第158話 台湾の戦い(後)
第158話『台湾の戦い(後)』
1947年3月17日
フィリピン/ルソン島
フィリピン諸島の国土面積の35%を占め、首都マニラの西に広がるマニラ湾には、米海軍アジア艦隊の一大根拠地たるキャビテ軍港があった。米海軍アジア艦隊常駐地として『フィリピンの真珠湾』――の機能を持つキャビテ軍港には各種弾薬・燃料を貯蔵する施設の他、海軍工廠等も設置されている。そしてそのキャビテ軍港はEU(ヨーロッパ同盟)設立次年の1942年から予算増額がなされ、徐々に拡張されていた。そして現在、1941年当時は重巡1隻、軽巡2隻、駆逐艦13隻、潜水艦29隻のみの運用しか行っていたかったキャビテ軍港は発展を遂げ、戦艦や多数の巡洋艦の運用を可能とするまでになっていた。
「フレッチャー提督……。君は何をしている……?」
米陸軍極東方面軍総司令官、ダグラス・マッカーサー元帥は電話の受話器を握り締め、怒気こもった声色でそう告げる。その受話器の先の相手――フランク・J・フレッチャー海軍大将は台湾高雄沖海上、軽巡洋艦『モントピリア』にて前線指揮を行っている最中であった。当然、フレッチャーは上陸部隊支援の指揮を行う中、マッカーサーの叱咤を聞かなければならなかった。
『……元帥。ジャップの海軍は強敵です』
「だからどうした? そのジャップ海軍を打ち破るのが君の仕事だろう……」
正しく正論ではあった。しかし、それを出来ないのが現実である。そもそも米海軍アジア艦隊はフィリピン防衛――正確には仮想敵国による侵攻の遅延を行うべく編制された艦隊であり、例え近距離とはいえ台湾を攻略するだけの海軍力を発揮出来る艦隊では無かった。前アジア艦隊司令長官のトーマス・C・ハート海軍大将はその点を良く理解しており、アジア艦隊の水上戦力では逆立ちしても聯合艦隊に勝利を収めることが出来ないことを知っていた。その為、彼は潜水艦の拡充に力を注いでいたのである。その結果、現在アジア艦隊は60隻以上の潜水艦を保有し、バシー海峡封鎖や日本本土近海の通商破壊作戦を実行に移せていた訳である。
『元帥閣下。敵は我が艦隊の数倍の戦力を用意しています。第3艦隊による聯合艦隊主力の北方への張り付けが成功している今も尚……です』フレッチャーは言った。『率直に言いますと、この作戦は手詰まりになるかと思われます。我がアジア艦隊は前日に戦艦『インディアナ』と重軽巡合わせて4隻を喪失しました。これは艦隊主力の凡そ半数以上の戦力です。それをたった1日で失ってしまったのです。また敵は九州や沖縄から航空機を襲来させ、我が艦隊を攻撃しています。潜水艦部隊も同様です。本日も既に駆逐艦1隻が攻撃を受けました。元帥閣下、アジア艦隊はもう……』
今にも消え入りそうな声でフレッチャーは告げた。
「何という事だ。仮にも合衆国海軍の大将たる君がそんな弱音を吐くとは」カッと、マッカーサーは目を見開いた。「フレッチャー提督……。君は更迭されねばならぬ」
『お望みとあらば……』
「良い心掛けだ。それでは――」
刹那、怪物の咆哮が如き轟音がマッカーサーの耳朶を突き破り、脳を揺さぶった。避けもかわしも出来ず、抗う事さえ許されぬその咆哮の後、彼の視界は突如として右に大きく傾いた。幕僚の数名かが窓ガラスを突き破って海面に投げ出される。マッカーサーはその光景を見て恐怖し、そして否が応にも悟ってしまった――私は今攻撃を受けている、と。彼はその事実を知り、唖然とした。
マニラ湾キャビテ軍港。仮にもアジア艦隊母港たるその敵前の只中に、帝国海軍の甲標的部隊は投入された。甲標的部隊の目標は戦艦『アラバマ』であった。特殊潜航艇の搭載能力を持つ伊二〇、伊二二、伊四六潜水艦より出撃した計3隻の甲標的はマニラ湾に侵入。うち1隻が拿捕され、1隻が撃沈されたものの、戦艦『アラバマ』は九一式酸素魚雷2本の攻撃を受け――撃沈。その身をキャビテ軍港の湾内に埋めることとなったのである。
尚、戦艦『アラバマ』に乗艦し、台湾侵攻軍の指揮を執っていた米陸軍極東方面軍総司令官のダグラス・マッカーサー元帥は無事退艦し、事なきを得ていた。とはいえ、これで米海軍アジア艦隊は虎の子の戦艦2隻を喪失することとなり、制海権はいよいよ帝国海軍の手中へと収まりつつあった。
1947年3月21日
大日本帝国/台湾
3月下旬から4月上旬にかけて行われた『高雄の戦い』は、後世の戦史家達から見てもそれは凄惨な戦いであった。帝国陸軍第五十師団と帝国海軍陸戦隊・台湾国民軍計47820名と、米陸軍15個師団計298600名が高雄市にて攻防戦を繰り広げたのである。その戦力差は約6倍。かの『硫黄島の戦い』でもその戦力差が約5倍であるから、その戦力差の桁違いさがよく分かるだろう。しかしながら『硫黄島の戦い』にて制空・制海権共に失い、本土からも見捨てられていたということを考えれば、まだこちらの方が救いがある、といった所だろう。
しかし約150万㎢を巡るその戦いの前には、B-17、B-29による大空襲があった。この攻撃で市内30%の建物が倒壊していたのだ。市街地戦は1ブロックごとを巡る壮絶なる戦いだが、防衛側にとって遮蔽物の有無はその生存率を大きく左右する。それは『欧ソ戦争』においても、レニングラードやスターリングラードの攻防戦で実証済みだった。
1943年当時、フィンランド派遣軍たる『遣欧陸軍』に参加していた台湾軍総司令官の武田章陸軍中将は、そのことを良く理解していた。とあるフィンランドの町の防衛に携わった彼はそこでフィンランド軍の優れた防御戦術を学び、市街地戦の何たるかをその身を以て味わうこととなったのだ。結局、その戦いでフィンランド軍共々撤退することにはなったが、実に3倍以上の兵力を持つ敵側に多大な出血を負わせ、その後の侵攻作戦を頓挫させることに成功している。
そんな武田中将指揮の下、高雄守備隊と米陸軍15個師団による攻防戦は幕を開けた。初日、戦力不足から水際防衛を捨てた高雄守備隊は、上陸を果たした米軍を航空機と砲兵によって一斉攻撃。これにより敵側に約5800名の戦死者を出させることに成功した。そしてこの攻撃は初日に上陸を果たした米軍約11万2000名を海岸線上に張り付けにすることとなり、同時に後続の輸送艦部隊に対する航空攻撃の準備時間を稼ぐ結果ともなった。
上陸作戦開始から翌々日となる3月17日、沖縄・九州方面より来襲した航空機約300機の攻撃が始まり、高雄沿岸部の米軍上陸部隊は愕然とした。『台湾沖航空戦』である。そして夜間には木村昌福中将率いる第二艦隊の夜襲を受けた。その結果、アジア艦隊は僅か1日で戦艦1隻、重巡2隻、軽巡2隻、駆逐艦7隻を喪失。更に輸送艦部隊にも甚大な損害を被ることとなった。この後、米陸軍極東方面軍総司令官のダグラス・マッカーサー元帥は独断で搭乗艦『アラバマ』と護衛艦隊をキャビテ軍港へと帰投させたため、台湾沖のアジア艦隊水上戦力は僅かな重軽巡、そして駆逐艦のみとなってしまった訳である。
この皺寄せを食らったのは他でもない上陸部隊であった。上陸作戦開始から3日、B-29による戦略爆撃や戦艦・巡洋艦による艦砲射撃があったとはいえ、高雄海岸線にはまだ多数の沿岸砲が配備されており、市内には要塞陣地や飛行場が残っていた。フィリピンの航空部隊は健在だが、帝国陸海軍の邀撃機や対空砲火はその機体数と士気を確実に削ぎ、稼働率を下げていた。そんな中、アジア艦隊では艦艇の多くが前線を離れる、または撃沈されてしまっている。幾ら数では圧倒的に勝るとはいえ、砲爆撃の前には生身の人間など軽くミンチにされてしまうのがオチである。これでは上陸部隊は丸裸のまま、敵陣に突っ込むにも等しい訳だ。
そうした結果、上陸作戦開始から5日間、米軍は海岸部に張り付け状態だった。塹壕を掘り、爆弾や砲弾や人間の血肉が降り落ちるその中で5日間を過ごすというのは、筆舌に尽くし難いものがあった。そこで精神を病むことは一種の関門ともなっていた。つまり、上陸後に一夜を過ごせるかどうかでその後の戦闘続投能力があるかを見極めるのだ。万一にも気が触れれば、担架に載せられて船へと逆戻りであった。しかし海上も安全とは言い難い――むしろ帝国海軍の鋼鉄の“鮫”が多数泳ぎ回っている海原の只中であれば、それは砲爆撃が連日連夜降り注ぐ海岸と大して変わりはしなかったのだ。
戦況が変化したのは3月21日のことである。高雄の砲陣地、飛行場等が根絶やしにされ、上陸部隊は市街地へと頭上を気にせずに踏み込むことが出来るようになったのだ。それはフィリピンの米陸軍航空軍による九州・沖縄・台湾攻撃が功を奏し始めたことの証拠であった。
そして遂に――『高雄の戦い』は市街地攻防戦へと発展するのだった。
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