「重力詠唱」覚醒 ― 落下を反転させる魔導
暗闇。
そこには、もはや高さも、方向もなかった。
ただ、風の感触と、胸の奥で脈打つ音だけが存在する。
どくん。
どくん。
レミルは目を閉じていた。
恐怖は確かにそこにある。
だが、それはもはや彼女を締めつける“鎖”ではなかった。
むしろ、体の中心で熱を灯す“鼓動”のように、穏やかに、確かに在った。
彼女はゆっくりと息を吸う。
――四拍。
胸を満たし、心を鎮める。
そして二拍、止める。
世界がその呼吸を真似するように、静止する。
――四拍、吐く。
風がそれに応じて流れを変える。
まるで大気そのものが、彼女の呼吸に“従って”いるかのように。
その瞬間、彼女は気づく。
(モノローグ)
「……世界が、息をしてる。
私の中にも、同じ呼吸がある――。」
その感覚は、恐怖を溶かし、空間そのものを柔らかくしていった。
風が彼女の肌を撫でるたび、微かな温度とともに魔力の流れが生まれる。
呼吸と心音が、完全に一体となる。
胸の奥で響く“命のリズム”が、世界の脈動と重なり合う。
次の瞬間――
皮膚の下から、淡い光が滲み出した。
それは汗でも涙でもない。
ただの魔力の“呼吸”。
彼女が世界と同調した証。
光は糸のように浮かび上がり、彼女の身体を包む。
糸は空気の流れを可視化するように、螺旋を描きながら揺れた。
落下しているはずなのに、
世界が、彼女を中心に“静止”しているようだった。
風はもう、冷たくない。
それはまるで、祈りのような呼吸だった。
唇が、勝手に動いた。
意識よりも早く、言葉が彼女の中から零れ出ていた。
それは呪文ではない。
定められた魔法の言葉でも、誰かに教えられた祈りでもない。
――これは、“恐怖”そのものが形を得た声。
そして、その恐怖を力へと転じるための、本能的な祈りだった。
レミルは小さく息を吸う。
胸の奥の震えを、ただ受け入れる。
拒まず、抗わず、飲み込む。
その一呼吸が、世界の律を変えた。
「――重力よ、我が恐怖を喰らえ。
落ちる心を、登る力へ。」
その瞬間、空気が――反転した。
風が、下から上へと流れを変える。
髪が持ち上がり、衣が羽のように翻る。
上昇と下降の境界が崩れ、世界がひとつの渦へと姿を変えた。
音が吸い込まれる。
代わりに、光の糸が空間に浮かび上がる。
先ほどまで彼女の呼吸に寄り添っていた淡光が、今や意志を持った生き物のように蠢いていた。
細い糸は螺旋を描きながら彼女の周囲に集い、円環を成す。
それはまるで、見えない世界の中心が、彼女を基点に書き換えられていくようだった。
上も下も消え、風と光だけが残る。
重力が“流れ”を変えた――否、彼女が変えたのだ。
光の円が幾重にも重なり、風の圧が膨らむ。
レミルの髪は逆巻く炎のように宙に漂い、
その瞳には、青と銀の光が螺旋を描いて宿った。
(モノローグ)
「……そう。
恐怖は、落ちるものじゃない。
掴むための“始まり”なんだ。」
風が吠える。
空気が弾ける。
彼女の身体の周囲に生まれた**「逆流する重力場」**が、目に見えるほどに輝きを増した。
世界は、いま確かに――
レミル・デズライドという“異端の祈り”を中心に、再構築されていた。
レミルの身体は、まだ落ちていた。
けれど――もう、“落ちている”という感覚はなかった。
重力は敵ではない。
抗うものでも、逃れるものでもない。
それは今や、彼女の呼吸と同じ、世界の拍動にすぎなかった。
周囲の風が歪む。
音のない渦が、彼女の周囲に幾重にも重なり、
透明な層となって空間を包み込む。
空気が密度を増し、見えない圧力が肌にまとわりつく。
まるで大気そのものが、ひとつの巨大な心臓となって脈打っているようだった。
彼女の身体は、落下の加速度を奪われるのではなく、蓄えられていく。
重力が押しつける力は、そのまま魔力へと変換され、
彼女の内側――心臓の奥にある“核”へと吸い込まれていく。
髪が静電気のように逆立ち、
指先から、細い光の筋が幾本も伸びる。
それらはすべて、周囲のエネルギーの流れを映す“導線”だ。
世界は彼女を中心に、息を潜めた。
空間の輪郭が軋む。
風も、時間も、視界も――すべてが凝縮されていく。
そして、レミルの瞳がゆっくりと開く。
その双眸に宿るのは、青白い二重螺旋の光。
それはまるで、上昇と下降、光と闇、生と死が互いに絡み合い、
絶えず転じ続ける“運動の原型”そのものだった。
(モノローグ)
「落ちることは、登ること。
なら、私は――落ちきるまで、登り続ける。」
その言葉とともに、
世界が――静止した。
風が止む。
光も止む。
重力さえ、息を止めたかのように。
すべてが、一瞬の無音に飲まれる。
その沈黙の中心で、レミルはただ、
次の瞬間に解放される“反転の衝撃”を待っていた。
地表が迫ってくる。
黒鉄のような岩肌、細い亀裂、染み込んだ鉱石の光――
そのどれもが、レミル自身の姿を映し返していた。
まるで、地が彼女を迎えるために
“鏡”を差し出しているように見えた。
落下は頂点に達し、
すべての力が一点に収束する。
そして――触れた瞬間。
光が、咲いた。
爆ぜるような轟音。
だがそれは破壊の音ではなく、花が一斉に開く瞬間のような響きだった。
地表を中心に、巨大な花弁状の衝撃波が円環となって広がる。
空気が裏返り、砂と岩片が吸い上げられる。
風は咲き誇る花びらのごとく、幾重にも白い弧を描きながら舞い上がった。
爆心地の中心――
その真上に、レミルは“ふわり”と浮かんでいた。
まるで、花に抱き上げられたようだった。
髪も衣も揺らがず、
ただ静かに風に乗って、時間を忘れたようにたゆたっている。
眼下には、蒼緑の光を放つ水面が広がっていた。
地底とは思えないほど澄んだ水。
その底には、淡く光を放つ緑藻が揺らめいている。
それは――
暗闇の底に広がる、もうひとつの“空”。
レミルはその青緑の光に吸い寄せられるように、
ゆっくりと、落ちていった。
重力の命令ではない。
世界の拒絶でもない。
あれほど恐れていた“落下”が、
いまはただ、眠りへと運ぶような優しい手触りだった。
水面に触れた瞬間、
音もなく、波紋だけが花弁のように広がった。
そしてレミルは、光る水の底へ――
静かに、沈んでいった。
衝撃は――なかった。
ただ、やわらかな腕がそっと抱きとめるように、
水が彼女の身体を受け入れた。
落下の勢いは、痛みではなく温度へと変わる。
冷たさでも熱でもない、記憶の奥に残る“胎内の温度”のような感触。
レミルはその中で、すべてを委ねるしかなかった。
水底へ沈むにつれ、周囲には光の粒が漂い始める。
緑藻から零れた微細な燐光が、雪のように舞い、
レミルの髪をほどくようにふわりと絡まる。
髪はゆるやかに広がり、
その姿は――まるで、何かが生まれ落ちる瞬間の儀式めいていた。
息は苦しくない。
むしろ肺の奥まで澄んでいく。
世界の音は消え、心拍さえ他人のもののように遠い。
どこかで、囁くような声が響く。
「彼女は堕ちた。
だが、神はその落下を――“祈り”と呼んだ。」
水面の上では、さきほどの爆心が遅れて逆流し、
風が舞い上がって花弁のような渦を咲かせていた。
だが、その光景を見ている者は誰もいない。
この瞬間に立ち会う目撃者は、
この世界には――まだ、いなかった。
それでも、運命だけは知っていた。
この一瞬が、“断崖令嬢”と呼ばれる伝説の始まりであることを。
レミルの身体はさらに沈む。
光は深くなるほど強くなり、
やがて彼女は、青緑の世界の底へと溶け込んでいった。
その沈黙の谷で、彼女を待つものが何なのか――
まだ誰も、知らない。
遥か上空。
断崖の影が長く伸び、その奥に広がる青白い水面だけが、
暗闇の底で静かに呼吸している。
その光のゆらめく中心へ――レミルが沈んでいく。
落下ではなく、ゆるやかな“帰還”のように。
彼女の身体を包む水は、拒むのではなく抱擁のように柔らかく、
衣の裾も髪も、まるで眠りへ誘う布のように広がっていた。
水面のはるか上。
さきほど生じた反転衝撃の余波が、
花弁状の光輪となって空に咲いている。
その花は静止し、
まるで世界の法則そのものが“彼女を中心に開いた”記念碑のようだった。
暗がりに溶けるように沈むレミルの横顔――
わずかに揺れた睫毛の隙間から、
細く青い光が覗く。
レミルの瞳が、ほんの一瞬だけ開かれる。
焦点はまだ曖昧で、夢と現実の境にある。
だがその唇だけは、
“次の言葉”を探すように微かに動いた。
何を呼ぶ?
誰に届く言葉なのか?
その答えが紡がれる前に——
闇がすべてを飲み込む。
水面の光も、岩壁の影も、彼女の呼吸さえも。




