第45話 空飛ぶ喬木機
第45話『空飛ぶ喬木機』
1941年9月28日
東京府/西多摩群
伊藤整一の一行は車がひっきりなしに行き交う帝都を離れ、西部の郊外町、福生町に向かった。去年の『五輪特需』の例に漏れずインフラ整備と雇用拡大、そして産業発展を東京府に属するこの町もまた遂げていた。一方で、急激な機械化と航空戦力の増強を邁進する帝国陸軍のお膝元ということもあり、『軍事特需』の恩恵まで受け取っていた。
その軍事特需は『多摩陸軍飛行場』――に起因する。1940年に開設された多摩飛行場は、陸軍航空の研究・開発・製造の一大拠点である『立川陸軍飛行場』――1930年代までは帝都防衛の中核拠点だった――の付属として誕生した。1940年には立川飛行場に設置されていた陸軍飛行実験部が移転し、陸軍の航空機試験場として利用されることとなる。1942年4月にはその試験中に帝都にて勃発した『ドゥーリットル空襲』時、試作機『キ-61』――後の三式戦闘機『飛燕』――が2機急遽出撃、機体を操っていた梅川准尉の力戦奮闘もあり、B-25『ミッチェル』1機を見事撃墜している。
伊藤はそんな飛行場の大地を踏み締め、航空機の轟音が反響する多摩飛行場の真ん中に鎮座する一機の双発爆撃機を見据えていた。背後から晩刻の薄青い光が差している。従来の中型爆撃機と同じように、鈍重な機首を上方に仰ぎ向け、その力強さを誇示している。だがこの爆撃機は従来のものとは機体に用いている素材や構造も全く異なっている。木製で、搭乗員2名の並列複座式機なのだ。
歩く3人の影は――その中型爆撃機に迫る。
「これがイギリスの木製爆撃機か?」伊藤は訊いた。
「えぇ、そうです」随伴していた原茂也は答えた。彼はかつての世界では戦争中は駐独武官であり、ドイツを散々悩ませたこの爆撃機の機影とその戦果を何度か見た事があった。「1940年に作られた最新鋭の木製戦闘爆撃機です。名は――“モスキート”」
モスキート――言わずもがな英語で『蚊』を意味するこの戦闘爆撃機は、まさに蚊のようにしぶとく、正体を掴み辛いという鬱陶しい存在だった。そこに圧倒的な速力と破壊力を備えたのが――『デ・ハビランド・モスキート』である。
この爆撃機が優秀な性能を誇っているのは、日進月歩する航空機発達時代に逆行した『木製機』であったからである。木製機と言えば、その活躍の場は20~30年ほど前に主力機であった第一次世界大戦の複葉機が印象的であり、30年代のイギリス航空省上層部はこのデ・ハビランド社製の時代遅れで防御火器乏しい木製爆撃機に不快感を示し、これを却下した。史実ではこの後に第二次世界大戦が勃発、自社で独自開発を行うことにしていたデ・ハビランド社は50機のモスキート製造を予定していたが、『ダンケルクの戦い』の後、英空軍の戦闘機不足により、この革新的爆撃機の製造は一時頓挫した。だが、今物語ではEUの結成はあったが戦争は無く、逆にこの戦闘爆撃機のライセンス生産権を早期に帝国陸軍が購入するという新たな歴史に発展している。今、多摩飛行場に置かれたこのモスキートもまた、その過程で輸入されたものだった。
伊藤はため息を吐いた。この戦闘爆撃機『モスキート』の採用は、その裏で進行した大きな企みが成功していなければ成立しなかっただろう。また、気候や運用面での問題と、未だ問題は山積している。多くの陸軍幹部が、木製は言語道断として英国のモスキートよりもドイツのJu88を採用すべきだったと、陸軍航空上層部を批判の目で見ている。もしこれが仕組まれた陰謀の結果であり、未来からもたらされた戦略の下で判断し、決定したという真実を伝えれば弾圧出来るかもしれないが、それも出来ぬ相談である。漠然としたP-51型次世代戦闘機と、具体性と現実性の見えない陸軍航空総監東條英機は今期その批判を強く受けていた。
「英語で『蚊』――だな」伊藤は言った。「配布された性能諸元によれば、何でも600kmを超えるというが、それは本当なのか?」
先に伊藤らを出迎え、モスキート爆撃機の実験担当主任である大久保航技少佐は頷いた。「先日の試験飛行においても、同機は630km前後の速力を記録しています。我々としても、樺の木で作られたこの機体にこれだけの力があるとは思いもよりませんでした」
モスキートは樺の木を両側にバルサ材をサンドしたベニヤ板のモノコック構造で、軽くて丈夫な機体構造を実現していた。そこに2基のロールスロイス・マーリンエンジンを搭載、その大馬力と軽量性を活用した速度こそ、600km超の速力を確立しているのだ。その為、着いていける敵がおらず一人勝ちなので、重量過多を招く防御火器は最小限に削減された。
また、機体は生産性に優れ、修理も簡単だった。バトル・オブ・ブリテンや他方の空戦で航空機喪失の激しい英空軍はその機体の有用性に感銘を受け大量生産、更には同盟関係にあったカナダやオーストラリア空軍がライセンス生産を始めた。
「生産も容易に思われますし、デ・ハビランド社の技術者第2陣も、数日後に船で来日する予定です」大久保は言った。「しかし問題は――エンジンに尽きます。ライセンス生産権を取得したとはいえ、マーリンエンジンを性能を安定させた状態で統一させて量産するのは至難の業でありますし、何しろ液冷エンジンの整備経験は現場には皆無です。根本から変えていかないと、今回の東條閣下の肝入りの計画は、かえって現場に負担を掛けるだけの悲惨な結果になるやもしれません」
伊藤は唸った。「やはりそこか……」
ロールスロイス社製のマーリンエンジンは『日独英伊4国軍事同盟密約』が締結されて以降、イギリスより運び込まれた。しかし帝国陸軍の技術陣はその技術水準の高さに驚かされた。P-51を躍進させ、スピットファイアやモスキートを英空軍の誇りに祭り上げたのも、このエンジンあってのことである。しかし、いざ米国と戦争となれば100オクタン価ガソリンが不足してしまい、マーリンエンジンはその真価を発揮出来なくなるのだろう。
「液冷エンジンといえば、DB601と比べたらどうだ?」伊藤は訊いた。
「ダイムラー・ベンツ社製のですか?」大久保は言った。「あれを将官は試験運転し、整備した経験がありますが、今にしてみればマーリンの方が良いですね」
モスキートのライセンス生産権取得は、帝国陸軍の航空戦力を大きく飛躍させるものになった。マーリンエンジンの国内生産ラインの確立と、高性能の軽攻双発爆撃機の獲得である。モスキートは木製である故に製造は楽、修理も楽とくれば操縦も楽であった。デ・ハビランド社の木材に精通したノウハウを受け取った帝国陸軍技術陣の努力もあり、生産は上手くいきそうだった。
しかし、問題はマーリンエンジンの整備である。これに陸軍上層部は整備員の抜本的教育の改善という解決策を立て、41年夏頃から本格的に始動している。前途多難ではあるが、後の次世代制空戦闘機の普及の為、そして噴進戦闘機の普及の為、二者を扱う上においての教育は重要であった。上手く行けば、帝国陸軍は空の覇者として合衆国の制空権を掌握して米陸軍航空軍を凌ぎ、その敵陣深くに戦略爆撃機『富嶽』を送り込める筈である。
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