第102話 モスクワ攻防戦(後)
第102話『モスクワ攻防戦(後)』
1944年8月1日
ソビエト社会主義共和国連邦/モスクワ
首都モスクワの心臓部、ソ連の中枢――“だった”赤の広場にはもはや、観光客はおろか愛国心に満ち満ちた人民の姿さえ無かった。居たのは、首都防衛の任を帯びたソ連空挺軍第4空挺軍団の兵士達と、ソ連空挺軍最高司令官であるワシーリー・A・グラズノフ中将のみであった。グラズノフ中将は心底疲れ切った表情を浮かべ、上空を貫く幾条もの白い筋を見張った。もはや、戦局はEU側の圧倒的優勢下。そんな中、グラズノフはソ連軍最高司令部の命令に従い、隷下にある数少ない精鋭戦力の第16独立親衛空挺師団をモスクワの空に解き放ったのだ。彼が見たのも、第16独立親衛空挺師団を乗せた輸送機編隊だった。
第16独立空挺師団の主要任務は、イストラへの攻撃だった。イストラはモスクワ郊外にある町で、EU北部方面軍の前線司令部及び補給拠点が設置された町だった。今回の作戦では、第16独立親衛空挺師団が輸送機による空挺降下でイストラ背面部に展開し、同町の物資集積所、司令部、燃料施設、飛行場等を徹底的に破壊し尽くし、モスクワに展開するEU軍の補給線を寸断する――というのが具体的な任務内容だった。
(しかし残念な結果に終わるだろうな……)
グラズノフ中将は内心、そう呟いた。既にモスクワ周辺はEU空軍の制空権下であり、地上には強大な対空砲部隊が配備されていた。イギリス軍のレーダーシステムが随時、モスクワ上空を監視しているので、第16独立親衛空挺師団の発見にそう時間は掛からないだろう。万一にも見つかれば、後の結果は大体予想が着く。ドイツ空軍のMe109戦闘機に屠られるか、イギリス空軍のスピットファイアに弄ばれるかの二つに一つだろう。
それにイストラの後方予備兵力は潤沢と聞く。いまや全戦線において、EU軍の兵力はソ連軍を勝っている。無論、当初はソ連軍の方が兵力は大きかった。しかし物量で極東と西ヨーロッパでの攻勢失敗によって多大な損失を出し、今やその兵力は限られている。予備兵力を崩し、何とか防衛に専念できているような状況なのだ。
一方でEU軍も完全勝利という訳ではないが、ソ連軍よりも出血の量が少ないのは明らかだった。むしろベラルーシやウクライナといった衛星国占領地から獲得した国土と資産、戦争特需によってEUは肥え太り続けていた。軍備は戦時という名目の下に増強され、戦時国債は飛ぶように売れている。世界恐慌以降、経済不振と社会問題、そして祖国の衰退を見てきたヨーロッパやアジア諸国の人々にしてみれば、今回の戦争は非常にエキサイティングで、華々しい戦いだった。スターリンやモロトフを皮肉った風刺画と一緒にEU軍の勝利を讃えるプロパガンダポスターが軒を連ね、ラジオや新聞は連日に渡ってEU軍の勝利のみを語り続けた。それと比例するかの如く、日々の生活水準は確かに向上し、人々は戦争の凄惨さなどとは全く無縁の世界を楽しみ続けることができたのである。無論、フィンランドやポーランドといった、実際に戦場へと変貌した国を除いてだが。
それでもEU加盟国の大半の国民は、自国政府とEU政府を賞賛し、支持している。
その一方で、ソ連人民の不満は日々募るばかりだった。スターリンが約束した『勝利』――の二文字は開戦当初、確かに民衆と兵士達を奮い立たせた筈の言葉だった。ところが現在、その言葉が意味するところは――『嘘』の一文字であった。人々は勝利などという言葉を信じなくなり、指導者スターリンも否定し始めた。EUとの戦争による圧倒的敗北とこれまでスターリンが行ってきた悪政、この2つの要因が人々の思考に働き掛け、ソ連という国とスターリンという男の存在を否定するようになったのである。
(この戦争もだ。スターリンの糞野郎め……部下の命を……)
そしてグラズノフ中将もまた、そんな人間の一人だった。彼はEUとの戦争をこれ以上続ける意味が無いと考えており、意地を張るスターリンに憎悪を抱いていた。誰も戦争など望んではいない。ソ連人民が望むのは、1個のパン、1杯のウォッカ、そして1足の靴下だ。それはかつて、彼がロシア帝国軍で痛感したことだった。第一次世界大戦時、ロシア国民はそれを願ったからこそ、『ロシア革命』を引き起こした。祖国は分断され、赤軍と白軍による長き長き殺し合いが繰り広げられた。同胞達が銃を向け、その命を奪い去る。罪の意識に苛まれ、自殺する者も少なくは無かった。
そんな歴史を生きた者として、グラズノフはスターリンが成した“結果”に不満を抱く。彼がやったことは祖国の繁栄ではなく、自身の繁栄を築くものでしかなかった。今回の戦争にしろ、それは変わらない。巷では、モロトフを殺されたことに対する復讐心から生まれた戦争――として今回の戦争は通っており、事実、それは本当のことだった。問題は、一個人の死と数千万の人民の命を秤にも掛けず、瞬時に戦争という判断を下してしまったことである。それがスターリンの指導者として能力を疑問視させる要因となり、ソ連への愛国心を削ぐ要因ともなった。
1944年8月1日、EU北部方面軍はついに首都モスクワに侵攻し、『モスクワ攻防戦』が幕を開けた。開戦開始は午前6時。心地良い風が吹き、黎明の空輝く朝のことだった。ドイツ空軍を主力としたEU空軍の準備爆撃から全ては始まった。先行するのはHe177『グライフ』とJu87G『シュトゥーカ』だ。どちらも巧みなブレーキ捌きで緩やかな降下を行い、猛烈で正確無比な爆弾の雨がソ連兵の頭上に降り注ぐ。その轟然たる飛翔の姿を目の前にした者達は、いずれも舌を抜かれたように沈黙してしまった。
続いてMe262『シュヴァルベ』ジェット戦闘機とFw190戦闘機の編隊が黎明の空を引き裂き、市街地から緊急発進するソ連空軍のBIロケット迎撃戦闘機の撃破に向かった。モスクワのソ連首都防衛軍にしてみれば、それが最後の希望だった。BIはドイツ空軍のMe262に唯一対抗することの出来るロケット迎撃戦闘機である。しかしBIは呆気無くMe262の前に敗れ、次いでFw190にも打ちのめされた。中には、離陸直前で空中分解する機体まで出てくる始末である。これは、実戦配備に急ぎ過ぎて部品や生産日数を削減してしまったことが起因する。
この頃のソ連軍内では、とにかく兵器の品質低下が深刻な問題となっていた。戦闘機では機関銃の弾詰まりは当たり前、エンジンの故障は日常茶飯事だった。戦車においては、T-34の生産が核を占めていたが、このT-34でも無線機の未搭載がソ連兵の間では常識だった。銃火器も日々劣化し、火砲も第一次大戦以前のものがよく前線で見かけられるようになった。
それほどまでにソ連が追い込まれていたのである。史実、300万の大軍を誇るドイツに勝利を成し得たのは人民の愛国心、ソ連の超大な国土から生まれる人的資源、そしてアメリカの支援があったからだ。アメリカが1941年に制定した『レンドリース法』でソ連は航空機1万4795機、戦車7056輌、ジープ5万1503輌、トラック37万5883輌、機関銃13万1663挺、食糧447万8000t、石油製品267万t等をアメリカから融通して貰っていた。
ところが今物語において、アメリカは未だ中立的立場を崩してはいなかった。ルーズベルト大統領は秘密裏にソ連へと支援を行っているが、極東のウラジオストクが陥落した後、その支援の規模は著しく縮小する。何しろ『冬戦争』開戦後から始まった同支援では、全体の7割の物資がウラジオストクのルートを通じて本国へと送られていたからである。残りの3割は現在、ムルマンスク経由の北極ルートを通じてソ連に届けられているが、その量は微々たるものだった。そもそも支援自体が機密であり、中々大規模に行えない実情だった。そんな中、物資7割の供給を担う『ウラジオストクルート』が遮断され、ソ連にはますますアメリカの物資が届き難くなっていた。
だが、ソ連も底の浅い国ではない。未だ予備兵力として300万名以上の兵士――銃を持ったことも無い農民や工場労働者が大半だが――を有している。またソ連軍内部では、航空機2万機、戦車2万5000輌、火砲11万挺の生産が見込まれていた。これはソ連お得意の『人海戦術』をフルに活用したものであり、その力の程は本物だった。
ソ連軍最高司令部もまた、自国軍の敗北を完全に信じている訳ではない。但し、バクー油田やドネツ炭田といった資源地帯をEUに占領されてしまうことは、それに繋がる問題だとして認識はしていた。事実、先のEU空軍による戦略爆撃と補給路遮断作戦により、西からの支援を断たれた極東地域では、ソ連極東方面軍が大敗を喫していた。資源に欠ける極東方面軍は戦車や戦闘機もろくに動かせず、大日本帝国軍に蹂躙されるままだった。そんな状況がもしこのヨーロッパでも発生してしまえば、ソ連軍の欧州戦線での“勝利”が危くなることは確かである。
かくして首都モスクワを始め、ソ連各地では冬に備えての防御戦の構築に多くの時間を費やしていた。スターリン率いるソ連政府はウラル山脈以東に引っ込み、ウクライナやベラルーシの各都市は要塞化が成されていた。これには『電撃戦』によって数々の勝利を収めてきたドイツ軍も驚くしかなかった。もはやソ連自体が『要塞』と化そうとしている。強固な防御陣地を迂回する――というのが電撃戦だが、全てが要塞化しつつあるソ連では、防御陣地を迂回しても次の防御陣地が顔を見せる状態にあった。
ところが今回の第16独立親衛空挺師団の攻撃は、その戦略を阻害する行動だった。現在、首都モスクワではソ連空挺軍隷下の10個空挺師団が改編され、狙撃兵師団となっている。しかし第16独立新親衛師団は数少ない輸送機に乗り込み、イストラへと飛び去っていく。結果、首都防衛線の一角はポッカリと“穴”が開いてしまったのだ。ソ連空挺軍最高司令官であるグラスノフ中将は、隷下の10個狙撃兵(空挺)師団からそれぞれ戦力を抽出し、第16独立親衛空挺師団の穴を埋めた。限られた時間の中でそれを迅速に行えたことは賞賛に値する。しかしここを突かれれば、首都防衛は成り立たなくなる。グラズノフはそう考え、景気付けに“ブラッディ・マリー”を煽った。紅いその液体は喉を伝い、ヒリヒリと胸を熱くさせる。そしてグラズノフは副官に“全軍待機”を命じ、皿に盛られた黒パンを頬張りながら、街の上に姿を現し始めた朝陽を眺めた。
「このクソッたれがッッ!!」
8月1日の早朝、第16独立親衛空挺師団第2連隊を率いるイーゴリ・アリーニン大佐は、イストラの北東にある小さな村の畑に空挺降下した。輸送機の多くは黒煙を噴き、慌てふためいていた。その背後からはMe109戦闘機の大編隊が迫りつつあり、地上から無数の高射砲が火を噴き上げている。制空権を欠いた空挺作戦はまさに地獄だった。
着地した瞬間、古傷の膝に激痛が走り、彼は悶絶して地面に横たわったまま、動けなくなってしまった。第一声もこの出来事を含んでのことだったが、彼が罵声を飛ばす理由はもう2つほど存在した。まず一つが、古傷。そしてもう一つが、パラシュートを付けずに投下された補給物資である。
彼は1943年、『冬戦争』時にソ連空挺軍のとある“実験”に参加させられる羽目となっていた。それは、パラシュートを付けずに低空から空挺降下する――というものである。高度10m、時速は約300km程度で、地面は積雪によって白一色に覆われている。その状況を見て何を思ったのか、ソ連空挺軍の指揮官は1000名以上に及ぶ空挺兵をパラシュート無しで空挺降下させたのである。
勿論、結果は最悪なものだった。空挺兵の半数は骨折、若しくは負傷し、作戦は中止となった。その当事者こそがこのアリーニン大佐であった。当時、中佐だった彼はこの無謀な試みに勇んで参加したが、結局得られたのは全治3ヶ月の骨折と全身打撲だけだった。
そしてそんな彼の眼前には、低空からパラシュート無しで投下され、地面にめり込んだ形の補給コンテナの姿があった。その形は見る影もなく、各所各所にへこみや傷が見受けられた。亀裂が走った部分から覗く小銃は、投下の衝撃によってへし折れていた。食糧はミンチ状態となり、とても食べられたものではない。まさに悪夢の光景だった。
しかしこれは現実である。史実においても、“パラシュート無しの空挺降下”は人や物に限らず実際に行われていたのだ。結果は前述したようなものだった。
かくして、第16独立親衛空挺師団の作戦は始まったが、その前途は多難だった。可及的速やかに空域を離脱しようとパラシュートも付けられずに投下された物資は、その大半が着地の衝撃によって破壊され、使い物にならなくなっていた。物資の中には銃火器が多数含まれており、その多くも使用不能となっていたため、この時点で数多くの空挺兵が装備無しの状態となってしまった。彼らはナイフや農具を武器とし、戦うしかなかったのである。
数分後、アリーニンはパラシュートのハーネスを外し、歩き始めた。だがこの時点で、第2連隊はその半数の空挺兵が銃火器を持たず、彼の不安は募るばかりだった。この状況を打破するためには、敵の補給施設を発見、攻撃し、奪取するしかない。もっとも、数も質も欠いた第16独立親衛空挺師団が重武装のEU軍を撃破出来るかは疑問だが。
イストラのEU北部方面軍総司令部では、『ドイツ陸軍の頭脳』ことエーリヒ・フォン・マンシュタイン元帥と、『微笑みのアルベルト』ことアルベルト・ケッセルリンク空軍元帥の両名が、代用コーヒーとブロートヒェンという質素な朝食を摂りながら、作戦指揮室で戦略図を見張っていた。代用コーヒーは携帯コンロで程良く温められ、ブロートヒェンは炙られて焦げ目が付いていた。ただ、残念ながら味は酷いものだった。代用コーヒーはコーヒー豆ではなく、大麦やドングリを挽いて作られた代物であり、ドイツの伝統的な朝食パンであるブロートヒェンはパサパサとしていて味気無い。
勝利に次ぐ勝利を重ねているドイツ軍だが、当時のドイツ第3帝国の台所事情は深刻だった。戦前に積み重ねた借金と莫大な戦費はドイツの財政を圧迫し、国民生活は混迷を迎えていた。ソ連領から資産を没収してはいたが、その大半は借金と戦費の充てに消えてなくなる。こうして現在、ドイツ軍では将官さえもが代用コーヒーを啜るような事態に陥っていたのである。
そもそも補給の問題もあった。EU軍はモスクワ以西を掌握しているとはいえ、ソ連軍の残党は各地に潜伏していた。そしてそのソ連軍はゲリラ戦を展開し、鉄道網や道路に妨害工作を仕掛けていたのだ。その結果、多くの補給物資がモスクワ戦線に届くまでにストップしていた。
「ソ連軍1個空挺師団がイストラ北東に展開したのだな?」
マンシュタイン元帥は代用コーヒーを啜りつつ、渋面を浮かべた。
「そうだ。ドイツ空軍第52戦闘航空団と第7教導航空団が迎撃に向かった」アルベルトはその顔に笑みを湛えている。「ソ連空軍は護衛機も満足に付けられなかったらしい。YakやMigはあらかた撃墜され、輸送機は一目散に逃げ去ったよ」
このモスクワ戦線でEU空軍の中核を担うのは、『ドイツ空軍の双璧』と謳われる第52戦闘航空団と第7教導航空団であった。第52戦闘航空団にはあの“エーリヒ・ハルトマン”を始め、ギュンター・ラル、ヘルマン・グラーフといった敵機撃墜数200機超えの怪物達が軒を連ねていた。撃墜数100機超えであれば、さらに多い。一方の第7教導航空団にはドイツ空軍第2位のエース、ゲルハルト・バルクホルンを始め、司令官でありエースであるアドルフ・ガーランド、ヴァルター・ノヴォトニー、エーリッヒ・ルドルファー、オスカー=ハインリヒ・ベール、ヴァルター・クルピンスキーといった200機~100機超えのエース達が集まっていた。そして同時に彼らは、Me262ジェット戦闘機を駆り、『ジェット・エース』と謳われる存在でもあった。
そんな第52戦闘航空団と第7教導航空団を前にしたソ連空軍は、まさに“相手が悪かった”と言わざるを得ないほどの大敗北を喫した。戦闘機328機、輸送機350機、爆撃機120機、グライダー280機の計1078機が撃墜される事態となった。これはソ連空軍史上でも最悪の敗北の一つだった。首都防空航空隊はその戦力を著しく低下させ、制空権は完璧にEU空軍の手中へと落ちてしまった。虎の子の爆撃機と輸送機も壊滅したため、モスクワからの脱出手段も大きく限られたことになる。
「敵は何を考えているんだ? 穴蔵に籠っておれば生き延びられたものを……」
「政治的判断が軍事的戦略を瓦解させたのだ」
引き攣った笑みを口許に湛えるアルベルトに対し、マンシュタインは言った。
「スターリンも堕ちたものだな」
アルベルトは言い、静かに首を振った。華々しい勝利は政府の宣伝活動に色を添える反面、数多くの若者を死なせる。そして今回のそれは敗北である。無駄死にもいい所だろう。理不尽な命令によって命を絶たれた大勢の若者達がおり、同時にそれを迎え撃って死んだ多くの若者もいる。戦争とは、若者が年寄り達によって扇動されて起こる殺し合いなのだ。
「しかし今回の攻撃は好機だ。空挺師団は包囲殲滅すれば簡単に撃破出来るだろう。一方、モスクワには1個師団分の席が空いている。これが何を意味するかは……分かるかね?」
「ああ、防衛線に薄い部分が出来たということだろう?」
アルベルトの答えにマンシュタインは頷いた。
「そういうことだ」マンシュタインは言った。「空軍にはありったけの偵察機を要請したい。モスクワに展開する敵戦力の概要を把握したいんだ。上手く行けば、敵の防衛線を突破できる」
1944年8月3日、イストラに展開していたソ連空挺軍第16独立空挺師団は全滅した。EU軍機甲部隊による包囲と武器の不足が原因だった。またモスクワ市内では激しい市街地戦が繰り広げられた。一つの建物、一つの部屋を奪い合う凄惨な戦いは、双方の陣営に多くの死傷者を生み、無数の悲劇を生んだ。ソ連軍は地下壕から瓦礫と化した建物廃墟に至るまでを利用し、徹底抗戦を続けてEU軍の士気を挫いた。連日、砲撃と爆撃の雨が降り注ぎ、モスクワはその繁栄と栄光の姿を失っていく。包囲されたソ連軍は空軍の輸送機によって補給を繋いでいたが、それも数週間を過ぎた頃には途絶えてしまい、ソ連軍は完全に孤立してしまう事態となった。馬一頭、犬一匹、鼠一匹に至るまでが食され、やがてモスクワから動物の姿は見えなくなってしまった。深刻な食糧不足とチフスを始めとする感染症はソ連軍を内側から崩し、その継戦能力を削いでいった。
そして3ヶ月後の1944年11月16日、モスクワは陥落した。
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