第103話 モンゴルの戦い(前)
第103話『モンゴルの戦い(前)』
1944年10月19日
大日本帝国占領地/ウラジオストク
『ハバロフスク攻防戦』開始から約3ヶ月、極東のソ連都市ハバロフスクは――陥落した。大日本帝国軍を主力とするEU極東方面軍は勢力範囲を拡大、満州国及び中国本土からソ連軍・モンゴル軍を蹴落とし、その戦線を北上させるに至った。そして現在、大日本帝国軍は沿海州、樺太島、ユダヤ自治州、アムール州、ハバロフスク地方(ハバロフスク以南)をその占領下に収めた状態にあった。
一方、海では大日本帝国海軍連合艦隊及びイギリス海軍東洋艦隊が制海・制空権を完全に掌握していた。これに対抗する筈のソ連海軍太平洋艦隊は、先の『第二次日本海海戦』で主力艦艇の8割を喪失、沿海州の母港ウラジオストクを占領され、現在はカムチャッカ地方のペトロパブロフスク・カムチャスキーに撤退していた。残存艦艇による小規模の通商破壊作戦は展開されていたが、その戦果は微々たるものだった。増援を呼びたくとも、既にバルト海・黒海のソ連艦隊はEU軍によって撃破・または鹵獲された状況にあり、資源・人材不足で造船もままならなかった。特に極東圏での大粛清は苛烈だった。スターリンはソ連海軍の数多の提督・士官達を血祭りに挙げ、技術者達も軒並みシベリア送りとなっていた。
事実上のソ連太平洋艦隊の消滅は近かった。が、同時にソ連極東方面軍の壊滅も現実味を帯びてきていた。本国からの物資供給は滞り、多くの兵士は西へと送られていく。残ったのは現地の民兵、農民兵、病傷兵ばかりで、ろくな人材が残されていなかった。教養の欠片も無い彼らにしてみれば、T-34中戦車は農耕用トラクターに大砲を積んだ乗り物であり、水道の蛇口は水を出してくれる“魔法”の道具であり、ウォッカは人も車も動かせる“燃料”だった。統率の執れない人海戦術――いわば本当の“力押し”を戦術の要とし、地の利を活かした効果的なゲリラ戦法は殆どとられていなかった。代わりに行われたのは“盗賊”や“追い剥ぎ”に近い行為であった。
だが1944年9月、ついに大日本帝国軍の進撃は停滞した。原因は伸び切った補給線にあった。帝国陸海軍は鉄道網、河川、空輸等でピストン輸送を行っていたが、既に行動限界点に達していた。結果、『ハバロフスク攻防戦』から約1ヶ月間、EU軍の攻勢はストップされた。
行き詰った大日本帝国軍大本営は、ハバロフスク地方及びカムチャッカ地方に対する攻勢を一時中断、その侵攻の矛先をモンゴルに向けた。1944年10月、『モンゴル侵攻作戦』が大本営で承認され、作戦符号は『寇』と命名された。この『寇』は言わずもがな、1274年と1281年の二度に渡り、当時にモンゴル帝国によって行われた日本侵攻――『元寇』からきている。この元寇は九州北部を戦場として行われた戦乱の一つで、日本史においては唯一の本土に対して外国から受けた軍事的侵略だった。軍艦900隻余で行われたこの一大侵攻作戦では、第一次の『文永の役』では蒙漢軍約4万に対し、日本軍約10万。第二次の『弘安の役』では蒙漢軍約15万に対し、日本軍約25万と二次の戦役で数の差で圧倒する日本軍だが、それを打ち破ったのが、近代的軍隊として機能する蒙漢軍の戦術・兵器の数々だった。
しかし二度の戦役では『神風』――という名の気象現象――が吹き荒れたことにより、蒙漢軍の侵略を断念させる結果になった。海上に展開する蒙漢軍の軍艦は沈み、兵站を欠いた蒙漢軍は敗走した。結局、モンゴル帝国は日本本土侵略を中断し、この未曾有の戦争は幕を閉じたのである。
それが現代の日本人にどう映っているかは別として、国民の世論を重視する大本営や政府にしてみれば、この歴史的出来事を利用しない手は無かった。作戦符号の『寇』もその表れである。軍部は今回のモンゴル侵攻作戦を『元寇』や『ノモンハン事件』の報復と位置付け、政府はそれを喧伝した。軍部に唆されるのが政府ならば、それに踊らされるのが国民である。『元寇』の舞台となった九州を中心にモンゴル侵攻作戦を支持する声がどっと溢れ、軍部と政府の株は鰻昇りとなった。
1944年10月18日、内地は横須賀にて海上護衛総隊司令部の勤務に就いていた藤伊一中将は、霜降迫るウラジオストクに向かった。しかし寒い。横須賀は暖かな秋らしい気候にあったが、大陸の玄関口たるウラジオストクでは、街々をくり抜いたように築かれた軍港が初雪を被っていた。こうも寒暖の差が違い過ぎると、身体の方も幾分かの異変を察知するというものだ。特に御年64歳の藤伊の老体には、ウラジオストクの気候は堪えた。彼は従兵から革コートを貰い、それを着込んだ。
「閣下、御久し振りであります」
戦艦『大和』艦橋で、帝国海軍連合艦隊司令長官の吉田善吾大将は歓喜の声を挙げ、握手を求めてきた。その隣には、同期であり史実では連合艦隊司令長官を務める筈だった男、山本五十六海相と、現内閣首班たる米内光政総理の姿があった。その他、満州国内で活動している『帝機関』参謀総長、石原莞爾陸軍大将、『大和会』古株であり現戦艦『武蔵』艦長の森下信衛大佐、連合艦隊参謀長の伊藤整一中将、そして暗躍する参謀――辻政信陸軍中佐が来席していた。
「辻中佐、貴様が公に姿を見せるとは珍しいな」
藤伊中将は辻を見て、呆気に取られたように言った。辻は戦場での諜報活動に従事することが多く、『大和会』の会合にも殆ど出席していなかった。その顔には深い皺が刻み込まれ、洗い落とすことの出来ない戦場の汚れに塗れていた。
「明日にはモンゴルに発ちますよ。戦車第一師団と合流する予定です」
「ほぅ……戦車第一師団か。『冬戦争』以来ではないかな?」
藤伊の問いに対し、辻は静かに頷いた。
「『5月決戦』では背中を預けた間柄です」辻は言った。「あの後、戦車第一師団はフィンランドから呼び戻され、満州戦線の最前線で戦ってきたらしいですが……今回のモンゴル戦線は、彼らにとっては朝飯前も同然の任地でしょうね」
1943年5月、辻政信中佐は欧州の大戦車戦を目撃した。兵站と通信の基盤が整えられたその戦車戦は激闘を極め、両陣営ともに数多くの戦車と兵士を吹き飛ばした。T-34中戦車の露骨な駆動音とパンターの主砲が奏でる美しい砲撃音、Ju87『シュトゥーカ』のけたたましくも頼もしい咆哮は辻の身体を流れる血液を滾らせ、得も言われぬ感覚を覚えさせた。だが今回のモンゴルでは、そのような感覚を覚えるのは不可能だろうと、辻は考えていた。
「欧州戦線の賜物だ。T-34の数が激減し、IS重戦車が姿を現さなくなったからな。それだけでもめっけものだよ」藤伊は言い、琥珀色の液体が注がれたグラスをグイと飲み干す。「とはいえ、モンゴル軍の戦力はここ1年間の戦争であまり低下していない。油断すると、各個撃破を喰らう羽目になるやもれしんぞ? モンゴル軍はソ連軍とは違い、地の利の使い方が上手いからな」
辻は頷いた。「『帝機関』でも、その報告は多いです」
「問題は――」
そこに山本が割り込む。「今回の戦争で日本が勝ち過ぎたことです。これは大きい。現在、我が占領地は沿海州、ユダヤ自治州、樺太島、アムール地方、ハバロフスク地方を有しています。しかしその後に及んで、モンゴルやカムチャッカ地方への侵攻を計画しているのですから、大本営の浮かれ振りは目に余るものがありますな……」
隣に座っていた米内は頷き、ウイスキーで喉を焼いた。
「軍部は勝ち馬に乗り続ける気なのだ。それが暴れ馬で、自分が落馬寸前の状態だというとにも気付かずにな」米内は言った。「今回の一件、アメリカが黙っている訳が無い。中国の権益を我々が諦めたとはいえ、ソ連の長大な領土を獲得したのだ。このままでは、地理的にアリューシャンとアラスカに圧力を掛けることとなり、アメリカを刺激することに繋がる」
それを横で聞いていた伊藤は、静かに頷いた。
「名将は引き際を知っている」
「伊藤中将、買い被りだ」
米内は鋭い声で言った。
「買い被りではありません。しかし適切な引き際を知り、それを判断し、実行出来る人間というのはそうはいない。だが、閣下はそれをやってのけられる」
「それが皇国と皇民のためなのだ」米内は言った。「本来、我が大日本帝国はかの国のB-29により、我が国は焼け野原となる筈だった。だが、それはもはや回避された歴史なのだ。だが、それが永遠とはいえない」米内は続けた。「事実、アメリカはB-29を完成、制式採用したと聞く。来年には、B-29を超える長距離戦略爆撃機の製造も始まるらしい。このまま勝ち続けば、その生産がますます急がれるだろう」
「その前に『富嶽』と『G』を……ですね?」
不敵な笑みを浮かべる石原に対し、米内は不満げな顔を浮かべて言った。
「あぁ……そうだ。あの2つが完成すれば、我々は次に進める」米内は言った。「ソ連を下し、アメリカを屈服させ、ドイツを抑え込む。それが私の使命なのだ」
石原は首を振った。「血を得るために血を……ですか」
「ここまでに流された血を無駄にしないためだ。賽は既に投げられているのだよ」米内は言った。「この状況を打開するには、一旦、戦争を終結しなければならない。だからこその軍部への警告なのだよ」
圧倒的不利を打開する唯一無二の存在――『原子爆弾』。通称“G”と呼ばれるその戦略兵器は現在、満州国内の研究施設でその開発が進められていた。一時はソ連軍の侵攻で中断した『G計画』と『Z計画』はここにきて、復活の兆しを見せていた。レイ・シラード始め、『マンハッタン計画』に参加する筈だった研究者達が集められ、密かにウラン濃縮実験が進行していたのだ。研究者達の多くは、ドイツや欧州各国を追われたユダヤ人であったが、彼らは“ユダヤ自治州”――と呼ばれるソ連領地域を戦後、ユダヤ人の独立国家として承認する旨の情報を聞かされ、俄然、やる気だった。
「この戦争を終わらせれば、“ユダヤ自治州”を“エルサレム”に変えることが出来る。そこから彼らユダヤ人の技術、資金力、人材が満州に流れ込めば、我が大日本帝国はこのアジアで確固たる地位を築くことが可能であろう」
そんな藤伊の発言に、一同は言いかけた言葉を飲み込んで頷いた。
「まさかそんな時代が訪れるとは……」
沈黙を保ってきた森下は、ここで思わず感嘆の声を漏らした。「かつて私が生きた大日本帝国は――アジアの旗手として反旗を翻し、米英列強諸国と戦った。英国海軍の戦艦2隻を沈め、米国海軍の奥地に斬り込みを掛け、一挙にマレーとフィリピンを陥落せしめた……」森下の声は張りを失いつつあった。「だが1942年、大局における我が帝国の絶対的優位は、脆くも崩れ去ってしまった。帝都が空襲を受け、ミッドウェーでは正規空母4隻を喪失。ガ島でも敗北を喫し、そして……」
「――私の死」山本は言った。「そうですな?」
気落ちした場の空気に森下はふいに話題を変えたくなったが、胸の内に秘めていた言葉は自然と森下の口から漏れ出していた。
「あの頃、私は泣きました。多くの将兵がそうでしたでしょう。山本閣下の死。帝国にとって、最悪の喪失だと私は思います」森下は言った。「そして私はあの頃、“たられば”があれば……と考えておりました。閣下の乗機が撃墜されず、存命であったならば、と」
山本は首を振った。「物事に“たられば”は法度だよ」
「勿論、それは承知しております」森下は頷いた。「ですが、そうでもしなければ、あの頃を過ごせなかったでしょう。閣下はそれだけの人間だったのです」
「そりゃ、君の歴史ではそうだろうけど、今の連合艦隊司令長官は吉田だよ」山本は言い、吉田を差した。「君は私を買い被り過ぎだよ。私がその歴史でやったことは、ただただアメリカという国を引っ掻き回し、日本という国に迷惑を掛けただけだ」
森下はかぶりを振った。「ご謙遜を」
「さて、どうかな」
山本は言い、更に続けた。「私の器の大きさは、神と母のみぞ知ることだからね」
そう語る山本は苦笑いの表情を顔に作り、グイッとウイスキーを飲み干した。
1944年10月20日
モンゴル共和国/チョイバルサン
1944年10月、大日本帝国軍は『寇』一号作戦を発動した。発動と同時に大日本帝国陸軍の『第二方面軍』は基幹の3個軍(第十一軍、第十二軍、第十九軍)はモンゴル国境を越え、侵攻を開始する。3個軍はそれぞれ、第十一軍が満州里、第十二軍がノモンハン、そして第十九軍がエレンホトから侵攻を開始した。
そのうち、満州里からモンゴル東部国境の街チョイバルサンに攻勢を仕掛けたのが、第十一軍だった。磯田三郎中将を総司令官とする第十一軍には、ハバロフスク戦線から“戦車第一師団”が編入されている。この戦車第一師団はかの『四式中戦車』や『三式砲戦車』等を保有する精鋭師団であり、先の『冬戦争』では『遣欧陸軍』の中核を担い、数に勝るソ連軍を相手取った経験を持っていた。師団長は星野利元中将に代わって名倉栞中将が務める。
名倉中将は前代の星野中将同様、満州国の四平陸軍戦車学校長を務めていた経験がある人物で、機甲部隊の運用に長けていた。ただ、師団長着任は約4ヶ月前の1944年6月と実戦の経験が浅く、不安要素を含む人物でもあった。
だが、この戦車第一師団は紛うこと無き、アジア随一の精鋭機甲師団だった。装備は新型戦車等を融通され、無線機器や燃料物資の配給も優先的に行われている。他国の戦車を多数併用し、互換性と稼働率の低さに悩まされている戦車第五師団とは天地の差であった。また将兵の士気・技量ともに最高の水準であり、他の戦車師団からは羨望の眼差しを受けるほどだった。
そんな彼らが次に狙うのが――チョイバルサンだ。
宵闇に包まれたモンゴルの荒野は紅く燃えている。荒涼とした大地は地平線に沈みゆく夕陽によって切なく、茜空を疾駆する四式複座戦闘機『覇龍』の姿を映えさせた。第零特別海軍航空隊へと新たに配備されたこの新型複座戦闘機は、一〇〇式司偵の後継機であり、同時に優秀な戦闘機でもあった。非常に安定した走りを見せ、その重厚な巨躯からは想像もつかないような軽快な飛行ができた。その爽快感たるや、一度空を飛んだ者にとって病みつきになることはまず間違いなかった。圧倒的速力、優れた機動性、長大な航続能力、そして大火力は『キ-83』と呼ばれていた頃から有するアドバンテージだった。
その性能諸元は――。
■『四式複座戦闘機覇龍』性能諸元
全長:12.95m
全幅:15.65m
全高:4.85m
主翼面積:37.08㎡
自重:7,010kg
全備重量:11,530kg
最高速度:740km
発動機:ハ43-11ル(離昇2,200馬力)×2基
航続距離:2,400km
兵装:
両翼:二式20mm機関砲×4門
(装弾数各200発)
機首:三式30mm機関砲×4門
(装弾数各120発 戦闘機型)
:三式50mm機関砲×1門
(装弾数22発 対爆撃機型)
:四式57mm機関砲×1門
(装弾数20発 対爆撃機・襲撃機型)
:四式37mm機関砲×1門
(装弾数35発 対爆撃機型)
翼下:三式55mm噴進弾×24発
:250kg爆弾×2基
胴体下
:九三式航空魚雷×1基
(海軍艦載機型)
乗員:2名
1941年、帝国陸軍は爆撃機の直掩を目的とした護衛戦闘機の開発を三菱に指示、誕生したのが『キ-83』であった。キ-83に求められたのは大きく3つ。すなわち、『速力』『重武装』『互換性』である。速力については計画値上は700kmが最高だが、将来的には700km以上を出すことが求められた。また武装は30mm機関砲4門・20mm機関砲4門という異例の重武装化が指示され、同時に三式55mm噴進弾が使用出来ること。そして帝国陸海軍双方でこの機体を運用するため、整備面での互換性・部品共通化が求められた。これは整備の安易化とコスト・時間の削減を狙った試みであり、犬猿の仲の帝国陸海軍としては異例の試みでもあった。更に製造に掛かる工数の削減も盛り込まれていた。
かくして1944年5月、この異例中の異例というべき戦闘機の試作機が完成の日の目を見ることとなった。『キ-83』設計主務者、久保富男は海軍から提供された“鹵獲戦闘機”の機体と詳細資料を基に、独自の工夫も組み込みながら設計案を整えていった。久保が海軍から提供された“鹵獲戦闘機”とは、『夢幻の艦隊』から回収されたF7F『タイガーキャット』艦上双発戦闘機で、これは運用思想・設計等がキ-83と非常に酷似している機体だった。機関砲8門搭載、2100馬力級エンジンを動力源としたそのパワフルな機体は、1941年当初、三菱重工業の開発陣を大いに驚かさせた。だが時代は進み、EUの誕生や国力増強によって、現在では飛び抜けた戦闘機ではなくなっていた。
実際この時代、双発戦闘機という存在は一つの“問題提起”となっていた。1942年から続く欧州戦争が“護衛機としての双発戦闘機”の必要性を否定したのである。実戦において、双発護衛戦闘機は軽快且つ、速度がほぼ同等な単発戦闘機には対抗出来ず、戦場からその姿を消しつつあった。ならば双発戦闘機など必要だろうか? そんな当たり前の疑問が各国空軍内に芽生え、議論が繰り返されることとなった。
そこで考えられたのが、単発戦闘機の持たない速力・重武装・航続距離を追求することだった。また、爆撃機の護衛機としてではなく、敵爆撃機の邀撃や対地任務に運用を変更することだった。かくして作られたのがキ-84であり、四式複座戦闘機『覇龍』であった。
四式複座戦闘機『覇龍』は双発の大型戦闘機でありながら、制空任務のみならず対地・対艦攻撃任務も視野に入れ、場合によっては雷撃さえ実行出来るというF7F『タイガーキャット』の血筋を引く機体だった。その機体構造は中翼配置に首輪式降着装置を備えたオーソドックスな仕様だった。F7Fとは違い、空母運用を想定していないので主翼は折り畳み式ではない。帝国陸海軍はこの機体を邀撃機・襲撃機型として多用することを決定している。
また四式複戦『覇龍』は陸軍機としての利を活かし、史実のF7Fよりも遥かに優れた防弾性能を誇っていた。まず、操縦者席背面及び同乗者席背面には厚さ12mmの防弾鋼鉄、更に操縦者席頭部後面には厚さ8mmの鋼鉄が装備されていた。主翼内に搭載された燃料タンクは、内装式の防漏被膜を施したセルフシーリングタンクで、炭酸ガス噴射式自動消火装置と窒素ガス注入装置が配備されていた。
更に武装として左右翼内に二式20mm機関砲各2門、計4門を備え、機首部には三式30mm機関砲計4門を搭載していた。すなわち計8門の航空機関砲を『覇龍』は装備していることになる。これほどの大火力を有する機体は帝国陸海軍としても初めてのことであり、故に運用自体が危惧されているのも実情だった。
戦時体制により品質の低下した航空機関砲の整備、計8門の機関砲射撃で発生する衝撃とその機体への影響、弾薬の弾詰まりの問題、そして陸海軍での互換性の問題。いずれも初の試みであったが、それは第零海軍特別航空隊の整備班が苦労することにより解決されるであろう問題だった。特零空の整備班が新型機に苦労するのは通例であり、日常的光景だった。新設当時はF4FやF6F、九七式戦闘機、隼といった国内外、陸海軍の戦闘機・爆撃機入り乱れての現場に整備班はただただ唖然とするしかなく、日々の気苦労が絶えなかった。
そしてそれは現在にしても変わらない。新型機を優先的に配備される“精鋭実験部隊”――といえば聞こえは良いが、内部の人間は堪ったものではない。異なる部品、異なる構造、異なる運用、それらを把握し、実際に維持していこうと思えば、それなりの技量と努力が必要になる訳である。知識人たる伊藤整一でも、畑違いとならばそういった現場の声を完全に汲み取れないのが実情だった。
「射ッッッッ!!」
五式陸上攻撃機が最初の爆撃を敢行したのは、1800時のことだった。モンゴル東部国境の都市、チョイバルサンの市街地に物凄い閃光が迸って、夜の闇が白んだ。爆撃を受けたチョイバルサン市内は混沌に支配された。煌々と炎が燃え、黒煙と対空弾幕が夜空を埋め尽くす。建物は倒壊し、道路は陥没してぽっかりと穴が開いていた。それでも五式陸攻の爆撃は止まらない。爆弾倉が悲鳴にも似た音を立てて開閉、無数の爆弾が投下される。爆弾はそのままチョイバルサン市内に着弾し、炸裂した。閃光と爆炎が周囲を支配するのは時間の問題だった。
『敵機視認ッ! モンゴル空軍のお出ましだ』
ソ連空軍から機体供与・指導を受けているモンゴル人民共和国空軍は、I-15複葉戦闘機やI-16単葉戦闘機を迎撃に上げた。しかしこれらの機体は1930年代から使われ続けている年代物で、とてもではないが帝国陸軍の三式戦闘機『飛燕』や四式戦闘機『疾風』に対抗出来なかった。唯一の非旧式機としてYak-1戦闘機の姿も少ないながらもあったが、これにしても実戦経験を積んだ帝国陸軍の精鋭パイロット達には敵わないのが現状だった。
「こちらに任せろッ!」
そんな中、十数機のI-153戦闘機に立ち向かうのが、樫出勇大尉と四式複座戦闘機『覇龍』だった。樫出大尉は1943年6月に制式採用された三式複座戦闘機『轟龍』を駆り、1943年の満州戦線で戦い抜いてきた。だが今回のモンゴル戦線では新たに『覇龍』を受領していた。
「さぁ来いッ! 相手になってやる」
その時、英国製100オクタン価航空ガソリンを積んだ四式複戦『覇龍』の時速は750kmにも達していた。これは帝国陸海軍のレシプロ機の中では最高速度であり、I-15複葉戦闘機との速力差は390kmにも及んだ。また武装にしても、『覇龍』が20mm機関砲4門、30mm機関砲4門の計8門なのに対し、I-15は7.62mm機銃がせいぜい4門である。副兵装としてRS-82ロケット弾6発の搭載も許されていたが、覇龍は当然ながら三式55mm噴進弾を24発搭載可能だった。
「射ッ!!」
刹那、覇龍の巨躯から8本の火箭が噴き放たれ、無防備なI-15に襲い掛かった。ところが、あまりの速力性能に機関砲とI-15が追い付けず、その火箭全てがI-15の脇を縫って飛び切り、初撃は空振りに終わってしまった。それに目を付けたのが、獲物であった筈のI-15とモンゴル空軍パイロットである。I-15鈍重な旋回で覇龍の左後方に回り込むと、ここぞとばかりに7.62mm機銃で攻撃してきたのだ。無数の7.62mm弾は覇龍の尾翼を掠め、機体後部に複数の孔を穿った。だが、機体は黒煙を噴き出す気配が無い。当然と言えば当然だった。覇龍はI-15とも比べ物にならない程の防弾性を誇り、高速性能を有している。一度、背後を突かれれば時速700km以上の俊足で敵機の追撃から容易に逃れることが可能なのである。特に旧式機であるI-15が相手では、勝負は目に見えていた。
覇龍は時速700kmで急旋回する。この時、樫出大尉の身体には激しいGが加わり、機体は悲鳴のような声を上げていた。両翼がガクガクと揺れ、操縦桿は普段よりもやや硬い。だが、操縦には支障は無かった。次の瞬間、覇龍はI-15の背後を取り、その立場を逆転させていた。
「射ぇぇぇぇぇッッ!!」
轟音が樫出大尉を揺さぶった。その刹那、8門の機関砲が一斉に砲火を開き、8条の火箭が再びI-15を襲い掛かった。その迫力たるやまさに――何もかもを焼き尽くす龍の息吹であった。8門の機関砲から放たれた射線はI-15の両翼と尾翼を貫き、閃光が走り黒煙が上がった。
「敵機、撃墜ッ!」
I-15の敗北を見た樫出大尉は即座に無線機をひったくり、四式複戦『覇龍』の初戦果を高らかに告げた。大日本帝国軍の技術力の勝利である。この日、チョイバルサン防空任務に着いたI-15、I-16、Yak-1、LaGG-1戦闘機のうち、計58機が帝国陸海軍の航空隊の攻撃を受け、撃墜された。これに対し、帝国陸海軍側の損害は戦闘機28機、爆撃機12機の計40機だった。既に1万機以上の航空機を運用、生産している大日本帝国軍にしてみれば、それは微々たる損害だった。ところが航空機の生産もままならないソ連・モンゴル空軍にしてみれば、今回のそれは大敗北もいい所だった。
しかし今回、初の実戦投入となった四式複戦『覇龍』は、1機の喪失を除いて全機が無事――または小中破――な状態で帰還している。それはひとえに、F7F『タイガーキャット』から培った大火力・通信設備・速力が関係しているのは間違いなかった。
とにもかくにも覇龍は初陣で勝利を遂げ、その面目を施したのである。
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