次なる断崖へ
夕陽が断崖群を赤金に染めていた。
光は岩肌を流れ、長く伸びた影が峡谷の底へと沈んでいく。
その静けさは、さっきまでの混乱が嘘のようだった。
信徒たちを送り出した四人は、
ほとんど言葉もなく山頂へとたどり着く。
崖の縁には、風にほつれた巡礼旗がちぎれかけで揺れている。
足元には祠の残骸――砕けた石の欠片が散らばり、
この場所が長く“試練の場”であった記憶だけを
無言のまま残していた。
レミルはその脇の岩に腰を下ろした。
胸の鼓動はもう落ち着いているはずなのに、
どこか深いところでまだ熱が残っている。
汗も涙もとうに乾いた頬を、
冷たく澄んだ風が静かに撫でていった。
その風に、ほんのわずか――
さっき自分が感じた“応え”の名残が混ざっているように思える。
(……あの人たちが呼んだ、私の名……)
“断崖令嬢”。
囁かれたその言葉は、まるで異物のように胸に引っかかっていた。
誇らしいわけでも、嬉しいわけでもない。
かといって、完全に拒めるほど軽くもない。
今の自分には、その重さを
まだ正面から見つめる勇気がなかった。
夕陽がゆっくりと沈み、
谷の奥から夜の気配が立ち上がってくる。
レミルはじっと空を見上げる。
自分の影が、伸びて揺れて、
彼女がまだ知らない何かを指し示すように広がっていた。
カインが無言で差し出した封書は、
淡い香の残り香を含んだ、薄い羊皮紙だった。
崖上の風がひゅうと吹き抜ける中、
レミルはゆっくりと封を切った。
紙を開いた瞬間、
そこに並ぶ文字の“温度のなさ”が胸の奥を冷やした。
硬質で、切り捨てるように端正な筆跡。
セラ司祭のものだ。
「次の巡礼地へ向かいなさい。
あなたは“神の梯子”を示す者なのだから。」
たったそれだけだった。
崇高な使命を授けるというより、
“役目を果たせ”と告げる命令の響き。
レミルの指先がわずかに震え、
紙の端がぱり、と小さく鳴る。
夕陽に照らされる横顔に、
影がゆっくり落ちていく。
眉が寄り、唇が小さく結ばれ、
その表情は――
先ほど信徒たちに向けた柔らかな微笑みとは
まるで別のものだった。
心の奥深くがどこか曇る。
“名が生まれた重さ”とはまた違う、
冷たい重みが胸に落ちていくのを、
レミルは黙ったまま感じていた。
レミルはしばらく、手の中の紙片を見つめていた。
夕暮れの光が紙の表面で揺れ、
その筆跡だけが冷たく浮かび上がっている。
やがて――
少女はゆっくりと立ち上がった。
崖上の風が、彼女の髪と外套をやわらかく揺らす。
何の前触れもなく。
何の言い訳も、逡巡もなく。
レミルは伝令文を、両手でつかんだ。
ぱり、と乾いた音。
次の瞬間、彼女は紙を引き裂いた。
細かい紙片が風に乗って舞い上がり、
夕陽の中で白い火花のように散っていく。
その行為には反抗の色はない。
嘆きも、怒りも混じっていない。
ただ――
静かな決意だけがあった。
胸の内で、言葉が生まれる。
(心の声)
「神のためじゃない。
司祭のためでも、信徒のためでもない。
私は――私自身を、登る。」
その言葉が形を成した瞬間、
風がひときわ強く吹き上がる。
破れた紙片は風の筋を描いて舞い、
その軌跡に沿うように、
重力がふっと“緩む”奇妙な感覚が走った。
まるで――
風そのものが、彼女の選択に応えたように。
レミルは目を細める。
その背に沈みゆく太陽が、
まるで新しい影と光を描き出すかのようだった。
三人は、夕暮れの斜面をそれぞれの足取りで登ってきた。
最初に姿を見せたのはカインだった。
岩肌を蹴り上げながら、低く呟く。
「……あの司祭、次も厄介な場所を選んできそうだな。」
レミルの足元に散った紙片に気づき、
彼は片眉を上げた。
「破ったか。……いい判断だ。」
ぶっきらぼうだが、その声には安堵が滲んでいた。
――彼女が“自分で選べる”ことを、心の底でほっとしている。
そのすぐ後ろから、リゼルが息を整えながら現れた。
胸元を押さえる指先は、まだ微かに震えている。
「レミル様……私は……
次こそ、もっと……お力になれますように……」
その眼差しには、今日の出来事で揺らいだ信仰と、
レミルへの深い敬意とが、複雑に溶け合っていた。
まるで、少女の背に小さな光を見ているように。
最後に、エルゴが静かに合流する。
風の流れを読み、山頂の空気を測るように視線を巡らせながら。
「……風の収束が不自然だった。
偶然じゃない。君が中心にいた。」
彼は淡々と言うが、目の奥は強く輝いていた。
「次の断崖は、観測に値しそうだ。」
興味。警戒。探究。
彼の言葉はどこまでも理性的で、逆に熱を帯びていた。
三人三様の視線が、レミルの背に集まる。
カインの現実的な警戒。
リゼルの祈りに似た敬意。
エルゴの科学的探求。
そのどれもが、レミルを束縛するものではなく、
彼女がこれから歩く道を、別々の角度から照らす“光”のようだった。
夕陽が稜線の向こうへ沈みかけ、
空の明るさと夜の気配がまじり合う。
その狭間の光の中で、四人の影は長く長く伸びていた。
眼前には、遠く折り重なる断崖群。
荒々しい大地が階段のように天へ続き、
まるで巨大な神殿の参道のようにそびえている。
レミルはその景色にゆっくりと息を吸い込む。
胸の奥にまだ残る“名を与えられた重み”。
だが、その重みはもう、彼女を縛る鎖ではなかった。
彼女はそっと、一歩を踏み出す。
風が、背を押すようにやさしく流れた。
重力がわずかに揺れ、足元の大地が軽くなる錯覚。
――もはや、誰かに指示される巡礼者ではない。
崖に刻まれた道を選び、
自分のために歩く旅の第一歩が、今ここで踏み出される。
後ろから三人が静かに続く。
リゼルは祈りを胸に、
カインは確認するようにロープを握り、
エルゴは風の変化を瞳に映して。
しかしその中心に立つのは、もうレミル自身だ。
夕暮れの風の中、物語の余韻を刻むように一行が続く。
――断崖はまだ続く。
レミルの名が、風に刻まれていく。




