断章 敵の敵は味方(前)
断章『敵の敵は味方(前)』
1945年1月16日
アメリカ合衆国/アラスカ準州
アラスカ南西の町スワードとフェアバンクスを繋ぐアラスカ鉄道では一両の列車が、粛々と密かに、銀世界に果てしなく延びる白い線路を疾駆していた。凍結した線路伝いに、渓谷を見下ろす尾根を辿っていく。目指すはアラスカ中央部に位置する内陸の町フェアバンクスだ。フェアバンクスはアラスカ準州第2の都市で、金山といった鉱山採掘と軍事施設からくる特需によって栄えていた。人口は1万人にも満たない小さな都市だが、ルーズベルト大統領の唱える『対極東戦略』においては非常に有力な都市でもあった。町には飛行場や陸軍基地が設置されていた。軍需工場の建設も決定しており、輸送網としての要たるアラスカ鉄道共々、フェアバンクスは特需に潤っていた。
アラスカ鉄道はアメリカ合衆国連邦政府所有の国有鉄道である。アラスカ鉄道はアメリカとしては“唯一”の国鉄で、国内の鉄道は殆どは私鉄だった。連邦政府がこのアラスカ鉄道を運営しているのは、未だ未開墾の地だったアラスカを円滑に開拓していくためである。
1867年、クリミア戦争の経済的負担を補うべく、ロシア帝国から720万ドルで売却されたアラスカだが、当初は『スワードの冷蔵庫』――アラスカ購入の首謀者ウィリアム・スワード国務長官を揶揄した言葉――と無駄物扱いされていた。ロシアの手元から離れたアラスカは、『アラスカ県』との名称を付けられた。アラスカ県は1877年までは米陸軍の管轄下に入り、次に米国財務省が2年間、そして最後に1884年までの5年間は米海軍の管轄下に置かれることとなった。その後、1884年には『アラスカ地区』と改名され、民間政府による運営が始まった。
連邦政府の管轄から離れ、独自の政府を持ったアラスカ地区は躍進した。地区誕生から12年後の1896年、隣国カナダのユーコン準州で金が発見され、探鉱者達の関心を北に誘ったのだ。『クロンダイク・ゴールドラッシュ』と呼ばれたそれは、1896年から1897年の僅かな期間をもって終了し、探鉱者は更なる金脈を探して、アラスカに開拓の手を加え始める。最初に南東アラスカのジュノーで金脈が見つかり、1899年にはノームのアンビル・クリークで金が発掘され、ゴールドラッシュが巻き起こった。1900年には西海岸から大量の探鉱者達が到着し、ノームの人口は1万人にも膨れ上がった。その後、ゴールドラッシュは1904年に収束したが、その人口は既に2万人に達していた。その数はアラスカ地区として最大規模を誇り、ノームはアラスカ有数の都市にまで成長した。また、1902年にはアラスカ内陸部に位置するタナナ渓谷支流域で金脈が発見され、ここでもゴールドラッシュが起こった。1903年、この地は米国上院議員チャールズ・W・フェアバンクスの名前を取って“フェアバンクス”と命名された。
そして1912年、『第2次基本法』の制定により、アラスカ地区は『アラスカ準州』に名前を変えた。しかしその頃には、アラスカにおけるゴールドラッシュは下火となっており、アラスカ準州は再び『冷蔵庫』としての扱いをされるようになっていた。1929年の世界恐慌発生後、アラスカは空前の不景気に陥り、多くの失業者を招くこととなった。アラスカの生命線たる水産物と銅の値は下落し、アラスカ準州政府は経営さえままならない状況に置かれていた。
それを救ったのが、第二次世界大戦だった。1941年の『真珠湾攻撃』以降、急速な軍備拡張を行う米国政府は、このアラスカに大規模な軍を駐留させることを決定、多数の兵士と兵器が流れ込んできた。困窮していたアラスカはこの特需に沸き、俄かに景気は回復した。1942年には『アリューシャン方面の戦い』が勃発し、アラスカでは本土上陸の危惧が生まれたが、大日本帝国にそれだけの余力は残されていなかった。アラスカは攻撃を受けることなく成長し、米軍の重要な戦略拠点として見直されることとなった。終戦後は対岸のソ連を睨む最前線として機能し、1968年にはプルドー湾で巨大な海底油田が発見され、アラスカは大きな躍進を遂げた。
しかし第二次世界大戦が回避された今物語では、アラスカは1943年まで混迷を続けていた。ルーズベルト大統領は『冬戦争』の勃発とともに『対極東戦略』の見直しを主張、アラスカを対日戦略の最前線として設定し、大規模な軍隊の配備を行ったのだ。その後、アラスカには5個師団が新たに配備され、その兵員数はアラスカ準州の人口を上回った。また、多数の航空機――主に戦略爆撃機――が到着し、飛行場が各地に建設されるようになっていた。
1945年1月16日。そんなアラスカの地を駆る一両の列車には、合衆国第32代大統領フランクリン・D・ルーズベルトの姿があった。アラスカ鉄道を猛然と突っ走るその列車は大統領専用列車ではなく、米国陸軍所有の軍用列車だった。そのオリーブドラブ色の軍用列車は、雪化粧で白一色となったアラスカの荒野ではよく映えた。列車内にはM1カービンやトンプソン・サブマシンガンで武装した軽装歩兵が詰めており、大統領護衛の任に就いていた。
その列車の一両、大統領専用車輛に指定されたその貨車には、2人の男のシルエット茫と浮かび上がっていた。1人はフランクリン・D・ルーズベルト大統領。そしてもう1人はソ連人民委員会議副議長(副首相)、ソ連外務人民委員(外務大臣)、内務人民委員部(NKVD)長官の3つの役職を兼任する男、ラヴレンチー・P・ベリヤだった。秘密警察の首領にして、亡きヴャチェスラフ・M・モロトフの空席を埋めるソ連No.2。権力集中独裁主義の権化たるベリヤは、今やスターリンの一番のお気に入りであった。ベリヤは信用置けない側近の中において唯一、信用出来ないこともない人物だった。
しかしそれは、スターリンの思い込みに過ぎなかった。
「大統領閣下。ご機嫌麗しゅう」
ベリヤはやや芝居掛かった挨拶の句を述べ、ルーズベルトと熱い抱擁を交わした。それは一見して仲睦ましい微笑ましい光景だったが、両者の腹はどす黒い策謀によって満たされていた。ルーズベルトは貨車の中央に置かれた椅子に歩み寄り、腰を下ろした。ベリヤもそれに倣い、椅子に腰掛けた。ベリヤはロシア語ではなく、英語で話し始めた。
「――大統領。今回は会談に応じて頂き、感謝しております」ベリヤは訛りの強い英語で淡々と語り始めた。「今やソ連は風前の灯。そんな中でアメリカは、いまだに物資や兵器等の支援して下さっている。ソ連が勝利を収めれば――約束しましょう――ソ連人民は貴方を“英雄”として祭り立てることでしょう」
そんなベリヤの話を聞いたルーズベルトは、鼻でフンと笑った。
「“英雄”か……、“悪党”の間違いじゃないのか?」
軍用列車は流れ行く白銀の世界を後にし、暗いトンネルに入った。ルーズベルトの表情には影が差し、貨車内は闇に包まれた。トンネルの内壁に軋音を反響させながら、トンネル内に流れ込む疾風に逆らって軍用列車は進む。
「……ミスター・ベリヤ。確かに君の言う通り、ソ連は風前の灯だ。だが、それを憐れむほど私は優しい人間ではないのだよ。結果を残せ。一体、何のために我が国がソ連に支援をしているのか、分かっているのかね? “ギブアンドテイク”だよ、ミスター・ベリヤ。それがアメリカだ」
ルーズベルトは皮肉染みた顔で言った。
「分かっております、大統領閣下」
「では、何か結果を示してくれたまえ」
冷然と突き放すルーズベルトに、ベリヤは渋面を浮かべた。
「……大統領閣下、同志スターリンはソ連の指導者として相応しくありません」ベリヤは言った。「先日も、スターリンは我が身を守るがために、兵力を誤って配置し、日本に勝利を与えてしまった。欧州戦線も同様です。アゼルバイジャンは来月にも陥落するでしょう。さすれば、我がソ連は重要な石油供給網を失い、EUの前に膝をつかざるを得なくなる」
1945年1月。ソ連はEUに対して敗北を繰り返し続けてきた。極東戦線では、モンゴル人民共和国を占領下に収めた大日本帝国軍がイルクーツクに侵攻――すると見せ掛け、カムチャッカ半島に対して上陸作戦を展開したのである。これに驚いたのがスターリンだった。オムスクからノヴォシビルスクへと避難していた彼は、日本軍がイルクーツクに侵攻し、果ては西シベリアにまで進出することを極端に恐れていた。そこでカムチャッカ半島やチュクチ民族管区から兵力を捻出、西シベリア防衛に就かせたのだが、それは間違いだった。イルクーツク侵攻は大日本帝国が仕組んだ“陽動作戦”であり、本命はカムチャッカ方面への侵攻だったのだ。見事に兵力に穴が開いていたカムチャッカ半島は即座に制圧された。
『ウラジオストク攻略』以降、出番の少なかった帝国海軍連合艦隊がカムチャッカ半島沿岸に集結し、陸軍と共同して砲爆撃を開始する。空母10隻、戦艦8隻、重巡12隻、駆逐艦40隻以上からなる連合艦隊は艦爆と艦砲による容赦無い砲爆撃を加え、ペトロパヴロフスク・カムチャツキーを始めとする軍港を粉砕した。また陸軍は航空隊と砲兵を用いて陸からの砲爆撃を加え、陸上部隊を制圧する。一連の攻撃は熾烈を極め、ペトロパヴロフスク・カムチャツキーはものの5時間足らずで降伏した。また、別の地域でも次々とソ連軍が降伏、または自決を始めた。かくしてカムチャッカ半島は陥落。生き残ったソ連海軍太平洋艦隊の残党は、コリャーク民族管区やチュクチ民族管区へと逃げ込んだ。
「あれは酷かったな」
ルーズベルトは心配している様子もなく、淡々と言った。「だが、独裁者が保身に走るのはよくある話だ。私とて、日本軍がワシントンに攻め込んでくるなどと聞けば、尻尾を巻いて逃げるさ。まあ、東洋の黄色猿には永遠に無理だと思うが」
「我がソ連は今、その東洋の黄色猿共に首都を攻め込まれようとしています」
「では、どうする?」
ルーズベルトは訊いた。「何を望んでいるんだ? 金か、それとも物資か?」
そんなルーズベルトの問い掛けに対し、ベリヤはかぶりを振った。
「そんなもの、今のソ連には焼石に水です。私が望むのは――講和です」
「それは無理な注文だな」ルーズベルトは平然と言った。
「ですが、“贈り物”を見て頂ければ、お心も変わるかと」
そう言い、ベリヤは眼鏡を押し上げた。そして彼は円筒を取り出し、その中に入っていた1枚の地図を卓上に敷き詰めた。それはソ連の地図だった。紙質は粗く、指でなぞるとザラザラしている。それを見たルーズベルトは訝しげな表情を浮かべるばかりだったが、ベリヤは薄ら笑っていた。
「差し上げましょう……チュクチ民族管区を」
ベリヤは不敵な笑みを浮かべ、極東の末端に位置するチュクチ民族管区を指した。
「何……?」
ルーズベルトは混乱していた。「な……何を言っているのだね、ミスター・ベリヤ?」
これは悪い冗談に違い無い。そうルーズベルトは内心呟いていた。幾らソ連のNo.2といえど、自国領の一部を割譲する権限など持ち合わせている筈が無い。それが当然だった。
「ですから、チュクチ民族管区を差し上げると――」
「いい加減にしたまえ! 私も暇ではないのだよッ!!」
ルーズベルトは激昂した。冗談にしては性質が悪い。彼はベリヤの人間性を疑った。元々、主人を裏切っているこの男に信頼など寄せること自体が間違っていたのだと。ルーズベルトは今になって後悔した。わざわざ身の危険を冒してまでソ連首脳陣とパイプを繋いだが、とんだ骨折り損だったのだ。
「無論、No.2の私にその権限はありません」
ベリヤは激昂するルーズベルトに顔を向けて言った。「だからこそ、私が“No.1”になるのです。そうなれば、私は貴方にチュクチを渡すことが出来る」
「……どうやってNo.1になるつもりだ?」
冷静になったルーズベルトは、当然のことを訊いた。
「クーデターを起こすのです」ベリヤは言った。「今や同志スターリンは、多くの人民から疎まれています。ソ連はEUによって広大な領域を占領され、多くの人民が無知で傲慢な同志スターリンの指導によってその命を落としました。反スターリン派――聞いたことはありませんか?」
ルーズベルトは静かに頷いた。「では、君が?」
「一概にはそうも言えません」ベリヤは言った。「反スターリン派にも、多数のグループがあります。その大部分を取り纏めるのが、私が指導者であるグループなのです」
「いつ、クーデターを起こす気だ?」
「人民の感情が爆発した時です。いわば“革命”とでも言いましょうか……一つのデモが国を揺るがす革命へと発展することは、我がソ連を含め、多くの国で立証されてきたことです」ベリヤは言った。「恐らく3ヶ月後には、同志スターリンはその人生を終えていることでしょう。いや、既に同志スターリンの人生は終わったも同然ですが……」
ルーズベルトは首を傾げた。「どういうことだ?」
「同志スターリンは鬱に掛かっているのです」
ベリヤは神妙な表情を浮かべ、言った。
「鬱だと?」
「そうです。同志スターリンは自室に籠り、他者との交流を拒んでいます。精神を病み、食事も口に入らず、身体は衰弱する一方……。そんな人間がソ連の指導者などと嘆かわしい」
「だから新たな指導者に?」
「苦渋の決断でした。同志スターリンには恩義もあります。しかしそんなことも言っていられない」ベリヤは言った。「私は新たな指導者となり、この不毛な戦争を終わらせます。EUと講和し、今度こそ休戦を結んでソ連を存続させるのです」
「うむ……」ルーズベルトは唸った。「しかしどうする気だ? 勝ち続けているEUがそう簡単に講和を結ぶとは限らんだろう」
そんなルーズベルトの問いに対し、ベリヤは頷いた。
「だからこそ大統領閣下。貴方の――アメリカの力を借りたい」ベリヤは言った。「計画はこうです。まず、我がソ連海軍の潜水艦が貴国の輸送船団を襲う。次に貴方が反共運動を加熱化させ、我が国への宣戦布告を仕向けるのです」
「せ……宣戦布告!?」
ルーズベルトは驚愕した。対日や対EU宣戦布告ならまだ分かるが、対ソ宣戦布告とは。彼にはそのような考えは思い浮かばなかったが、ベリヤが何を企んでいるかは次第に分かってきた。
「……成程、話が読めてきた」ルーズベルトは言った。「我が国が対ソ宣戦布告をし、チュクチ民族管区に侵攻するのだな? そして貴国に講和を提案し、君がそれを受け入れる――と」
まさしくその通りだと、ベリヤは頷いた。
「『日露戦争』の再現です、大統領閣下。しかし貴国が英独を始めとするEU諸国に反感を買われている以上、中立的立場からの講和仲介は不可能」ベリヤは更に続けた。「だからこそ、貴国も戦争の当事者となり、無理矢理にでも仲介が出来る立場を作り出す。これではEUもアメリカ主導の講和を呑まざるを得なくなり、我が国にとって非常に不利な講和条件も幾つかは回避することが出来る筈です。ソ連は私の指導の下で存命し、貴国は見返りとしてチュクチを始めとする地域を獲得できる……」
「それは魅力的な条件だな」
ルーズベルトは言った。チュクチには金といった鉱物資源や水産資源が豊富である。領土拡大政策を執り続けているルーズベルトとしては、魅力的な地域だった。
「如何です? 悪い話ではないでしょう?」
「そうだな。もし君がクーデターに失敗しても、こちらに危害は及ばない」
ルーズベルトは皮肉を込めて言った。例えベリヤが死のうが、アメリカには害は及ばない。チュクチと言わず占領地域を拡大し、更なる“贈り物”を獲得出来る可能性もあるのだ。
「宜しい。提案を受け入れよう」
「大統領閣下、感謝します」
と、ベリヤはルーズベルトに感謝の意を述べた。
1945年1月16日。一連の密談は『アラスカ密約』として約束が取り決められ、ベリヤはアメリカ側からの支援を取り付けることが出来た。しかし、これは一方的過ぎる約束だった。ソ連は確かに講和において厳しい条件の幾つかを緩和することが出来るかもしれないが、それは確定した話ではない。しかし、アメリカのチュクチ占領は確定付けられた話であった。結果的に言えば、今回の約束は共産主義や民主主義に屈した――という世紀の瞬間だった訳である。はたしてどれだけの反共主義者がこの瞬間を望み、どれだけの共産主義者がこの瞬間を望まなかったのか。それは誰も知る由のないことだった。
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