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『断崖令嬢 ―The Cliff Chronicle―』 ― 高所恐怖症だった悪役令嬢、世界の崖を制す ―  作者: 南蛇井


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1/13

― 王都セラフィードの断罪の日 ―

鐘が三度、鳴った。

 ゆっくりと、深く、塔の心臓を震わせるような音だった。


 その余韻に混じって、白い花弁が空を舞う。

 王都セラフィードの冬の花――“断罪の白花”。

 雪のように軽やかに、けれど、落ちる先を決して変えない。

 花弁は風に乗り、高塔を取り巻くように渦を描いていた。


 王都の中心に立つは、天を貫く白塔――断罪塔セラ・クラウン

 傾きかけた夕陽を受け、その純白の外壁は金に染まり、

 まるで“神が差し出した刃”のように空を裂いている。


 その周囲を、黒い波のような群衆が埋め尽くしていた。

 貴族、商人、聖職者、民――身分も服も違えど、

 皆、同じ目をしている。

 退屈と恐怖を紛らわすための、他人の断罪を待つ目。


 人々は小声で祈りながら、笑う。

 「神の裁き」と「娯楽」は、いつだって紙一重だ。


――罪の重さは、高さに比例する。

ゆえに、神は高塔を造った。


 それは、誰が最初に口にしたのか分からない古い言葉。

 けれど今や、この国の常識のように人々の舌に乗っていた。


 塔の頂には、断崖を背にした円形の大広間がある。

 そこが今日の“舞台”だ。


 高すぎるほどの高さ。

 風が、まるで神の吐息のように吹き抜け、

 夕陽が、血の色を帯びて世界を染めていく。


 群衆は息を潜めた。

 その沈黙が、やがてひとつの名を待つ空気に変わる。


 ――もうすぐ始まる。

 この国が最も好む儀式――**断罪の劇場セラ・パージ**が。




断罪塔の最上層、「光環の間」。

 床は透き通る水晶でできており、その下には――燃えるような空があった。

 赤く染まった雲が波打ち、まるで地獄の海が逆さに広がっているかのようだった。


 その床の中央に、ひとりの少女が立っていた。

 レミル・デズライド。

 深く礼を尽くす姿勢のまま、微動だにしない。

 その姿は、まるで“神殿の供物”だった。


 周囲を取り囲むのは、王太子、神官、廷臣、貴族、そして選ばれた観衆。

 彼らは半円状に並び、まるで舞台の観客のように少女を見下ろしていた。


 高窓から吹き込む風が、衣の裾を揺らす。

 金糸の装飾が、まるで鎖のように光る。

 聖なる儀式――そう呼ばれてはいたが、

 そこにあったのは、救いではなく、見世物としての断罪だった。


 沈黙を裂くように、侍従官の声が響いた。


「罪状、三つ。」


 その言葉のたびに、群衆がざわめく。

 水晶の床が、足音とざらついた囁きで震えた。


「一、王太子殿下への毒殺未遂。」

「二、聖女レーネへの呪詛。」

「三、神託への背信。」


 そのどれもが、作られた罪。

 けれど、この場にいる誰もが、真実よりも“物語”を望んでいた。


 人々はすでに知っている。

 ――罪人が落ちる瞬間こそ、もっとも“神聖な娯楽”だということを。


 王太子ルシオンが一歩、前に出た。

 金髪が夕光を受け、炎のように輝く。

 彼の目は、冷たい光を湛えていた。


「レミル・デズライド。

貴様は神の秩序を汚し、王家の威光を穢した。」


 その声には怒りも悲しみもなかった。

 ただ、整った言葉を“儀礼として吐く”機械のような冷たさ。

 それが、彼の美しさをいっそう残酷に見せていた。


 レミルは顔を上げない。

 視線を床に落とし、己の靴先と、赤く染まる空の揺らぎを見ていた。


 風が吹いた。

 群衆の衣が一斉に揺れ、まるでひとつの生命のように波打つ。

 天井のステンドグラスを通した赤い光が、

 床に“血の模様”を描き出す。


 それは――神が流す血か、人が求めた血か。

 誰にも分からない。


群衆(合唱のように):

「堕ちよ――堕ちよ――堕ちよ――」


 その声は、祈りにも、呪いにも聞こえた。

 千の声が重なり合い、塔の内壁を震わせる。

 まるでこの国そのものが、“彼女を落とすために建てられた”ようだった。


 断罪塔の背後には、王都を囲む断崖があった。

 その深淵は、黒く、静かで――まるで“口を開けて待つ神”のように。


 誰もが、その口が閉じる瞬間を、息を潜めて待っていた。


 レミルはただ、風の音を聞いていた。

 それは、耳を刺すような音ではなく、どこか懐かしい旋律だった。

 なぜか胸の奥が、かすかに疼く。


(心の声)

「この音……知ってる。

いつか、どこかで、聞いた気がする……」


 彼女はまだ知らない。

 それが“崖を登る風の音”であったことを。



足音が消えた。

 群衆のざわめきも、鐘の響きも、遠ざかっていく。

 まるで、世界の音そのものが――水の底へ沈んでいくようだった。


 レミルは静かに立っていた。

 両の手は前で組まれているが、その指先はかすかに震えている。

 膝も同じように、微細な震えを繰り返していた。


 それでも、涙は出なかった。


 頬に感じるのは風の冷たさだけ。

 恐怖はある。

 だが、それは――もう、泣けるほどのものではなかった。


 恐怖を知りすぎた人間は、静かになる。

 それは心が壊れたせいではなく、恐怖の形を超えてしまったからだ。


(モノローグ)

「……みんな、私が怖いんだ。

だから私を“悪役”にして、安心したいんだね。」


 自嘲のような、しかしどこか客観的な声だった。

 まるで、自分の死を見物する第三者のように。


 けれど――その思考の裏で、

 ひとつの“違和感”が、静かに脈打ち始める。


 心臓の鼓動とは違う。

 もっと深い場所、魂の底で“何か”が覚醒するような感覚。


「――この光、この高さ……知ってる。

なんで、胸が痛いのに、懐かしいの?」


 その瞬間、視界の端が揺れた。

 断罪塔の赤い光が、別の空へと溶けていく。


 そこにちらつくのは――まったく異なる世界。


 青。

 あの日の空は、限りなく青かった。

 鋭い陽光が岩を照らし、風が唸る。

 手のひらの感触。

 指が、乾いた岩肌の隙間を探る。


 白い粉――チョークだ。

 汗を吸い、指の間に残る。

 足をかけ、腕を伸ばし、息を止め、岩に溶ける。


 落ちたら終わる。

 でも――それが、生きているという感覚だった。


 瞬間、現実の足元がふらりと揺れる。

 水晶の床の向こう、紅い空が脈動して見えた。

 重力が、彼女の名前を呼んでいる。


 胸が締めつけられ、呼吸が乱れる。

 ――吸えない。空気が重い。


 体の奥から、落ちる感覚が蘇る。


 世界が傾き、足場が消え、空が逆転する。

 それは恐怖ではなかった。

 むしろ、懐かしさだった。


 心のどこかが囁く。

 ――ああ、そうだ。私は知っている。

 “落ちる”ことの意味を。


 レミルの視界に、断罪塔の光が滲む。

 それはまるで、彼女の過去と現在を繋ぐ導火線のようだった。


 風が再び吹き込む。

 ステンドグラスの影が揺れ、彼女の頬をなぞる。

 その目に、ほんの一瞬だけ――“恐怖ではない光”が宿った。



水晶の床の下で、夕陽が完全に沈みかけていた。

 赤い光が断罪塔の内部を満たし、

 あらゆる顔を、同じ色に染めていく。


 そのとき、群衆が一斉に動いた。


 どこからともなく、嘲笑と罵声が湧き上がる。

 それは怒りというより、

 ――恐怖を笑いに変えようとする群衆の防衛反応だった。


「高貴な生まれでも、神には逆らえぬ!」

「崖に堕ち、風に喰われよ!」

「神はお前を見捨てたのだ!」


 その声の波が、塔の天蓋にぶつかり、何度も反響する。

 笑いと祈りと呪いが混じり合い、

 空気が震え、光が歪む。


 レミルは、目を閉じなかった。

 嘲笑の中で、ただ静かに――立っていた。

 唇の端に、かすかな熱を感じる。

 自分でも気づかぬほど微かに、歯を食いしばっていた。


 ふと、その中に――ただ一人、沈黙している男がいた。


 若き司祭セラ。

 白衣の袖を握りしめ、顔を伏せていた。

 他の神官たちが声を合わせて“清めの詠唱”を唱える中、

 彼だけは、言葉を失っていた。


 その横顔に、燃えるステンドグラスの赤が差し込み、

 涙のような光を落とす。


 やがて、彼は口を開いた。

 声は、儀礼の言葉として発せられた。


「……落下によって、清められよ。」


 その響きは冷たく、静かで――しかし、どこか震えていた。

 誰も気づかぬほどの一瞬、

 彼は視線を上げ、レミルを見た。


 その眼差しには、罰ではなく、哀れみがあった。


 そして、群衆の合唱の隙間に紛れるように、

 彼は、ごく小さく呟いた。


「……だが、もし聞こえるなら――恐れるな。」


 その言葉は、まるで風に乗って運ばれるように、

 レミルの耳へ届いた。


 群衆の喚声も、鐘の響きも、すべてが遠のく。

 ただ、その一言だけが、はっきりと胸に刺さった。


 彼女の青銀の瞳が、微かに光を宿す。

 視線が、群衆の海を越えて――セラを捉えた。


 ほんの瞬間、二人の視線が交わる。


 それは、世界の中でただ一つの“真実の対話”だった。

 赦しでも、愛でもなく。

 ただ、人として“恐れるな”と伝える声。


 レミルは息を吸った。

 胸の奥で、何かが震える。


(モノローグ)

「……恐れるな、って……。

どうしてそんな言葉を、私に?」


 その瞬間、塔の外から突風が吹き込んだ。

 断罪の花弁が、白い雪のように舞い込む。

 レミルの髪が揺れ、空気が変わる。


 風の音が――呼んでいる。

 崖の向こうから。

 まるで、

 「落ちることを恐れるな」と囁くかのように。


 次の瞬間、王太子が手を振り下ろした。

 断罪の鐘が鳴る。

 足元の光が割れ、床が開く。


 ――そして、レミルは堕ちた。



鐘の音が塔を震わせていた。

 断罪塔の最上層――「光環の間」は、紅い光で満ちている。

 水晶の床の下には、無限の空。

 そこに立つ少女と王太子は、まるで舞台の中央に立つ俳優のようだった。


 王太子ルシオンは、玉座の前からゆっくりと歩み寄る。

 その足音は静かで、しかし一歩ごとに世界を支配していくような響きを持っていた。

 彼の瞳には、罪を裁く者の冷たさと、どこか誇示的な正義が宿っていた。


「レミル・デズライド。」

「貴様の罪は、神の眼を曇らせた。

貴様の墜落が、秩序を取り戻す。」


 その声は、美しかった。

 だが、それはあまりにも整いすぎた美しさ――

 人間の心ではなく、“王国の言葉”を話しているような声。


 レミルはゆっくりと顔を上げた。

 青銀の瞳が、赤い光を映して揺らめく。

 恐怖の中で、それでも彼女は――笑っていた。


「秩序……?」


 その一言に、わずかに場の空気が乱れる。

 群衆の中で、囁きが走った。


「あなたが言う“秩序”は、誰のためのもの?」


 ルシオンの眉が、わずかに動いた。

 そのわずかな揺れが、完璧な仮面の下にある“人間”を暴く。

 だが、彼は答えなかった。

 答えれば崩れると、彼自身が知っていた。


 沈黙。


 その沈黙は、空よりも深く、刃よりも冷たかった。

 群衆が息を詰める。

 彼らは初めて、“断罪される者”の言葉に耳を傾けていた。


 レミルは一歩、前に出る。

 水晶の床がわずかに軋む。

 赤い光が彼女の足元に血のような影を描いた。


「……どうせなら、ちゃんと見てて。」

「私が“落ちる”ところを。」


 その声は、静かで澄んでいた。

 挑発でも、絶望でもない。

 ただ、すべてを受け入れた者の声。


 彼女は微笑んだ。


 その笑みには、恐怖がなかった。

 むしろ、恐怖を理解して、手放した人間の透明な表情。

 それは、神にも人にも似ていなかった。


 風が吹く。

 ステンドグラスの破片のような光が、彼女の髪を揺らす。

 その瞬間、群衆の中でざわめきが起こった。


 ――笑っている。

 断罪の時に、笑っている。


 ルシオンの唇がかすかに震えた。

 だが、その理由を誰も知らない。

 怒りか、恐れか、それとも――。


 鐘が鳴る。

 合図だ。


 床の封印が解かれ、光が割れる。

 レミルの足元が、音もなく崩れ落ちた。


 彼女は、振り返らなかった。

 最後まで、誰にも背を向けず、

 ただ前を――落ちる先の空を、見ていた。


 そして、

 その瞬間の彼女は、確かに自由だった。


鐘が鳴った。

 重く、荘厳で、そして――残酷なほど美しい音。

 断罪塔の全身が、その振動で震える。


 床が割れる。

 水晶の光が崩れ、白い破片が宙を舞う。


 その瞬間、

 世界が――反転した。


 重力が叫び、風が唸る。

 レミルの体が、空へ放たれるように落ちていく。

 塔の最上層から、黄金の王都が逆さに遠ざかる。


 群衆のローブが翻り、

 千の口が同時に開き、

 驚愕と歓喜と恐怖の声が混じり合った。


 だが、レミルには――何も聞こえなかった。


 一瞬、静寂。

 音が消え、時間が止まる。


 風だけが、頬を撫でていく。

 その冷たさに、彼女はふと、笑みを浮かべた。


(心の声)

「――ああ、この感じ。

私、また……落ちてる。」


 胸の奥が、熱くなる。

 恐怖ではない。懐かしさ。

 体が覚えている“生きる感覚”。


 視界が閃光のように乱れる。

 断罪塔が、岩壁へと変わる。

 空の色が、王都の夕暮れから、前世の青空へと切り替わる。


 ――岩。

 ――指。

 ――汗。

 ――息。


 ロープはない。

 頼れるのは、指先と、筋肉と、意志だけ。


 太陽が照りつけ、風が頬を打つ。

 岩肌が手のひらを裂き、血が滲む。

 でも、その痛みが愛おしい。


(心の声)

「そうだ……私は、

落ちることを恐れないために、生きていた。」


 再び、世界が切り替わる。

 王都の断崖が戻り、風が荒れ狂う。

 彼女の瞳が光を帯びる。


 重力が、形を持ち始める。

 まるで“祈り”が物理法則を変えるように。


 落下の速度が、遅くなる。

 風が、彼女を包むように流れを変える。


 レミルは、目を開いた。

 その青銀の瞳には、もう恐怖がなかった。


「……これは罰じゃない。

私にとっての――帰還だ。」


 その言葉とともに、

 周囲の空気がわずかに震える。


 遠く、断罪塔の上空で、鐘が最後の一度だけ鳴った。

 音が波紋のように広がり、

 彼女の落下を包み込み――


 その中心で、光が“逆流”した。


 風が、地を目指す彼女の身体を抱き上げる。

 “落ちる”ことが、“登る”ことへと反転する。


 ――最初の「重力詠唱」が、世界に刻まれた瞬間だった。


夕陽が、断崖を焼いていた。

 落下する少女の姿を、最後の光が追う。


 空は深紅。

 崖の稜線は黒く、風は白い波となって渦を描く。

 その中心で、レミル・デズライドは――落ちていた。


 風を裂き、髪が広がる。

 その一本一本が光を掴み、金と銀の欠片のように散っていく。

 まるで、失われた翼の残骸。

 あるいは、堕天の瞬間にこぼれた“神の羽”。


 彼女の身体は、ゆっくりと回転する。

 空と大地が入れ替わり、上下の概念が溶けていく。

 世界が、ただひとつの“赤い渦”として息づいていた。


 音が遠い。

 鐘の残響が、いつまでも耳の奥で鳴っている。

 それは恐怖の音ではなく――呼び声だった。


 レミルの唇がかすかに動く。

 風に溶けるように、言葉が零れた。


(モノローグ)

「……怖い、でも――

この恐怖、知ってる。

そうだ、私は、これを愛してたんだ……!」


 胸が焼けるように熱い。

 落ちることが、生きること。

 恐怖を感じる瞬間こそが、存在を証明している。


 彼女の瞳が光を反射し、

 青銀の光が風の粒子に砕けて散る。


 その光が、空に詩のような軌跡を描いた。


 唇がもう一度、動く。

 誰にも聞こえない、けれど確かに“言葉”になりかけた音。

 それは、後に《重力詠唱》と呼ばれる――原初の祈り。


 空が震え、風が変わる。

 落下の軌道が、ほんのわずかに反転する。


 その瞬間、彼女の姿が夕陽を貫いた。

 光と影の狭間で、ひとつの輪郭が浮かび上がる。


 ――“断崖令嬢”の誕生。


 夕陽が沈み、光が消える。

 残ったのは、風と静寂。


 だがその静寂の底で、確かに“声”が息づいていた。


 「落ちることを、恐れるな。」


 その声とともに、

 深い闇へと溶けていく――。

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