第104話 モンゴルの戦い(中)
第104話『モンゴルの戦い(中)』
1944年10月26日
モンゴル人民共和国/チョイバルサン
『帝機関』参謀にして『大和会』のメンバーでもある辻政信陸軍中佐は、モンゴル東部国境の街チョイバルサンにその身を置いていた。同じく『大和会』のメンバーである岩畔豪雄陸軍少将に勧められた椅子にどすんと腰を下ろして、彼と顔を向かい合わせた。そこはモンゴル侵攻作戦に合わせて設立された諜報組織『岩畔機関』の本部であり、帝国陸軍第十一軍司令部の建物だった。周辺には戦車第一師団の司令部も併設され、近辺の飛行場には第一飛行師団と第零海軍特別航空隊が配備されていた。陸海軍では双方で制式採用された主力戦闘機(『疾風』、『紫電』)の部品共通化が進んでおり、時折は補給品の不足から貸し借りをする間柄となっていた。ところが陸海軍内部に根付く不仲はそう簡単に解消するものではない。中には「陸(海)軍に手を借りるなら死んだ方がマシ」という不貞の輩も居る始末であった。
しかし戦場の舞台が内陸地であっても、陸軍は海軍からの協力を惜しんでいられない状況だった。何しろ急速に拡張された機械化軍たる大日本帝国軍では、圧倒的に燃料が不足している。1944年9月からのハバロフスクを主軸とする戦線膠着化も、元は補給線が伸び切ってしまっての仕方の無い処置である。これを改善するためには、帝国海軍の輸送機、輸送艦(海・河)、陸戦隊輜重兵部隊を頼りにしなければならなかった。でなければ、帝国陸軍は大陸で孤立してしまうの必至であった。
「岩畔閣下、御久し振りです」
「それはこちらも同じだよ辻中佐、元気そうで何よりだ」
2人は満足げな笑みを口許に浮かばせつつ、帽を脱いで卓上に置いた。
――『謀略の岩畔』
そんな渾名を持つ岩畔少将が浮かべた笑みは、屈託の無い純粋なものとは一線を画した、腹に一物を抱えたようなものだった。史実、岩畔は後方勤務要員養成所(後の陸軍中野学校)や軍需国策会社『昭和通商』の設立や、印度独立協力機関『岩畔機関』の長として“影”を演じ続けてきた人物である。が、同時に彼は“光”でもあった。『対米戦争』の必要性を主張し続けてきた陸軍に居て、日米開戦回避に奔走する。1941年3月、彼は渡米し、駐米大使の野村吉三郎とともに日米開戦回避に尽力した。またその一方で『総力戦研究所』や『国策研究会』の立役者ともなり、戦時の大日本帝国の戦略・政策に大きな影響を与えている。
今物語においても、彼の活躍ぶりは留まる所を知らなかった。1939年、『帝機関』の設立とともにかの石原莞爾の伝手で『大和会』に参加。1940年の『チェンバレン・チャーチル英首相暗殺事件』では、辻政信とともに計画立案・実行に携わり、その手腕を発揮した。裏工作、人材育成、人脈構築に前評判があるのも頷ける働きぶりだった。
そして現在、彼は『帝機関』の一部局として『岩畔機関』の長となり、同時に『大和会』専用の研究機関の長ともなっていた。M4『シャーマン』中戦車を基にした『一式中戦車』の開発も、彼の存在が大きく関わっていたのである。尚、この研究機関の資金は陸海軍や皇室、民間――主に財閥――等から来ており、そこで『大和会』は政財界に太いパイプを持つことが出来たのである。
「辻中佐、遠路遥々来たのだから、何かあるんじゃないかね?」
全てを見透かす岩畔の眼に度胆を抜かれながらも、辻は務めて冷静に頷いた。
「“査察”せよ……との、石原閣下の御命令であります」辻は言った。
「成程……な」岩畔は頷き、顎をしゃくった。「“査察”か。全くあの方は……これでは体の良い抜き打ち検査のようなものではないか」
困り果てる岩畔の表情を見て、辻は苦笑いした。
「そのような顔を見るのは、実に4年ぶりの事でありますなぁ」
岩畔はかぶりを振った。「いや、そんなことは無い。毎日こんな顔を浮かべているよ。まぁ、あの時期が1番忙しかったことには違いはないのだがね。何しろ“暗殺”と言われても、だよ。日本人って奴は、ヨーロッパ人に比べて謀略に疎いんだ。まぁ、徳川の世で胡坐を掻いた結果だな」
「戦争は人を――頭脳を育てる」
「そうだ。簡単に言えば、その通りだよ」
岩畔は頷き、八分目に注がれた紹興酒を飲み干した。「戦争は人を、国を、経済を成長させる。それが現実だ。嘘じゃない。勝者にも敗者にも、その権利が――まぁ一概には言えないが――存在する。勝者は戦争から得られた富と経験を。そして敗者もまた、戦争から得られた経験とともに、勝者が零す恩恵を得ることが出来る。問題なのは、それを如何に有効利用できるか……だ」
「ヒトラーなどは、その成功例ですな」
辻の言葉に岩畔は頷いた。
「そして失敗例でもある」岩畔は言った。「ヒトラーは敗者としての権利を最大限に利用し、歴史上最高の勝者となろうとしていたようだが……奴は甘かった。あの運命の開戦――1941年12月。伊藤閣下の話が事実だとすれば、あの時にドイツがアメリカに宣戦布告する必要は無かったのだ。そしてその6ヶ月前、イギリスが降伏する前にソ連へと攻め込む愚行を犯していなければ、奴は欧州の王として君臨する筈だったろう……」
「ヒトラーは懐古主義者だったと、原大佐から聞いたことがあります」
辻はふと思い出したように岩畔の方を向いた。「あの男が成し得ようとしたのは、ドイツ第3帝国の創造ではなく、神聖ローマ帝国の再興だった……」
「今でもそれは諦めてはないだろう」岩畔は言った。「だからこそ危険なのだ。EUによる侵攻でソ連が風前の灯にある今、ドイツは近い将来、EUやアメリカに戦争を仕掛けるだろう。勝手に自滅してくれるのは結構だが、こちらに飛び火がかからないとも限らん。何しろ、我々は“共犯者”だからな」
そう言い、岩畔は自身の行動を後悔した。彼はチャーチル・チェンバレン両英首相を暗殺した計画の立案者である。その事実を踏まえた上で岩畔は今を生き、戦っている。だが将来、その相手が欧州各国やアメリカとなれば、再び日本は屈辱的な明日を迎えることとなっしまう。伊藤整一から敗戦直後の日本の惨状を聞いた彼としては、それは絶対に避けねばならない未来だった。
「辻中佐。貴官は情報網を使わず、敵国の総戦力を把握出来るか?」
その唐突な問いに対し、辻は面喰った表情を浮かべるばかりだった。
「検討がつきません。明確な情報がなければ」
「――“危機”だよ、辻中佐。戦争中、自分達の国が本当に危機的状況に陥っているのだと認識した時こそが、敵国の限界だ。まぁもっとも、これは一概には当てはまらんがね」岩畔は言った。「考えても見たまえ。史実の1942年、アメリカは我が帝国軍の猛攻を受け、危機的状況に陥っていた。フィリピンが落ち、真珠湾が攻撃され、ハワイまで攻め込まれる寸前だった。かの『ミッドウェー作戦』や『アリューシャン作戦』などはその具体的例だ。最盛期にあった帝国海軍は2つの作戦を同時進行すべく、空母6隻という破格の戦力を投入し、連合艦隊がほぼ総出だったらしいじゃないか」
辻は静かに頷いた。
「あの2つの作戦では、空母6隻、戦艦11隻、重巡10隻、駆逐艦50隻以上が参加したと聞いております。まさに総力戦でした。しかし海軍は運が無かったのです」
『ミッドウェー海戦』における正規空母4隻の喪失。辻はそれを嘆いた。
「違う、あれこそが海軍の限界なのだ」岩畔はかぶりを振った。「帝国海軍が総力を挙げたというのに、米海軍はそれを軽くあしらってしまった。兵站や無線などは問題ではない。始めから『短期決戦構想』を唱えていた山本司令長官、そしてそれに従う連合艦隊司令部は全てを出し惜しみすべきではなかったのだ。しかし貧乏気質の大日本帝国は、そのチャンスを活かし切れずに鎮火した。そこが海軍の限界であり、日本の限界だ」
そもそも貧乏国である大日本帝国が空母4隻を再建造するのは、限りなく困難というものだった。泥沼化の様相を呈する中国戦線、反発するアジア諸国、シーレーンを脅かすオーストラリアと太平洋と大陸を股に掛けた戦域は広大で、とてもカバーできたものではなかったのだ。だがその中において、空域と海域を広くカバーしていたのが――空母だった。『ミッドウェー海戦』での空母4隻の喪失は、絶好調に戦線を拡大する日本の動きを縛り、やがて防衛戦へと移行させることになる。しかしその時、アメリカは完全な戦時体制下に入っており、膨大な量の兵士、戦車、爆弾、銃、航空機、艦艇が太平洋戦線に送られ続けてきた。
「アメリカの限界は底が見えん……が、見える範囲で言えば1945年だろう」
1945年といえば、B-29が日本本土に空襲を仕掛け、『沖縄戦』などが繰り広げられた頃である。あの時、アメリカは数百にも及ぶ艦隊を沖縄や本州近海に派遣し、攻撃を仕掛けていた。あれが限界だとはいわないが、危機的状況には違いなかった。
「問題は、その状況が本当に“危険”だと認識することだ」
岩畔は言った。「その状況が本当に“危険”ということは、相手は本気の戦いを行っていることになる。そこを逆にして考えてみろ。つまり相手の本気とは、相手の能力の限界値若しくはそれに近い数値を指している。ならばその先を行けば、我々が勝利するのは当然のことなのだ」
辻は困ったような表情を浮かべた。「しかしアメリカの上を行くことなど出来るでしょうか?」
「行ってみせる……さ」岩畔は言った。「でなければ、我々は敗北することがなかったとしても、勝利も出来ないことになる。そんなことは困るからな。そのためのEUだよ」
欧州各国、アフリカ、中東、アジア等の国々がその加盟国であるEU(ヨーロッパ同盟)は、列強諸国の経済、軍隊、資源を集積、運用していく国際的組織である――アメリカとソ連は非公認――が、その欧州各国は一度、騙しうちとはいえドイツに敗北を喫している。そんな欧州各国が果たして大国アメリカと対等に勝負を挑むとすれば、それは命を落とすことになり兼ねない。ただ欧州唯一の心の拠り所となったイギリスが存在している。、各国軍の志願兵に戦時体制に困窮するご婦人方。亡命者、亡命政権、亡命軍が軒を連ねていた。また避難民も数多く逃げてきていた。
「ある意味、それが1番なのではありませんか?」
辻は言った。「『大和会』における対米戦略は“講和”を不文律としていますから」
「まぁな」岩畔は頷いた。「だが、EUの後ろ盾が無ければ、我々は裏庭である東南アジアを掃除しなければならなくなる。つまり二正面作戦を強いられるということだ。その最悪の状況下でも対処する方策を練っておかなければならないのが、祖国と国民を守る軍隊の仕事だよ」
1939年、モンゴルはノモンハンを巡る国境紛争『ノモンハン事件』が、予想を遥かに上回る激戦となったことは、帝国陸軍上層部にとっては大きな誤算であった。練度の低いソ連兵とモンゴル兵、『大和会』からの未来情報、M4『シャーマン』中戦車を始めとする未来兵器の投入。それなのに帝国陸軍が早々と勝利を掴めなかった最大の要因は、“戦車”を始めとする機甲戦力であった。M4中戦車は確かに強力な火力を有してはいたが、所詮は歩兵支援用戦車である。車載されたガソリンエンジンは燃え易く、装甲は然程、厚くはない。防御に徹し、M4の保全に務めた帝国陸軍だったが結局、この戦闘で4輌のM4を喪失、またM3『リー』中戦車なども大破している。
こうした経緯の後、帝国陸軍上層部は当時陸軍省に属していた岩畔大佐から、『大和会』とは関係を持たない独自の戦車開発計画を打診された。それが100t戦車である。重量100t、主砲には10cm加農砲を搭載し、前面装甲厚は75mmというその性能は、当時最新鋭戦車と言われながらも少数生産に留まった九七式中戦車『チハ』を凌駕するものだった。しかし超重戦車である――ということを考慮すれば、これだけの性能を出すのは当然と言えば当然だった。
結局、100t戦車は制式採用の夢を見ることが出来なかった。第1に、当時及び現在においても100tの重量がある戦車を運用出来る道路、基地、鉄道、海運が限られていたこと。そして第2に、1輌に掛かるコスト面の問題である。史実同様、100t戦車は通常の道路では自身の重量で押し潰され、陥没することが多々あった。このため、100t戦車は満足な試運転も行うことが出来ず、また一式中戦車の制式採用も決まったため、1940年の実車完成後、早くも倉庫で埃を被ることとなる。
「それで、これがその後継車ですか……」
瞠目する辻に岩畔は頷いた。
「仕様書……だがな」
「まるで“絵に描いた餅”ですな」
辻が渋い顔で言った。
「俺も最初はそう思った。だが、既にイギリスでは開発が始まっているらしい」
岩畔がそう説明するその戦車は、英日伊3国が共同開発中の新型重戦車『センチュリオン』である。ソ連軍のIS『スターリン』重戦車、そしてドイツ軍の『ティーガー』戦車に対抗すべく、このセンチュリオンは生み出された。計画立案の発端となったのは、1943年5月。フィンランドの『5月決戦』での戦車戦が元だった。ソ連軍は試作の『IS-1』重戦車少数と繋ぎの『KV-85』を投入。一方、ドイツ軍は主力重戦車『ティーガーⅠ』を配備し、これを迎え撃った。一連の戦闘でソ連軍は甚大な被害を出す一方、EU軍側もドイツ軍を除き、大きな損害を被った。特にイギリス軍は1943年4月に配備されたばかりの新型巡航戦車『クロムウェル』が全く役に立たなかったことに大きなショックを受け、ソ連軍のIS重戦車に対抗し得る新型戦車の開発を急ぐこととなった。
かくして誕生したのが『センチュリオン』である。
その性能諸元は――。
■『五式重戦車オイ』性能諸元
全長:8.83m
全幅:3.35m
全高:2.92m
重量:50.2t
懸架装置:ホルストマン式懸架装置
速度:34.0km
行動距離:95km
兵装
主砲:四式71口径88mm戦車砲×1
(弾薬搭載量:92発)
副兵装:二式7.7mm車載重機関銃×2
(弾薬搭載量:1000発)
装甲
(砲塔)
防盾:145mm 前面:120mm
側面:75mm 後面:75mm
(車体)
前面:75mm 側面55mm
エンジン
ハ65川崎三式発動機改造
液冷V型12気筒ガソリンエンジン
(出力:600hp)
乗員:4名
大日本帝国陸軍の五式重戦車『オイ』は、『センチュリオン』を国産化した新型戦車である。主砲には英陸軍のオードナンスQF17ポンド戦車砲ではなく、ドイツ陸軍の71口径88mm戦車砲を採用した。別の戦車砲を搭載する例は、イタリアの90mm戦車砲などが該当する。そしてこの71口径88mm戦車砲は『ティーガーⅡ』に採用されている新型戦車砲であり、その破壊力は世界最高峰を誇っていた。故に生産コスト、技術水準、量産体制の問題が尽きない。独自生産の目途は経っておらず、現状はラインメタル社の技術者を招聘し、騙し騙しに生産していく予定だ。
また、発動機には『ロールス・ロイス・マーリン』エンジンの国産ライセンス品である『ハ65』を改造した液冷V型12気筒ガソリンエンジンを開発、生産することとなった。当初は英国がマーリンエンジンを基に開発した『ロールス・ロイス・ミーティア』車載型ガソリンエンジンを採用する予定だったが、ライセンス生産の問題から折り合いがつかず、なくなく川崎が戦車用に独自開発することとなった。
尚、補足であるが史実では『オイ』というのは100t戦車の後継車である140t戦車に付けられた略称で、“大きなイ号車(八九式中戦車)”の意味を持つが、今物語での『オイ』は“大きなイギリス車”の意味を持っていた。情報隠蔽と遊び心が生んだ産物である。
「だが問題は多い。88mm戦車砲は三式砲戦車の経験から生産までは漕ぎ着けたが、量産とまではいっていない。それに主戦場の問題だ。これまで戦ってきた満州東部国境線は荒地や湿地が多くて、ソ連軍大戦車隊の侵攻を妨げてきた。だが今回は、我々の反撃を妨げる要因ともなり得る。45年まで戦争が続くかどうかは分からんが、重量50t超の『オイ』が国境の過酷な地形に対応出来る筈がないだろう」
岩畔は渋面を浮かべた。
「更に問題は――日本の狭い線路だ。最大の運搬手段である鉄道が全く役に立たん」岩畔は言った。「この『オイ』は全幅が3mを超えている。一式中戦車でも精一杯で、三式砲戦車では駄目だったという過去の苦い経験がある。結局、インフラ整備で一部の線路は改修されたが、現在でも大部分の線路は三式砲戦車を受け付けないのだ」
辻は唸った。「渡河の問題もありますね。我が帝国陸軍の架橋能力ではせいぜい20tが限度でしょうから。やはり初期型はシュノーケルの搭載を?」
「ああ。その他あるまい」岩畔は頷いた。「やはりインフラ整備と工兵の拡張は必要条件だよ。『オイ』が本領を発揮するのは」
五式重戦車『オイ』の前途は多難だった。本家である『センチュリオン』が未だ実車も完成しておらず、総重量50t超というヘビーな五式重戦車を見る帝国陸軍上層部の眼は懐疑的なものだった。そもそも島国であり、技術後進国である大日本帝国にこれほどの規模の重戦車が本当に必要なのか? 同時期に制式採用が確定している五式中戦車――Ⅴ号戦車『パンター』のライセンス生産戦車――との相互運用の必要性は存在するのか? そしてコスト面や生産面から見た長期的なメリットは存在するか? 全ては列強諸国から“重戦車”と認められたものを運用した実績の無い帝国陸軍としては未知数であり、同時にそれが大きな不安要素ともなっていた。
また五式重戦車『オイ』は、不足している資源、人材、輸送手段を多く必要とする。主砲たる71口径88mm戦車砲も足りていない始末であり、岩畔によれば当面は新型の十糎戦車砲を代用とし、開発して生産していく予定だという。これは国産開発の新型戦車砲であり、大日本帝国独自の技術開発を望んだ帝国陸軍上層部と『大和会』の意思決定によって生み出された産物でもあった。88mm戦車砲の不足する分についてはこれを搭載、運用していく。
時に1944年10月末のことである。それから約1週間に渡る激戦の末、モンゴル人民共和国指導者の名を冠した街チョイバルサンは――陥落した。モンゴル軍は速やかに撤退したが、その数は開戦当初より大きく減少していた。無論、帝国陸軍もである。モンゴル軍は旧式のT-26軽戦車を筆頭に機甲戦力を揃えていたが、その中にはT-34やIS-2の姿もあった。これらのソ連製戦車の前には、M4中戦車を基に開発された一式中戦車では力及ばず、三式砲戦車や三式中戦車の数は足りなかった。そんな現状を見た岩畔は、早期に帝国陸軍の機甲戦力を拡充させることこそが、大日本帝国の繁栄に繋がることだとして、その新たな意気込みに胸の高まりを覚えつつ、戦火広がるモンゴルの大地を見た。
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