落下 ― “恐怖の中で蘇る記憶
床が開いた瞬間、世界が裏返った。
視界が回転し、天が落ち、地が昇る。
そのはざまに、レミルの身体は放たれる。
風が、音を裂くように吹き抜けた――はずだった。
だが次の瞬間、すべての音が、消えた。
鐘の響きが、遠くで伸びきった金属の弦のように鳴り続ける。
“カァァァァァン……”と、永遠に終わらない振動だけが、世界の背骨を震わせている。
それ以外のすべて――群衆の叫び、衣のはためき、断罪塔の軋み――が、凍りついた。
彼女は落ちている。
けれど、落下のはずのその時間が、止まっていた。
視界の中で、空が線になって流れる。
風が糸のように伸び、塔の尖塔が一枚ずつガラス片になって剥がれ、遠ざかっていく。
すべてが“光の断片”となって散り、まるで世界そのものがスローモーションの夢を見ているようだった。
風が背を撫でる。
胃が浮く。
だが、その感覚が――怖くない。
むしろ、懐かしい。
身体が覚えている。
この、支えのない宙に投げ出される感覚を。
何かを失う瞬間に、世界が美しく見える感覚を。
恐怖が、静けさに変わる。
静けさが、快感に変わる。
心臓が、一度だけ強く打った。
それが、鐘の音と重なり、胸の奥で大きく響く。
その脈動が、まるで世界全体を生かしているように感じられた。
レミルの瞳がゆっくりと開く。
風の流れ、空の裂け目、太陽の角度――すべてが見える。
世界が、ひとつの巨大な呼吸のように脈打っている。
(モノローグ)
「……知ってる、この感覚。
足元がなくなって、でも――世界が広がる。」
その言葉とともに、彼女の表情がふっとほどけた。
恐怖の面影が消え、代わりに何かを思い出した人のような、静かな微笑みが浮かぶ。
――時間は、まだ止まっている。
だが、彼女の中だけが“動き出していた”。
世界が、ひとつ、震えた。
空の色が変わる。
さっきまで茜に染まっていた王都の空が、突然、白く焼ける。
まるで誰かが絵筆で塗り替えるように、風景が“上書き”されていく。
断罪塔の輪郭が消え、代わりに現れたのは――
果てのない岩壁。
白い岩肌が陽光を反射し、目が焼けるほどまぶしい。
風が乾いている。
熱を帯びた空気が肌を叩く。
砂の匂い。汗の味。
肺の奥まで乾いた熱が流れ込む。
そして、指先に――粉の感触。
白いチョーク。
その粒が、現実には存在しない風の中で、淡く舞い上がる。
彼女は、落下している。
だが同時に、登っていた。
岩肌を掴む手の感覚。
爪の下の痛み。
腕に走る重み。
記憶と現実が重なり合い、どちらが“本当の重力”なのか分からなくなる。
そのとき――風の向こうから、声がした。
男の声。
穏やかで、焦りを含んでいる。
まるで、岩壁の下から彼女を見上げているような距離感で。
「もう一歩……もう一歩だ、レミ……!」
「――落ちるな!」
その音が、胸の奥で弾ける。
懐かしい。
名前を呼ばれたときの感触が、皮膚の下を震わせる。
“レミ”。
それは、この世界では呼ばれたことのない名。
でも、確かに“自分”だった。
身体が、反射的に動く。
両腕が、風を掴むように広がる。
指先が、空気の流れを“岩の裂け目”として捉える。
――掴める。
ありえないのに、確信だけがある。
空気の密度、風の向き、体の角度。
そのすべてが、登攀の記憶と一致している。
レミルの肩が自然に締まり、腹に力が集まる。
脚が反射的に蹴り出され、
落下ではなく、登攀姿勢に切り替わる。
その瞬間、風が変わった。
真下に吹きつけていた空気が、まるで“支えるように”流れ始める。
(モノローグ)
「……この風、知ってる。
登るとき、いつも感じてた。
落ちることを、恐れなかった――あの、風。」
落下の軌跡の中に、“登る意志”が生まれていた。
その境界線で、世界が再び揺らぐ。
断罪塔の影と、白い岩壁が重なり――光が弾ける。
そして、レミルは見た。
自分の手が、空気を掴んでいるのを。
心臓が暴れていた。
胸の奥で打つたびに、世界が軋むように震える。
それは、恐怖の鼓動だった。
落下の音。生の終わりを告げるリズム。
だが――レミルは、その鼓動を聞きながら、ふと笑った。
懐かしい、と感じたのだ。
かつて、崖を登るときも、同じだった。
岩肌に指をかけ、足場のない壁に体を預けたとき。
恐怖が先に来る。
だが、その恐怖が呼吸を導いてくれた。
レミルは目を閉じ、ゆっくりと息を吸い込む。
――四拍、吸気。
空気が肺を満たし、胸がふくらむ。
風の温度が、体の芯まで染み込む。
――二拍、保持。
世界が止まり、心臓の鼓動だけが響く。
この一瞬だけ、重力と自分が同じ呼吸をしている。
――四拍、吐息。
息を流すと、周囲の風がそれに応じて形を変える。
まるで彼女の呼吸が風の律動を決めているかのように。
それは、登攀のための呼吸。
恐怖を殺さず、整えるための呼吸。
“前世のレミ”が無意識に刻んでいた、生存のリズム。
風が揺らぎ、断罪塔の影が消える。
かわりに、彼女の周囲を包む空気が淡く光を帯びる。
呼吸のたびに、光が膨らみ、萎み、また脈打つ。
世界全体が、彼女の肺の動きに合わせて呼吸している。
レミルの瞳がゆっくりと開いた。
青銀の光が、再び焦点を取り戻す。
恐怖で曇っていた視界が、澄んだ硝子のように透明になる。
(モノローグ)
「……恐怖を、殺すんじゃない。
それを“掴む”。
そうして、私は登ってきたんだ。」
息を吐く。
その瞬間、風が――応えた。
下から吹き上げる。
まるで彼女を押し上げるように、空気の流れが変わる。
髪が上向きに舞い、落下の軌跡がわずかに反転する。
レミルの身体が、空に浮かぶ。
重力が、彼女に逆らわない。
いや――重力が、彼女と共に呼吸している。
恐怖は、もう敵ではなかった。
それは翼のように、彼女を支えていた。
空間が、歪んだ。
レミルのまわりの世界が、ゆっくりと軋みを上げる。
断罪塔が逆光の中で溶け、空と地平の境界が消えていく。
風はうねり、光は細かい線となって彼女の周囲を旋回した。
呼吸が深くなる。
胸の奥で、何かが“言葉”を求めて震えていた。
それは意識ではない。
自分という存在を媒介に、魔力が言葉を生みたがっている。
唇が、自然に動いた。
――《グラヴィス・リリス(重の花よ)》
その瞬間、空気が花弁のように弾けた。
風の流れが変わり、光の粒子がレミルの身体を包み込む。
粒子は小さな螺旋となり、彼女の周囲で渦を描く。
重力が柔らかく撓んだ。
落下の感覚が、消えた。
彼女の身体は、確かに宙にある。
だが、落ちていない。
風が支えている。
否――重力そのものが、彼女を抱いている。
周囲の景色が、ゆっくりと反転する。
上下が逆さになり、塔の影が天へ伸びた。
世界の構造が裏返るように、落下が“上昇”へと変わっていく。
レミルの髪が陽光を受けて舞う。
その光が、まるで“翼”のように広がった。
(モノローグ)
「……落ちてるのに、登ってる……。
そうだ、最初から――これは同じことだった。」
風が鳴る。
それは、鐘の音ではなかった。
空そのものが鳴っている。
重力の律動――世界の“心臓の音”が、彼女の呼吸に呼応していた。
レミルの瞳に、光が宿る。
その光は恐怖ではなく、覚醒の証。
“重力詠唱”――
この世界で初めて、それが自然に発動した瞬間だった。
光が尽きた。
レミルの身体を包んでいた光の粒が、ひとつ、またひとつと消えていく。
世界の色が薄れ、音が遠のく。
ただ風の残響だけが、細く、長く尾を引いていた。
彼女の足の下――もう何もない。
空も、塔も、雲も、上も下も、すべてが深さに変わる。
そこには“高さ”という概念が存在しない。
ただ、堕ちていくことだけが、確かな現実。
風が止む。
沈黙が始まる。
その沈黙の底で、遠く、淡い光が揺れていた。
青白く、まるで湖面のように、静かに震えている。
どこまで落ちても届かないはずのその光が、なぜか――呼んでいた。
(モノローグ)
「……堕ちてるのに、心が登ってる。
これが――“生きる”ってこと?」
その言葉が胸の内で溶ける。
恐怖も、痛みも、形を失っていく。
残るのは、ただひとつ。
――“生きようとする意志”だけ。
光が、彼女を迎え入れるように広がった。
青白い波紋が空間を満たし、世界の輪郭が再びぼやけていく。
レミルの身体が、静かに闇へと沈む。
落下というより、光に吸い込まれていく。
やがて、すべてが無音になった。
そして――
沈黙の中に、新しい世界の呼吸が、かすかに聞こえ始める。
その光の名を、後に人は呼んだ。
「沈黙の谷」――と。
静寂。
すべての音が消えた。
風も、鐘も、群衆のざわめきも、遠い昔の夢のように溶けていく。
残るのは――心音だけ。
どくん。
どくん。
規則正しく、それでいてどこか震える鼓動。
その音が、暗闇の中心で“生”を証明していた。
闇は、深く、限りなく無音。
だが、その中に、ひとつの光が生まれる。
初めは、針の先ほどの微光だった。
けれど、鼓動に呼応するように、ゆっくりと脈打ち、広がっていく。
光は花のように開き、青白い息を吐いた。
その花弁のような光の中に、少女の輪郭が浮かぶ。
髪が静かに揺れ、まぶたが閉じられている。
まるで――“祈る者”の姿。
「彼女は堕ちた。
だが、神はその落下を――“祈り”と呼んだ。」
光が一度、強く脈動する。
それはまるで、世界が新しい心臓を得たかのようだった。




