だ。」


 その言葉が、胸の奥で燃え上がる。


 恐怖が火に変わる。

 火が手足を満たし、

 火照りとなって身体を動かす。


 レミルは次の一手を掴んだ。

 自分の体を、

 誰の物語でもなく――自分の意志で動かした最初の瞬間だった。



 レミルが第二の足場を掴んだ瞬間、

 その背中を見ていた三人の気配が、静かに変わった。


 言葉はない。

 だが、全員が理解していた。

 この一歩は、崖を登るためだけのものではない――

 四人それぞれの“物語”が、同じ線上に結ばれた証だ。


 最初に続いたのはリゼルだった。

 胸に手を当て、短い祈りを落とす。

 それは誰かのためではなく、

 自分が揺らがぬための祈り。

 彼女の足が岩を踏むたび、祈りのリズムが揺れを収めた。


 カインは、ロープを繰り返し確認しながら続く。

 節々を指で押し、結び目を引き、軋みに耳を澄ませる。

 彼は恐怖を“整える”ことで越えていく。

 彼なりの戦いが、そこにある。


 エルゴは最後に崖へ手をかけた。

 風の流れを読むように、指先で空気の震えを確かめる。

 風向き、湿度、岩肌の温度――

 彼は自然を敵にせず、対話しながら前へ進む。

 登攀というより、風をなぞるような身のこなしだ。


 そして先頭のレミル。

 胸に宿した“火”はまだ小さい。

 だが確かに燃えている。

 その熱が、彼の背中の輪郭をはっきりと際立たせていた。


 四人は一列に連なり、

 同じ崖を、同じ空へ向かって登り始める。


 ――価値観の違う四つの心が、

 ついに同じ「上」を見た瞬間だった。




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