― 王都セラフィードの断罪の日 ―
鐘が三度、鳴った。
ゆっくりと、深く、塔の心臓を震わせるような音だった。
その余韻に混じって、白い花弁が空を舞う。
王都セラフィードの冬の花――“断罪の白花”。
雪のように軽やかに、けれど、落ちる先を決して変えない。
花弁は風に乗り、高塔を取り巻くように渦を描いていた。
王都の中心に立つは、天を貫く白塔――断罪塔。
傾きかけた夕陽を受け、その純白の外壁は金に染まり、
まるで“神が差し出した刃”のように空を裂いている。
その周囲を、黒い波のような群衆が埋め尽くしていた。
貴族、商人、聖職者、民――身分も服も違えど、
皆、同じ目をしている。
退屈と恐怖を紛らわすための、他人の断罪を待つ目。
人々は小声で祈りながら、笑う。
「神の裁き」と「娯楽」は、いつだって紙一重だ。
――罪の重さは、高さに比例する。
ゆえに、神は高塔を造った。
それは、誰が最初に口にしたのか分からない古い言葉。
けれど今や、この国の常識のように人々の舌に乗っていた。
塔の頂には、断崖を背にした円形の大広間がある。
そこが今日の“舞台”だ。
高すぎるほどの高さ。
風が、まるで神の吐息のように吹き抜け、
夕陽が、血の色を帯びて世界を染めていく。
群衆は息を潜めた。
その沈黙が、やがてひとつの名を待つ空気に変わる。
――もうすぐ始まる。
この国が最も好む儀式――**断罪の劇場**が。
断罪塔の最上層、「光環の間」。
床は透き通る水晶でできており、その下には――燃えるような空があった。
赤く染まった雲が波打ち、まるで地獄の海が逆さに広がっているかのようだった。
その床の中央に、ひとりの少女が立っていた。
レミル・デズライド。
深く礼を尽くす姿勢のまま、微動だにしない。
その姿は、まるで“神殿の供物”だった。
周囲を取り囲むのは、王太子、神官、廷臣、貴族、そして選ばれた観衆。
彼らは半円状に並び、まるで舞台の観客のように少女を見下ろしていた。
高窓から吹き込む風が、衣の裾を揺らす。
金糸の装飾が、まるで鎖のように光る。
聖なる儀式――そう呼ばれてはいたが、
そこにあったのは、救いではなく、見世物としての断罪だった。
沈黙を裂くように、侍従官の声が響いた。
「罪状、三つ。」
その言葉のたびに、群衆がざわめく。
水晶の床が、足音とざらついた囁きで震えた。
「一、王太子殿下への毒殺未遂。」
「二、聖女レーネへの呪詛。」
「三、神託への背信。」
そのどれもが、作られた罪。
けれど、この場にいる誰もが、真実よりも“物語”を望んでいた。
人々はすでに知っている。
――罪人が落ちる瞬間こそ、もっとも“神聖な娯楽”だということを。
王太子ルシオンが一歩、前に出た。
金髪が夕光を受け、炎のように輝く。
彼の目は、冷たい光を湛えていた。
「レミル・デズライド。
貴様は神の秩序を汚し、王家の威光を穢した。」
その声には怒りも悲しみもなかった。
ただ、整った言葉を“儀礼として吐く”機械のような冷たさ。
それが、彼の美しさをいっそう残酷に見せていた。
レミルは顔を上げない。
視線を床に落とし、己の靴先と、赤く染まる空の揺らぎを見ていた。
風が吹いた。
群衆の衣が一斉に揺れ、まるでひとつの生命のように波打つ。
天井のステンドグラスを通した赤い光が、
床に“血の模様”を描き出す。
それは――神が流す血か、人が求めた血か。
誰にも分からない。
群衆(合唱のように):
「堕ちよ――堕ちよ――堕ちよ――」
その声は、祈りにも、呪いにも聞こえた。
千の声が重なり合い、塔の内壁を震わせる。
まるでこの国そのものが、“彼女を落とすために建てられた”ようだった。
断罪塔の背後には、王都を囲む断崖があった。
その深淵は、黒く、静かで――まるで“口を開けて待つ神”のように。
誰もが、その口が閉じる瞬間を、息を潜めて待っていた。
レミルはただ、風の音を聞いていた。
それは、耳を刺すような音ではなく、どこか懐かしい旋律だった。
なぜか胸の奥が、かすかに疼く。
(心の声)
「この音……知ってる。
いつか、どこかで、聞いた気がする……」
彼女はまだ知らない。
それが“崖を登る風の音”であったことを。
足音が消えた。
群衆のざわめきも、鐘の響きも、遠ざかっていく。
まるで、世界の音そのものが――水の底へ沈んでいくようだった。
レミルは静かに立っていた。
両の手は前で組まれているが、その指先はかすかに震えている。
膝も同じように、微細な震えを繰り返していた。
それでも、涙は出なかった。
頬に感じるのは風の冷たさだけ。
恐怖はある。
だが、それは――もう、泣けるほどのものではなかった。
恐怖を知りすぎた人間は、静かになる。
それは心が壊れたせいではなく、恐怖の形を超えてしまったからだ。
(モノローグ)
「……みんな、私が怖いんだ。
だから私を“悪役”にして、安心したいんだね。」
自嘲のような、しかしどこか客観的な声だった。
まるで、自分の死を見物する第三者のように。
けれど――その思考の裏で、
ひとつの“違和感”が、静かに脈打ち始める。
心臓の鼓動とは違う。
もっと深い場所、魂の底で“何か”が覚醒するような感覚。
「――この光、この高さ……知ってる。
なんで、胸が痛いのに、懐かしいの?」
その瞬間、視界の端が揺れた。
断罪塔の赤い光が、別の空へと溶けていく。
そこにちらつくのは――まったく異なる世界。
青。
あの日の空は、限りなく青かった。
鋭い陽光が岩を照らし、風が唸る。
手のひらの感触。
指が、乾いた岩肌の隙間を探る。
白い粉――チョークだ。
汗を吸い、指の間に残る。
足をかけ、腕を伸ばし、息を止め、岩に溶ける。
落ちたら終わる。
でも――それが、生きているという感覚だった。
瞬間、現実の足元がふらりと揺れる。
水晶の床の向こう、紅い空が脈動して見えた。
重力が、彼女の名前を呼んでいる。
胸が締めつけられ、呼吸が乱れる。
――吸えない。空気が重い。
体の奥から、落ちる感覚が蘇る。
世界が傾き、足場が消え、空が逆転する。
それは恐怖ではなかった。
むしろ、懐かしさだった。
心のどこかが囁く。
――ああ、そうだ。私は知っている。
“落ちる”ことの意味を。
レミルの視界に、断罪塔の光が滲む。
それはまるで、彼女の過去と現在を繋ぐ導火線のようだった。
風が再び吹き込む。
ステンドグラスの影が揺れ、彼女の頬をなぞる。
その目に、ほんの一瞬だけ――“恐怖ではない光”が宿った。
水晶の床の下で、夕陽が完全に沈みかけていた。
赤い光が断罪塔の内部を満たし、
あらゆる顔を、同じ色に染めていく。
そのとき、群衆が一斉に動いた。
どこからともなく、嘲笑と罵声が湧き上がる。
それは怒りというより、
――恐怖を笑いに変えようとする群衆の防衛反応だった。
「高貴な生まれでも、神には逆らえぬ!」
「崖に堕ち、風に喰われよ!」
「神はお前を見捨てたのだ!」
その声の波が、塔の天蓋にぶつかり、何度も反響する。
笑いと祈りと呪いが混じり合い、
空気が震え、光が歪む。
レミルは、目を閉じなかった。
嘲笑の中で、ただ静かに――立っていた。
唇の端に、かすかな熱を感じる。
自分でも気づかぬほど微かに、歯を食いしばっていた。
ふと、その中に――ただ一人、沈黙している男がいた。
若き司祭セラ。
白衣の袖を握りしめ、顔を伏せていた。
他の神官たちが声を合わせて“清めの詠唱”を唱える中、
彼だけは、言葉を失っていた。
その横顔に、燃えるステンドグラスの赤が差し込み、
涙のような光を落とす。
やがて、彼は口を開いた。
声は、儀礼の言葉として発せられた。
「……落下によって、清められよ。」
その響きは冷たく、静かで――しかし、どこか震えていた。
誰も気づかぬほどの一瞬、
彼は視線を上げ、レミルを見た。
その眼差しには、罰ではなく、哀れみがあった。
そして、群衆の合唱の隙間に紛れるように、
彼は、ごく小さく呟いた。
「……だが、もし聞こえるなら――恐れるな。」
その言葉は、まるで風に乗って運ばれるように、
レミルの耳へ届いた。
群衆の喚声も、鐘の響きも、すべてが遠のく。
ただ、その一言だけが、はっきりと胸に刺さった。
彼女の青銀の瞳が、微かに光を宿す。
視線が、群衆の海を越えて――セラを捉えた。
ほんの瞬間、二人の視線が交わる。
それは、世界の中でただ一つの“真実の対話”だった。
赦しでも、愛でもなく。
ただ、人として“恐れるな”と伝える声。
レミルは息を吸った。
胸の奥で、何かが震える。
(モノローグ)
「……恐れるな、って……。
どうしてそんな言葉を、私に?」
その瞬間、塔の外から突風が吹き込んだ。
断罪の花弁が、白い雪のように舞い込む。
レミルの髪が揺れ、空気が変わる。
風の音が――呼んでいる。
崖の向こうから。
まるで、
「落ちることを恐れるな」と囁くかのように。
次の瞬間、王太子が手を振り下ろした。
断罪の鐘が鳴る。
足元の光が割れ、床が開く。
――そして、レミルは堕ちた。
鐘の音が塔を震わせていた。
断罪塔の最上層――「光環の間」は、紅い光で満ちている。
水晶の床の下には、無限の空。
そこに立つ少女と王太子は、まるで舞台の中央に立つ俳優のようだった。
王太子ルシオンは、玉座の前からゆっくりと歩み寄る。
その足音は静かで、しかし一歩ごとに世界を支配していくような響きを持っていた。
彼の瞳には、罪を裁く者の冷たさと、どこか誇示的な正義が宿っていた。
「レミル・デズライド。」
「貴様の罪は、神の眼を曇らせた。
貴様の墜落が、秩序を取り戻す。」
その声は、美しかった。
だが、それはあまりにも整いすぎた美しさ――
人間の心ではなく、“王国の言葉”を話しているような声。
レミルはゆっくりと顔を上げた。
青銀の瞳が、赤い光を映して揺らめく。
恐怖の中で、それでも彼女は――笑っていた。
「秩序……?」
その一言に、わずかに場の空気が乱れる。
群衆の中で、囁きが走った。
「あなたが言う“秩序”は、誰のためのもの?」
ルシオンの眉が、わずかに動いた。
そのわずかな揺れが、完璧な仮面の下にある“人間”を暴く。
だが、彼は答えなかった。
答えれば崩れると、彼自身が知っていた。
沈黙。
その沈黙は、空よりも深く、刃よりも冷たかった。
群衆が息を詰める。
彼らは初めて、“断罪される者”の言葉に耳を傾けていた。
レミルは一歩、前に出る。
水晶の床がわずかに軋む。
赤い光が彼女の足元に血のような影を描いた。
「……どうせなら、ちゃんと見てて。」
「私が“落ちる”ところを。」
その声は、静かで澄んでいた。
挑発でも、絶望でもない。
ただ、すべてを受け入れた者の声。
彼女は微笑んだ。
その笑みには、恐怖がなかった。
むしろ、恐怖を理解して、手放した人間の透明な表情。
それは、神にも人にも似ていなかった。
風が吹く。
ステンドグラスの破片のような光が、彼女の髪を揺らす。
その瞬間、群衆の中でざわめきが起こった。
――笑っている。
断罪の時に、笑っている。
ルシオンの唇がかすかに震えた。
だが、その理由を誰も知らない。
怒りか、恐れか、それとも――。
鐘が鳴る。
合図だ。
床の封印が解かれ、光が割れる。
レミルの足元が、音もなく崩れ落ちた。
彼女は、振り返らなかった。
最後まで、誰にも背を向けず、
ただ前を――落ちる先の空を、見ていた。
そして、
その瞬間の彼女は、確かに自由だった。
鐘が鳴った。
重く、荘厳で、そして――残酷なほど美しい音。
断罪塔の全身が、その振動で震える。
床が割れる。
水晶の光が崩れ、白い破片が宙を舞う。
その瞬間、
世界が――反転した。
重力が叫び、風が唸る。
レミルの体が、空へ放たれるように落ちていく。
塔の最上層から、黄金の王都が逆さに遠ざかる。
群衆のローブが翻り、
千の口が同時に開き、
驚愕と歓喜と恐怖の声が混じり合った。
だが、レミルには――何も聞こえなかった。
一瞬、静寂。
音が消え、時間が止まる。
風だけが、頬を撫でていく。
その冷たさに、彼女はふと、笑みを浮かべた。
(心の声)
「――ああ、この感じ。
私、また……落ちてる。」
胸の奥が、熱くなる。
恐怖ではない。懐かしさ。
体が覚えている“生きる感覚”。
視界が閃光のように乱れる。
断罪塔が、岩壁へと変わる。
空の色が、王都の夕暮れから、前世の青空へと切り替わる。
――岩。
――指。
――汗。
――息。
ロープはない。
頼れるのは、指先と、筋肉と、意志だけ。
太陽が照りつけ、風が頬を打つ。
岩肌が手のひらを裂き、血が滲む。
でも、その痛みが愛おしい。
(心の声)
「そうだ……私は、
落ちることを恐れないために、生きていた。」
再び、世界が切り替わる。
王都の断崖が戻り、風が荒れ狂う。
彼女の瞳が光を帯びる。
重力が、形を持ち始める。
まるで“祈り”が物理法則を変えるように。
落下の速度が、遅くなる。
風が、彼女を包むように流れを変える。
レミルは、目を開いた。
その青銀の瞳には、もう恐怖がなかった。
「……これは罰じゃない。
私にとっての――帰還だ。」
その言葉とともに、
周囲の空気がわずかに震える。
遠く、断罪塔の上空で、鐘が最後の一度だけ鳴った。
音が波紋のように広がり、
彼女の落下を包み込み――
その中心で、光が“逆流”した。
風が、地を目指す彼女の身体を抱き上げる。
“落ちる”ことが、“登る”ことへと反転する。
――最初の「重力詠唱」が、世界に刻まれた瞬間だった。
夕陽が、断崖を焼いていた。
落下する少女の姿を、最後の光が追う。
空は深紅。
崖の稜線は黒く、風は白い波となって渦を描く。
その中心で、レミル・デズライドは――落ちていた。
風を裂き、髪が広がる。
その一本一本が光を掴み、金と銀の欠片のように散っていく。
まるで、失われた翼の残骸。
あるいは、堕天の瞬間にこぼれた“神の羽”。
彼女の身体は、ゆっくりと回転する。
空と大地が入れ替わり、上下の概念が溶けていく。
世界が、ただひとつの“赤い渦”として息づいていた。
音が遠い。
鐘の残響が、いつまでも耳の奥で鳴っている。
それは恐怖の音ではなく――呼び声だった。
レミルの唇がかすかに動く。
風に溶けるように、言葉が零れた。
(モノローグ)
「……怖い、でも――
この恐怖、知ってる。
そうだ、私は、これを愛してたんだ……!」
胸が焼けるように熱い。
落ちることが、生きること。
恐怖を感じる瞬間こそが、存在を証明している。
彼女の瞳が光を反射し、
青銀の光が風の粒子に砕けて散る。
その光が、空に詩のような軌跡を描いた。
唇がもう一度、動く。
誰にも聞こえない、けれど確かに“言葉”になりかけた音。
それは、後に《重力詠唱》と呼ばれる――原初の祈り。
空が震え、風が変わる。
落下の軌道が、ほんのわずかに反転する。
その瞬間、彼女の姿が夕陽を貫いた。
光と影の狭間で、ひとつの輪郭が浮かび上がる。
――“断崖令嬢”の誕生。
夕陽が沈み、光が消える。
残ったのは、風と静寂。
だがその静寂の底で、確かに“声”が息づいていた。
「落ちることを、恐れるな。」
その声とともに、
深い闇へと溶けていく――。




