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『断崖令嬢 ―The Cliff Chronicle―』 ― 高所恐怖症だった悪役令嬢、世界の崖を制す ―  作者: 南蛇井


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“沈黙の断層”入り口

断層の口をくぐった瞬間だった。


風が――途切れた。


ついさっきまで背中を押していた山風が、

境界線を越えた途端、まるで存在そのものを奪われたかのように消え失せる。

レミルは思わず振り返る。背後の稜線では草が揺れ、砂埃が舞っているのに、

ここだけ、風の“形”が断ち切られていた。


「……なんだ、この静けさは」


カインが眉をひそめて呟く。

その声さえ、すぐ近くで言ったはずなのに遠くへ吸い込まれていく。

響きが伸びない。

音が、壁に触れる前に溶けていくような消え方だった。


レミルは胸元に手を当てた。

空気が重い。

息をすると、肺に沈殿していくようで、

自分の呼吸の音すらくぐもって聞こえる。


リゼルが小さく声を出す。


「……ひ、響かない……?」


彼女の驚きの声もまた、

断層の闇に吸い取られて、跡形なく消えた。


ただ一つ――

足音だけが重かった。


踏みしめるたび、地面の奥へ沈み込むような低い音が響く。

硬いはずの岩が、まるで膨れた皮膜の上を歩いているかのような、

奇妙に粘る反響を返してくる。


(……違う……これは、ただの静けさじゃない……)


レミルの首筋が粟立つ。


風が無いのではない。

ここでは、音も風も“重さ”を与えられている。

本来よりも深く、低く沈められている――そんな感覚。


カインが言う。


「外とは……まるで別の世界じゃねえか」


その言葉に、誰も反論できなかった。


断層の入口は、ただの裂け目ではない。

踏み入れた瞬間、

四人は現実の層がひとつめくれ、

“別の空間”へ落ち込んだかのような錯覚に包まれていた。



断層の奥へ進むにつれ、

レミルたちは“誰かがここを通った痕跡”と遭遇しはじめた。


壁面の岩肌に、古びたロープが何本も垂れ下がっている。

いずれも擦り切れ、手の力ではなく、何かに“引かれて”裂けたような断面だった。

触れれば崩れ落ちそうなほど脆く、もう誰の命も支えられない。


カインが一本を手にとり、眉をしかめる。


「……引きちぎられた跡だ。

 落ちたんじゃねえ、落とされたみてぇに」


リゼルが青ざめて後ずさる。


「こ、ここで……何人も……」


足元には、かすかに靴跡の残骸。

だがそれは、数歩分でふっと消えていた。

上にも、下にも続かず、ただ途中で途切れている。


「歩いて……消えた?」

リゼルの声は震え、断層の闇に吸い込まれて消えた。


エルゴは跪き、消えた足跡の端に触れた。

静かに首を振る。


「風化じゃない。

 ここから“存在ごと指で弾かれた”ように消えている。

 物理記録が残らないほどの落下……あるいは、違う法則か」


レミルは言葉を挟めない。


なぜなら――

彼女だけが、その“消えた足跡”の周囲で、

かすかな揺らぎを感じていたからだ。


(……今……震えた……?

 壁の奥で……音、じゃなくて……“残響”……)


耳で聞こえるのではない。

皮膚の裏側で、なにかが触れたような微細な振動。


レミルはそっと壁に手を伸ばした。

触れた瞬間――

振動が、脈のように返ってくる。


(これ……誰かが落ちた“記憶”……?

 まだ……ここに残ってる……)


堕崖王ディル・ヴァルの足跡。

その後を追った者たちの断ち切れた軌跡。

そのすべてが、この断層の内部で、

落下の残響となって“今も揺れている”。


レミルの背筋を、冷たい風のいない風がなでた。


断層の奥へ向かう細い通路を進んでいたとき、

エルゴがふいに立ち止まった。


「……これを見てくれ」


岩壁の一角に、削り取るようにして刻まれた文字。

長い年月で角は摩耗しているのに、線の深さだけが不自然に鮮明だった。

まるで刻んだ者の意志だけが、岩より先に残ったかのように。


エルゴは手袋を外し、指先でゆっくりと溝をなぞる。

断層内の沈黙が、その指先に吸い付くようだった。


やがて彼は、低く読み上げた。


「――十三日目。

  登るほどに、世界が遠くなる。

  落ちるほどに、神が近くなる。」


読み終えた瞬間だった。


空気が、一段深く沈んだ。


音ではなく、

揺れでもなく、

ただ“深さ”だけが増す。


リゼルが反射的に胸の前で両手を握りしめる。


「こ……これは……完全な異端思想です……!

 登攀の意味を……真逆に――」


言葉が震えている。

その震えさえ、断層の中で吸われて薄くなった。


カインは舌打ちした。

しかしいつもの苛立ちではなく、その目には警戒の色が浮かぶ。


「ふざけた悟りだな……

 だが、この書いた奴は――本気だったみてぇだ」


そしてエルゴは、刻まれた文字と周囲の岩壁の“歪み”を見比べていた。


「重力だ……

 この文字の周囲だけ、“落ちやすい方向”が違う。

 岩の削れ方も、砂の堆積も……普通じゃない」


レミルは、その言葉を聞きながら、

胸の奥でひっそりと疼く既視感に目を伏せた。


(“落ちる前に……世界が歪む”――

 あれは私も、谷で……)


堕崖王の言葉。

レミル自身の落下体験。

断層に満ちる沈黙。


その三つが、静かに線を結び始めていた。


リゼルは刻まれた文字から一歩離れた。

その白い指先が、胸に抱えた聖布をかすかに握りしめている。


「こ……この記録……狂っています……」


震えた声は、

断層の空気に触れた瞬間にすべて奪われたかのように

ふっと細くなり、すぐ消えた。


リゼルはそれに気づいて、さらに顔を青ざめさせる。


「登ることで、神に近づくのです……

 落ちるなど……落ちるなど、神を……!」


声を強めようとした瞬間、

その言葉は壁に吸い込まれ、跡形もなく薄れた。


まるで“断層そのもの”が、

彼女の正統な祈りを許さないかのように。


リゼルは怯えを隠せず、目を伏せる。


「……これは……宗教の……倒錯です。

 教義を……逆さまにして……

 死を、救いとして……」


最後の言葉は、ほとんど口の動きだけになった。

風のない空間が、彼女の声どころか“信仰”まで吸い込むようだった。


レミルは刻まれた文字の前に立ち尽くした。

リゼルが震え、カインが警戒し、エルゴが観測を始めようとするなか――

彼女だけは、別の理由で息を呑んでいた。


「――落ちるほどに、神が近くなる。」


その文を目にした瞬間、胸の奥で何かが“鳴った”。


(……これ……知ってる……?

 違う……知ってるんじゃない……

 感じたことがある……)


谷底へ落ちたあの瞬間。

世界が反転し、距離の感覚が崩れ、

重力すらどこか違う方向へ引いていくような――

“落下の前に世界が歪む感覚”。


(あの時……

 私も、落ちて……何かに“触れた”気がして……)


その思考と同時に、

風が吹くはずのない断層の中で、

レミルの耳元だけに、そっと風が流れた。


ひゅ、と細く、

彼女だけをなぞるように。


「……っ……」


思わず肩が揺れる。

外界は無風なのに、彼女だけが“風の方向”を感じている。


(落下の奥に……何かがある。

 堕崖王が言った“近さ”――

 私も……)


その感覚を振り払うようにレミルは目を伏せたが、

胸のざわめきは消えなかった。


彼女と堕崖王のあいだに、

同じ“縁”が静かに浮かび上がり始めていた。


エルゴは、刻まれた文字に目を細めたまま、

周囲の岩肌や空気の“質”を丹念に測るように観察していた。

彼の指が岩面をそっと叩く。音は出る――しかし、

すぐに沈み込むように消える。


「……やはり、おかしいな」


カインが眉をひそめる。「何がだ」


エルゴは、壁に沿って指先で砂をすくい上げ、

それを静かに落としてみせた。

砂粒は通常よりもゆっくり落下し、

最後は空中でふわりと揺れてから床に触れた。


「砂の落下速度が、一定じゃない。

 空気密度も不自然に高い。

 音が吸収されるのも……おそらく“方向”が乱れているせいだ」


彼は刻まれた文へ視線を向ける。


「――登るほどに世界が遠くなる。

 落ちるほどに神が近くなる、か」


ひと呼吸置いて、

落ち着いた声で続けた。


「これは宗教的狂気ではなく、

 重力の異常を経験した者の表現だ。

 重さか……あるいは浮力の変化を体験した人間の言い回し」


リゼルが息を呑む。カインも思わず目を向けた。


エルゴは断層の奥を見つめ、

その瞳だけが研究者の鋭さを帯びる。


「可能性として――

 この場所全体が、重力の“方向”を変えつつある。」


レミルの胸が小さく震えた。

まるで、堕崖王だけが知っていた“道”へ近づいているような――


エルゴの分析は、

断層の深部に潜む法則と、

堕崖王が追い求めた“研究”の影を静かに浮かび上がらせていた。


レミルは、刻まれた文字列の縁にそっと指を当てた。

岩肌は冷たく乾いているはずなのに――

指先だけが、まるで水面に沈むように“柔く”感じられた。


(……風、じゃない……これは……流れ……?)


断層内部では、風など吹かない。

無風のはずの空間で、レミルだけが“かすかな形”を感じていた。

指先から、細い糸のような感覚が奥へ吸い込まれていく。

まるで、刻まれた文字そのものが

道の先へと気流を引いているかのように。


(この記録……苦しんでない……)


文字の彫り跡に触れた瞬間、

胸の奥に、ごく淡い――しかし確かな感情が染み込んできた。


(……この人は……

 落ちることを……“選んだ”……?)


恐怖でも絶望でもない。

もっと静かな、受容に近い感覚。


堕崖王が最後に見つめた景色の欠片が、

薄い余韻となってレミルの心に触れたのだ。


「……レミル?」


カインの声が遠く響く。

返事をしようと唇を開くが、声はやはり吸い取られ、

断層の闇へと溶けていく。


レミルは目を細めた。

胸のざわめきが、恐怖とは別の方向へと傾き始めている。


(……私は、この人を知りたい。

 この“落下”の真実を……辿らなきゃ)


足元で、風のない空間に

一条の“流れ”がふっと触れた。

まるで、堕崖王自身が次の一歩を示すように。


カインが、闇の奥へと続く細い通路を一瞥した。

壁に刻まれた記録――その残滓に震える空気が、

まだ足元にまとわりついている。


「……レミル。進むんだな?」


低く落とされた声は、この空間ではやはり軽くならない。

重みをもって、足元の岩に吸い込まれるように響く。


レミルは岩刻文字からゆっくりと手を離し、

指先に残る“気流の痕”に一度だけ視線を落とした。


そして、静かにうなずく。


「……この先に……まだ“記録”がある。

 そう……風が言ってる」


言った瞬間、

自分の声さえ周囲の沈黙に押しつぶされ、

ひどく小さく消えていった。


リゼルが息を呑む。

“風が言う”などという言葉は、

いつものレミルですら口にしない。

その異様さが胸をざわつかせる。


カインも眉を寄せるが――否定はしない。

この空間では、常識の方が間違っている。


エルゴはレミルの横顔を興味深そうに見つめ、

ただ一言、囁くように呟いた。


「……行こう。

 その“風”が示すものを、確かめる」


四人は並んで歩き出す。

沈黙した断層の奥へ。

吸い込むような闇の深部へ。


足音だけが重く、ひどく遠い場所で反響していた。

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