第48話 新高山登ラズ(後)
第48話『新高山登ラズ(後)』
1941年12月1日
アメリカ合衆国/ワシントンD.C.
首都ワシントンDC、ナショナルモール北側に位置する政治の中枢地――ホワイトハウス。その午後、大統領のプライベート・ルームに通された特別外交顧問ハリー・L・ホプキンスは、啜り泣きとも笑いともつかない呼気を漏らす第32代合衆国大統領フランクリン・D・ルーズベルトの姿を見た。ダイニングチェアに深く座り込むその老人は、それまでに強気の姿しか見せていなかった為、ホプキンスは驚いたのだった。
「覚えているか?」
そうルーズベルトは訊いた。彼がホプキンスに問うのは1年前の“あの”対談、ニューヨークの敏腕弁護士ウィリアム・J・ドノヴァンとの密談であった。
「ウィルは……死んだ」
何年もの間ホプキンスの心の中では、ルーズベルトは世界でも類を見ない強大な存在だった。それは嫉妬心でもあり尊敬心でもあって、常にホプキンスの前に立ちはだかっていた。しかし今や、過去の彼は綺麗さっぱり消え去ってしまったように見える。消沈した彼はまるで子供のように小さく見えた。
「覚えていますとも」ホプキンスはそう言い、ウイスキーに満たされたグラスをルーズベルトに手渡した。「私と彼は貴方に渡されたこれを飲んでいた。そして、了承した。しかしそれは自らの意志であって、貴方が無理強いした訳ではないのです。だから自分を責めるのはよして下さい」
ルーズベルトは手渡されたグラスを持ち、ぐっとウイスキーを喉に注ぎ込む。ウイスキーが喉を焼き、徐々に視界が晴れてきた。テーブルを挟んだ向こう側に、ソファに座ったホプキンスの笑みが映り込む。そして彼の顔には熱意が感じられた。
「申し訳が立たんのだよ」ルーズベルトは言った。「ウィルとはコロンビア大のロースクール以来の間柄だ。それに娘も居る。パトリシアだ。せめてもの救いとしてパトリシアを養子に迎え入れたが、あの子にしてみれば父が死んだ真実を知りたい所だろう。本当に私が彼に命令して、チャーチルを暗殺したのかどうか……」
「その答えは明確ではありませんか!」
「そうだな。しかし、その最期は伝えてやれん」ルーズベルトは言った。「私としては、父親の汚名を何としても返上し、この事態に陥らせた者に生きる事を躊躇わせるほどの苦痛を与えてやりたい」
ホプキンスは頷いた。
「私は今日、それを提案しようと、ここに来たんです。我が合衆国がソ連を支援してやるんですよ」
ルーズベルトは顔を上げ、ホプキンスを見て、一瞬大きく目を見開いた。それからまた俯いて床を見た。「分からんな。それがパトリシアと合衆国を救う手段だと言い張る君が」
「EU誕生以降、ソ連のスターリンはヨーロッパの軍勢がソ連領内に侵攻してこないかと戦々恐々しております。既にフィンランド、ポーランド等、ソ連に面する諸国では小規模なソ連赤軍の越境行為が頻発し、EU軍と赤軍は一触即発の状態。戦争となるのも時間の問題でしょう」ホプキンスは言った。「ある筋からの情報では、ソ連赤軍は100万を超える兵力を集結させ、数千の戦車と戦闘機をもってフィンランドへの侵攻を画策としている……とか。しかし赤軍はスターリンによる粛清と、貧困によって質はEU軍に遠く及びますまい。そこで我々は経済的・技術的支援を行い、赤軍を強固なものとするのです」
またルーズベルトは顔を上げ、ホプキンスと顔を見合わせた。
「それでは本当に私は共産主義者になってしまうではないか。まさにあのヒトラーの思うツボというものだぞ!」ルーズベルトは声を張り上げて言った。「それに……ソ連は本当にフィンランドを侵攻するのかね?その確証が掴めぬのでは、どんな提案も机上のものと捉えねばならん」
「まさに大統領閣下が申される通り、我々の敵はヒトラー、そしてイタリアのファシスト共です」ホプキンスは前に身を乗り出した。「閣下も薄々承知でしょう。1年前のあの事件でもっとも得をする人間が誰か?真の敵はドイツ・イタリア・日本といった国であり、全ての発端は奴らの暴挙と止まらぬ野心にあります。しかし世界はその事実を知る由もなく、逆に認めてしまっている」
「だからといってヨーロッパの国々も巻き込む気か?」
「いえ、事件の主犯であるドイツさえのしてしまえば、全ては好転しましょう」ホプキンスは言った。「ソ連赤軍が真っ先に侵攻するであろう第1の目的地は――ベルリンです。これは我々に分があります。独裁者ヒトラーが処刑され、ナチが崩壊したとしても、ヨーロッパが共産主義に蹂躙される前には我々の嫌疑も解かれるでしょう。陰謀の真相が解き明かされたその時、世界の嫌われ者であった我々は、英雄として迎え入れられ、信用は回復します。例えソ連がドイツを侵略した後、陰謀の真相が明らかになってもなお侵攻を続けたとしても、我々は事態にケジメを付けるという名目をもって、ヨーロッパの戦争に介入すれば良い話です」
「成程、悪くはない筋書きだな」ルーズベルトは言った。「だが、肝心のフィンランド侵攻は本当に起こるのかね。これ以上時間が掛かれば、ドイツに扇動されたEU軍が東西海岸から侵攻してくる方が先になってしまいかねんからな」
ホプキンスは頷いた。「米海軍の報告によれば、クロンシュタットのバルチック艦隊母港には極東方面や黒海から多数の艦艇が集結しているのが確認されていますし、国境線上では断続的なソ連軍による砲撃が続けられています。スターリンは日に日にEUへの批判を強めているのを見る以上、戦争開始は当然の帰結として、来年辺りにも起こり得ると私は確信しております」
しばらく間があり、ルーズベルトは立ち上がって窓辺の方へと進んだ。「私に共産主義者を支援しろというのか。まぁ、国家社会主義者や帝国主義者共よりは幾分か……本当にごく僅かだが、今の所は思慮分別がある。それも良かろう」ルーズベルトが小さな声で絞り出すように言った。
「で、思うのですが。日本との国交は保っておくべきでしょう」
ルーズベルトの瞳の中で一瞬、何かが燃え上がったが、すぐに収まった。「何故だ?」
「残念ながら、現在我が国は貧困に喘いでいます」ホプキンスは言った。「それはEU主要国であるヨーロッパ諸国がその体裁から貿易を停止した状況下にあり、輸出収益は日ごとに減少しているからです。EU加盟国の中でも経済力に富み、且つ現在に至っては最大の顧客である日本との今回のイザコザは、貿易を途絶しかねません。そうなれば、全てが終わる頃には経済はガタガタになり、戦争さえ起こせない状態になっているかもしれません」
ルーズベルトの喉奥から掠れた声が出てきた。「そうか。では、当面は赤子をあやすように対処することにしよう。日本など何時でもどうとでも出来るからな。それはヨーロッパでの問題に一定の決着が着いた時でいい」
ホプキンスは頷いた。「それが宜しいでしょう」
「ありがとう。活路を開いてくれたな」ルーズベルトは笑みを浮かべた。「流石は特別外交顧問、“特別”を付けただけのことはある。では、近い内にスターリンとの密談の機会を作り、史上類を見ない支援工作を行うこととしよう。来たる日には、君は英雄として讃えられるだろうな」
その日の午後、駐米大使の野村吉三郎と特命大使の来栖三郎はDC地区の心臓部、ナショナル・モール地区近域に聳える国務省へと招待されていた。リンカーン・リムジンの後部席から並木通りが見えてくると、いよいよ2人も緊張の色を隠せなくなり、互いに顔を見合わせた。丁重に、且つ緊急に招待される――という前例は存在しないからだ。
「何が起こるんでしょうか?」
野村は呟いた。「こんな事初めてですからな。良い結果だといいが……」
国務省に着くと、2人は職員達の丁重な出迎えを受けて国務長官の執務室へと通された。その扱いがあまりにも大げさ過ぎて、馬鹿にされているのではないかと2人は感じるしかなかった。それか恐らく、何かを企んでいるのか。
「大使、よくいらっしゃいました」
デスクに腰掛けていた男、コーデル・ハル国務長官は堂々とした姿勢を崩さず、革椅子から立ち上がって笑顔で握手を交わした。職員のように媚び諂うものではない。2人はそれまでの緊張感から脱し、気持ちよくハルと握手を交わし、促されて席に着いた。スーツ姿の女性職員が純白のティーカップに入れた紅茶を持ってきた。野村と来栖は琥珀色の温かなその液体を、何回かに分けて飲んだ。
「本日、我々を読んだ理由を教えて頂けませんか?」野村は言った。
ハルは頷いた。「大統領からのメッセージを伝えたく、本日はこうして御足労頂いた訳ですよ。ミスター・ノムラ」
「そのメッセージとは?」
「どこから始めましょうか」ハルは言った。「要点から言えば、今回の経済制裁は中止されました。我が国は貴国との国交を維持し、EUとの蟠りを改善する為の協力を乞いたいのです」
「それは陛下もお喜びになるでしょう。提案に関しては私や来栖特使個人では決め兼ねる問題ですので、帰国次第奏上し、御聖断を問いたく存じます」
「助かります。頼みましたぞ」ハルは言い、3人は再び握手を交わした。
1941年12月2日
千葉県/船橋市
【『大和』発緊急、機密第676号電令第10号、発令日時12月2日1730】
それが届けられたのは帝国海軍の無線電信所船橋送信所であった。史実で『新高山登レ1208』の一文を南雲機動艦隊に送信した施設である。呉に停泊する連合艦隊司令部――旗艦『大和』から発令された電令は呉通信隊経由で、東京通信隊に送られた後、ここにその電令が送られてきた。
「電文送れ!内容は――」通信隊の通信主任は片手を上げて言った。「――だ。繰り返す、――だ」
同時刻、北方の太平洋上を駆る第八艦隊の元に1つの電文が届けられた。第八艦隊旗艦『ペンサコーラ』に乗艦する藤伊一中将――伊藤整一――は通信兵からその報告を受けた。
「緊急電です、閣下!」
「そうか」藤伊は言った。「内容は?」
「『ニイタカヤマノボラズ1202』――繰り返します、『ニイタカヤマノボラズ1202』」
藤伊は顎を擦り、艦橋に集う幕僚達を見張った。「さて、これで本作戦は終了だな」
「撤退しますか?」参謀長原忠一は言った。
「そうだな。本土へ」藤伊は言った。「いや待て、伊-四〇四より報告が入っていた筈だな」
通信兵は頷いた。「はッ、『ワレ、RTニ到達ス。1720』」
「名残惜しいものだな。敵に気付かれず、その喉元に刃の切っ先を当てているというのに」藤伊は呟いた。「原参謀長、君はどうすべきだと思う?」
「閣下同様、私もこの状況は非常に惜しいと思います。しかし、連合艦隊司令部の命令と陛下の御聖断は絶対です。我々は早期に本土へと帰還し、次なる作戦に向けて休養を取るべきかと」
藤伊は頷いた。「では、切り上げるとしよう」
1941年12月2日、ここに『第八艦隊』はその成果を上げ、敵味方気付かれることなく、ハワイまでの航路の半分に到達することが出来た。これは重要な参考となり、後の連合艦隊司令部の作戦立案に大きく貢献した。
本国へと向かう帰路の中、自らが挙げた成果にある程度の自身を持っていた野村・来栖・伊藤――1941年末のキーマン達だったが、その時、その成果が来年には呆気無く崩れ落ちてしまう程の出来事が起きてしまうとなど、思いもしていなかった。そして1942年、彼らは誰よりもその出来事に驚嘆するのだった……。
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