エピローグ きっと、いつまでだって
「――――――……き、て。……と、起きて――」
おぼろげな声がして、俺は。
ゆっくりと……重いまぶたを、どうにか開く。窓から差し込んでくる鬱陶しい日差しを浴びて、開けた目をすぐに閉じてしまいそうになる。
「――――ね、秋人。起きて?」
だけど。
とても可愛らしいソプラノボイスに、名前を呼ばれたような気がして。
細めた目を、どうにか開く。
すると、そこには……学園一の美少女の、にこっとした笑顔があった。
「あ、起きたっ。おはよ、秋人?」
あれ……なんでここに恋歌が、と思った。
寝ぼけた頭を動かしているうちに、記憶が明白になっていく。
ここは俺の部屋の、俺のベッドの中で。
そして――目の前には、天使のように可憐な顔が。その可愛らしい頬は紅潮していて、唇は艶っぽく湿っている。
「あ……あー、う、うん。おはよう、恋歌……」
狭いシングルベッドの上、一枚の薄い布団の中で。
少しでも動けば、唇と唇が触れあってしまいそうな距離。
そこに、俺の自慢の幼なじみの――藤咲恋歌の、綺麗な目と鼻と唇があって。
「ふふっ。寝ぼけた秋人、すごく可愛い。昨日も可愛かったけど、ね?」
からかうような声。えへへ、と恋歌は無垢な笑みを浮かべる。
そんな恋歌の顔から、視線を逸らす……と、少し下には、彼女の綺麗な身体があった。
白くて、細くて、だけどやわらかそうな――いや、実際にやわらかかったんだよな。それはもう、とてつもないくらいに。
「あ――もー、秋人のえっち。私の胸、また見てる」
「いや……そりゃ無理だって。目の前に好きな相手の裸があったら、男なら誰だってこうなる」
「ふふっ、そっか。でも、今はダメだよ? 早く支度しないと、学校、遅刻しちゃうもん」
今日は九月一日。夏休み明けの月曜日、つまりは二学期の始業日だ。
……恋歌の言うとおりだ。そろそろ準備を始めないと、初日から大遅刻をかますことになる。できればそれは避けたい、が――昨日は、ほとんど寝れていない。眠いものは眠いのだ。
「ほらっ。秋人、起きて? 朝ご飯、食べよ?」
「……頼む、あと五分だけ寝かせてくれ」
「だーめ。学校、遅刻しちゃうよ?」
そして恋歌は、その薄い唇を俺の耳もとに近づけて、
「それに――ね? 帰ったらさ。昨日の続き、してあげるよ?」
くすぐったくて、甘ったるい声。
――そう。そうなのだ。
昨日の、花火大会からの帰り道。俺と恋歌は――お互いの想いを伝え合い、幼なじみから、恋人同士の関係へとなった。
それから俺たちは、昨晩のうちに……衝撃的なスピードで、恋のABCを駆け上がっていったのだ。
いまだに信じられないなと思う。だけど、これは間違いなく現実だ。
恋歌のやわらかい身体の温もりを。白くて滑らかな肌の触り心地を。艶めいた声、乱れた吐息と、あの甘い表情を――俺は、鮮明に覚えていた。
そして……いつまでも途絶えない、恋歌の体力の凄まじさも。
「帰ったら、って……それ、恋歌がしたいだけじゃ……?」
「ちっ……、違うから! だって昨日、秋人が、すごく喜んでくれてたからっ……!」
かあぁ、と顔が赤くなる恋歌。可愛いかよ。
そんな愛しい幼なじみの亜麻色の髪を、俺はそっと撫でる。
さらさらの感触が、手に嬉しい。恋歌はどこか不満げに唇を尖らせつつ、だけど、その表情には幸せそうな笑顔が宿っていて。
「もう……秋人の、ばかっ」
「へいへい。ま、俺はバカ秋人だからなっ」
幸いにも昨晩は、母さんは帰ってきていないらしい。いつものごとく、きっと仕事が忙しかったのだろう。
父さんは……たぶん、帰ってきていたと思う。が、何も言わずに家を出てくれている。理解のある家族を持って良かったな、と思う。いや、本当に。
◇◇◇
恋歌の手料理を食べて、ふたりで隣に並んで食器洗いをして。
行ってきます――そう言って、通学路を歩きはじめる。
途中、恋歌の家に寄った。……昨日の夜、いきなり「帰りたくない」と言い出した恋歌は、浴衣姿のまま俺の家へと直行したのだ。なので一度、制服に着替える必要があったのだ。
ちなみにさっきまで、恋歌には俺のシャツとズボンを貸していた。ぶかぶかのその服装が、信じられないくらいに可愛かった。浴衣姿も抜群に美しかったし(うっかり汚してしまったが)、恋歌はきっと何を着ても可愛いのだと思う。
「――お待たせっ、秋人」
と、制服姿の恋歌が、玄関から歩いてくる。
可愛らしいデザインのリボンがついた、半袖の夏服。短いスカートからは、健康的なふとももが覗いている。……やばいな、どうしても昨晩のことを思い出してしまいそうになる。
「秋人っ。行こ?」
「お、おう……」
当たり前みたいに俺の真横にぴったりとくっつき、にこりと笑う恋歌。
そんな彼女の笑顔に見惚れている、と――そのときだった。
俺たちの隣を、誰かが、駆け足で通り過ぎていった。
見覚えのある黒髪に、見覚えしかないメガネ。
「……勇利?」
「ん――あぁ、秋人と恋歌か。おはよう、いい朝だな」
勇利は足踏みしながら立ち止まり、俺たちのほうに振り向いた。見慣れた制服姿だったが、その首にはタオルをかけていた。
彼はいつものように、メガネをくいっと持ち上げながら、
「すまん、ランニングに集中していた気がつかなかった。親友の姿を見落としてしまうとは、俺の親友力もまだまだだな」
「いや、それはべつにいいけど……そもそも、何してるんだよ。勇利の家、こっち方面じゃないだろ?」
「恥ずかしい話なのだが、夏休み中にスイカを一日三玉のペースで食べてしまってな。おそらく太ってしまっただろうから、通学路を走り回って減量しようと思ってな」
一日三玉か。まあ言うまでもなく、勇利の家は金持ちだもんな……いや、ツッコミポイントはそこじゃないか。よくそんなに食べれるな……いや、これも違うか? よく飽きないな、と言うべきか?
まあ、ともかく――こうして勇利の言動に戸惑うのも、なんだか久しぶりだなと思った。あの旅行が、ずっと昔のような感じがした。
「それで、お前たちは――あぁ、そうか。そうなったわけだな」
勇利は、俺と恋歌を交互に見比べてから。
ふっ、と。穏やかに表情を緩めて、
「――――秋人、恋歌。ふたりとも、よく頑張ったな」
おいおい……なんだ、なんだよその優しい笑顔は。
ふだんはクールというか無表情系のイケメンだった勇利の、幼なじみである俺ですらほとんど見たことのない、やわらかい表情。なんか、ちょっとだけドキドキしちゃったんだが。
◇◇◇
勇利と別れてから、恋歌とふたりで、学校へと向かった。
とても幸せな時間だった。彼女と交わす、たわいもない話のひとつひとつが、すごく楽しかった。
笑ったり、怒ったり、恥ずかしがったり。
そんな恋歌の表情を、すぐ隣で見つめることができる。――幸せだな、と繰り返し思う。
学校に着き、階段を上がって2-Bの教室の前まで向かう。
その扉を開けることを、少しだけ躊躇ってしまう。……気恥ずかしさや、罵声を浴びるかもという恐ろしさ、鈴北さんへの申し訳なさ。いろんな感情で、心の中がぐちゃぐちゃになる。
「秋人? 入らないの?」
だけど一方の恋歌は、ちょっとも気にしていない様子で。
ただ、ひらすら純粋な瞳で、俺のことを見上げてくる。
「あ……入る、入るよ。ただ、ひとまず深呼吸をだな――」
「もーっ、秋人のいくじなしっ。ほら、行くよ?」
そう言うと、恋歌は――その左手で、俺の右手をぎゅっと掴んできた。
彼女の細長くて白い指が、俺の指と絡み合う。
そして、恋歌はそのまま――堂々と、教室へと踏み入った。俺のことを連行するみたいに。
「お、おい! 恋歌――」
そんな俺の叫び声に似た何かは、すぐに天井へと響き渡ってしまった。
夏休み明けの、朝の教室。いつもと同じはずなのに、いつもと何かが違うような空気感。
新しい日常を感じさせる、独特の景色の中で。
恋人繋ぎをする俺と恋歌のもとへと――たたたっ、という足音。そして、
「――――恋歌っ!」
快活で、はつらつとした声だった。いつも俺たちを明るく盛り上げてくれる、負けず嫌いな少女の声
その勢いで、彼女――七海瀬名は。
むぎゅう!! ……と、恋歌に抱きついた。
「恋歌っ! ふふっ、恋歌っ、恋歌っ!」
「わっ……もーっ、瀬名ってばぁ。ほら、みんな見てるよ?」
「だって! 恋歌が、恋歌がっ――あー、もうっ! 恋歌、大好きっ!!」
すりすりと恋歌の顔に頬ずりをする瀬名。呆れつつも、右手でよしよしと瀬名の髪を撫でる恋歌。
そんな微笑ましいふたりの様子を、すぐそばで眺めていると。
もうひとり、チャラそうな金髪の少年――悠塚英樹が、俺のほうへと歩いてきて、
「よっ。おはよ、親友」
「おう。おはよう、英樹」
「んだよ、釣れねぇなぁ。それとも、オレも言わなきゃダメか? 秋人、大好きだぜって」
「英樹。お前、やっぱり俺のことが好きなのか?」
「違ぇって! いや、違くねぇけど! 違くねぇけど違ぇからっ!!」
ぜえぜえと息を荒くして、全力で騒ぎ散らかす英樹。
やがて、彼は……ふうと肩を落ち着かせてから、その手を顔の横へと挙げた。
おそらくはハイタッチのポーズだろう。クラスメイトたちの視線がある中だ、いくらなんでも青臭すぎるだろと思いつつ――俺は自然と、英樹へと笑顔を向けていた。
「――――ありがとな、親友」
「へへっ、おうよっ!」
ぱちん。気恥ずかしい音が、教室に響く。
同時、瀬名も満足したらしく、最後にぎゅうぅ……と強く恋歌を抱きしめてから、ようやく俺たちのもとから離れていった。
その去り際。瀬名は幸せそうな笑顔を作ると、俺のほうを一瞬だけ見つめて、
「あ――そうそうっ! 秋人くんのことも、あたしは大好きだからねっ?」
……なんだそりゃ、と思う。
取ってつけたような、大好きという言葉である。
でも、どうしてだろう――なんだか、とても嬉しかった。瀬名のその声が、俺の心臓へと染み渡っていく。彼女の想いのあったかさを、全身で感じる。
そして――彼女とも、目があった。
俺と恋歌は、いまだに恋人繋ぎをしたままだ。だからきっと、勘の鋭い彼女にも、すべて見抜かれてしまうだろう。
ぶぶぶ……と、スマホが鳴る。
空いたほうの手を使って、スマホを開く。「秋人、どうしたの?」と、恋歌にきょとんとされる。
『(美雪)綾田っち!』
『(美雪)お疲れさま! 幸せになれよ~っ!』
エンフィルの、鈴北さんの推しキャラの渋いスタンプとともに。
ふと、スマホから俺は視線を動かす――教室の隅の壁にもたれかかる鈴北さんは、その口もとをスマホで隠しながら、にっこりと眩しい笑顔を浮かべた。
太陽のような、元気いっぱいの笑み。
ありがとう――そう、声にする。鈴北さんの笑顔が、さらに眩しくなった。
◇◇◇
――幸せだなって、改めて思う。
すべての始まりは、いつだったのか。今となっては、俺にはわからない。
けれど――、
「秋人。席、座ろ?」
俺の隣には、恋歌がいた。
近くて遠い恋歌の背中を、俺はずっと見失ってしまっていた。もしかしたら……恋歌も、そうだったんじゃないかって思う。
だけど――本当は、距離なんて最初から関係なかったんだ。
大切なのは、一歩を踏み出す勇気だけだったんだ。
あの日。俺は、恋歌の俺への陰口を聞いてしまった。そんな恋歌の“本音”を確かめようとせず、俺は臆病にも逃げ出してしまった。……あのときに勇気を振り絞っていれば、俺たちの仲は拗れずに済んだのかもしれないのに。
そのせいで俺は、恋歌のことを酷く傷つけた。俺だって、それなりに傷ついた。もしかしたらまた、同じようにお互いの心を傷つけ合ってしまう日が来るかもしれない。
でも。今の俺には、恋歌がいるから。
きっと、そのときこそは――ふたりで一緒に、立ち向かえたらいいなと思う。
俺は。綾田秋人は、正真正銘のダメ人間だ。
面倒くさがりで、だらしなくて、不真面目で、勉強も運動もいまいちで。
恋歌の幼なじみということ以外に誇れることがない――あのときまでは、そう思っていた。
けれど、今は違う。はっきりと、そう言い切れる。
だって――俺にとって、恋歌の幼なじみだという事実こそが、何よりの誇りなのだ。
「あのさ、恋歌」
「うん? どうしたの、秋人?」
今は、ただ――とにかく、笑っていたいと思った。
恋歌と一緒なら、きっと、いつまでだって笑い合える。どんなことがあったって、恋歌となら怖くない。小さな勇気を、大きな何かに繋げることができると思う。だから、
「―――――俺たちさ。絶対、幸せになろうな?」
ぎゅっ、と。
恋歌の、あったかい左手を握りしめる。
その手首には――ボロボロになってしまったはずのミサンガが、とても綺麗に結ばれていた。




