第19話 空母は正義なり
第19話『空母は力なり』
1939年4月10日
神奈川県/横須賀
鹵獲兵器――『夢幻の艦隊』の片鱗を渡す任務は、1939年に入った所で概ね終了した。だが、伊籐と『大和会』の使命は完了したとは言えなかった。
藤伊一海軍中将――伊藤整一と山本五十六海軍中将は、試製小型貨物車の1両、帝国陸軍版『ジープ』の試作品車両に搭乗し、試走試験を手伝っていた。東京-横須賀間、距離にして凡そ70キロ程度の旅路だが、比較的軽快な走りを見せていた。後々、M4『シャーマン』中戦車を基とした新型主力中戦車、M3ハーフトラックを基とした兵員半装軌車とともに海軍陸戦隊に配備される事となるこのジープは、零式小型貨物車――という名称において、帝国軍の主力軍用車両として活躍していく。
軍用車両の通行が増え、活気に満ち始めた午前11時頃に、伊藤と山本を乗せたジープは横須賀海軍工廠に到着した。海軍航空廠、横須賀鎮守府等が隣接し、第110号艦用の第6船渠拡張工事が進められる横須賀海軍工廠だが、その様子は異常だった。まるで戒厳令でも出された様に、一般市民は工廠付近の地区には姿を見せていない。その要因は――周囲は蟻の子1匹入らせないという具合に目を血走らせた憲兵隊の兵達にあった。周辺は常に監視され、不審者は逮捕・拘束された。内部でも厳正な監視対策がなされていた。国家機密に等しい第110号艦、鹵獲艦用にと急造されるドック類は、各部門ごとに分けられ、同工廠に居ながらも持ち場以外に入る事は許されない。
岸壁に係留された艦船や孤絶されたドックの間の舗装道路を、東に数km走った。途中、湾内に溢れ返る米海軍の鹵獲艦艇群の姿が見られた。海軍戦力拡張と、鹵獲艦配備の為、大分県では『大神海軍工廠』、山口県には『仮称S海軍工廠』と、史実では1942年から1943年の間に建造予算が確立される筈の工廠群が順次建造されていたが2~3年掛かる事は必至で、横須賀の現状の様に鹵獲艦が溢れ、艦艇収容能力に限界をきたした海軍根拠地は少なくなかった。
やがて工廠内の奥部に到達し、1隻の艦影が二人の視界に飛び込んできた。そこには、大日本帝国海軍初の航空母艦――空母『鳳翔』があった。片方は岸壁、反対側が一面の海という、見つかり難い格好の位置にある。帝国海軍初の試みを詰めた『実験艦』だからこそだろうと、伊藤は予想した。海軍の警備兵が4名、詰めている検問所が近くにあった。
海軍陸戦隊所属の運転手が速度を緩め、道路封鎖の前で停めた。エンジンは掛かったままだった。左程往来のない道路に二人の海軍中将を乗せた、見た事も無い軍用車両が現れたので、四人の警備兵は慌てた様子で運転手の元に駆け寄り、通行許可書の提示を促した。
「ご苦労様です」警備兵の一人は言った。
警備兵は運転手より通行許可書を貰うと、すぐさま前方を立ち塞ぐバリケードをどかし、深く敬礼をして、ジープを通した。
運転手がゆっくりとジープを進め、再び順調に走り始めた。工廠内の施設群や資材の山の通りを進み、ほどなく鳳翔の元へ辿り着いた。この時期、史実では1937年に予備艦に指定された鳳翔ならば、横須賀でこのように隠れている訳は無かった。しかし、伊藤が前述した様に、鳳翔は重要な試みがなされている最中であり、この待遇は当然と言えた。
海軍の高濱機関大佐に鳳翔艦内に案内されたのは、それから10分ほど過ぎた後の事だった。帝国海軍初の本格的な航空母艦として設計、開発された空母『鳳翔』は1922年に就役した。純粋な航空母艦――『正規空母』として歴史上では世界で1番始めに実戦投入された鳳翔だが、1935年には台風によって損傷を被り、就役から既に17年近く経っている事もあり、1937年をもって予備艦となった。
老齢艦――とはいえ、経済的・技術的に貧困な大日本帝国としては、鳳翔は廃棄するには勿体なかった。予備艦になった鳳翔はそれから3年後の1940年、緊迫する対米事情から早くも現役艦に舞い戻る事となった。しかし老朽化が進み、常用艦載機数が15機と艦載量の乏しい鳳翔は、必ずしも太平洋戦争で輝かしい戦歴を掴むには至らなかった。それらの問題を解決すべく、多くの予備艦同様、近代改修を受けはしたが、その成果は外洋航海に支障をきたす、と散々なものだった。結局、1942年のミッドウェー海戦後、内地の練習空母として運用される事となった。
伊藤はそんな空母『鳳翔』に輝かしい戦歴を与えようと考えていた。他ならぬ鹵獲艦――正規空母『サラトガ』、軽空母『インディペンデンス』の未来の片鱗を授け、夢を現実にする為に無辜の空母『鳳翔』に反映させた。その未来の片鱗とは――油圧式カタパルトである。
大日本帝国海軍は航空母艦に積極的だったが、カタパルトが完成するには至らなかった。当時、帝国海軍は火薬式カタパルトを開発していた。火薬式はその名の通り火薬を爆発させ、その圧力によってピストンを動かし、瞬発的な引張力によってカタパルト上の滑車台を引っ張り、滑車台上の航空機を射出するものだった。火薬式は基本的には大砲の発射と同じ原理であり、射出時には強い圧力が掛かり、戦艦・巡洋艦に載せる様な水上機位頑強でなければならなかった。しかも構造自体が大きな爆発力を利用したものである故、常に航空機を飛ばし続ける空母での運用には危険過ぎた。
一方、米英海軍は火薬式ではなく、油圧式カタパルトを開発・運用した。油圧式は、引張力は火薬式より強く、しかもその力は最初漸進的に大きくなり、最大の引張力が持続するという、大型機に適した特性を持っていた。
米英海軍の運用するカタパルトには、実に精巧な技術が取り入れられていた。構造は、圧搾空気でオイルをシリンダーに高圧の作動油として送り込み、滑車やケーブルでその動きを拡大し、甲板の溝にはみ込まれたシャトルを引っ張る。そしてシャトルのフックにワイヤーを引っかけて、航空機の胴体・主翼付け根付近のフックにも引っかける。そして、シャトルが急停止するとワイヤーが外れる仕組みだった。この恩恵を受けた米英商船改造型護衛空母は、鳳翔では運用するのも不可能であろう大型艦載戦闘機や攻撃機の発艦をこなしていた。
無論、日本がカタパルトの開発を怠っていた訳ではない。伊-四〇〇型潜水艦に配備される筈だった特殊攻撃機『晴嵐』を射出すべく開発された四式一号10型は、圧搾空気式カタパルトだった。これは魚雷発射管より発展、開発されたカタパルトで、当初の火薬式を考えると精巧な物だった。しかし、連続射出は不可能であり、1度射出すれば再射出に必要な空気の充填には、約4分の時間が掛かってしまった。出力不足は目に見えていた。
レキシントン級航空母艦第2番艦『サラトガ』搭載のH-4型。インディペンデンス級航空母艦第1番艦『インディペンデンス』搭載のH-4C型。この2種類の油圧式カタパルトを基に、海軍航空廠は大規模な計画を組み、油圧式カタパルトの早期開発に取り組んだ。予算は大幅に増額され、伊藤らの工業力増強により、カタパルト用の部品類の開発も順調に進んだ。
空母『鳳翔』艦内にて目に付く特徴を、高濱機関大佐は指し示した。艦内は博物館並の老齢振りを見せた。艦壁には錆が多く、冷涼で湿潤な環境が広がっていた。飛行甲板上に出ると、そこには1機の零式艦上戦闘機が駐機されていた。
伊藤は6日前――4月4日にもその機体を見ていた。その時は横須賀にはおらず、岐阜県各務原の陸軍飛行場で、『十二試艦上戦闘機』――という名称の試作戦闘機として、試験飛行に着こうとしていた。いわゆる零戦の試作品に当る十二試艦上戦闘機は、伊藤ら『大和会』からもたらされた20機以上の二一型零戦、五二型零戦、そして1機の金星エンジン搭載型零戦――五四型零戦を基に設計自体が見直された機となり、生存性の向上等が図られている。史実では4月1日に飛ぶ事となる十二試艦戦だが、それより3日ほど遅れた4月4日、無事に岐阜の空に舞い上がった。
時はそれから6日後、十二試艦戦は鳳翔に運び込まれた。当初はダミー機が飛ぶ事になっていたが、パイロットの一人が志願したのと、海軍上層部のお達しがあっての今日だった。
故に、伊藤・山本の他、別の海軍将軍らも乗艦していた。
二人はそれら関係者達と軽い挨拶を交わした後、試験の観覧に移った。目的が達成されれば、帝国海軍は海上護衛用にと、商船改造した護衛空母を“戦力化”出来る。また、これまで搭載されなかった正規空母にも搭載され、航空戦力に対する評価・関心も激変するだろう。疑念を抱き、空母不要を唱える大艦巨砲主義者達の口も塞がるだろう。
十二試艦戦は唸りを上げ、エンジンを噴かし始めた。心臓を担うのは、三菱製『瑞星』エンジンでもなければ、中島製『栄』エンジンでもなく、試製『金星』五〇型エンジンだった。史実では1940年に試作される五〇型は1200馬力を発揮する。金星は力強い咆哮を上げた。
「今回の零戦は一味違う。周到な計画に応えてくれた設計師と技術陣の努力の賜物だ」伊藤はそう評し、山本に告げた。その刹那、十二試艦戦は海軍航空技術廠の努力の結晶たる、試製カタパルトで鳳翔の短飛行甲板を勢い良く飛び出した。エセックス級初期型と軽空母インディペンデンス級に付けられたH-4C型油圧式カタパルトを基に造られたそれは、圧巻の性能を見せ付けた。
空を舞う十二試艦戦。その姿を見た者は呆気に取られ、言葉を発する事は無かった。拍手喝采が挙がったのは、それから数分ほど時が経ってからだった。伊藤は思わず敬礼をして、十二試艦戦を見送っていたと、当時そこに居た関係者達は語る。
空母『鳳翔』艦上、そこから見える第110号艦用の第6船渠だが、それは戦艦『信濃』のものでもなければ、空母『信濃』のものでもなかった。それは新たな設計の下、開発が進められた『改大鳳型航空母艦』――30,000t級空母用にと、改装されていたものだった。伊藤は鳳翔飛行甲板上からその第6船渠をみはるかす。
自らに課せられた“使命”を更に進めようと勇み立ち、皇国日本に相対する仮想敵――と対決する臍を固めながら、伊藤は山本にわざわざ同行して来てくれた礼を言った。「閣下、有難うございます。これまでの御協力、本当に心から感謝しております」
「何ですか、改まって」山本は驚きながら返答を返した。「その様な事、言わずとも結構ですよ」山本は言った。「しかしあれですな。これで新造空母や正規空母、改造空母と無限の可能性が見えてきましたな。これならば、数を減らす大艦巨砲主義者達も押し黙る事でしょう」
伊藤は頷いた。「ですが、これで全て――という訳ではありません」
「しかし、『信濃』は空母として造るべきでは?」山本は第6船渠を見据え、言った。「戦艦としての建造を中断したにせよ、純粋な5~6万t級空母というのは凄いと思えますがね。艦載機数は元より、『大和』に変わる帝国海軍の象徴と成り得るでしょうに……」
伊藤はかぶりを振った。「閣下、『大和』の敗因もそれなのです」伊藤は言った。「大き過ぎたが故、高価過ぎたが故に使い所を間違えた。我々の主戦場となる太平洋は、あまりにも広過ぎ、大和は同等の敵を見つけようにも、見つけるに至らなかった」
「機動戦力は各個分散し、太平洋をカバーせよ――というのですな?」山本は言った。「成程、確かにその方が効率的ではありますな。しかし、アメリカの底力は侮っていませんか」
「無論、見定めてはいます」伊藤は言った。「彼等は主要海戦と海上護衛双方に十分対応し、太平洋上全てをカバー出来る力を持っています。しかし、単艦を重視した戦闘では艦隊連動に支障をきたし、効率的に戦力を配置、展開は出来ません。それでは連携に勝る米海軍には勝てない」
1941年、戦争に突入して以降、伊藤は前線での帝国海軍がどの様な苦しみを味わったのかをこの目で見た事は無かった。最期の任務――沖縄特攻の『菊水作戦』も頓挫し、やはり戦闘を肌で感じ取るには至らなかった。しかし、敗因は薄々気付いていた。
「恐らく、空母を何隻造ろうとも米国には全面勝利は出来ますまい」伊藤は言った。「しかし、やはり閣下の申した“早期講和”においては、外洋打撃能力に特化した空母は必要でしょう。5万t空母1隻ならば100余機の艦載機を一戦場に置く事は出来る。しかし、2~3隻ならば、それ以上に航空機を配備出来るでしょう。我々は泥水を啜る気に事に当らなければならない。この際、体裁等という世迷言は捨て、合理的に進めるべきでしょう」
しかしそれで本当に勝てるのか、伊藤は疑問に思っていた。それよりも潜水艦を造り、徹底的なゲリラ戦によって敵の戦力を削ぐべきではないか?と。少なくとも、それを行ったドイツは敗北を喫し、アメリカは勝利を勝ち取った。結局は国力の差なのだという結論になるのは、伊藤も承知の事だった。
だが、後に空母の大量建造は功を奏す。
油圧式カタパルト、新型航空機、レーダー機器、対空砲、徹底したダメージコントロール技術、VT信管。それらの技術と錬度の高い兵士達の活躍により、帝国海軍機動部隊は史実以上の戦果を上げる事となった。それは紛れも無い、新鋭空母の大量投入にあり、後方をカバーする海上護衛空母群の戦果の賜物だった。
後にある帝国海軍大将は語った。
【――空母は正義なり】と。
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