【帰還】地上へ――奇跡の娘の誕生
薄曇りの空が低い天蓋のように広がり、崖の割れ目から吹き上げる湿り気を帯びた風が巡察隊の外套を揺らしていた。
隊員たちは慣れた手つきで索具を地面に広げ、落下した死体を引き上げるための準備を進めている。
この場所は――“落下者の谷”の真上。戻ってくる者など、誰ひとりとしていない。
だが、今日は違った。
最初に異変に気づいたのは、隊長だった。
「……止まれ。」
全員が動きを止める。
谷底の闇を裂くように、ひとつの影が――いや、“色”が、ゆらりと浮上してきていた。
隊員の誰かが息を呑む。索具の金具が、乾いた音を立てて震えた。
青白い光が、崖の縁に触れた。
その光の中心から、ひどく汚れた少女が現れた。
レミルだった。
破れた衣服の隙間からは泥がのぞき、
濡れた髪には青い水藻が絡みついている。
足取りは不安定で、今にも崩れ落ちそうなのに――
彼女の瞳だけが、澄んだ鉱石のように異様な透明さを宿していた。
それは巡察隊が“恐怖に目を閉じた時、視界の端だけに現れる”
あの得体の知れない青白さと、どこか似ていた。
副官が震えた声を漏らす。
「……生きて……いる……?」
隊長は即座に否定しようとした。
この高さ、この落下地点――生存はありえない。
そのはずなのに、自分の目に映る少女は確かに呼吸をし、足で地面を踏んでいる。
副官が、混乱を押し殺した声で言う。
「ありえません。ここは“落下者の谷”ですよ!
どうやって……どうやって生きて……?」
レミルは答えない。
答えられない。
視界は揺れ、地面がまだ傾いて見える。
胸の奥では、落下の残滓が鈍く蠢いていた。
(――まだ……落ちている……みたい……。)
自分の足が地を踏んでいる感覚さえ曖昧だ。
風が吹くたび、谷底の冷たさが蘇る。
隊長は無言のまま、彼女を見据えた。
長い沈黙の末、ひとつの判断に辿り着く。
「……教会へ運ぶ。」
副官が驚いた顔を向ける。
「隊長!? しかし――」
「“奇跡”の可能性がある。
報告はそれで通す。」
その言葉が、空気に杭のように突き刺さった。
奇跡――
その一語が、レミルに向けられた“新たなラベル”の始まりだった。
彼女自身の意思とは無関係に、
その瞬間、レミル・エヴラントは
**「落下から生還した奇跡の娘」**として扱われることになった。
巡察隊の一人が慌てて担架を取り出そうとしたとき、
レミルは泥のついた指で、薄く空気を押し返すように手を上げた。
「……歩ける。
……まだ……落ちてない。」
声はかすれているのに、言葉には不思議な焦点があった。
それは“傷ついた少女”の声音ではなく、落下の底で何かを見てきた者の、静かな確信だった。
隊員たちは顔を見合わせた。
恐れにも似たざわめきが、列の内側で生まれる。
なぜだろう――
彼女の足取りは危ういのに、倒れる気配がまるでない。
ゆらりとした動きの奥に、異様な均衡と透明な意志がある。
彼女の瞳の奥で微かに揺れる青白い光を見た者は皆、
言い知れぬ本能的な警戒を覚えた。
(……“落下の覚醒”を帯びている……。)
彼らはそれを言葉にしない。
言葉にした瞬間、それは“災厄”にも“奇跡”にも変わり得るからだ。
◆
教会本部――昇崖教会の白い尖塔が見えてきた頃、
レミルの息は落ち着き、歩みも安定していた。
巡察隊は依然として距離を置きながら彼女を導いている。
大扉が開かれ、
白い聖紋をあしらった長衣を着た司祭たちがざわつきながら顔を出す。
その中央に、一歩進み出た人物がいた。
セラ司祭。
冷ややかな才気を宿す灰銀の瞳。
全てを観察し、全てを利用できるものとして分類する眼差し。
まだ三十路を越えたばかりの若い司祭でありながら、
教会の法務と政治に強大な影響力を持つ女。
巡察隊長が息を整え、報告する。
「司祭殿。……“落下者の谷”より、生存者を」
だがセラは報告を最後まで聞かない。
レミルの姿を認めた瞬間、彼女の視線はまるで
“逸品の宝石を見つけた鑑定士”のように細く光った。
「……落ちて、生きたのですね。」
歩み寄りながら、静かに囁く。
「それはもう――“神意”以外の何物でもありません。」
レミルは直感した。
この女は、自分を利用する気だ。
だが、いまの彼女には抵抗する力も、
崖下で拾った真実の“名”を語る言葉も、まだない。
ただ、セラの瞳の奥にある計算の輝きだけは、
はっきりと見えていた。
昇崖教会の石畳には、昼の光が白く反射していた。
その中心に歩み出たセラ司祭は、まるで光そのものを編んだような姿だった。
白銀の髪は一筋の乱れもなく結い上げられ、
その横顔は冷徹な均整を保ち、
背筋から指先に至るまで“精密に設計された静けさ”で満ちている。
歩む度に、周囲の空気が整列していくようだった。
巡察隊の者たちは揃って深く頭を垂れる。
隊長
「崖下で……生存者を発見しました。
断崖令嬢レミル様です。」
セラは無言で一歩前へ。
上からではなく、真正面からレミルを見据えた。
その目は“人を見る”というより、
“未知の遺物を計測する”類の静かな正確さだった。
セラ
「……落ちたのですね?」
レミルは喉に痛みを覚えながらも、必死に答える。
レミル
「……はい。
落ちて……でも、まだ――」
“まだ終わっていない”。
その言葉を吐きだそうとした瞬間、
セラ
「――生きた。」
冷たく澄んだ声が、レミルの言葉を切り裂いた。
まるで彼女の意思を、上書きするように。
セラ
「落下して、生きた。
それはもう、“神意”以外の何物でもありません。」
そこに驚愕は一切なかった。
代わりにあったのは――
“価値の測定”という、錆びない機械の光。
そして彼女は、迷いひとつなく告げる。
セラ
「レミル。
あなたは崖に落ち、生還した。
その事実だけで、十分に人々を導く力となる。」
レミルの肩が、わずかに震えた。
寒さでも、痛みでもない。
自分の物語が奪われていく気配に対する震えだった。
セラはさらに続ける。
セラ
「あなたは――
神の試練を耐えた娘。
奇跡の象徴となるのです。」
その言葉が落ちた瞬間、
修道士たちは一斉に祈祷の姿勢を取り、
巡察隊は息を呑んだまま動きを止める。
世界が、レミルを“象徴”として扱う準備を完了させたのだ。
◆ レミルの内心
――象徴……?
私は……ただ、落ちて、怖くて……
それを、超えたかっただけなのに。
あの谷底で掴んだ“個人の覚醒”が、
人々の前では一瞬で
“宗教の物語”に書き換えられていく。
拒む力は、今の彼女にはない。
ただ、胸の奥で小さく燃えていた“自分だけの灯り”が、
セラの言葉の前で揺らぎ、
今にも消されそうになる。
その揺らぎを、レミルはただ黙って噛みしめるしかなかった。




