【番外編】美味しそうなリンゴ 後編(ルーク視点)
宮廷内に移動したリアの部屋を訪ねた俺は、テーブルの上にリンゴが飾ってあるのを見て、思わず昔の事を思い出していた。
一つ手にとって、その感触を確かめる。
この小さな果実が、あの時俺の命を繫いでくれた。
王太子として、自分のやるべき事を思い出させてくれた。
姉上にも感謝せねばならないな。
あの時、その身をとして諭してくれたから、こうして心から大切だと思える人に巡り合う事が出来た。
「どうしたのですか、ルーク。ボーッとリンゴを眺めて」
隣に座るリアが、不思議そうな顔をして尋ねてきた。
「いや、少し昔の事を思い出していただけだ。このリンゴ、どうしたんだ?」
「シャーロッテ様に頂いたんです。お裾分けよって。蜜がたっぷり入って、ちょうど食べ頃らしいので、よかったら一緒に食べませんか?」
「それでは頂こう」
「はい。切ってきますので、少しだけ待っていて下さい」
しばらくして、俺の前に出されたのは耳のようにピンと一部の皮を立てたひし形のリンゴ。均一の大きさで切りそろえられたそれは、美術品のように見事な造形だった。
「珍しい切り方をするのだな。まるでリンゴが生きているようだ」
「リンゴは皮にも豊富な栄養があるんですよ。でも、皮のまま食べるのって少し抵抗があるでしょう? そこで、この兎さんです。前世ではよく母がこうやって切ってくれて、可愛いから食べるのが勿体なくて、眺めてたら弟のリクが横からつまみ食いするんですよ。『コイツ等は、今すぐ俺に食べられたがっている!』なんて言って。結局、競争して食べちゃって、すぐになくなっちゃうんです」
懐かしそうに目を細めて、少しだけ寂しそうに笑うリアの姿がそこにはあった。
「仲がよかったのだな」
「そうですね……たった一人の、弟でしたから」
リアは前世を懐かしんで、たまにこうして寂しそうに笑う時がある。
この世界の両親とは幼い頃に死別して、朧気にしか思い出せない代わりに、生まれ変わる前の記憶は結構鮮明に覚えているようだ。
リアにとってリンゴは、もう会えない家族との懐かしい思い出の象徴なのだろう。
その思い出を大切にしたまま、リアを笑顔に変える方法がないか考えて、俺はフォークを手に取った。
「コイツ等は、今すぐ俺に食べられたがっている!」
わざとリクの真似をしてリンゴを食べると、リアは目を丸くしてこちらを見た後、おかしそうに笑っていた。
「急に……っ、どうしたのですか?」
「リクの真似だ。似てたか?」
「リクはそんなに上品ではないです。フォークなんて使わず、手で掴んでましたから」
一つ目のリンゴを平らげた俺はフォークを置いて、二つ目を手に掴む。
「ほら、リアもはやく食べないと無くなってしまうぞ?」
「そうですね……っ、では、いただきます」
少しはしたなくもあるが、リアが笑顔を取り戻してくれた事にほっと胸を撫で下ろす。
こうして共に過ごした日々が、いつかリアの心の中で、懐かしい思い出になってくれたら俺は嬉しい。
「甘くて美味しい! このリンゴ、すごく美味しいですよ、ルーク!」
一口リンゴを頬張ったリアは、大変気に入ったようで頬を緩めて満面の笑みを浮かべている。
俺の渾身のモノマネより、リアを笑顔に変えたそのリンゴに少しだけ嫉妬しつつも、それでも幸せそうに笑ってくれるなら……まぁ、いいかと結論付ける。
「姉上は、色んな作物の目利きに長けているからな」
「そうなのですか?」
「自分で収穫した作物をよく、慈善活動として孤児院に寄付されているのだ。そのため、恵まれない子供達に少しでも美味しいものを食べさせてあげたいと、公務の合間に近くの農園を訪れては見聞を広めておられる」
「普段のお話からも、色々な事に精通されていて凄いと思ってましたが、そこまでだとは知りませんでした。今度シャーロッテ様に、美味しいリンゴの見分け方も含めて、色々教えて頂こうかと思います」
「リンゴ狩りにでも行きたいのか?」
「いえ、その……ルークの隣を歩むために、少しでもためになることは勉強しておきたいなと思いまして。これからのために……」
恥ずかしそうに頬をリンゴのように赤らめて、リアはそわそわと視線を彷徨わせている。
俺の隣に並ぶために、相応しくなりたいと言って。
反則だ。何だこの可愛くて美味しそうな生き物は。思わず食べてしまいたい。
「リア……」
無意識のうちに伸ばした手が、隣に座るリアの真っ赤に染まった頬を捉えていた。
「え、あの……ルーク?!」
赤く色づいた愛らしい唇が俺の名前を呼んだ瞬間、理性で抑えていた欲望が一気に爆発した。
美味しそうな果実に吸い寄せられるように身体を寄せて、触れるだけのキスをした。
どれくらいそうしていたのか分からない。
顔を離すと、リアは瞳を潤ませ、胸を押さえて必死に息を吸っていた。
「呼吸、止めてたのか?」
「はい。死ぬかと……、思いました」
な、なんという事を。俺は自分の欲望でリアを殺そうとしていたのか?!
「すまない、そんなつもりはなかったんだ。リアがあまりにも嬉しい事を言ってくれるから、つい我慢できなくて……」
「でも、すごく幸せでした」
「……え?」
「まだ、胸がドキドキしてます。この苦しさも、この胸の高鳴りも全て、ルークがもたらしてくれたものだから。そう思うと、すごく幸せでした」
俺は今、男として何かを試されているのだろうか?
本当は、もっと貪欲に貪りたかった。
しかしかろうじて働いた理性が、最初からそれは止めておけと、歯止めをかけた。
それなのに、そんな頬を赤く上気させ潤んだ瞳でこちらを見上げられては……
これ以上その顔を見ていては危険だと、思わずリアの身体をこちらに抱き寄せた。
すると、リンゴのように甘い香りが鼻先を掠めた。
リアがリンゴだとしたら、俺はきっと芯まで食べられる。種も気にせず丸呑みできる。
いや、駄目だ。全て食べてしまったら、リアは俺の前から消えてなくなってしまうじゃないか。
そんなのは耐えられない!
そうか、だったら種を植えよう。
たくさん植えていっぱい増やせばいいじゃないか。
そうすればいつでも食べ放題だ。
ちょっと待て、それは本当にリアなのか?
いくら姿形が似ていようと、リアとは似て非なるものだ。
そこまで考えて、少しだけ冷静になった頭が重大な事実に気付く。
そもそもリアはリンゴではないと。
「幸せなのは俺の方だ。ありがとう、リア。俺と出会ってくれて。傍に居てくれて。この思いを受け入れてくれて。俺は今、きっと世界中の誰よりも一番幸せだ」
リアは俺の背中に手をまわして抱きしめ返してきた。「それはこちらの台詞ですよ」と、手の力のぎゅっと強めて。
幻覚魔術師などと、最初はなんて胡散臭い奴だと思った。
しかしリアの使う幻覚魔術は大変優れた魔法で、俺はその認識をすぐに改めた。
リアのおかげで、あんなに毎晩悪夢に苦しめられていたのが嘘のように、気持ちよく眠れるようになった。
そのおかげで、倦怠感と頭痛に苛まれていた体調も良くなり、公務がかなり捗るようになった。
父上が特別功労者と認めるだけの力は確かにあったと思う。
驚かされたのはそれだけではない。
自分の欲望に忠実で、王太子であるこの俺を、時間外ですからと邪険にして軽くあしらう遠慮のなさ。
こちらの機嫌を窺わないそんな女、今まで生きてきた中で初めて見た。
そんなリアを見ていたら、変に疑いを向けるのさえ時間の無駄だと馬鹿らしくなった。
リアの中にあったのは、食欲と睡眠欲と知識欲。
それらを自分のペースで自由に満たして楽しそうに謳歌していた。
飾らない、そんな自然体なリアだったからこそ、こちらも変に気負う事無く自然体で話が出来た。
気が付けば、毎晩寝るのが楽しみになっていた。
変に理由を作ることなく堂々とリアに会えるのが、嬉しかったのだと思う。
王城内で無意識にリアの姿を目で追うようになっていて、追い返されると分かっていても図書館に通った。
案の定最初は邪険にされたけど、それでも受け入れてくれるようになって、読んだ本の感想を語り合えるようになって、毎日が楽しかった。
そんな日常が当たり前になっていて、俺は忘れていた。リアは俺の不眠を治すために、仕事でここに居るだけなのだと。
閨を共にしたあの日、床についた瞬間本当に三秒で眠りについたリアを見て、変に色々意識していた自分が恥ずかしくなった。
リアにとって、あくまで俺は仕事で関わりがあるだけの存在で、それ以上でも以下でもない。
隣であどけない寝顔で眠るリアを見ていたら、色々考えるのが馬鹿らしくなっていつの間にか寝ていた。
目覚めると、何か柔らかいものを抱きしめていた。
ぼんやりとした意識がはっきりとして、それが何なのかすぐに理解した。
あろうことか、俺はリアの身体を抱きしめて寝ていたのだ。
慌てて離れたものの、バクバクと激しく脈打つ心臓の音でリアを起こしてしまうんじゃないかと不安になって、すぐに部屋を後にした。
それからというもの、リアを見る度に高鳴る胸の鼓動が抑えられなくなって、鎮めるために距離をとった。
しかしそれでも気が付けばリアの事を考えていて、アシュレイと共にサロンに向かうリアを窓から見かけては、心が締め付けられるように苦しくなった。
俺のために作ったという抱き枕を渡されて、嬉しかったはずなのに素直に喜べなかった。
この不眠が治ったら、リアは俺の前から居なくなってしまう。
欲しかったのは抱き枕じゃない。リアそのものだったんだと気付かされた。
俺の告白を、リアは社交辞令で返してきた。
それでも、諦めきれなかった。何としてでも繋ぎとめておきたかった。
恨まれる事になっても、それでも傍にいて欲しかった。
こうして今、俺の腕の中に居てくれる事が本当に奇跡のようだと思う。
愛しているよ、リア。
アンタが寂しさを感じる暇もないくらい、誰よりも幸せにすると誓おう。
だから一緒に、たくさんの思い出を作っていこう。
亡くなったご両親と前世のご家族に、笑顔で報告出来るような楽しい日々を、これから共に──










