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『断崖令嬢 ―The Cliff Chronicle―』 ― 高所恐怖症だった悪役令嬢、世界の崖を制す ―  作者: 南蛇井


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【対立】“偶像ではいられない”

レミルが崖下で生きていた──その噂は、巡察隊が町の門をくぐった瞬間から、火が紙を舐めるように広がっていった。


「生還した娘がいるらしいぞ」「あの断崖から?」「神の守り手だ……!」


言葉は距離と人数を経るたびに膨らみ、事実は“奇跡”へと変形していく。

市場では早くも商人たちがざわめき、露店に急ごしらえの護符が並び始めた。粗雑な銀の板に「落ちても死なない娘」と刻まれた紋様が踊る。子どもたちは石畳に棒切れで、崖の上から降りてくる少女の絵を描き、目を輝かせた。


レミルはまだ何も知らない。

町が勝手に彼女を英雄譚の主人公に仕立ててゆくことを。


大聖堂の奥では、すでに儀式の準備が始まっていた。


セラ司祭は、白い袖を揺らしながら静かに通路を歩く。

足音はほとんど響かない。だが通り過ぎた修道士たちは、ただその“存在”に触れただけで姿勢を正し、動きを止める。


「紋章はまだですか?」


「も、もうすぐ……! 落下時の姿勢を再現し、背後に神光を——」


「もっと直線的に。逸話は“神が彼女を受け止めた”形で統一します。壁画班にはそう伝えて。」


セラの声音は淡々としていたが、そこにはわずかな揺らぎもなかった。

伝達された指示は、水が高いところから低いところへ流れるように、迷いなく全員へ浸透していく。


大聖堂の壁面には、新たに描かれる壁画の下絵が貼られている。

崖から落ちる少女と、その背後で両腕を広げる巨大な神の影。

崖の輪郭は誇張され、娘の表情は恐怖のどこにも似ていなかった。祈りに満ち、清らかで、神に捧げられた花のように描かれている。


本当のレミルがどんな顔で落ちたかなど、誰も知らない。


控室は冷えた石造りだった。

レミルは椅子に座らされ、白布の衣を羽織らされている。分厚い布地は妙に重たく、腕を動かすたびに布摩擦の音がざり、と耳に残った。


「もう少し肩を開いて。震えが見えると“弱さ”が伝わります」


後ろから修道士が淡々と肩を押し広げ、背筋を矯正する。

レミルは反射的に息を呑んだ。


「……すみません、力が、うまく入らなくて」


「大丈夫です。今日は立っていただくだけでよいのですから」


(立つ……だけ?)


意味が飲み込めず、レミルはうつむいた。

周囲にいる修道士たちは、ちらちらと彼女を眺めては囁きあう。


「本当に落ちて生きていたんだって」「神の寵愛だよ」「儀式の後は巡礼かな」


その声には敬意もあったが、それ以上に“好奇心”が満ちていた。

まるで珍しい鳥でも見ているような視線だった。


レミルは腕を握った。

だが、冷えた布と空気の重さの中で、握力さえも自信をなくしていく。


(……私の言葉は?

 私の望みは?

 誰も……聞いてくれない。)


「自分の意志がどこにもない。」

その事実は、まだ傷の痛みの残る体より、はるかに重かった。


白衣は、祈りの衣ではなく、

“彼女ではない誰かになるための衣装”だった。+




儀式開始の鐘が鳴るより前に、大聖堂はすでに満ちていた。

ただの静寂ではない。

期待と興奮、そして“奇跡を見たい”という渇望が、空気そのものをざわつかせていた。


中央扉を開けば、押し寄せる群衆のざわめきが波のように揺れる。


「本当に生き返ったんだろう?」「崖から落ちて無事なんて」「姿を見られるぞ」


聖歌隊が、低く、重い調べを奏で始める。

祝福を表しているはずなのに、その響きはまるで石牢の扉を閉める音のようにレミルの耳をふさいだ。


天窓から射し込む光は、一筋だけ強く、まるで舞台照明のように壇上へ向かって伸びていた。

周囲の誰もが、それを“神の光”と信じて疑わない。


(違う……ただの昼の光……。)


レミルはそう思ってみるが、胸に広がる圧迫感は消えなかった。


壇上に立たされた瞬間――

空間全体がレミルの呼吸を奪い取るようだった。


石床はひどく冷たく、つま先に触れるたび、身体の重さが定まらない。

顔を上げれば、無数の視線が一斉に刺さってくる。


(……息が、浅い。)


胸の奥に、激しく脈打つ心臓の鼓動。

それが聖堂の静けさに反響し、まるで全員に聞こえているかのように思えた。


司祭たちは半円を描くようにレミルを囲んで立っている。

前へも、後ろへも、横へも退けない。


「進んでください、レミル様」

「神の前へ」


声は柔らかいが、押し戻す余地のない強制力があった。


レミルは喉を動かそうとするが、空気がうまく通らない。

視線を集めることに慣れてなどいない。

自分に向けられているのは“善意”に見えて、実際には“期待”であり、

そしてその期待は、彼女自身ではなく、

彼女に重ねられた“奇跡の物語”に向けられている。


(こんなに……苦しいものなの……?)


立っているだけで精一杯だった。


それでも、儀式はまだ始まったばかりだった。



大聖堂の中心に、静寂を切り裂くようにセラの声が響いた。

その語り口は淡々とし、感情の影を一切にじませない。


「断崖より落ち、なお立ち上がった娘。

 これは――神意の征示です。」


まるで決まった式文を読み上げるかのような調子。

だが信徒たちにとっては、ひとつひとつが胸へ刻み込まれる“啓示”だった。


ざわり――。

大聖堂が揺れたように感じるほどの感嘆の波が広がる。


「ああ……」「本物の奇跡だ……」

最前列の老女は手を合わせて泣き、若い男は胸に手を当てて震えを抑えられずにいた。

レミルは、その視線の熱量に押されるようにして一歩身を引く。


(なんで……こんな……)


光は暖かいはずなのに、肌の表面を焼くように熱い。

光から逃げようとしても、逃げ場はどこにもなかった。


司祭の一人が前に出て、儀式の段取りどおりに促す。

その声はまるで、彼女自身の意志など最初から存在しないかのように滑らかだった。


「では――レミル様より、“奇跡の証”をお言葉として。」


レミルは喉を固く閉ざしたまま、壇上で凍りついた。

視線が集まる。

期待が押し寄せる。

ここで肯定すれば、世界は“奇跡の娘”として彼女を受け入れる。


だが。


(私は……そんなものじゃない。)


胸の奥に、谷底で掴んだ“あの感覚”がまだ残っていた。

恐怖を抱きしめて、それでも立った“自分の足の記憶”。


レミルは息を吸って――震える声を振り絞る。


「わ……私は……

 奇跡なんかじゃない……」


声はか細く、だが確かに届いた。


次の瞬間――

大聖堂の空気が、凍りついた。


ざわめきが起きる。

それは、歓声ではなく、


「……え?」

「違う……?」

「どういうことだ……?」


信徒たちの戸惑い。

期待していた“神の物語”から外れた言葉への、失望と混乱。

まるで全員が彼女に裏切られたかのような視線が向けられる。


レミルはその視線をまともに浴びて、膝が震えた。


(……違う……! 私は――)


けれど、その言葉の続きを誰にも聞かせることはできなかった。

会場を支配する沈黙が、彼女の声を押し潰したからだ。



レミルの「奇跡なんかじゃない」という小さな否定が、

大聖堂全体を揺らしたその瞬間だった。


ざわ――。


信徒たちのざわめきが波紋のように広がり、

空気がざらつき始める。

このまま混乱が膨らめば、儀式は崩壊する――誰もがそう思った。


しかし。


セラがわずか一歩、前へ出た。


その動きは微細で、けれど絶対的だった。

ざわめきがぴたりと止まり、空気そのものが引き締まる。


「レミル。」


名を呼ぶ声は驚くほど静かで、だが全員の耳に届いた。

否定も怒りも甘さもない。

そこにあるのは“規範”――揺らぎのない世界の形そのもの。


「奇跡とは、本人が名乗るものではありません。」


レミルの息が止まった。


静寂が大聖堂を満たす。

まるですべての音が、セラの次の言葉のために待機しているようだった。


セラは目を細めるでもなく、ただ淡々と続けた。


「奇跡とは――

 民が求める形として、存在していただくだけでよいのです。」


その瞬間、レミルの否定は跡形もなく消え去った。

まるで言っていないことにされたような、

発声そのものが“なかった”と扱われる感覚。


彼女は息を呑む。

胸の奥で、何かが崩れ落ちた。


(……私が……何を言っても……)


教会の物語が、彼女の物語を丸ごと飲み込んでいく。

それを拒む力は、今のレミルにはなかった。


だが、崩落と同時に――

瓦礫の下で、別の何かが固まる。


(……だったら……)


視線を落とす。

白衣の袖が握られる。

“奇跡の娘”という名札を貼られたまま、逃げ場のない壇上で。


レミルは、静かに悟った。


――私は、この物語のままでは生きられない。

――だから、登るしかない。自分で、物語を取り返すために。



セラの言葉が大聖堂に沈み込んだあと、

信徒たちの顔に次々と安堵が灯った。


「やはり奇跡の娘だ……」

「神意は揺らがぬ……」

「ありがたきこと……」


祈りの声が波のように立ち上がり、再び聖堂を満たしていく。

ひざまずく者、涙を抱く者、胸の前で手を組む者――

その誰もがレミルの発した否定を、

“セラに訂正されただけの誤差”として処理していた。


レミルはそれをぼんやりと見下ろした。

群衆の顔のどれひとつとして、自分を見ていない。


彼らが見ているのは、

自分ではなく――自分に貼られた名前だった。


(ああ……)


静かに、ひやりとした理解が胸の奥に降りてくる。


(私は……“この人たちの言葉”の中に閉じ込められるんだ。)


呼吸がまた浅くなる。

だが先ほどの落下の恐怖とは違う。

背後から落ちるのではなく、

四方から透明な壁が迫ってくるような――逃げ場を奪う拘束。


「奇跡の娘」

「神の徴」

「立ち上がった証」

「祈りの象徴」


彼女の知らぬところで紡がれた語が、

くもの巣のように自分に絡みついていく。


(私は……偶像なんかじゃないのに。)


胸の奥が、きしりと痛む。

誰かに救いを求めるような弱さではなく、

もっと鋭い、もっと根源的な痛み。


(私は――私でいたいだけなのに。)


聖歌の低音が響く。

祈りはさらに高まる。

祭壇の上で、彼女だけがその密度に押し潰されそうになっていた。


(……こんなの、いやだ。)


その言葉は声にならなかった。

けれど、言葉でなくてもよかった。


レミルの中で、ひとつのテーマが静かに形になる。


――私は偶像ではいられない。

――自分の物語を取り戻す。


その決意は、誰にも気づかれない。

祈りのざわめきの中で、

ただ彼女の胸の内だけで、静かに、確かに燃え始めた。



儀式が終わったあと、

大聖堂の灯は落とされ、

香の匂いだけが静かに残っていた。


レミルが控室へ戻ると、

そこにはすでにセラが立っていた。


白い法衣の裾が、微かな風もないのに揺れているように見えた。

セラは柔らかく笑った。

だが、その目は光を反射するガラスのように冷たい。


「レミル。あなたには、まだ“役割”があります。」


その声音には慈愛も期待もなく、

ただ「決定事項を告げる者」の落ち着きがあった。


レミルは返事をしなかった。

できなかった。


胸の内側で、言葉にならない拒絶が渦巻く。


(……役割なんて、知らない。)


拳が震える。

それを悟られまいと布の裾をにぎりしめる。


(私は“奇跡の娘”じゃない。

 誰かの望む象徴になるために戻ってきたわけじゃない……)


唇の裏を噛む。

味わう血の鉄は、生きている証のようで少しだけ心が落ち着く。


(私は……ただ、私として生きたいだけなのに。)


セラはその沈黙を「従順」と解釈したらしく、

満足したように軽く礼をし、静かに部屋を出ていった。


残されたレミルの胸には、

怒りとも悲しみともつかない重たさだけが残る。


* * *


夜。


大聖堂の外に出ると、

風がようやく人間らしい温度をもって肌を撫でた。


レミルはゆっくりと顔を上げる。


漆黒の空を切り裂くようにして、

巨大な岩壁サーペントウォールがそびえていた。


月明かりに照らされるその壁は、

冷たく険しく、どう見ても人間を拒む存在だ。


それなのに――


胸の奥がわずかに軽くなる。


(あそこなら……息ができる。)


儀式の視線や祈りの声から遠く離れた、

ただの空と風と岩しかない世界。


誰の“物語”にも組み込まれず、

誰の“役割”にも縛られず、

ただ自分の足で立てる場所。


サーペントウォールは、

レミルにとってその唯一の可能性を持った場所に見えた。


(行こう……)


その思いは、まだ決意と呼べるほど強くない。

けれど確かに芽生えた、次の章への種火だった。


――こうして、

レミルの“巡礼の開始”が静かに始まる。

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