「沈黙の谷」と老修道士
……ゆらり、と身体が浮く。
水に沈んでいた感覚が、静かに反転する。まるで光が彼女を引き上げていくようだった。
レミルは薄く目を開いた。
視界いっぱいに広がるのは、青白い光。
水面がゆるやかに揺れ、その揺らぎが天井へと跳ね返っている。天井は崖の裏側をそのままひっくり返して貼りつけたように歪み、無数の岩肌が光を吸い込みながら、しずくのように瞬いていた。
――空じゃない。
そう理解するより早く、胸がひとつ脈打つ。そこにあるのは、地上とはまったく違う“逆さの空”。
音はほとんどなかった。
ただ時おり、洞窟を横切る風が低く鳴り、祈りの旋律のように空洞へ広がっていく。息をひそめたような静寂の中で、その音だけが世界の鼓動を示していた。
レミルの周囲には、淡く光る藻が漂っていた。水から浮き上がる星屑のように、ひと粒ひと粒が光を湛え、彼女の肌や髪にふれては離れていく。
指がかすかに震えた。
意識はまだ霧の中にあり、思考の形も定かではない。けれど、呼吸だけははっきりしていた。
――四拍吸気。二拍保持。四拍吐息。
あの落下の最中に刻んでいた“登攀の呼吸”が、まだ身体の奥で続いている。胸や腹の内側に、重力反転の余韻が残っていた。まるで世界そのものが、まだ彼女の呼吸に合わせて揺れているかのように。
レミルはゆっくり手を伸ばした。
水面の光をつかもうとした指は、まだ少し重い。けれど、その重さは恐怖ではなかった。
――ここは……どこ……。
声はかすれ、ただ水面に小さな波だけを生んだ。
彼女はまだ“落下”の続きを生きていた。
その落下が、どんな場所へ連れてきたのかを知らぬままに。
レミルが、腕に力を込めてゆっくりと上体を起こしたときだった。
――カラン。
背後で、小さな金属の触れ合う音がした。
水面に映る光が揺れ、その揺らぎが彼女の頬に触れる。レミルははっとして振り向いた。
そこに、“白”があった。
青白い光の中で、白衣の老人が静かに立っていた。
手には、小ぶりなランタン。それは火ではなく、淡い魂のような光を灯している。揺れるたびに洞窟の影が波紋のように広がり、老人の輪郭を柔らかく包んだ。
白髪は肩までまっすぐに垂れ、装飾のない紐帯が彼の身を締めている。
その瞳――灰色の瞳は、光を吸い込む深い水底のようで、覗き込めば沈みそうな静謐があった。
老人はレミルを見下ろさなかった。
ゆっくりと同じ高さにしゃがみ込み、まるで傷ついた鳥に手を差し伸べるように視線を合わせた。
「……目を覚ましたか、落ちた娘よ。」
洞窟の風を喉の奥で受けるような、落ち着いた声だった。
レミルは息を整えようとしながら、濡れた髪をかき上げる。身体を包む水滴が藻の光を反射し、震える問いが口をつく。
「ここは……どこ……?」
老人は、少しだけ目を細めた。悲しみとも、慈しみともつかぬ表情で。
「地と天の狭間、“沈黙の谷”。
――落ちた者が、生き延びる場所だ。」
レミルの胸に驚きと混乱が一度に押し寄せる。言葉を探す前に、老人は続けた。
「恐れを超えた者だけが、神の崖を登る資格を持つ。」
その声は告げるのではなく、判じるようだった。
祝福でも叱責でもない。“選別”だ。
レミルは気づく。
この老人はただの救助者ではない。
この谷に落ちた者たちの“生死”を見極める存在――門番であり、観測者。
そして、まだ名を知らぬ老修道士ゲルマンこそが、のちに彼女の前に立ちはだかる“昇崖教会の隠者”であることを、この時のレミルはまだ知らなかった。
レミルは、濡れた両手を胸の前に持ち上げた。
藻の光が指先に反射して揺れ、震えが細かな火花のように散っていく。
震えている――けれど、これは恐怖の震えではない。
胸の奥で熱を帯びる、何かが“立ち上がろうとしている”感覚。
自分は落ちた。
高塔から、真っ逆さまに。
あの高さなら、ふつうは骨も皮も残らず砕け散っている。
――なのに、生きている。
その事実が、理解より先に心へ衝撃として染み込んでくる。
恐怖はまだある。
しかし、それは身をすくませる感情ではなく、鋭い線となって意識を覚醒させている。
あの瞬間、前世の記憶と共に自分を包んだ“力”――重力が反転したような感覚。それがまだ身体のどこかで脈動していた。
(モノローグ)
「……私は、本当は……もっと落ちられる。
その先へ、行ける。」
息が震えながらも、言葉は自然に零れた。
「……私は、まだ……終わっていない。」
小さな声だった。
けれど、洞窟の静寂に吸い込まれ、燭の揺らぎに共鳴するように広がっていく。
この谷に落ちたことは“終わり”ではない。
むしろ、これが始まりなのだ――。
老人は、レミルの言葉の余韻が消える前に、ふっと口元を緩めた。
まるで、ずっとこの言葉を待っていたかのように。
「……よい眼だ。落下の先を見ている。」
その声には、祝福でも憐憫でもない。
ただ、長い旅の“出発”を見届ける者の静かな確信が宿っていた。
ゲルマンは、手にした古びたランタンをゆっくりと掲げた。
炎が揺れ、油の匂いとともに温かな光が洞窟の天井へと押し上がる。
その光が岩壁に触れた瞬間、
――影が、群れのように立ち上がった。
壁一面に広がるのは、無数の“人影”。
誰も動いていないのに、影だけが生き物のように、岩肌を這い、伸び、固まっている。
それらは全て、崖を登る姿勢をしていた。
腕を突き出し、足を掛け、必死に空へ向かってもがく形。
古代からこの谷に挑み、息絶えた登攀者たちの残滓――
その覚悟だけが影となって、ここに刻まれ続けている。
風が吹き抜け、影の群れがわずかに揺れた。
まるで、彼らがまだ登り続けているかのように。
レミルもまた、光に照らされて壁に影を落とした。
その影は最初、倒れ伏したままの形をしていた。
落下の恐怖を引きずった、弱々しい姿。
しかし、風がもう一度吹いた。
影が揺れ――
ゆっくりと、立ち上がった。
レミル自身は動いていない。それでも影だけが、意思を持つように身を起こす。
その光景に、レミルは言葉を失った。
ゲルマンの声が、洞窟の広がりを震わせるように響く。
「行け。」
低く、しかし確かな力を宿した声だった。
「断崖の娘――」
一拍。
火がぱちりと弾け、影たちがさらに上へと伸びる。
「“神の梯子”は、恐怖を超える者を待っている。」
その言葉に応えるように、壁面の影たちは一斉に天へ伸び、
光を求めてのぼり続ける黒い線となる。
レミルの影も、他の影と同じ方向――
上を向いていた。
レミルはそっと息を吸い込み、その先を見据えた。
影たちの登攀は、彼女が次に進むべき道の形そのものだった。
レミルはゆっくりと膝に力を込め、立ち上がった。
濡れた髪先から落ちる水の重みが、まだ“生きている”という実感を静かに知らせてくる。
手で髪を払うと、滴が幾筋も空気を裂いて落ちた。
呼吸はもう乱れていない。
胸の奥で、微かな震えがひとつの芯へと変わっていく。
目に宿る光は、恐怖の残り火ではなく――前へ進むための、鋭い意志。
ゲルマンはレミルの変化を振り返らないまま、谷の奥へ歩き出した。
柔らかなランタンの光が、老人の白衣の裾を揺らしながら遠ざかっていく。
その背中から、低く、しかし明確な声が落ちてきた。
「……試練は、まだ始まったばかりだ。」
レミルは老人の背を追うのではなく、まず自分の足元を見た。
指先から落ちたひとしずくの水が、静かな水面に触れる。
――ぽうん。
波紋がひとつ、輪を描いて広がる。
その輪が光を帯び、洞窟そのものが一瞬、呼吸したように淡く輝いた。
レミルはその光を見つめ、胸の奥で何かがほどけていくのを感じる。
ここから始まるのだ。
“沈黙の谷”の深部へ――自分が落ちてきた意味を知るための、探索と試練が。
波紋の光は闇の底へ吸い込まれ、静けさだけが戻った。
だがレミルの足は、もう止まらなかった。
レミルは、ゆっくりと崖壁を仰いだ。
そこは遥か頭上に反り返り、光を吸い込みながら天へ続く“真下の空”。
落ちてきたはずの場所を、今度は登るべき場所として見つめる。
胸が上下する。
かつては震えに揺さぶられていた呼吸が、いまはひとつの線のように静かに整っている。
鼓動はまだ速い――だが、その速さはもう恐怖の証ではなく、前へ進むための脈動だった。
(レミル・モノローグ)
「怖い……でも、それでいい。
もう一度、登ろう――私自身を。」
その言葉に呼応するように、谷底の空気がわずかに震えた。
崖の亀裂から射し込む光が、何本もの縦の筋となって重なり合い、
まるで“神が垂らした梯子”のように上方へずっと伸びていく。
青白い静寂の空間に、光の柱が幾重にも立ち昇り、
その中心に立つレミルの影だけが、確かに未来へ向かおうとしている。




