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『断崖令嬢 ―The Cliff Chronicle―』 ― 高所恐怖症だった悪役令嬢、世界の崖を制す ―  作者: 南蛇井


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12/13

各地で見つかる“落下徴”

夕陽がまだ高みにあるというのに、稜線を渡る風は妙に沈んでいた。

乾ききった岩壁が続く道――音を吸い込むような荒涼の断崖。

四人はそこを縫うように進んでいたが、途中から、風の調子が変わった。


最初に異変を捉えたのはレミルだった。


(……音が……濁ってる?)


高い空を渡る風が、通常なら澄んだ笛のように吹き抜けるはずが、

今日はどこかで引っかかっている。

何かを巻き込み、どこかへ運ばれていくような――不自然な“重さ”。


足元の石がひとつ、崖へ転がった。

カラン、と鳴ったかと思うと、そのまま吸い込まれるように下へ消えた。


「今の……音、変じゃなかったか?」

カインが眉をひそめる。


エルゴは耳をすませ、手帳に素早く何かを書き込んだ。

「風速は一定だが……聴覚的に“沈黙”の波が混ざっている。

 空気の密度が局所的に歪んでいるかもしれないね」


レミルは立ち止まり、風が左頬をかすめる方向をじっと見た。

まるで、彼女の意志とは別に“引かれていく”ような感覚が胸奥に触れる。


(押すんじゃない……引かれてる。

 これは……ただの風じゃない)


風が重力を帯び始めたような、説明のつかない違和感。

その鋭さは、彼女の皮膚を刺すほど確かだった。


リゼルが不安げに小声を漏らした。

「このあたり……普通の巡礼路とは、空気が違います……。

 胸が、ざわつく……」


空は高く澄んでいるのに、

耳の奥だけが“ひしゃげた沈黙”を聞かされているような気がした。


レミルは息を整え、ゆっくり歩みを再開する。

自分の足音が、なぜかいつもより軽く聞こえる。

だが、その軽さの裏側で――

大地のどこかが、深く沈んでいるようだった。


(この崖……何かが“落ちた”あとの風だ)


理由はまだわからない。

ただ、風が語っていた。


ここは――“普通ではない”。



稜線の曲がり角を抜けた先に、

まるで崖の影に隠れるようにして、小さな祠がぽつんと立っていた。


誰も訪れた気配のない荒れ地――

だが、その祠だけは妙に“生々しい”。


「……ここ、巡礼用の祠じゃないか?」

カインが眉を上げる。


レミルは無言で近づいた。

祠の表面に刻まれた紋――それを見た瞬間、彼女の足が止まる。


通常の巡礼路にある、祈りの象徴《昇り十字》。

だがここにあったのは、その上下が逆さに彫られた十字だった。


しかも線は下へ向かうほど深く、

彫り跡はまるで“落ち込む力”に引っぱられたように歪んでいる。


リゼルが、息を呑むような声でつぶやいた。


「……これは……

 巡礼標の逆刻……“堕標”です……。

 本来、刻んではいけない……禁じられた象徴のはず……」


震える声が、風に吸われた。


エルゴは祠の側面に指をあて、慎重に彫り跡を確かめる。

「……彫りは新しい。数日以内だ。

 落下教団の痕跡ってやつ、どうやら噂じゃなさそうだね」


「悪趣味な連中だな、まったく」

カインが舌打ちし、逆さ十字を軽く拳で叩く。

「逆さにしたったって、神が喜ぶかよ」


リゼルは祠から視線を外せない。

まるでそこから何かが“落ちてきそうな”気配に怯えるようだった。


レミルは祠の足元――砂のたまり具合に違和感を覚えた。


(……流れ方が、おかしい)


祠の底の砂は、

崖下へ流れるのではなく、横へ引かれるように動いている。


風でも、重力でも説明のつかない向き。

エルゴがすぐに気づき、しゃがみこんだ。


「砂が……落ちてない。

 いや、“落ちられない”と言った方が正しいか……」


彼はその現象を手帳へ書き留める。

観測対象として、後で必ず解析するつもりなのがわかった。


レミルは逆さ十字に手を触れることはせず、

ただ、その彫りの“下へ向かう力”を皮膚で感じ取った。


(ここには……誰かの“落ちた跡”が残ってる)


風が、静かに祠の周りを渦のように巡った。

この地に刻まれた異端の気配は、まだ序章に過ぎなかった。



崖沿いの道がふいに広くなり、

そこだけ岩肌が削れて、灰色の“広場”のようになっていた。


レミルは足を止めた。

そこに散らばっているもの――無数の足跡が、目を奪ったのだ。


乾いた岩の上に、

靴底の形が、列を成して刻まれている。


ひとつ、またひとつ。

その列は一本の帯のように、まっすぐ崖の端へ向かっていた。


だが――


足跡は、崖の手前で突然“途切れていた”。


降りた気配はない。

踏み外したようでもない。


まるでそこから先、

“歩く”という行為そのものが世界から消えたかのような途切れ方だった。


 


カインが眉をひそめ、足跡の終点の前に立つ。

「……降りたってより……飛んだな、これは。

 巡礼ってのは、こんな死に急ぎなのかよ」


リゼルは片膝をつき、足跡にそっと触れる。

風で消えるどころか、刻みは妙に深い。

何十人、いや何百人が、同じ方向へ歩いた痕跡。


「……儀式の行進です。

 “還るために歩む道”……

 古文書に、そう書かれていました……」

その声は小さく、震えていた。


 


レミルは足跡の途切れた場所へ近づく。

崖の底は見えない。

だがそこに立つと、風が頬を撫で……いや、“吸われる”感触があった。


(……ここだけ……風が、下へ流れてる?)


風の流れが逆転している。

引かれるような、落ちていくような気配。


(……落ちた人が……まだ残ってるみたい……)


胸の奥がわずかに震えた。

声は出なかったが、その表情の変化をエルゴが見逃さない。


 


エルゴは小石をつまみ、足跡の終点へ落とした。

小石は落ちる――ただし、普通よりわずかに“速い”。

彼は目を細める。


「……ここだけ、微細な砂や石の落下速度が変わっている。

 重力が局所的に歪んでる可能性が高いね」


カインが振り返る。

「歪む? 重力がか?」


「うん。

 何か……この断層一帯に、**下へ引く“力の残骸”**があるんだ」


 


その言葉は、風に薄くかき消された。

だが足跡の向こう――途切れた空間だけは、

風が静かに、“底のない口”のように吸い込んでいた。


この崖はただの崖ではない。


ここは――

かつて堕崖王が落下した場所に連なる断層。

その“影響”がまだ消えていない場所だった。



夕陽が崖壁に斜めから差し込み、

赤褐色の“それ”を鈍く光らせた。


レミルたちが進む道の脇、

乾ききった岩肌の一枚が、まるで巨大なキャンバスのように裂けている。

近づくほどに、そこへ描かれた“絵”の異様さが露わになった。


 


◆ 壁画


逆さに描かれた “人”。

その体は細く歪み、両腕は天へ――いや、“下”へ伸びている。


逆さの“山”。

山頂が下に、山腹が上にある。


そして、逆さまの人影はその山から光へ向かって“落ちて”いく。


光源は下に描かれている。

まるで落下こそが到達であり、

落ちる運動が“上昇”と同義であるかのように。


人影の周囲には、赤褐色の塗料が飛び散り、

その飛沫は乾ききって黒ずんでいた。


絵の下部、風雨で摩耗した古い筆跡――


「彼は還った。」


文字の色は、血のようにどす黒い赤。

かすれているのに、何故か生々しい。


 


◆ リゼルの反応


リゼルは震える手で口元を押さえた。

まるで信者が禁書を見たときのような顔。


「“還った”……?

 神へ帰る道は、頂への登攀のはず……

 これは、教義の……完全な転倒です!」


その声は怒りというより、恐怖に近かった。


 


◆ カインの反応


カインは肩をすくめ、壁画に唾でも吐きそうな顔で言い捨てる。

「神だろうが何だろうが、落ちりゃ死ぬだけだ。

 “還る”もクソもねえよ」


彼は一瞬、塗料を睨んだ。

血の匂いがすると思ったのだろう。


 


◆ エルゴの反応


エルゴは壁に触れない距離でしゃがみ込み、

塗料の粒子とひび割れを観察した。


「……鉄分が多い。

 酸化して黒ずんでるけど、これは……血を混ぜている可能性がある。

 信徒が自分の血で描いたのなら……相当、陶酔しているね」


彼の声は淡々としていたが、

本当は眉の動きがいつもより険しい。


 


◆ レミルの拒絶と“感知”


レミルは一歩、二歩と近づいたところで――


足が止まった。


膝が震え、呼吸が浅くなる。


(……この絵……

 ただ“描かれた”んじゃない……

 誰かが落ちた瞬間の“影”が、まだここにある……?)


壁画の前だけ、風の流れが妙に揺れていた。

まるで絵の中に引き込まれるかのように、

レミルの足首あたりの風が、下へ滑り落ちていく。


それはただの錯覚ではなかった。


彼女だけが感じられる“落下の残滓”。

堕崖王の落下が、まだ世界を歪めているという伏線が

静かに息をしていた。


レミルの指先が震える。

けれど、彼女は壁画に触れることができなかった。


近づけば――

その“影”に引かれる気がしたのだ。


風除けの岩陰に、ひっそりと黒い影が沈んでいる。

それは本来なら巡礼者の冥福を祈るための“小さな供養場”だった。


だが、そこに並んでいたものは――明らかに、祈りとは逆の意味を持っていた。


 


◆ 逆さに立てられた位牌


四つ、五つ……それ以上。

木片の位牌が、すべて逆さまに立てられている。


本来、魂を天へ導くはずの尖端は地へ向き、

地に置かれるはずの足は天を指していた。


彫られた名前も“下向き”だ。

読むには、首を折って地面を見るように視線を落とさねばならない。


そして逆さの名前の下に、小さく刻まれた一文字。


「還」


その文字だけが、妙に生々しく新しい。


まるで――

死んだ者が“戻った”と、誰かが信じているかのように。


 


◆ 異様な風と揺れ


一陣の強い風が、谷底から逆巻くように吹き抜けた。


その瞬間、

位牌たちが「カタ……カタ……」と震えた。


だが揺れ方が普通ではない。


風に押されて前後に揺れるのではなく、

まるで下から引っ張られ、逆方向へ震えるように見えた。


レミルは息を呑む。


(……風が……逆さに触れてる……?

 落ちた人の“あと”が……まだ風に残ってる……

 こんな……重さ……)


胸がぎゅっと締めつけられた。


 


◆ リゼルの崩れ落ち


「……こんな……こんなの……」


リゼルは耐えきれず膝をついた。

手が震え、涙がひと粒、砂利の上に落ちる。


「これは……供養じゃありません……

 これは……死を賛美する異端……

 魂を落として……神に帰すなんて……そんな……」


声が震え、嗚咽が混じる。

信仰の根を揺るがすものを目の前にした、純粋な少女の崩壊だった。


 


◆ エルゴの観測


エルゴは膝をついたリゼルに寄らず、

逆さ位牌の揺れ方に視線を固定していた。


「……重力方向が……局所的に反転?

 いや、反転というより……歪曲か。

 風だけの現象じゃない。

 これは、現象そのものが……」


彼の声には、興奮と戦慄が同時に滲む。

だが、最後まで言い切らずに、唇を噛んで飲み込んだ。


この場で理屈を語るべきではないと理解したからだ。


 


◆ カインの制止


カインはリゼルの背中に手を置きながら、

逆さ位牌を睨みつけた。


「もうやめだ。

 こんなもん眺めてても、気が滅入るだけだろ」


彼の声には苛立ち以上の、

仲間を守ろうとする焦りがあった。


続いて、レミルの肩に手を伸ばそうとする――が。


 


◆ レミルだけが察した“沈み込む気配”


カインの手が届くその前に、

レミルはふっと目を伏せ、風の流れに意識を向けた。


(この場所……

 落ちた人の“あと”を、風がまだ覚えてる……

 影が……重く、沈んでる……)


その瞬間。

まるで地面が呼吸するように、空気が一度だけ“沈み込んだ”。


風も、音も、

四人すらも

わずかに下方へ引かれたような錯覚。


重力が撓んだ。


そんな、説明不能な一秒。


 


レミルは小さく息を吸い込む。


ここはただの供え場ではない。


“落ちた者たち”を讃える場所であり――

その落下が、いまもなお世界を歪めている領域だった。



風除けの岩陰――

影が沈むように静まり返った場所に、供養場があった。


本来は登攀中の死者に祈りを捧げるための、小さな石壇。

しかしその上に並ぶ位牌は、常識とはまるで逆の姿をしていた。


 


◆ 逆さの位牌


一本、また一本。


木片はすべて上下逆さに立てられていた。

上部が地へ突き立ち、

本来地に触れる底の部分が、空へ向かって持ち上がっている。


その異様さを確かめようと、

レミルはそっと近づき、刻まれた文字を覗き込んだ。


名前は――すべて下向きに彫られていた。


読む者に“地面を覗き込ませる”ように、

視線さえも落下へ誘う配置。


そして名の下には、鋭い筆跡で一文字。


「還」


その文字だけが、削り跡も色も新しく、

つい昨日刻まれたように生々しい。


まるで、この位牌の主が

“ここから下へ帰った”と証明するかのように。


 


◆ 風の震え ―—逆向きの揺れ


突然、谷底から逆巻くような風が吹き上がった。


逆さ位牌が「カタ……カタ……」と鳴る。


だが――揺れ方が普通と違う。


前後ではなく、

左右でもなく、

まるで下から引かれているように、逆向きに震えた。


レミルは思わず息を止めた。


(なんで……?

 風が押す揺れじゃない……

 “落ちたあと”が、ここに……残ってる……?)


影のような何かが、

位牌を下へ引き戻そうとしているような錯覚。


空気がぬるりと沈み、

風が一瞬、重くなる。


 


◆ リゼル ― 信仰の崩れ


「……こんな……これは……」


リゼルの膝が崩れ落ちた。


手が震え、額が深く伏せられる。


「供養じゃ……ありません……

 死を……賛美している……

 神へ帰るために落ちるなんて……

 そんな……そんなはず……」


声はひび割れ、涙が砂に吸い込まれた。


信仰の中心が歪む瞬間。

少女には、この“逆さ”の儀式が耐えがたかった。


 


◆ エルゴ ― 観測者の興奮


エルゴはリゼルに手を伸ばさず、

位牌の揺れそのものをじっと凝視していた。


眉間に皺を寄せ、しかし瞳だけは鋭く光る。


「……揺れ方が不自然だ。

 風に抗うように……いや、違う。

 この場の現象そのものが、下方へ引力をつくっている……?」


喉まで出かかった分析を、彼は噛み締めて飲み込む。


今は興奮を語るべきではないとわかっている――

それでも目が離せなかった。


 


◆ カイン ― 仲間を守る怒り


「もうやめだ。」


カインはリゼルの肩を支えながら、

逆さの位牌を睨みつけた。


「こんなもん見続けてたら、頭まで腐る。

 行くぞ、こんな薄気味悪いとこに長居する必要はねえ」


声は荒いが、

その奥には仲間への焦りがあった。


そして、レミルへと手を伸ばす。


 


◆ レミル ― 風の“記憶”に触れる


だが――カインの手が触れる前に。


レミルはそっと首を上げ、

地面ではなく、風の流れに意識を向けた。


(……わかる……

 “落ちた人”の痕……

 風がまだ……覚えてる……

 影が……この場所に沈んでる……)


言葉にはできない。

ただ、胸の奥に微重力の痛みのような感覚だけが残った。


その直後――

空気が一瞬、沈み込んだ。


風も音も、四人さえも、

ほんのわずかに“下方”へ引かれたような錯覚。


重力が軋んだ、静かな瞬間。


 


レミルは、息を吸って立ち上がる。


ここは死者の寝床ではない。

ここは――


“落ちた者”を讃える場であり、

その落下の残響がいまも世界を歪めている場所だ。



稜線を進む途中だった。


乾いた岩肌をなぞる風が、突然――

質量を持ったかのように重く沈む。


レミルは、まるで地面に糸で引かれたように、

不意に足を止めた。


 


◆ レミル、立ち止まる


「……レミル?」


最初に気づいたのはカインだった。

彼は一歩戻り、少女の表情を覗き込む。


「どうした?」


レミルは答えない。

代わりに、ゆっくりと息を吸った。


目を閉じると、周囲の風の“流れ”が

輪郭を帯びて意識に触れてくる。


その感覚は誰にも見えないが、

彼女には――聞こえる。触れられる。


そして、震える声で小さく言った。


「……風が……おかしいの。

 ここだけ……真下に落ちてるんじゃなくて……」


一度、言葉を切る。

一歩先の闇を覗くように、足元へ視線を落とした。


「“どこかへ流れてる”。

 ……まるで、落ちた人の……影に引かれてるみたい……」


 


◆ リゼル ― 呪いの連想


リゼルの顔色が、すっと青ざめた。


「……影……?

 やっぱり……この場所……呪われて……る……」


信仰心が強いほど、

この得体の知れない“落下の名残”が耐えがたい。


胸元の聖印を握りしめる手が震えていた。


 


◆ レミルの“目”が細くなる


レミルは恐怖に飲まれていない。


むしろ――

風の声を聞くために、

何か“意識の焦点”を変えるように目を細める。


重力の偏りが、

風の位相の乱れとして伝わってくる。


(……この方向……

 誰かが落ちた“あと”が、まだ残ってる……

 風が引かれて……呼ばれてる……)


彼女自身にはまだ自覚がないまま、

異能の片鱗が自然と研ぎ澄まされていく。


 


◆ エルゴ ― 計測衝動との葛藤


「……今、なんて言った?」


エルゴが鋭く反応した。

背負っていた計測装置に手を伸ばす。


しかし、すぐに思い直してその手を止めた。


(……まだだ。

 この段階で観測を始めれば、

 パニックを誘発するだけだ……)


「後で……確認するよ。

 もっと“確かな場”で、ね」


彼は静かに言ったが、

その瞳には抑えきれない興奮が灯っていた。


 


◆ 風が、さらに沈む


レミルの足元で小石が一つ、


ころ……と転がり、

まるで意志を持つように崖下ではなく“横へ滑り落ちた”。


四人は、それを目で追って動きを止めた。


風が――異様だ。


ここは、ただの断崖ではない。


沈黙の断層へ続く“入口”だった。



断層へ向かう風は、

まるで目に見える糸のようにレミルの意識を引っ張っていた。


少女は、崖に口を開けた暗い裂け目へ視線を移す。

その奥から――“呼ばれて”いる。


 


◆ レミル、風の先を視る


(この先に……いる。

 ここじゃない……もっと、深いところ……

 落ちた人の……“核”が……)


それは言葉というより、

風が運んでくる“印象”だった。


彼女の胸の奥に触れるような、冷たい手触り。

まるで、誰かの心臓の鼓動が、

地の底でずっと続いているかのような――残響。


レミルは小さく息を吸い、ぽつりと漏らした。


「……ここじゃない。

 もっと深い……どこかで……

 “落ちた人”の核が、まだ……残ってる……」


 


◆ 理解できない者たち


「……レミル? どういう……」

カインが眉を寄せる。


「核って……魂みたいな、そういう……?」

リゼルは怯え混じりに口にするが、

答えを聞く勇気はなかった。


二人は、レミルの言葉の意味を掴めずに立ち尽くす。


 


◆ ただ一人、興味を示す者


エルゴだけは違った。


彼は一歩前に出て、

レミルの顔を研究者特有の光で見つめる。


「レミル君……君は“何を感じている”?」


その声は、

まるで未知の法則が目の前に現れた瞬間の

歓喜と緊張を孕んでいた。


レミルは視線を落とし、正直に答える。


「……わからない。

 でも、誰かが……ここで……

 落ちて……“帰った”。

 そんな……風の匂いがするの」


 


◆ 残響――堕崖王の痕跡


エルゴは息を呑む。


(帰った?

 “落下”から……?)


それは人間の言葉ではない。

重力でも、風でも、

まして神話の文言でもない。


――だが、確かに“何か”がそこにある。


レミルが感じ取ったのは、

かつてこの断層へ身を投じた堕崖王の落下地点が

未だに放つ“残響”。


深層の重力がねじれ、

風が囁き、

影が逆流する。


ただの気配ではない。

帰還した者の“核”が残した痕跡。


それを最初に感じ取ったのは、

この瞬間のレミルだった。


そして四人は、言葉を失ったまま――

断層の暗闇を、ひとつの確信と共に見つめた。



道はいつの間にか途切れ、

その先に“縦に割れた世界”が突き立っていた。


◆ 沈黙の断層、姿を現す


谷でも洞でもない。

ただ大地そのものが、真っ二つに裂け落ちたような

巨大で黒い口。


風は――そこだけ、止まっていた。


まるで裂け目の奥へ吸い込まれ、

外界の流れが断ち切られているかのような静寂。


冷気が肌を刺し、

遠くで、石が底へ落ちていくような不気味な反響が響いた。


カインは剣の柄に手を添えながら、

つぶやくように訊いた。


「……行くのか?」


 


◆ それでも進むという選択


レミルは恐れを見せなかった。

ただ静かに、しかし迷いなくうなずく。


「ここを越えないと……頂には行けないから」


それは決意というより、

“自分だけが聴いている何か”に応じているようでもあった。


 


◆ リゼルの祈りとエルゴの観察


リゼルは両手を胸に当て、祈るように震える声を漏らす。


「……レミル様……

 どうか……どうかご無事で……」


エルゴは断層へ目を細め、

科学者の顔に戻って呟いた。


「風が沈黙する断層……

 落下教団が“聖域”と呼ぶ理由が……わかる気がする」


その声には、畏敬と興奮が混じっていた。


 


◆ 暗い口へ、四人は足を踏み入れる


誰ももう、軽口も励ましも言わなかった。


ただし――

四人の呼吸の音だけが静寂に混じり、

熱を帯びた空気がそのまま闇に吸われていく。


そして。


レミルが一歩、断層の中へ踏み込んだ瞬間、


風が完全に消えた。


カイン、リゼル、エルゴもそれに続き、

沈黙の闇の中へと吸い込まれていく。


こうして――

“沈黙の断層編”が、静かに幕を開けた。

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