第105話 モンゴルの戦い(後)
第105話『モンゴルの戦い(後)』
1944年11月18日
モンゴル人民共和国/ウランバートル
母なる大河、名を『トゥール』というその長途の流れは、モンゴルの首都ウランバートルに住む約6万人の市民の生活を支え、大草原に住む遊牧民達の命をも繋ぐ重要な水脈であった。その水源はモンゴル民族の聖地ヘンティー山脈にあり、太平洋とバイカル湖にその河口を開ける分水嶺である。そしてオノン川、ヘルレン川と水源をともにするのが、トゥール川である。ヘンティー山脈から蛇行を繰り返すトゥール川は、ヘンティー県から西にトゥブ県へと続き、ウランバートルに通ずる。
ウランバートルはモンゴル人民共和国の首都であると同時に、アジア初の社会主義国家の首都でもあった。その興りは1911年12月、清国の『辛亥革命』に端を発した。辛亥革命――すなわち清朝の崩壊を意味するその出来事は、清国の属国と化していたモンゴルに“独立”の機運を高めさせることとなった。1911年12月、モンゴルは清国からの独立宣言を表明し、ジェプツンダンバ・ホクトク8世を皇帝として推戴するボグド・ハーン政権が誕生した。そしてその政権の膝元である“イフ・フレー”――推戴後、『ニースレル・フレー』と改名――が首都となった。これがウランバートルの原形である。1924年、『モンゴル人民共和国』の制定とともにイフ・フレーはウランバートルに改名された。因みに、ウランバートルとはモンゴル語で『赤い英雄』を意味する。
ウランバートルはモンゴル人民共和国の首都であると同時に、大日本帝国軍にとっては避けて通れない重要な戦略拠点でもあった。そもそも帝国陸軍の対ソ戦略は、モンゴルから東進して、シベリア東部を制圧、シベリア鉄道を寸断することだった。これは西部からの膨大な物資で補給線を維持するソ連極東方面軍、特に沿海州のソ連第1極東方面軍にとっては、孤立を意味する戦略であった。故にそれを見越したソ連極東方面軍総司令部は『ザバイカル方面軍』(モンゴル人民革命軍も含む)総司令官に『冬戦争』でも活躍した“名将”ロディオン・J・マリノフスキー上級大将を任命し、30個師団90万名にも及ぶ大戦力を与えている。また『日ソ戦』緒戦から戦争中期に至るまで、主戦場が満州国東部国境であったことも、モンゴルに対する軍事侵攻を妨げる要因となっていた。
しかし今、大日本帝国陸軍第十一軍はその首都ウランバートルに足を踏み入れていた。第十一軍は隷下の8個師団に加え、第十二軍の2個師団、3個旅団を加えた10個師団23万名(9個歩兵師団、1個戦車師団、5個旅団)の兵力を有し、『ウラジオストク攻略戦』や『ハバロフスク攻略戦』に次ぐ規模だった。戦車の数は100輌を超え、陸海軍の参加航空機数は1500機にも上った。そのうち、800機が爆撃機・攻撃機であり、戦闘機の姿は少ない。当然だった。モンゴル人民革命空軍やソ連空軍はこの時点では徹底的な航空殲滅戦によって航空機を撃破され、更に各飛行場も徹底的に破壊されていた。もはや制空権は大日本帝国軍の手にあり、ソ連やモンゴルの空軍が航空機を飛ばせる空ではなかったのだ。
1944年11月16日、第十一軍の先頭部隊がトゥール川の渡河を開始した。対岸には首都ウランバートルのどこか寂しげな街並みが浮かび上がっていた。しかしこの時点では、ウランバートルに約3万名の市民が取り残されているという事実を帝国陸軍側が知る由も無かった。これが後の歴史の汚点となり、禍根となるのはまた別の話である。
「さて、『赤き英雄』の面をようやくお目に掛かれましたね」
と、ウランバートルの街景を見張りながらそう呟くのは、辻政信中佐であった。彼は九七式中戦車『チハ』の砲塔から上半身を出し、ロンメル元帥も愛用しているライカ社製の双眼鏡を掲げている。そして“ニヤリ”と口許を綻ばせ、よく磨かれた歯を剥き出しにした。
「さぁ、その男前の面をどう料理してやりましょうか……」
五式陸攻による250t爆弾の豪雨、はたまた列車砲による重砲撃か。現在の帝国陸軍には複数の選択肢があった。敵のモンゴル軍守備隊はたかだか6個師団11万名である。そこに民兵が加わったとしても、圧倒的優勢は変わらないだろう。空からの援護に欠けた彼らモンゴル軍にとって、勝利の二文字を勝ち取ることは“不可能”に近い筈だ。
数十分後、モンゴル軍はそれを身を以て知ることとなった。制空権を奪取されたウランバートル上空に三式戦闘機『飛燕』や四式戦闘機『疾風』が来襲し、地上の歩兵部隊に向けて機銃掃射を開始したのである。猛然と襲い掛かったその帝国陸軍戦闘機群は、12.7mm機関砲による鋼鉄の洗礼をモンゴル兵達に浴びせ掛け、その命を奪い去った。それから間も無く、主翼下に搭載された三式55mm噴進弾が立て続けに咆哮し、ウランバートルの市街地を貫いた。元がB-17を一撃で撃破するよう設計された噴進弾なので、その威力は絶大だった。無数の火箭が降り注ぎ、1ブロック一帯を地獄に変えた。
続いて、五式陸上攻撃機『連山』の大編隊が市内上空にその姿を現した。戦闘機による対地攻撃と、第十一軍による準備砲撃により、既に市街地は炎に包まれていた。黒煙が噴き上がり、その中に五式陸攻が抜き出る様な形で存在している。その巨躯は黒煙如きでは隠せないのだ。そしてその巨躯こそが、モンゴル兵達の士気を挫いてもいた。ところが先行試作機なので、その数は極端に少なかった。
『連山』は敵機の追撃も無く、当るとも思えない対空砲火を避けつつ、ウランバートル上空を縦横無尽に飛翔した。途中、爆撃目標を確認すると、観測員は爆撃位置を設定し、爆撃手がレバーを引く。すると爆弾倉が徐に開き、複数の爆弾を市街地に叩き込んだ。市街は大パニックである。250kg爆弾はコンクリート製の数少ない建物をいとも簡単に破壊し、市民が造った間に合わせの防空壕を押し潰した。焼夷弾は家々を焼き払った。途中あった放牧地帯もまた、煌々と炎が輝き燃えている。
その間、第十一軍隷下の戦車第一師団は前進を続けていた。辻の搭乗する九七式中戦車始め、一式中戦車や三式中戦車が街中を驀進する。それらはつい数日まで、モンゴル軍騎馬隊や遊牧民族に代わり、モンゴルの広漠たる大草原を闊歩していた。
そんな戦車第一師団の前に広がるのは、荒涼とした街並みだった。黒焦げになった屍、所々を穿かれた街路、瓦礫の山と化した建物……。廃墟同然となった建物群からは、散発的ながらも抵抗の銃撃が放たれてはいたが、そのことごとくが12.7mm機関銃や戦車砲によって鎮圧された。また、上空からは戦闘機や襲撃機が飛来し、機銃弾と噴進弾を浴びせ掛けた。
市内南部で首都を巡る激戦が繰り広げられている中、首都防衛軍総司令官であるゾリグ・トゥルフール大将は、うんざりしたような表情を浮かべていた。『ウランバートル攻防戦』開戦から実に6日、モンゴル軍の戦況は最悪の極みだった。ソ連ザバイカル方面軍は首都防衛に2個師団を残し、一早く撤退してしまっていた。それも、旧式戦車や旧式の大砲ばかりを残してである。欧州戦線の戦況があまりにも芳しくなく、スターリンが極東方面軍を呼び戻し続けているのだそうだ。しかし残念で仕方が無い。このウランバートルが落ちれば、モンゴルはEUへの無条件降伏を呑まざるを得なくなる。そうなればEU軍がモンゴルに進出し、シベリア鉄道の寸断に入るだろう。そうなれば、兵士の帰還や物資の搬入等、全ての人物の動きが止められてしまうのは明白だった。
「それに気付かんスターリンはどうかしているのだろう……」
ゾリグは溜め息を吐いた。このモンゴルにおいてもスターリンの無能ぶり、臆病ぶりは有名な話である。例えば、戦艦と空母をくっ付けたようなものを本気で建造したり、オムスク近郊にある村々に『EUのスパイ』が隠れていると根拠の無い妄言を吐き、血祭りに上げたりと……。
同じ社会主義国家であるモンゴルにしても、指導者のホルローギーン・チョイバルサンの悪行の話の数々は尽きない。1939年の『ノモンハン事件』以降、継続されている粛清や対日戦に対する甘い戦略などがそれである。粛清に関しては既に10万人以上の国民、軍人がその犠牲となっており、大きな問題となっていた。また対日戦略については、ソ連軍に全てを丸投げしたという頼り気もへったくれもないもので、モンゴル軍総司令官という事実を疑いたくなるような戦略だった。どちらかといえば、ソ連軍の一介の将官のような戦略だった。
「同志ゾリグ。同志チョイバルサンからご連絡が……」
「また催促の電話か?」
街は燃え、モンゴル兵は屍と化し、黒煙と敵機が空を埋め尽くす。現在、彼が居るモンゴル人民共和国大統領官邸『イフ・テンゲル』の窓には、延々とその光景が映り込んでいた。ゾリグはそれを見るのが嫌になり、従兵に命じてカーテンを取り付けさせている最中だった。
『同志ゾリグ、戦況は?』
「最悪です、同志チョイバルサン」
そんなゾリグの率直な意見にチョイバルサンは唸りを上げた。
『では状況を変えろ。勝利を掴み、波に乗るのだ』
「この危機的状況を打開する勝利など……」
……得られる筈が無い。そうゾリグは胸の内に呟いた。ただ唯一、勝利出来るとするならば、それは素直に負けを認め、無条件降伏をすることにあるのだろう。それならば兵の命を救い、ウランバートルに取り残された市民数万名を救うことが出来る。軍人とあらば、それこそが大勝利といえるだろう。
「同志ゾリグ、日本軍ですッ!!」
「な……何ッ!?」
ゾリグが予想しているよりも早く、帝国陸軍第十一軍は『イフ・テンゲル』に包囲線を展開した。時に1944年11月24日のことである。負けを悟ったゾリグは翌日25日、第十一軍に使者を送り、降伏の受諾を伝えた。同日1600時、モンゴル軍は降伏、武装解除を始めたが、指揮系統の異なるソ連軍2個師団は未だ抵抗を続けていた。しかし翌日26日には周辺を包囲され、ようやく降伏を受諾する。
この約1週間に及ぶ激戦は終結した。
しかし禍根は――『ウランバートル大虐殺』という名の禍根は歴史に刻み込まれることとなった。日本兵によるウランバートル市民の虐殺事件。市民3万名のうち、1万名近くが虐殺されたというこの事件は、『南京大虐殺』に代わって日本兵の残虐性・非人道性を世に伝える材料となった。被害者数十万の差、事件発生から7年近い差があるにせよ、虐殺であることには変わり無かった。
この『ウランバートル大虐殺』は後日、当事者である辻政信中佐とその上司、石原莞爾大将らの手によって闇に葬り去られている。
ご意見・ご感想等お待ちしております。




