各地で見つかる“落下徴”
夕陽がまだ高みにあるというのに、稜線を渡る風は妙に沈んでいた。
乾ききった岩壁が続く道――音を吸い込むような荒涼の断崖。
四人はそこを縫うように進んでいたが、途中から、風の調子が変わった。
最初に異変を捉えたのはレミルだった。
(……音が……濁ってる?)
高い空を渡る風が、通常なら澄んだ笛のように吹き抜けるはずが、
今日はどこかで引っかかっている。
何かを巻き込み、どこかへ運ばれていくような――不自然な“重さ”。
足元の石がひとつ、崖へ転がった。
カラン、と鳴ったかと思うと、そのまま吸い込まれるように下へ消えた。
「今の……音、変じゃなかったか?」
カインが眉をひそめる。
エルゴは耳をすませ、手帳に素早く何かを書き込んだ。
「風速は一定だが……聴覚的に“沈黙”の波が混ざっている。
空気の密度が局所的に歪んでいるかもしれないね」
レミルは立ち止まり、風が左頬をかすめる方向をじっと見た。
まるで、彼女の意志とは別に“引かれていく”ような感覚が胸奥に触れる。
(押すんじゃない……引かれてる。
これは……ただの風じゃない)
風が重力を帯び始めたような、説明のつかない違和感。
その鋭さは、彼女の皮膚を刺すほど確かだった。
リゼルが不安げに小声を漏らした。
「このあたり……普通の巡礼路とは、空気が違います……。
胸が、ざわつく……」
空は高く澄んでいるのに、
耳の奥だけが“ひしゃげた沈黙”を聞かされているような気がした。
レミルは息を整え、ゆっくり歩みを再開する。
自分の足音が、なぜかいつもより軽く聞こえる。
だが、その軽さの裏側で――
大地のどこかが、深く沈んでいるようだった。
(この崖……何かが“落ちた”あとの風だ)
理由はまだわからない。
ただ、風が語っていた。
ここは――“普通ではない”。
稜線の曲がり角を抜けた先に、
まるで崖の影に隠れるようにして、小さな祠がぽつんと立っていた。
誰も訪れた気配のない荒れ地――
だが、その祠だけは妙に“生々しい”。
「……ここ、巡礼用の祠じゃないか?」
カインが眉を上げる。
レミルは無言で近づいた。
祠の表面に刻まれた紋――それを見た瞬間、彼女の足が止まる。
通常の巡礼路にある、祈りの象徴《昇り十字》。
だがここにあったのは、その上下が逆さに彫られた十字だった。
しかも線は下へ向かうほど深く、
彫り跡はまるで“落ち込む力”に引っぱられたように歪んでいる。
リゼルが、息を呑むような声でつぶやいた。
「……これは……
巡礼標の逆刻……“堕標”です……。
本来、刻んではいけない……禁じられた象徴のはず……」
震える声が、風に吸われた。
エルゴは祠の側面に指をあて、慎重に彫り跡を確かめる。
「……彫りは新しい。数日以内だ。
落下教団の痕跡ってやつ、どうやら噂じゃなさそうだね」
「悪趣味な連中だな、まったく」
カインが舌打ちし、逆さ十字を軽く拳で叩く。
「逆さにしたったって、神が喜ぶかよ」
リゼルは祠から視線を外せない。
まるでそこから何かが“落ちてきそうな”気配に怯えるようだった。
レミルは祠の足元――砂のたまり具合に違和感を覚えた。
(……流れ方が、おかしい)
祠の底の砂は、
崖下へ流れるのではなく、横へ引かれるように動いている。
風でも、重力でも説明のつかない向き。
エルゴがすぐに気づき、しゃがみこんだ。
「砂が……落ちてない。
いや、“落ちられない”と言った方が正しいか……」
彼はその現象を手帳へ書き留める。
観測対象として、後で必ず解析するつもりなのがわかった。
レミルは逆さ十字に手を触れることはせず、
ただ、その彫りの“下へ向かう力”を皮膚で感じ取った。
(ここには……誰かの“落ちた跡”が残ってる)
風が、静かに祠の周りを渦のように巡った。
この地に刻まれた異端の気配は、まだ序章に過ぎなかった。
崖沿いの道がふいに広くなり、
そこだけ岩肌が削れて、灰色の“広場”のようになっていた。
レミルは足を止めた。
そこに散らばっているもの――無数の足跡が、目を奪ったのだ。
乾いた岩の上に、
靴底の形が、列を成して刻まれている。
ひとつ、またひとつ。
その列は一本の帯のように、まっすぐ崖の端へ向かっていた。
だが――
足跡は、崖の手前で突然“途切れていた”。
降りた気配はない。
踏み外したようでもない。
まるでそこから先、
“歩く”という行為そのものが世界から消えたかのような途切れ方だった。
カインが眉をひそめ、足跡の終点の前に立つ。
「……降りたってより……飛んだな、これは。
巡礼ってのは、こんな死に急ぎなのかよ」
リゼルは片膝をつき、足跡にそっと触れる。
風で消えるどころか、刻みは妙に深い。
何十人、いや何百人が、同じ方向へ歩いた痕跡。
「……儀式の行進です。
“還るために歩む道”……
古文書に、そう書かれていました……」
その声は小さく、震えていた。
レミルは足跡の途切れた場所へ近づく。
崖の底は見えない。
だがそこに立つと、風が頬を撫で……いや、“吸われる”感触があった。
(……ここだけ……風が、下へ流れてる?)
風の流れが逆転している。
引かれるような、落ちていくような気配。
(……落ちた人が……まだ残ってるみたい……)
胸の奥がわずかに震えた。
声は出なかったが、その表情の変化をエルゴが見逃さない。
エルゴは小石をつまみ、足跡の終点へ落とした。
小石は落ちる――ただし、普通よりわずかに“速い”。
彼は目を細める。
「……ここだけ、微細な砂や石の落下速度が変わっている。
重力が局所的に歪んでる可能性が高いね」
カインが振り返る。
「歪む? 重力がか?」
「うん。
何か……この断層一帯に、**下へ引く“力の残骸”**があるんだ」
その言葉は、風に薄くかき消された。
だが足跡の向こう――途切れた空間だけは、
風が静かに、“底のない口”のように吸い込んでいた。
この崖はただの崖ではない。
ここは――
かつて堕崖王が落下した場所に連なる断層。
その“影響”がまだ消えていない場所だった。
夕陽が崖壁に斜めから差し込み、
赤褐色の“それ”を鈍く光らせた。
レミルたちが進む道の脇、
乾ききった岩肌の一枚が、まるで巨大なキャンバスのように裂けている。
近づくほどに、そこへ描かれた“絵”の異様さが露わになった。
◆ 壁画
逆さに描かれた “人”。
その体は細く歪み、両腕は天へ――いや、“下”へ伸びている。
逆さの“山”。
山頂が下に、山腹が上にある。
そして、逆さまの人影はその山から光へ向かって“落ちて”いく。
光源は下に描かれている。
まるで落下こそが到達であり、
落ちる運動が“上昇”と同義であるかのように。
人影の周囲には、赤褐色の塗料が飛び散り、
その飛沫は乾ききって黒ずんでいた。
絵の下部、風雨で摩耗した古い筆跡――
「彼は還った。」
文字の色は、血のようにどす黒い赤。
かすれているのに、何故か生々しい。
◆ リゼルの反応
リゼルは震える手で口元を押さえた。
まるで信者が禁書を見たときのような顔。
「“還った”……?
神へ帰る道は、頂への登攀のはず……
これは、教義の……完全な転倒です!」
その声は怒りというより、恐怖に近かった。
◆ カインの反応
カインは肩をすくめ、壁画に唾でも吐きそうな顔で言い捨てる。
「神だろうが何だろうが、落ちりゃ死ぬだけだ。
“還る”もクソもねえよ」
彼は一瞬、塗料を睨んだ。
血の匂いがすると思ったのだろう。
◆ エルゴの反応
エルゴは壁に触れない距離でしゃがみ込み、
塗料の粒子とひび割れを観察した。
「……鉄分が多い。
酸化して黒ずんでるけど、これは……血を混ぜている可能性がある。
信徒が自分の血で描いたのなら……相当、陶酔しているね」
彼の声は淡々としていたが、
本当は眉の動きがいつもより険しい。
◆ レミルの拒絶と“感知”
レミルは一歩、二歩と近づいたところで――
足が止まった。
膝が震え、呼吸が浅くなる。
(……この絵……
ただ“描かれた”んじゃない……
誰かが落ちた瞬間の“影”が、まだここにある……?)
壁画の前だけ、風の流れが妙に揺れていた。
まるで絵の中に引き込まれるかのように、
レミルの足首あたりの風が、下へ滑り落ちていく。
それはただの錯覚ではなかった。
彼女だけが感じられる“落下の残滓”。
堕崖王の落下が、まだ世界を歪めているという伏線が
静かに息をしていた。
レミルの指先が震える。
けれど、彼女は壁画に触れることができなかった。
近づけば――
その“影”に引かれる気がしたのだ。
風除けの岩陰に、ひっそりと黒い影が沈んでいる。
それは本来なら巡礼者の冥福を祈るための“小さな供養場”だった。
だが、そこに並んでいたものは――明らかに、祈りとは逆の意味を持っていた。
◆ 逆さに立てられた位牌
四つ、五つ……それ以上。
木片の位牌が、すべて逆さまに立てられている。
本来、魂を天へ導くはずの尖端は地へ向き、
地に置かれるはずの足は天を指していた。
彫られた名前も“下向き”だ。
読むには、首を折って地面を見るように視線を落とさねばならない。
そして逆さの名前の下に、小さく刻まれた一文字。
「還」
その文字だけが、妙に生々しく新しい。
まるで――
死んだ者が“戻った”と、誰かが信じているかのように。
◆ 異様な風と揺れ
一陣の強い風が、谷底から逆巻くように吹き抜けた。
その瞬間、
位牌たちが「カタ……カタ……」と震えた。
だが揺れ方が普通ではない。
風に押されて前後に揺れるのではなく、
まるで下から引っ張られ、逆方向へ震えるように見えた。
レミルは息を呑む。
(……風が……逆さに触れてる……?
落ちた人の“あと”が……まだ風に残ってる……
こんな……重さ……)
胸がぎゅっと締めつけられた。
◆ リゼルの崩れ落ち
「……こんな……こんなの……」
リゼルは耐えきれず膝をついた。
手が震え、涙がひと粒、砂利の上に落ちる。
「これは……供養じゃありません……
これは……死を賛美する異端……
魂を落として……神に帰すなんて……そんな……」
声が震え、嗚咽が混じる。
信仰の根を揺るがすものを目の前にした、純粋な少女の崩壊だった。
◆ エルゴの観測
エルゴは膝をついたリゼルに寄らず、
逆さ位牌の揺れ方に視線を固定していた。
「……重力方向が……局所的に反転?
いや、反転というより……歪曲か。
風だけの現象じゃない。
これは、現象そのものが……」
彼の声には、興奮と戦慄が同時に滲む。
だが、最後まで言い切らずに、唇を噛んで飲み込んだ。
この場で理屈を語るべきではないと理解したからだ。
◆ カインの制止
カインはリゼルの背中に手を置きながら、
逆さ位牌を睨みつけた。
「もうやめだ。
こんなもん眺めてても、気が滅入るだけだろ」
彼の声には苛立ち以上の、
仲間を守ろうとする焦りがあった。
続いて、レミルの肩に手を伸ばそうとする――が。
◆ レミルだけが察した“沈み込む気配”
カインの手が届くその前に、
レミルはふっと目を伏せ、風の流れに意識を向けた。
(この場所……
落ちた人の“あと”を、風がまだ覚えてる……
影が……重く、沈んでる……)
その瞬間。
まるで地面が呼吸するように、空気が一度だけ“沈み込んだ”。
風も、音も、
四人すらも
わずかに下方へ引かれたような錯覚。
重力が撓んだ。
そんな、説明不能な一秒。
レミルは小さく息を吸い込む。
ここはただの供え場ではない。
“落ちた者たち”を讃える場所であり――
その落下が、いまもなお世界を歪めている領域だった。
風除けの岩陰――
影が沈むように静まり返った場所に、供養場があった。
本来は登攀中の死者に祈りを捧げるための、小さな石壇。
しかしその上に並ぶ位牌は、常識とはまるで逆の姿をしていた。
◆ 逆さの位牌
一本、また一本。
木片はすべて上下逆さに立てられていた。
上部が地へ突き立ち、
本来地に触れる底の部分が、空へ向かって持ち上がっている。
その異様さを確かめようと、
レミルはそっと近づき、刻まれた文字を覗き込んだ。
名前は――すべて下向きに彫られていた。
読む者に“地面を覗き込ませる”ように、
視線さえも落下へ誘う配置。
そして名の下には、鋭い筆跡で一文字。
「還」
その文字だけが、削り跡も色も新しく、
つい昨日刻まれたように生々しい。
まるで、この位牌の主が
“ここから下へ帰った”と証明するかのように。
◆ 風の震え ―—逆向きの揺れ
突然、谷底から逆巻くような風が吹き上がった。
逆さ位牌が「カタ……カタ……」と鳴る。
だが――揺れ方が普通と違う。
前後ではなく、
左右でもなく、
まるで下から引かれているように、逆向きに震えた。
レミルは思わず息を止めた。
(なんで……?
風が押す揺れじゃない……
“落ちたあと”が、ここに……残ってる……?)
影のような何かが、
位牌を下へ引き戻そうとしているような錯覚。
空気がぬるりと沈み、
風が一瞬、重くなる。
◆ リゼル ― 信仰の崩れ
「……こんな……これは……」
リゼルの膝が崩れ落ちた。
手が震え、額が深く伏せられる。
「供養じゃ……ありません……
死を……賛美している……
神へ帰るために落ちるなんて……
そんな……そんなはず……」
声はひび割れ、涙が砂に吸い込まれた。
信仰の中心が歪む瞬間。
少女には、この“逆さ”の儀式が耐えがたかった。
◆ エルゴ ― 観測者の興奮
エルゴはリゼルに手を伸ばさず、
位牌の揺れそのものをじっと凝視していた。
眉間に皺を寄せ、しかし瞳だけは鋭く光る。
「……揺れ方が不自然だ。
風に抗うように……いや、違う。
この場の現象そのものが、下方へ引力をつくっている……?」
喉まで出かかった分析を、彼は噛み締めて飲み込む。
今は興奮を語るべきではないとわかっている――
それでも目が離せなかった。
◆ カイン ― 仲間を守る怒り
「もうやめだ。」
カインはリゼルの肩を支えながら、
逆さの位牌を睨みつけた。
「こんなもん見続けてたら、頭まで腐る。
行くぞ、こんな薄気味悪いとこに長居する必要はねえ」
声は荒いが、
その奥には仲間への焦りがあった。
そして、レミルへと手を伸ばす。
◆ レミル ― 風の“記憶”に触れる
だが――カインの手が触れる前に。
レミルはそっと首を上げ、
地面ではなく、風の流れに意識を向けた。
(……わかる……
“落ちた人”の痕……
風がまだ……覚えてる……
影が……この場所に沈んでる……)
言葉にはできない。
ただ、胸の奥に微重力の痛みのような感覚だけが残った。
その直後――
空気が一瞬、沈み込んだ。
風も音も、四人さえも、
ほんのわずかに“下方”へ引かれたような錯覚。
重力が軋んだ、静かな瞬間。
レミルは、息を吸って立ち上がる。
ここは死者の寝床ではない。
ここは――
“落ちた者”を讃える場であり、
その落下の残響がいまも世界を歪めている場所だ。
稜線を進む途中だった。
乾いた岩肌をなぞる風が、突然――
質量を持ったかのように重く沈む。
レミルは、まるで地面に糸で引かれたように、
不意に足を止めた。
◆ レミル、立ち止まる
「……レミル?」
最初に気づいたのはカインだった。
彼は一歩戻り、少女の表情を覗き込む。
「どうした?」
レミルは答えない。
代わりに、ゆっくりと息を吸った。
目を閉じると、周囲の風の“流れ”が
輪郭を帯びて意識に触れてくる。
その感覚は誰にも見えないが、
彼女には――聞こえる。触れられる。
そして、震える声で小さく言った。
「……風が……おかしいの。
ここだけ……真下に落ちてるんじゃなくて……」
一度、言葉を切る。
一歩先の闇を覗くように、足元へ視線を落とした。
「“どこかへ流れてる”。
……まるで、落ちた人の……影に引かれてるみたい……」
◆ リゼル ― 呪いの連想
リゼルの顔色が、すっと青ざめた。
「……影……?
やっぱり……この場所……呪われて……る……」
信仰心が強いほど、
この得体の知れない“落下の名残”が耐えがたい。
胸元の聖印を握りしめる手が震えていた。
◆ レミルの“目”が細くなる
レミルは恐怖に飲まれていない。
むしろ――
風の声を聞くために、
何か“意識の焦点”を変えるように目を細める。
重力の偏りが、
風の位相の乱れとして伝わってくる。
(……この方向……
誰かが落ちた“あと”が、まだ残ってる……
風が引かれて……呼ばれてる……)
彼女自身にはまだ自覚がないまま、
異能の片鱗が自然と研ぎ澄まされていく。
◆ エルゴ ― 計測衝動との葛藤
「……今、なんて言った?」
エルゴが鋭く反応した。
背負っていた計測装置に手を伸ばす。
しかし、すぐに思い直してその手を止めた。
(……まだだ。
この段階で観測を始めれば、
パニックを誘発するだけだ……)
「後で……確認するよ。
もっと“確かな場”で、ね」
彼は静かに言ったが、
その瞳には抑えきれない興奮が灯っていた。
◆ 風が、さらに沈む
レミルの足元で小石が一つ、
ころ……と転がり、
まるで意志を持つように崖下ではなく“横へ滑り落ちた”。
四人は、それを目で追って動きを止めた。
風が――異様だ。
ここは、ただの断崖ではない。
沈黙の断層へ続く“入口”だった。
断層へ向かう風は、
まるで目に見える糸のようにレミルの意識を引っ張っていた。
少女は、崖に口を開けた暗い裂け目へ視線を移す。
その奥から――“呼ばれて”いる。
◆ レミル、風の先を視る
(この先に……いる。
ここじゃない……もっと、深いところ……
落ちた人の……“核”が……)
それは言葉というより、
風が運んでくる“印象”だった。
彼女の胸の奥に触れるような、冷たい手触り。
まるで、誰かの心臓の鼓動が、
地の底でずっと続いているかのような――残響。
レミルは小さく息を吸い、ぽつりと漏らした。
「……ここじゃない。
もっと深い……どこかで……
“落ちた人”の核が、まだ……残ってる……」
◆ 理解できない者たち
「……レミル? どういう……」
カインが眉を寄せる。
「核って……魂みたいな、そういう……?」
リゼルは怯え混じりに口にするが、
答えを聞く勇気はなかった。
二人は、レミルの言葉の意味を掴めずに立ち尽くす。
◆ ただ一人、興味を示す者
エルゴだけは違った。
彼は一歩前に出て、
レミルの顔を研究者特有の光で見つめる。
「レミル君……君は“何を感じている”?」
その声は、
まるで未知の法則が目の前に現れた瞬間の
歓喜と緊張を孕んでいた。
レミルは視線を落とし、正直に答える。
「……わからない。
でも、誰かが……ここで……
落ちて……“帰った”。
そんな……風の匂いがするの」
◆ 残響――堕崖王の痕跡
エルゴは息を呑む。
(帰った?
“落下”から……?)
それは人間の言葉ではない。
重力でも、風でも、
まして神話の文言でもない。
――だが、確かに“何か”がそこにある。
レミルが感じ取ったのは、
かつてこの断層へ身を投じた堕崖王の落下地点が
未だに放つ“残響”。
深層の重力がねじれ、
風が囁き、
影が逆流する。
ただの気配ではない。
帰還した者の“核”が残した痕跡。
それを最初に感じ取ったのは、
この瞬間のレミルだった。
そして四人は、言葉を失ったまま――
断層の暗闇を、ひとつの確信と共に見つめた。
道はいつの間にか途切れ、
その先に“縦に割れた世界”が突き立っていた。
◆ 沈黙の断層、姿を現す
谷でも洞でもない。
ただ大地そのものが、真っ二つに裂け落ちたような
巨大で黒い口。
風は――そこだけ、止まっていた。
まるで裂け目の奥へ吸い込まれ、
外界の流れが断ち切られているかのような静寂。
冷気が肌を刺し、
遠くで、石が底へ落ちていくような不気味な反響が響いた。
カインは剣の柄に手を添えながら、
つぶやくように訊いた。
「……行くのか?」
◆ それでも進むという選択
レミルは恐れを見せなかった。
ただ静かに、しかし迷いなくうなずく。
「ここを越えないと……頂には行けないから」
それは決意というより、
“自分だけが聴いている何か”に応じているようでもあった。
◆ リゼルの祈りとエルゴの観察
リゼルは両手を胸に当て、祈るように震える声を漏らす。
「……レミル様……
どうか……どうかご無事で……」
エルゴは断層へ目を細め、
科学者の顔に戻って呟いた。
「風が沈黙する断層……
落下教団が“聖域”と呼ぶ理由が……わかる気がする」
その声には、畏敬と興奮が混じっていた。
◆ 暗い口へ、四人は足を踏み入れる
誰ももう、軽口も励ましも言わなかった。
ただし――
四人の呼吸の音だけが静寂に混じり、
熱を帯びた空気がそのまま闇に吸われていく。
そして。
レミルが一歩、断層の中へ踏み込んだ瞬間、
風が完全に消えた。
カイン、リゼル、エルゴもそれに続き、
沈黙の闇の中へと吸い込まれていく。
こうして――
“沈黙の断層編”が、静かに幕を開けた。




