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第2話『おっさん、脅威と対峙する』

「ブフォッ!?」


 敏樹は腹に一撃を食らいながらも、振り上げた片手斧槍(ハンドハルバード)を一気に振り下ろした。

 黒いオークは驚いたような声を上げながら素早く後ろに跳んで身をかわす。


「ぎゃあっ!!」


 槍を構えたままの黒いオークが後ろに跳んだため、当然槍が引き抜かれるかたちとなり、敏樹は激痛に喘いだ。

 対する黒いオークも随分と戸惑っているようだった。

 どうやら敏樹の存在をはっきりと認識していたわけではなく、背後になにやら違和感を覚えたのでとりあえず振り返って槍を突き出してみた、というところか。

 しかしその牽制にもならないような無造作な突きは、いともたやすく革の胸甲を貫き、敏樹の腹に深々と刺さったのだ。


「ごほっ……。ごぉえぇっ!!」


 敏樹は盛大に吐血しつつ、油断なく黒いオークを見ていた。

 即死でない以上、時間が経てば助かるはずだが、その時間をこのオークがくれるとは思えない。

 ならば回復術でなんとかすべきだが、落ち着きを取り戻し、しっかりと槍を構えたこの黒いオークはそれすらも許してくれないだろう。


(一手……、それが限界か)


 黒いオークとの距離は2メートルほど。

 一瞬で詰められる距離である。

 敏樹が何かアクションを起こせば敵は一気に踏み込んでくるはずだ。

 そうなったとき、おそらく敏樹はその一撃をかわせない。

 運が良くて致命傷、順当にいけば即死だろう。


(転移で逃げるか? でも……)


 転移を使えば逃げることはできるだろう。

 しかし敏樹がいなくなったあと、この黒いオークはおとなしくしているだろうか?

 もし怒り狂って敏樹を探し、その痕跡をたどるとしたら、真っ先にヘイダの町が狙われる危険性は高い。

 なので、いま〈拠点転移〉を使うのは好ましくない。

 しかし妙手が打てそうにない場合は一度ヘイダの町に転移し、ギルドに駆け込むしかあるまい。


(スキルは……、んー、わからんっ!!)


 この場を切り抜けるのに必要なスキルが思い浮かばない。

 新たに覚えるにしても、今の状況でタブレットPCを操作するなど不可能であろう。


(魔術……)


 魔術とはそもそも脆弱な人が魔物に対抗するために開発された、英知の結晶である。

 この場を切り抜ける方法があるとすれば、魔術以外にあるまい。

 〈全魔術〉スキルによって覚えた膨大な数の魔術から、現状を打破し得るものを探す。

 しかし敵はいつまでも待ってくれるわけではない。


 黒いオークの重心が少しだけ後ろにかかる。

 トンガ戟を使いこなすために覚えた〈槍術〉スキルのおかげか、それが攻撃の予備動作であることがわかった。

 構えた槍の角度から次の瞬間には心臓をひと突きされているだろう。

 おそらく〈無病息災〉をもってしても逃れることのできない死が訪れる。

 こんなことをのんきに考える暇があればさっさとよければいいものを、と思われるかも知れないがそうもいかない。

 敏樹はいま〈思考加速〉の効果によって考えあぐねるのに必要な時間を引き延ばしているに過ぎないのだ。

 そして引き延ばされた時間の中で加速されるのは思考のみであり、身体は自由に動かせない。

 別段身体の動きに制限がかかっているのではなく、いつもと同じ時間の流れに身を置いているというだけの話である。

 1秒を100秒と感じられたとしても、1秒の間にできる以上の行動は起こせない。


 〈魔術詠唱破棄〉を習得している敏樹は、その気になれば即座に魔術を発動できる。

 しかし今の状況では1度の魔術で何らかの成果を得られなければ、間違いなく死ぬ。


(そのために必要な魔術はなんだ……?)


 単体攻撃魔術なら当たれば多少の足止めはできるだろうが、効果範囲が狭すぎで軽くかわされる恐れがある。

 範囲攻撃魔術ならかわし切れまいが、面積当たりの攻撃力が小さすぎて足止めにならない恐れがある。

 相手の動きを阻害する魔術は? 

 ……抵抗(レジスト)される未来しか見えない。

 

 黒いオークが踏み込んでくる。

 さらに思考が加速される。

 それは〈思考加速〉本来の効果を大きく上回るものであった。


(走馬灯……)


 人は死に瀕したとき、走馬灯のように記憶が浮かび上がってくると言われており、それは死を逃れようとする人の本能がそうさせるのだという説がある。

 目の前に訪れようとしている死から逃れるため、過去に得た知識や経験から現状を打破するための何かを探すため、脳が猛スピードで記憶を検索するのだと。


「【神聖不可侵】!」


 〈思考加速〉によって引き延ばされ、生存本能によってさらに加速された思考時間のなか、記憶の海から引き上げた敏樹の答えがそれだった。


**********


 その黒いオークは自分が何者であるかを知らない。

 いつからここにいるのかも知らない。

 気がつけば森の中で槍を手に立っていた。

 どういう経緯でここに来たのか、そもそもいま生まれたばかりなのか、それすらもわからず、ただ立ち尽くしていた。

 どれくらいのあいだ佇んでいたのかもわからない。

 ほんの数分なのか、数時間なのか、数日なのか、数年なのか……。


 自分が何者であるかはわからないが、自分が強いということはわかっていた。

 そして戦いを好む存在であることも自覚していた。


 そろそろ動こうかと思ったとき、ふと背後に何かを感じた。

 気のせいかも知れないので、おもむろに振り返り、なんとなく手にした槍を突き出した。


 ――手応えがあった。


 驚いた黒いオークは敵意を感じ、慌てて後ろに跳んだ。

 そして注意深く目をこらすと、そこには人間がいた。

 そう、目の前にいるこれが人間であるということは、なぜか理解できた。

 そして人間となら戦えることも。


 ――まず手始めにコイツと戦おう。


 黒いオークは槍を構え、間髪容れずに踏み込んだ。

 敵の心臓を貫く必殺の一撃。

 しかし手応えはなく、人間の姿は消えていた。あたりを警戒しつつ、目をこらし、次に耳を澄ませる。

 なにか小さな音が聞こえるような気がした。

 しかし音のほうを確認する前に、鼻をスンとならした瞬間、強烈な悪臭による刺激を鼻腔に受けた黒いオークは、鼻を押さえて悶絶するのだった。


**********


 ――まるで走馬灯のように記憶が浮かび上がる。

 

 その日、敏樹はロロアのテントでプリントアウトした紙資料とにらめっこをしていた。

 正確にいつ頃のことかは覚えていないが、まだ集落の世話になっているころであることに違いはない。

 彼は自身の所有するスキルを整理するため、異世界に持ち込んだノートPCにデータを打ち込み、実家に帰ったときにプリントアウトしていたのだった。


「あー、ダブレットとノーパソ同期できたらいいのに」


 などと文句をたれながら、カタカタとキーボードを叩いたことを、さらに思い出す。

 そうやってできあがった紙資料の中でも、〈全魔術〉によって習得した魔術の把握に相当手間取っていた。

 その他のスキルはその効果を知ったうえで習得しているからいいのだが、〈全魔術〉に関しては、いったいどんな魔術があるのかという確認から始めなければならなかった。


「この【神聖不可侵】というのは? なんだかとても強力な防御魔術のような気がしますけど」


 この日の議題は“もしものときにロロアを守れるスキルまたは魔術”というもので、2部印刷した魔術一覧のひとつをロロアに渡していた。

 ということは、少なくともロロアが日本語を覚えたあとの時期であるようだ。


「あー、それなぁ。正直使い物にならんのと違うかなと思うんだよな」

「どういう効果なんです?」

「何者にも触れられない状態にすることで、効果が続く限り確実に対象を守るってやつなんだけど」

「触れられないということは、ものすごく硬い壁で囲ってしまうとかですか?」

「いや。えーと……」


 敏樹は『情報閲覧』を起動し、さらに詳細な効果を確認する。


「対象の存在する次元をわずかにずらすことで干渉できなくする、か」

「……どういう意味です?」

「なんとなくわからんでもないが、説明できるほど理解はできないな。実際やってみるか」


 なにやら大仰な効果の割には消費魔力の少ないその魔術を、敏樹は中身を飲み干したばかりのコーヒーカップにかけてみた。


「これでいいはず……おお!?」


 【神聖不可侵】を受けたコーヒーカップは、一見して存在感が薄れたように感じられる。

 うまく言えないが、どこかブレたようは状態とでも言えばいいのだろうか。

 そして敏樹がそのカップに触れようとしたが、説明通り触れることができなかった。


「わぁ、なんでしょうこれ?」


 ロロアも面白がって触ろうとしたが、やはり触れないようである。

 それは“すり抜ける”とか“重なる”とかそういう状態ではなく、ただ“触れない”としか表現しようのない現象であった。


「問題は、自分にかけたら動けない、ロロアにかけても運べないってところだなぁ」

「例えばこれをかけた状態で相手を観察するというのはどうです? 考える時間だけは稼げそうなので、なにか名案が浮かぶまで考え続けるんです」

「あー、駄目だな。ずらされた先の次元は時間の流れが異なるとかなんとかで、【神聖不可侵】をかけられた者は、かけられて何日経ったとしても対象者にとって一瞬にも満たない感覚になるんだと。それこそかけられたことにも気付かず効果が切れ、周りの時間だけが流れてる、みたいな?」


 実際にこの魔術が人に対して使用された例は、史上1件のみだった。

 大昔、孤高の魔術士がこの魔術を完成させたのだが、研究に人生を捧げた彼はその時点で余命幾ばくもない状態だった。

 そこで彼は自分に【神聖不可侵】をかけ、誰かがいつか気付いてくれるのを待った。

 微動だにせず、触れることのできない存在は、必ず大きな話題となり、人が集まるだろう。

 魔術効果が切れたとき、その場にいる人たちにこの魔術を伝えることができればそれで本望と、彼は残りの全魔力を注ぎ込んで【神聖不可侵】を発動した。

 そして目覚めた彼は水の底にいた。

 長いあいだ彼が次元の狭間にいるときに、地震や異常気象によって地形が変動し、彼の住む町は湖の底に沈んでしまっていたのだ。

 彼は目覚めた瞬間わけも分からず溺れ死に、【神聖不可侵】は誰にも伝わることなく失われるのだった。


「……使えませんね」

「だな」


 死を目の前にして敏樹が選んだ【神聖不可侵】とは、そんな魔術だった。




「効果は2日ぐらいか……」


 槍を突き出したままピタリと止まった黒いオークを目の前にしながら、敏樹はつぶやいた。

 彼は【神聖不可侵】を黒いオークにかけ、時間を稼ぐことにしたのだった。


「とりあえず日本で何か役に立ちそうな物を探しつつ作戦を立て直そう」


 敏樹はメモ帳とペンを取り出した。


 ――実家に帰らせていただきます


 一言そう書いたメモ帳を、〈格納庫〉の共有スペースに収納する。

 本当はもう少し詳しい事情を書いたほうがいいのだろうが、なにせいまは時間がない。

 無駄にした数分が明暗を分けることもあるので、打開策が見つかるまでは可能な限り時間を有効に使うべきだろう。


 そう考えた敏樹は回復術を使って傷を塞ぎ、服を日本の物と着替えてこちらの装備は〈格納庫〉へ収めた。


「んぎぎ……いてぇ…………お、気付いてくれたな」


 メモ帳がロロアによって取り出されたことを確認した敏樹は、微動だにしない黒いオークのほうへと向き直り、軽く片手を上げた。


「じゃ、実家に帰らせていただきます」


 そう宣言したあと、敏樹は〈拠点転移〉を発動した。


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