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『断崖令嬢 ―The Cliff Chronicle―』 ― 高所恐怖症だった悪役令嬢、世界の崖を制す ―  作者: 南蛇井


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【伝説のはじまり】

崖の中腹――まだ風の残響が揺れている。


救われた信徒たちは、震える膝を抱えながらも、

まるで“引き寄せられるように”レミルを見つめていた。


彼女の伸ばした手の余熱が、まだ空気に残っている。


最初に声を発したのは、年配の巡礼者だった。

色あせた外套の裾を握りしめ、胸に手を当てながら、

かすれた息を押し出すように――。


「……あなたが……

 谷に落ちても、生きて戻ったという……娘……?」


それは“事実の確認”ではなかった。

ただ、恐怖の底で縋るための、一本の細い糸。


レミルは息をのむ。

無言のまま、指先が微かに揺れる。


すぐ横で、別の女性信徒が震える声を重ねた。


「神が……恐怖を越えよと与えた、

 ……その象徴……と……」


その言葉に、周囲の巡礼者たちの間で

風が方向を変えるようなざわめきが広がる。


「落ちてなお……登った……?」

「風が、あの娘の周りだけ……静かになっていた……」

「恐怖を、鎮める……?」


囁きは、事実よりも早く形を変え、

尾を引いて伝わっていく。


落ちてなお登る者。

恐怖を鎮める風を呼ぶ者。


まだ名前もついていない“伝説の原型”が、

今、この断崖で――息を吹き始めた。


レミルは胸の奥で、何かが音を立てるのを感じた。

それは恐怖でも、誇りでもない。

ただ、自分の知らぬところで形づくられ始めた“物語”という重さ。


風が吹き抜ける。

信徒たちのざわめきを乗せて、

その名もなき噂の火種を、崖上へと運んでいった。



レミルは息を呑んだ。

胸の奥で、何かが急にきしむ。


「……ち、違う。私はただ――」


否定の言葉は、確かに喉まで届いた。

それは自分を守るための衝動でもあり、

まだ揺れている心を“誤解から引き離す”ための叫びでもあった。


私は奇跡なんかじゃない。

神の象徴でもない。

恐怖を克服したわけでもない。


――むしろ、さっきも足が震えていたのだ。

谷の記憶はまだ抜けない。

風の揺れひとつで心臓は跳ねる。


“普通の人間だ”と伝えたかった。

そうすれば、余計な期待を背負わずに済む。

背中に新しい鎖を掛けられずに済む。


けれど。


崖にへばりついていた信徒たちの、

希望を探すような視線が、一斉に自分を捉える。


泣き止んだ子が、

老人の袖をぎゅっとつまんだまま、

小さく息を呑んで見上げている。


その視線に、言葉が凍った。


喉の奥に溜まった否定が、声にならない。


風が、ひゅう、と一筋だけ横切った。

その音が告げているようだった。


――いま否定したら、彼らはまた落ちる。


レミルは唇を結び、視線をそらす。

言いたい言葉を、ひとつ、またひとつ飲み込んで。


自分の物語を守りたいという思いと、

目の前の人々を見捨てられない心が、

静かに、痛いほどぶつかり合っていた。


レミルが息を吸い込み、言葉を吐き出そうとしたその瞬間――

背後から、ごく低い声が落ちてきた。


「……否定しすぎるな。」


振り返らずとも、誰の声か分かる。

カインだ。

彼は信徒たちの方を見たまま、ほんのわずかに身を屈めて続けた。


「今のあいつらには、それが命綱になる。」


その声には叱責も威圧もなかった。

ただ、状況を正確に見据えた男の現実的な助言だけがあった。


「救われたって思える理由がねぇと……足がもう一回、すくむ。」


レミルは瞬きを忘れる。

カインの横顔は険しく、しかし真剣だった。


ぶっきらぼうな言い回しの裏に、

信徒たちの震える肩や、泣き止んだばかりの子どもの表情を

一つひとつ確認した痕跡があった。


そして――その全てを見たうえでの言葉。


「……今、否定したら落ちるぞ。」


レミルの喉奥にあった否定の声が、

ゆっくりと沈んでいく。


(そんなつもりじゃ、なかったのに……

 でも、確かに……いまの彼らは、誰かの“象徴”に縋らないと……)


レミルは唇をかすかに震わせたまま、

肩で小さく息を整えた。


否定の言葉は――

やっと、呑み込まれた。


リゼルは胸元で組んだ手をぎゅっと握りしめ、

震えるまつ毛の奥から、そっとレミルを見つめた。


風のざわめきの中で、彼女だけが

祈りの残滓をまとったように静かに立っている。


「……レミル様の力は……」


声はか細いのに、不思議とよく通った。


「神が……与えたものかもしれません……」


その言葉は、盲信ではなかった。

リゼル自身が見た“現実”――

恐怖に揺れる信徒を救ったレミルの姿を、

祈りという言語に翻訳しようとする、必死の試みだった。


彼女は続ける。


「恐怖もまた、わたくしたちの一部として……

 神が、乗り越える力をお授けになったもの……」


涙が頬を伝い落ちる。

だがそれは悲しみではなく、

“信仰と現実が矛盾しないように”と願う純粋な揺らぎだった。


否定も、肯定も、どちらにも傾かない。

ただ――レミルの存在が、祈りの中に位置を持てるように。


そんな橋渡しの祈りを、

リゼルは震えながら紡いでいた。


エルゴは、崖の風を読むように目を細めたまま、

口を一度も開かなかった。


レミルの周囲だけ、わずかに気流が整っていた。

それは風向きの偶然と言い切るには、あまりにも局所的で、

重力場の変調と考えるには、あまりにも整いすぎている。


彼の指先が無意識に震える。

計測器も、式も、仮説もない。

ただ「見た」という事実だけが胸に残る。


(……説明できねぇ。)


苛立ちでもあり、

新たな研究対象を見つけたときの興奮でもあり、

さらには――

少女の在り方そのものへの、

淡い敬意のようなものでもあった。


けれど今、言葉にするのは違う。


信徒たちの前で、

神でも科学でもない“領域”に足を踏み入れたレミルに、

彼がかける言葉はまだ見つからない。


だからエルゴは、ただ眉根を寄せ、

沈黙という唯一の誠実さに身を置いたまま、

レミルの背を見つめていた。


レミルは――ほんの一瞬だけ、迷った。


否定すれば救える誤解もある。

肯定すれば背負う重荷もある。

どちらにも傾きたくなくて、胸の奥がきゅっと痛んだ。


だが、崖に縫い付けられたように震える信徒たちを前にして、

迷いはもう“選択の猶予”ではなくなった。


レミルはそっと息を吸い、

小さく、しかし揺るぎのない動作で――

彼らへ手を差し伸べた。


「……行きましょう。

 ここから先は……一緒に。」


その声音には、奇跡の響きも、神性のきらめきもない。

ただ、恐怖を知り、今も抱えながら、

それでも登ろうとする“同じ人間の祈り”があった。


信徒たちはその手を見つめ、

ためらいがちに、しかし確かに握り返す。


その瞬間――

まるで風が祝福するかのように、

細い気流がレミルの髪を優しく揺らした。


「断崖……令嬢……?」


誰かの震える囁きが、

崖肌に反射してふわりと広がり、

別の巡礼者が受け取った名がまた風に乗る。


「恐怖を……越える娘……」


その名はまだ、噂とも伝説とも呼べないほど儚い。

けれど、確かに始まった。


レミルの意思からではなく、

彼女を見つめた人々の“希望が産んだ物語”として――

新しい呼び名が、高度の風にかすかに溶けていく。


風が細く鳴った。

崖を渡る気流が、まるで誰かの声を運ぶように――

生まれたばかりの名をそっと撫でていく。


「断崖……令嬢……?」


それは呼称というより、

半ば無意識の吐息のようなものだった。

救われた者が、震える胸の奥で形にしてしまった“感謝”の音。


まだ偶像には遠く、

信仰を束ねる象徴と呼ぶには、あまりにも小さい。

それでも――確かにそこに“意味”があった。


レミルはその響きに気づくが、

胸の奥で受け止めきれず、ただ瞬きを返すだけだった。

自分が何を背負わされつつあるのか、

まだ理解できる段階ではない。


しかし三人の仲間は、それぞれ別の色でこの瞬間を見つめていた。


カインは短く鼻を鳴らす。

「……名前が独り歩きし始めたな」

現実を読む眼つき。

半ば呆れ、半ば諦め、そして少しの警戒。


リゼルは胸に手を当て、

まるで祈りの言葉を見つけたかのように瞳を濡らす。

「……恐怖を越える者。その名が風に乗るなんて……」

信仰が現実に形を得た瞬間を、畏れと喜びで見守っている。


エルゴは腕を組み、じっとレミルの横顔を観察する。

科学では測れない“現象”が、人の認識をどう変えていくのか。

その過程への興味と苦味が、沈黙の中に揺れていた。


そして信徒たちはと言えば――

その名を、救いのしるしとして抱きしめ始めていた。

崖で命を繋いだその瞬間、

彼らの世界に刻まれた“ひとつの象徴”。


レミルにはまだ、それがどれほど重いか分からない。

ただ胸の奥が、静かにざわめいていた。


ここから先、

彼女はもう“ただの巡礼者”ではいられない。


その囁きは小さな始まりにすぎない。

だが物語は、多くの場合、こうしたさざ波から動き出す。


そして今――

レミルは確かに、物語の中心へと押し出されたのだった。

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