第52話 西の壁構想
第52話『西の壁構想』
1942年3月18日
ドイツ/ベルリン
3月下旬のヴィルヘルム街では、夕闇が暗い波のように東の空から押し寄せ、そこかしこに淡い明りが付いている。未だ寒気はベルリンを支配しており、日中も十分に寒かったというのに、夜気は容赦無い。ヴィルヘルム通りを緑取る並木は既に濃厚な闇に包まれていた。外務省、法務省、財務省、宣伝省、空軍省といった中央省庁も同様だった。
そんなヴィルヘルム街と直角に面するフォス街も例外ではなかった。黎明の国の総統が住まう『総統官邸』は暗灰色に、そして黒く染まると、完全に闇に没した。一陣の風が外務省に隣接した庭園を駆け抜けて、いたずらに木々を揺らしたかと思うと、航空省の前で呻いて消え去った。それはまるで、今日総統官邸に召集されたヨアヒム・フォン・リッベントロップ外務大臣と、ヘルマン・ゲーリング航空大臣を嘲笑っているかのようで滑稽なものだった。ゲーリングはずんぐりとした黒い車体の公用車から降りてきて、その図体の大きい体を揺らしながら、総統官邸に颯爽と入居した。
「これはこれは……アンソニー・イーデン英首相閣下ではありませんか」
勿体振った口調と手振りを示しながら、ゲーリングはイーデン新英国首相に握手を求めた。「ヘルマン・ゲーリング元帥。お久し振りです」そう言い、イーデンは握手を返した。「前に会ったのは確かミュンヘン……でしたね」
ゲーリングは頷いた。「えぇ。今回は“例”の計画のためで?」
「そう。実現すれば、EUの存在意義の1つが成り立つ大事業のためです」イーデンは言った。「共産主義者に一糸報い、チェンバレン郷とチャーチル郷の手向けとなりましょう……」
そう告げるイーデンの顔色は思わしくなかった。チェンバレンはともかく、面識もあり、自分を活躍の場に出させてくれたチャーチルの死は、未だイーデンに暗い影を落としていた。しかし彼は西ヨーロッパの代表として、弱音も哀しみも表に出すことは出来なかったのである。
「『西の壁』構想の原点は、EUの結成に遡ります」
そう声高らかに告げるのは『プロパガンダの天才』と称される男、パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス宣伝大臣だった。史実、ヒトラーとともにヴィルヘルム街を手に入れ、ベルリンオリンピックの演出を担った華々しい人物だが、第二次世界大戦に入るとそうもいかなくなった。国内外の宣伝の場を奪われ、活躍出来るのが映画とラジオ等に限定化された悲しい人物である。
「我がEUはアメリカ、そしてソ連との対立姿勢を憲章に記名しました。しかし未だ軍備は整っておらず、各軍団も統制が取れず。残念ですが、現状は完全な準備不足とも言えるのです」
一同は渋々ながらも頷き、渋面をゲッベルスに見せた。
「しかし!」ゲッベルスは抑揚を付けて声を発した。「しかしその点は優れた政治家達の指導力と優秀な軍人達の忠誠心により早急に解決しましょう。ここで論議すべき問題はむしろそこではなく、『恒久的』なヨーロッパ防衛に一定の目途を付けることなのです!」
「ありがとう、ゲッベルス博士」そう言ったのは、フリッツ・トート軍需大臣だった。「ここからは私が代わります」
拍手が会議室内に響き渡る中、ゲッベルスは手を振り、いそいそと自分の席に戻った。右隣はトート、左隣は犬猿の仲のリッベントロップの席だった。
「えー、ゲッベルス博士が仰った通り、EUには『恒久的』な防衛構想が欠如しています」トートは単調に、ゲッベルスのように群衆を扇動させるような巧みな話術は用いずに話した。「それは、アメリカ大陸とイギリス本土を隔てる西大西洋域と、東の、全長1000km以上に及ぶソ連との国境線を期間限定ではなく、恒久的に防衛することです」更にトートは続けた。「勿論、現在のEU各国の金融情勢はお世辞にも良いものとはいえません。締結後の軍備拡張と再編成に沸く特需もありますが、それらも一部の軍事企業と金融企業が利益を独占しています。この状況では、2方面を十分に守る戦車や航空機、軍艦は到底、造りようがないでしょう」
トートは一間置き、再び口を開いた。「ではどうするか。それは『要塞』を築くことです」
「要塞……といったな」イーデンは言った。「具体的には?」
「イタリアはトリエステから、ポーランドのビャウィストクまで」トートは言った。「イタリア、ユーゴスラビア王国、オーストリア、チェコスロバキア、そしてポーランドの5つの加盟国を貫く長大な要塞防衛線です。それをソ連の大陸侵攻に対する防衛拠点とし、恒久的に存続させます。アメリカへの脅威には、イギリスの海岸線を用いた、西大西洋に面する防衛線を築き上げて、対応します」
その場に居る一同はざわめいた。イギリス案は別として、イタリアからポーランドのヨーロッパ大陸を貫くような要塞防衛線案は、過去に前例が無い。
「試算される総線長は?」ドイツ陸軍総司令官、ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ上級大将は訊いた。
「あくまでも試算ですが、1100km近くになると推測されます」トートは言った。「その要塞防衛線の名称は――『西の壁』。完成すればマジノ線をゆうに超え、ヨーロッパに残る偉業として、後世に讃えられていくことでしょう」
「その総工費はどうなるんだ?」アルベール・ルブラン仏大統領は冷やかに言った。「我が国も、イギリスも、そしてお宅の国も財政は良くはないだろ。アメリカの悪夢、世界恐慌は終わった訳じゃない。そんな1000kmも超える防衛線を構築するよりも、経済面での復興を進める必要があるとは思わんかね?」
「ソビエトの赤軍が雪崩れ込んでくれば、財政も何もあったものではないと思いますが」トートは渋面を浮かべて言った。「我々は既に喧嘩を売ってしまったのです。しかし、我々は“攻守”で言えば守りに徹しなくてはならない。要塞は最大の防衛拠点であり、この『西の壁』の構築は目下の最重要課題といえましょう」
その時突然、トートの話にゲッベルスが割って入ってきた。「大統領閣下は1000km超という要塞防衛線の“長さ”を強調しておられますが、では東洋の『万里の長城』はどうでしょうか」ゲッベルスは言った。「数千年前、我がヨーロッパにも猛威を振るったことのある東洋の、その一国にあたる中国は、6000kmを超える『万里の長城』を造りましたね。我々がやろうとしていることはそれの6分の1に過ぎないことですが、その万里の長城に機関銃や榴弾砲、火炎放射器、そして対空砲がありましたでしょうか?」ゲッベルスは首を振った。「答えは明白でしょう。我々は中国人が築いた万里の長城のような、長いだけで他に価値も無い無用の長物を造るのではなく、有用且つ洗練された障壁を築くのです。それこそが、ソ連軍を妨げる唯一の希望であり、無用な戦争を起こさせない『抑止力』と成り得る存在なのです」
ゲッベルスの演説は一同を驚かせた。まるで見込みのない投資対象は一躍注目を浴び――色んな意味で――その場に居た多くの人間に対し、その必要性が当然であるように思わせたのである。
これこそ、『プロパガンダの天才』、ヨーゼフ・ゲッベルスの本領だった。
トートとゲッベルスという、一見して似合わない組み合わせが成り立った所以は、リッベントロップの台頭にあった。外相であるリッベントロップは、近年日本と親密な関係にあるヒトラー総統がその日本との連絡網として多用され、総統からの信頼の厚い存在だった。一方でゲッベルスはリッベントロップとは対立関係にあった。ゲッベルスは戦争が始まれば自身の権限が消え失せることを薄々気付いており、リッベントロップに不安を抱いていた。
そんなゲッベルスが考えたのは、ナチ党内の有望株であるフリッツ・トートとの結託であった。トートは優秀な土木技術者で、高速道路『アウトバーン』やUボート・ブンカー、ジークフリート線の建設等、様々な成果を挙げてヒトラーにも気に入られていた。
しかしトートは政治的権力を持たなかった。彼は自分の事業の遂行にはナチ党内の後ろ盾が必要なことを薄々考えていた。そこでゲッベルスは政治的パフォーマンスやその権力をもって補佐する代わりとして、自身と結託することを持ち掛けた。そして現在に至る。
「トート軍需大臣」ゲーリングは神妙な表情でトートを見据えた。「この要塞防衛線に関して、我が空軍が如何に関わってくるかを教えてくれないか?」
「は、はぁ……」トートは面食らった表情を浮かべた。「私としても知らぬ所は多いですが、この防衛線の周辺には飛行場を設置し、更に防衛線上には空軍管轄の高射砲部隊を配備する予定です」
「ふむ」ゲーリングは言った。「いや、私は一つ妙な話を聞きましてな。何でも、陸軍内で新型の防空ロケット兵器が順次開発中……と」ゲーリングはブラウヒッチュの顔を見据えた。「どうなのですか、ブラウヒッチュ総司令官閣下。我々空軍は必要なくなるので?」
「それは我輩が説明しよう」ヒトラーの発言に、その場は沈黙した。「空軍は陸軍と協同し、同防衛線を万全のものとするのが、完成後の義務である。よって、君ら空軍は必要なのだよ」ヒトラーは言った。
とはいうものの、ヒトラーは裏ではゲーリングに疑心を抱いていた。理由は言わずもがな、未来より逆行してきた『伊藤整一』との会談である。万が一、ゲーリングがクーデターを起こし、政権を転覆させまいか。そんな憶測がヒトラーの脳内を飛び交い、陸軍に空軍の戦力を持たせるような計画を密かに実行していた。地対空誘導ロケット『ヴァッサーファル』や歩兵携行式地対空ロケット砲『フリーガーファウスト』の開発である。
地対空誘導ロケットの『ヴァッサーファル』は、V2ロケットから発展した型である。V2ロケットよりも小型で製造費も安く、運用もし易かったヴァッサーファルは次世代の防空兵器として、アルベルト・シュペーアにも一目置かれる有望株だった。史実では1941年から開発が始まり、1943年には試作第1号が完成した。しかし大半の資源はV2に回されていて、量産とはならなかった。今物語では今年の8月に試作第1号の完成が見込まれており、その設計図やサンプルは日本にも送られていた。
一方の『フリーガーファウスト』は、第二次大戦後期に連合国軍の戦闘爆撃機や戦闘機を歩兵が撃墜すべく、開発された携行式地対空兵器である。その経緯にはドイツ軍の度重なる敗北が関わっていた。
史実の1944年後期、ノルマンディー上陸作戦に勝利した米軍はフランスに橋頭堡を築き、ヨーロッパへと侵攻するという、ドイツへの一大反撃を企てていた。フランスを獲得した米軍は大量の兵員と戦車、物資、そして航空機を送り込む。特に航空機はヨーロッパ戦線の勝利に多大な影響を与える戦力であり、これまではドーバー海峡の制限によって十分な成果を挙げられなかったが、今回の勝利によって米軍はヨーロッパ全土の制空権を獲得するに至る。ドーバー海峡と補給の問題を解決した新型戦闘機のP-51D『ムスタング』や戦闘爆撃機のP-47『サンダーボルト』は、ドイツ陸軍の陸上戦力を削ぎ、同時に迎撃するドイツ空軍を破滅に追い込んだ。空軍の主力戦闘機Bf109は意味を成さず、1941年以来の主力機であるFw190は米英の新型機に苦戦を強いられることとなった。この結果、前線のドイツ軍将兵の間では、ドイツ空軍がもはや当てに出来ないと考えるようになる。
こうした現場の声を聞き、誕生したのがフリーガーファウストである。『空飛ぶ拳骨』または『飛行機叩き』の意をもつこの地対空兵器は、1つの発射管を中央に配し、残り8つの発射管を囲むという、計9門のロケット発射管を重ねた外観が特徴で、発射は2斉射式を採用した。有効射程は500m、最大射程は2000m。量産に不向きとして高価な光学照準器は取り付けられず、照準器は簡易なものだったが、目標に対し弾幕が広がって展開する為、命中率は高かった。というよりも、同兵器は命中率よりも威圧性の方が非常に高かったといえる。9つのロケット弾が弾幕を形成して迫ってくるとならば、たとえ当たらずとも連合国軍のパイロットは怖気付いてその場から逃げ出したことだろう。ドイツ陸軍はその間に別のフリーガーファウストや対空砲を引っ張り出して迎撃の準備をするなり、防空壕に逃げるなり、後退するなりの行動に移れる。しかし積極的な反撃は出来ない。少なくとも、フリーガーファストは攻守でいえば『守り』の兵器だったといえる。その点でいえば、『守り』の要塞防衛線――『西の壁』とフリーガーファウストの相性は抜群といえた。
しかし、ヒトラーも予想はしていなかっただろうが、今物語の現状ではドイツ空軍を破滅させかねない兵器でもあった。万が一にもフリーガーファウストがソ連、ないしアメリカの手に渡れば、その圧倒的な工業力と潤沢な人的資源にものをいわせ、コピー品を製造するかもしれないからだ。ソ連は決して豊かとはいえない国だが、軍需産業に関しては他の国を凌駕する。プレス鋼板を使用し、小さな町工場でも製造出来たフリーガーファウストが一度ソ連の手に落ちれば、技術者達は粛清を逃れるべく驚異的なスピードでその構造を解明し、数週間後にはソ連全土から工員が召集され、1年も経てばシベリア鉄道を走る列車の中に、これでもかという位に積まれ、ヨーロッパ戦線に送られることだろう。史実における、T-34中戦車や地球上に1億丁以上存在する飽和したアサルトライフル『AK-47』の生産実績は周知の事実である。
また、アメリカに鹵獲されても同じことである。米本土で町工場という町工場がこれの生産に本腰を入れ、本土防衛やヨーロッパ侵攻により、EU空軍はどのみち壊滅するだろう。特に、ジェット戦闘機や4発爆撃機にも急降下爆撃能力を求めるような総統と空軍最高司令官に忠誠を誓うドイツ空軍はなおさらである。ヒトラーは知らず知らずの内に自分の首を絞めているのだが、当人は全く気付いていなかった。
しかしロケット兵器が西の壁に配備されるかは定かではない。ヴァッサーファルとフリーガーファウストの内、ヴァッサーファルは試験段階で、フリーガーファウストは未だ机上の案だったからだ。いざソ連侵攻となればヒトラーはV2ロケットの製造を重視させるかもしれないし、陸軍が優勢であればフリーガーファウストを求める声は出ないかもしれない。また、ヒトラーが何らかの方法でゲーリングを始末し、空軍への危機感を捨てて双方の開発も頓挫するかもしれない。ロケット対空兵器は未だ未知の領域にあり、その実現は定かではないのだ。
だが、西の壁の実現は間近であった。ヒトラーは既にイタリアとオーストリアの両国で防衛線の構築を進めており、EU各国の合意を得られなくとも事業は進める気でいた。それはソ連への危機感の表れであり、ナチ党内の内部抗争の結果ともいえた。
「結構です。総統閣下」
ゲーリングは不満げに言った。
「では」ヒトラーは立ち上がった。「ここで採決を取りましょう。この『西の壁』計画に賛成の方は?」
イギリス首相イーデンを筆頭に、ムッソリーニ、オランダ王国首相デ・ヘール、スペイン総統フランコ、ポルトガル共和国首相サラザール、ユーゴスラビア王国摂政カラジョルジェヴィチが次々と挙手した。反対側はフランス大統領のルブランと北欧諸国の数国、そしてギリシャ首相のツデロスだった。建設や維持に関わった財政上の問題や、ソ連を刺激して全面戦争となりたくないのが理由である。
「では、多数決により賛成側が上回りましたので、『西の壁』計画は決定となります」
ヒトラーは嬉々として言った。
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