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Black File  作者: 葱鮪命
85/196

File047 〜書き換えジャック〜

「えーっと、次は......」

「そういや、資料渡されてたよな」


 手紙を投函したバレットとエズラは、続いての超常現象に向かっていた。それは西区で最近起こっている不可解な出来事らしい。


「昨日まで靴屋だったところが消防署に......犬がライオンに......車が......ナッツに??」


 二人は公園のベンチに座って資料を確認した。人も居ないので堂々と膝の上に広げられる。バレットは資料に目を通して文章を読み上げた。


「突然物体が変化するんだってな。犬がライオンって......ライオンにリード付けて散歩しているってことか?」


「ペットにしては凶暴すぎるよな!? 車がナッツって......どういうこと?」


 バレットはピーナッツの殻を半分に割って中にハンドルや椅子が付いているのを想像した。面白い発想ではあるが、現実の道路にそんなもの走っていたらまず間違いなくニュースになるだろう。


「目撃者多数......街灯が鉛筆に......」

「でかさは変わらないで、形だけがその物体になるってことかな」

「でっかい鉛筆が立ってるのか? 等間隔に?」


 エズラは公園を囲んでいる街頭を一通り見回す。あれが全て鉛筆に変わったとしたらかなりシュールな絵だ。


「その理論で言ったらさっきの犬はその犬の大きさのままライオンになるのかもなー。だったら可愛いかも」

「大型犬なら笑えないだろ。つか、中身は犬なのか......? 外見が変わるだけ?」

「そんじゃあ街頭の形をした鉛筆は、鉛筆の先っぽが光ってんの? 面白いじゃん!!」


 公園を囲む鉛筆の先に光が点っているのを想像してバレットは腹を抱えて笑っている。それをエズラは呆れ顔で眺めていた。


「何が面白いんだよ。街頭ならまだ笑って済ませられるだろうが、靴屋が消防署になるのはまずいだろ。それってつまり、火事があったら皆靴屋に飛び込むってことだぞ? 中身が変わってないとしたら靴屋が迷惑だし、消火活動も遅れるだろ」


「あー、たしかに。笑い事じゃ済まないな」


 公共の施設など、人が多く活用する場所などの外見が変わってしまえば人々が混乱するのは納得がいく。

 実際資料によれば靴屋の主人が火事の報告を受けて驚いたという情報があった。

 他にも病院がスーパーマーケットに変わるなどがあり、ものによっては命に関わってくる重大な問題だ。


「で......何が原因なんだろうな?」

「今もこの街の何処かで起こってるとしたら、現場に行った方が早いな」

「だねー」


 二人が頷きあって資料をしまったところで、突然子供の悲鳴が聞こえてきた。弾かれるように其方を見ると、遊具の滑り台を滑ろうとしていた五歳程の小さな子供がいた。が、その子は何やら遊具の上で怯えて動けなくなっている。


「何だ?」

「行ってみよ!」


 二人は遊具に近づいてわかった。遊具の下に巨大な蛇が居るのだ。エズラとバレットの身長を優に超える大きさの、胴体は子供の体がすっぽり収まってしまうほどの太さだ。


「でっっか!! ノースロップにこんなでっかい蛇いんの!?」


 蛇は前に進もうとしているが、モゾモゾと動いてその場から離れようとしない。上の子供を狙っているのかもしれない。エズラは咄嗟に蛇を飛び越えて子供がいる頂上の柵を掴んでよじ登った。


「おい、大丈夫か」

「ミミズが大きくなった!!」


 子供が泣き叫んで言った。バレットの頭にもエズラの頭にもハテナが浮かぶ。この滑り台の下に居るのは大蛇だ。ミミズではない。


「ミミズって......これは蛇だよ」

「蛇じゃなかった!! さっきまでミミズだった!!」


 子供は怯えていたが、エズラに抱えられて地面に下ろされた。蛇はなかなか襲ってくる気配がない。


「急におっきくなった!!」

「エズラ、これってもしかして」

「ああ、でもだとしたらさっきの仮説が違かったことになるな。ミミズの大きさから大蛇になるって......」


 二人の頭には今見つけるべき超常現象が思い浮かんでいた。既にこの近くで悪さを働いていたようだ。これはチャンスである。


「エズラ、追いかけよ!」

「はあ!? 追いかけられるもんなのか!?」


 エズラは公園の中を見回してみるが、特に変わったものは見られなかった_____、


「うわああ!!!?」

「なんだ!?」


 公園を囲む木々が次々と白いものに変わっていく。それは二人もよく知る野菜のように見えた。


「あれって......カリフラワー?」

「何で......って、蛇は!?」


 完全に気を取られていたのに気づいてバレットは蛇を振り返るが、蛇はその場でふにゃふにゃ動くだけで前に進もうとしていない。エズラが蛇の皮膚に触れた。


「ちょっとエズラァァ!!?」


 バレットが手を出して止めさせるがエズラは「これ、実体がないぞ」とバレットにも触らせた。完全に蛇の感触を想像していたバレットだが、蛇の皮膚に触れても空気がそこにあるだけだ。まるで空中に映された映像のように、実体がまるでそこに存在しない。


「これ、もしかしたら見た目がただの蛇なだけで、ミミズが本体なんじゃないのか?」

「だとしたら、この辺触ったらミミズ居るのか?」


 バレットは最初に触れた場所から手をずらして蛇の腹の中心部に腕を突っ込んだ。指先に冷たい感触を感じた。地面だとしたら変な感触だ。触れてみると動いているし、細長い。これが本体のミミズらしい。


「こいつだ!! ミミズの周りに蛇のエフェクトかかってるだけだよ、これ!」


 子供がエズラの足元でまだ怯えていたが、二人が腕を突っ込む蛇が本物ではないと気づいたらしく泣き止んでいた。


「追いかけないとまずいことになりそうだな」

「車が形も大きさも変わったら事故になりかねないよ。なあ、ボク、お兄さん達行っちゃうけど後は大丈夫か?」


 一人で遊んでいたとは言え、また一人にさせるのも不安だが、今は追いかけるべき対象がある。だが子供は不安げな顔で蛇を見つめていた。


「俺が残る。お前は行ってろ」

 エズラが子供の肩を引き寄せてバレットに言った。


「分かった。何かあったら教えて!」


 バレットは手で電話のマークを作って耳に当て、公園を出た。


 街の至る所に、あってはならないものがチラホラ配置されている。ショーウィンドウのマネキンは巨大なかぼちゃ、店の品は鼠の死骸、ベンチが電子レンジ。


 いちいち足を止めていては埒が明かないので頭に記憶しておくとして、被害が続いている通りをバレットは駆け抜けた。


 被害はバレットの行く方向で多発していた。実体のある超常現象だとしたら捕まえるチャンスはあるのかもしれない。現に公園の木々がカリフラワーに変化した時、時計回りに姿を変えて行った。更にその本数は公園の入口の周辺の木々だけ。数が多すぎて途中で諦めたのか。


 手の届く範囲で動く超常現象だとすれば、実体がある可能性がある。実体があればB.F.に持ち帰って実験をできるのだ。


 交差点でようやく止まると、エズラから電話がかかってきた。


「もしもしエズラ!? そっちどうなった?」


『男の子が母親と帰った。蛇の姿もミミズに無事に戻った。けど、少し聞いて欲しいことがある』


「おお、何?」


『ミミズの体に黒いペンで落書きがされてあった。字が小さくて読みづらいけど......【ヘビ】って書いてある』


「ヘビ......ちょっと待って!!」


 バレットは踵を返して来た道を戻り始める。エズラと別れて最も初めに見た、かぼちゃに変えられたショーウィンドウの中のマネキンが元に戻っている。そのマネキンの首に【かぼちゃ】と書いてある。


「ペンで落書きされた物体に変身する超常現象だと思う。エズラ、ミミズの写真撮って送って」

『わかった』


 エズラが写真を撮っている間、バレットはマネキンを眺める。文字の感じは癖のある字だ。人が書いたものに違いない。


『送った』


 バレットはエズラから送られた写真を見る。確かにミミズの胴体に【ヘビ】と書かれている。その字体はミミズの体の細さによって潰れて見えづらいが、確かに目の前のマネキンに書かれているものと一致していた。


「時間が経つと元に戻るみたいだ。たぶん時間にして五分ちょっと」

『そうだな。子供の話からしてミミズが蛇に変身してそれぐらいだった。公園の木もカリフラワーから普通の木に着々と戻っているな』

「分かった。一回合流しようか」

『ああ』


 バレットは電話を切った。ブライスから預かっている、ボールペン型のカメラでマネキンを撮影し、近くのベンチに腰掛けた。一度見失ってしまったから、もう一度探さなければならない。


 *****


 エズラはすぐにやってきた。二人は早速超常現象を探すために歩き出す。


「俺が最後に見たのはベンチが電子レンジになっているところだった」

「それにも落書きがしてあったってことだよな」

「そういうことになるんじゃないかな」


 交差点まで戻ってきたので、エズラとバレットはそれぞれの方向を確認する。すると、


「あっちで子供が乗っている乳母車がティーカップに変わったって」

「私も聞いた。子供は無事だったのかしら?」


 バレットとエズラは一瞬目を合わせて、信号が青になった途端再び走り出した。一分ほど走ると、歩道で泣いている子供を抱いている女性を見つけた。彼女の傍らには人一人入れそうなほど大きなティーカップが置物のように置いてあった。


「大丈夫ですか!」


 バレットが彼女に駆け寄る。


 話を聞けば突然乳母車がティーカップに変わったそうだ。乳母車に【ティーカップ】と書かれたのは想像がつく。


 確認したいところだが相手を追いかけたいので、バレットとエズラは五分経てば元に戻ることを伝えて、超常現象を追いかけた。


 道行く先でやはり同じ現象が多発していた。


「超常現象に実体があるわけじゃないのか?」

「うん、皆口を揃えて、突然なったって言うもんね。落書きが浮かび上がるのかな」


 バレットは下唇を噛む。このままでは埒が明かない。追いかけて、逃げられたのいたちごっこになってしまう。


「バレット、止まれ」

「なに!?」


 バレットはエズラに腕を引っ張られて足を止めた。エズラはバレットを掴んでいる方と反対の手で街のゴミ箱を指さしていた。


「ゴミ箱がどうかした?」


 このゴミ箱は得に違和感は無い。これが元々ポストや出店のワゴンだったとしたら納得は行くが、今までの変化してきた物体は明らかにそこにあればおかしいと感じるものばかりであった。


「ゴミ箱の中身」


 バレットはエズラに言われるがままゴミ箱を覗き込んだ。ゴミ箱の中に細長いものがいくつも捨てられている。それが市販で売られているペンだと気づくのに、バレットはそう時間がかからなかった。


「これって、あの落書きに使われてる......!?」


「確定じゃないが、この量を捨てるっていうのもおかしな話だろ」


 確かに、ゴミ箱の中には五本のペンが捨てられていた。どれもインクの色は黒で、太さも同じだ。丁度落書きされているものもそれと同じく太さに思える。試しにキャップを取って手のひらにペン先を当ててみるがインクが無く、掠れた線が浮かぶだけだった。


「丁寧に文具屋でペン買ってんのか!」


 バレットは笑いそうになるのを堪えて言う。また笑えばエズラに非難されるのを知っていたのだ。だが、超常現象がわざわざ文具屋でペンを購入して落書きに励んでいるのを想像すると面白おかしく感じる。


「やっぱり超常現象自体に実体があるのか。万引きとかできるのかもしれない。こうして姿は見えないわけだし」

「近くの文房具屋で話聞いてみよう」

「分かった。今度は俺が追いかける」

「うん、よろしく、エズラ」


 二人はまた別れた。バレットは近くの文具屋を携帯の地図アプリで調べる。サンプルにゴミ箱から捨てられていたペンを数本手に取り、それを持って近くの文具屋に駆け込んだ。


 文具屋と言ってもスーパーなど、ペンが売っている場所は数多い。何処でも手に入るのだから、片っ端から店を調べていたらキリがない。


 入った店の店員に聞いてみたが、返ってきたのは期待していた答えではなかった。


「んー......ナッシュさんとコナーさんの班に手伝ってもらうか......」

 バレットは電話を取り出した。すると同時に、


「うお!!」


 電話が鳴り出した。エズラからだ。


「もしもしエズラ、どした?」

『姿を表したぞ、あの落書き野郎!』

「え!? 今どこ!!」

『スーパーマーケットの前だ! 歳は12歳くらいで、水色のシャツに、短パン履いてる! ポケットにペンが二本、それで_____』


 ぶつん!!


「おい、エズラ!?」


 突然電話が切れた。何やら苦しげな声が聞こえた。電話が何度も地面に押し付けられているような音がしたので、取っ組み合いになっていたのかもしれない。


 バレットは取り敢えず手に入れた情報だけでエズラを探すことにした。突然電話の音が切れてしまった原因も気になる。


 なにより、あの超常現象に実体があるとすれば、掴まえるチャンスが巡ってきたということだ。


 *****


 考えつくスーパーマーケットに走るが、そこには誰も居なかった。エズラも、彼が言っていた少年というのも。


 ただ、無造作に倒されたゴミ箱と、その中に捨てられていたらしいコーヒーの缶や紙ゴミがその近くに落ちていた。


「くっそ、遅かったか......」

 バレットが悔しさに下唇を噛んで、電話をエズラにかける。すると、近くでバイブ音がした。


「何処だ!?」

 バレットが音のする方に行ってみるが、そこには倒れたゴミ箱があるだけだ。しかし音はそのゴミ箱の下から聞こえてくる。不思議に思いながらゴミ箱を上げると、そのゴミ箱の下に電話が落ちていた。


「エズラ、電話落としていったのか」


 バレットは電話を拾い上げる。ついでにゴミ箱も戻そう、とゴミ箱を立て直し、近くにある空き缶を拾おうとしたが、


「あれ、ん!!?」


 何も無い空間だが、空き缶の前に何かがある。透明な壁があるかのようだが、壁という表現では少し足りない。何故ならそれは妙に温かい、そして布のような感覚だったからだ。


 そして、次の瞬間、


「うわ!!」


 突然目の前にエズラが現れた。横になって倒れていたが、何やら顔に書いてある。


【空き缶】


「あの野郎!!」


 エズラが憤怒して起き上がる。頬に書いてある文字を消そうと服の袖でゴシゴシと擦るが全く消えない。油性ペンらしい。


「エズラ、空き缶に変えられてたのか!?」


「ああ、でも急にあの超常現象が姿を表したんだ。近くの壁に落書きしてたのを発見して声をかけたら取っ組み合いになって......やられた」


「みたいだな。で、逃げられたと」


「ああ。くっそ、絶対に見つけてやる」


「そうだな。実体があるのは分かったし。どうしてこういうことしているのかも聞きたいし」


 バレットはエズラに手を貸して彼を立ち上がらせ、今度こそゴミ箱の中身を戻した。


「でも、実体化する条件みたいなものがあるのかな? 時間とかか?」

「そういや......」


 エズラが思い出したように、遠くを見る。


「実体化していた時、あいつの腕に【透明】って書いてあるのを見たぞ。あと、足とか、首とか。最低でも四つは見た」


「じゃあ、あいつ自身、自分に【透明】って書いて体を透明にしてるってことか!?」


「そうなるかもしれないな。まあもしくはペン自体が超常現象なのかもしれない。あとは、あの野郎が使うとそういう能力が備わるとか」


「エズラと接触した時は、丁度【透明】になれる時間が切れた時だったってことだな」


「そういうことだ」


 バレットとエズラはゴミ箱を完全に戻し、それならば、と頷き合う。


「さっき公園で見つけたヘビが実体のあるように見えて、実はなかったのと逆で、エズラが缶に変えられていた時はエズラの体がそこにそのままあった」


「つまりは変えられた物体はその物体のままそこに存在してるんだよな」


「そういうこと!! じゃああの男の子を掴まえるには、空中に手をばって広げて立ってれば!!」


 バレットが腕を広げて歩道の真ん中に飛び出す。周りを行く者たちが奇妙なものでも見るような目で彼を見た。エズラが「やめろバカ」と彼の首根っこを掴んで引き寄せる。


「そんなことしたって、あの野郎がただ俺らを避けて通れば逃げられるだろ。冷静に考えろ」


「んえー......じゃあどうすんのさ」


「彼奴の被害がある範囲が大体掴めてきた」


 エズラがベンチに座り、携帯電話の地図アプリを開いた。バレットも隣に座って覗き込む。ノースロップを中心にピンのような目印が無数に刺してある。


「このピンが刺さっているところが今まであの超常現象の被害にあったところだ」


「うわあ、真面目ー。こんなの作ってたのか、いつの間に?」


「うるさい、まず聞け。で、この地図を見ていくと彼奴は西区の中を時計回りに行ったり来たりしている。大体西区を回るのに40分くらいだとすれば、あと35分後にこの付近を通過すると思う」


「じゃあ、その時に待ってればいいのか!?」


「闇雲に探さない方法はこれしかないだろうな。目先で被害が出始めたら合図ってことだ。捕まえる方法は......どうしような」


「黒ペンをチラつかせる!?」


 バレットはポケットからペンを取り出して胸の前でチラチラと振った。エズラが眉を顰めるが、


「まあ、彼奴は何か書けるものを欲してるのには変わらないだろうしな。でもそれインク無いだろ。もしものためにペンのインクは満タンにしておいた方がいいんじゃないのか?」


「じゃあ買いに行こ!! 35分もあればペンくらい手に入るよ!!」


 バレットがペンをポケットにしまい、言った。


「そうだな。それと、もうひとつ確認しておきたいことがある。俺らは目立ちすぎだ」


「え? そう?」


 バレットは周りを見回すが、今自分たちを見ているのは、目の前の店でウィンドウショッピングをしている母親に手を繋がれた幼い少女だけだ。バレットがニコニコと手を振ると、その子も笑って手を振り返した。


「だから、彼奴を路地裏か何処かに連れてきて捕まえた方がいい。ゴミ箱をひっくり返したり、街中走り回ったりしてるんだから、俺らの顔も覚えられるだろ。あの超常現象に対しても、B.F.研究員としてもそれはまずい」


「んー。じゃあ、あの裏に引きづりこもう」


 バレットが指さしたのは人が一人通れるくらいの細い路地だ。彼処ならあまり人目につかずに超常現象と話が出来る。話ができるとまだ決まったわけではないが。


「確かに人目を避けられそうだな。よし。じゃあ、ペンを買って戻ってくるぞ」


 *****


 二人はありったけのペンを購入し、ついでに昼食のサンドイッチを買って元の場所に戻ってきた。店のトイレでエズラは頬の文字をしっかり落とした。


「こんだけありゃ、目の色変えて飛び込んでくるだろ!! 目があるかは知らないけどさ」


 マスタードとケチャップで口周りを汚して、バレットは空いている手でベンチの上に並べられた10本のペンを数えて満足気に言う。


「油断はすんなよ。俺の顔はもう覚えられてるかもしれない」

「大丈夫、大丈夫。エズラの顔は特徴ないから」

「てめえ、ぶっ飛ばすぞ」


 エズラが目を釣りあげてそう言った時、遠くの方で悲鳴が上がった。バレットとエズラは弾かれたように立ち上がる。悲鳴はだんだん此方に迫ってきていた。


「来るぞ!! 準備しろ!!」

「任せてー!!」


 サンドイッチを口に押し込み、バレットは指に持てるだけのペンを持って構える。


 悲鳴の原因はやはりそうである。子供が持っている風船がリンゴに、男性が被っていた帽子がトイレの便器に、散歩していた犬が猿に......。


 その被害が二人に向かってくる。バレットがペンを見せると、被害がピタリと止んで_____、


「おわああ!!!」


 バレットの手を誰かが掴んだ感触があった。ペンを無理に引っ張ろうとしている。一本が手から離れたと思うと見えなくなった。それはあっちの手に渡ったということを表しているのだろう。それだけじゃ飽きたら無いのか、透明な人間はまだバレットのペンを奪おうとしてきた。


「観念しろ!」


 エズラが空中に抱きつくようにしてその透明な人間を捕まえる。激しくもがいているが、二対一では勝てないようだ。二人は何とかその超常現象を、言っていた路地裏に連れ込んだ。


「暴れんな! ペンは後でやるから!」


 バレットが言い、彼の腰であろう辺りをしっかり押さえつける。エズラも頭の付辺を抑えた。それが10秒ほどすると、


「!!」


 突然少年の姿が現れた。彼はエズラが言っていた容姿そのままだった。12歳くらいの水色のシャツ、そして短パン。そのシャツの胸ポケットにはペンが一本だけになっていた。そして、腕や足の肌に【透明】の文字がいくつも書いてあった。


 少年は自分の姿が二人に見えていることに気づいたのか、バレットから奪い取ったペンのキャップを口で外し、ペン先を肌につける。


「まずい、エズラ!! こいつまた消えようとしてる!」

「いい加減にしろ!」


 エズラが彼の腕を掴み、手首を返した。少年の手からペンが落ちた。それをエズラは足で蹴飛ばす。ペンはカラカラと音を立てて転がり、コンクリートに黒い線を描いていった。


「あっ」


 少年がペンを取り返そうとするが、すかさずエズラが両腕を縛って仰向けにした。少年の体から力が抜ける。


「おい、何であんなことすんだ!!」

 エズラの怒号が路地裏に響く。


「色んな人に迷惑かけやがって!」

 エズラの怒鳴り声に少年は縮み上がった。コンクリートに顔を押し付けて、じっとしている。


「面白半分でやってるなら今すぐ止めろ!」

「エズラ、ちょっと言い過ぎ」


 バレットが咎める。少年の顔の下のコンクリートに黒い染みが出来ていた。さっきからスンスンと鼻を啜る音もする。エズラはそこでようやく少年が泣いていると気づいて、口を閉じた。


「怒るのもこの子のためだろうけど、理由があるかもじゃん。聞いてみようぜ」


 バレットが言って、少年の足を解放して座らせた。


「なあ、何で透明になってるの?」

「アンタらには関係ないじゃんか!!」

「俺らはお前を助けたいんだよ」


 バレットが少年に対して真剣な表情でそう言った。少年がグッと目に力を入れたが、結局目から次から次へと、堰を切ったように涙が溢れてきている。


「ゆっくりでいいよ」

「......消えたかったんだもん、俺......」


 少年は泣きながら語り出した。


 *****


 それは小さな逃避行だった。


 彼は幼いバイオリニストだった。凄さについては自分では詳しくは分からなかったが、世間の顔色が自分の才能の高さを示していた。ステージに上がると世界中が自分に注目しているような錯覚に陥った。


 悪い気はしなかった。実際彼は多くのメディアで取り上げられるほどの有名っぷりだったのだが、それも儚く過去のこととなった。


 新たなバイオリニストが生まれたのだ。容姿端麗な彼女の生み出す清らかな音色は、聞く者の心を次々と奪っていった。自分より遥かに年下の少女の栄光が、鈍器で殴るように彼の心に深い傷を負わせた。


 少女の次に演奏するのは気が滅入った。さっきの子の方が上手かったよな_____塗り替えられない音色が既にステージに塗り込められていた。


 少年は聞こえないふりをした。目を閉じて、音に集中した。なのに、声は自然と耳に入ってくる。


 _____観客は居ない。もしくは、口も耳もない人形だ。


 彼は暗示した。思い込むことで演奏に集中した。


 家での練習は苦痛だった。父母は負けたくないと彼の遊ぶ時間を全てバイオリンの練習に変えた。他の兄弟が庭で遊んでいる中、彼は一人譜面台の前で同じフレーズを弾き続けた。


 いつからか、バイオリンが嫌いになった。父母も、音楽も、兄弟も、家も何もかも嫌いになった。


 だから彼は想像力を働かせる。


 父母は仲良く同じことしか言わないので、二枚貝。音楽は煩わしいのでカラスの鳴き声、兄弟はずっと一定の遊びをするのでメリーゴーランドの木馬、家は逃げられない監獄のようだから、刑務所。


 馬鹿げた想像でも、現実逃避にはちょうど良かった。


 だが、現実は甘くない。夢もいつか覚めるように、現実はすぐ迫ってくる。だが、彼は想像を繰り返す。


 迫り来る譜面台はジェット機、バイオリンはペットボトル、楽譜は食パン。


 それでもやっぱり、限界は来た。


 そっと扉に手をかける。


 ドアノブは電話の受話器、扉は板チョコ、靴はヒラメ。


 家を出た彼は、かつてステージを飾っていた自分という存在を誰にも見て欲しくなかった。見つけても声をかけられたいと思わなくなっていた。


 上げて落とされるのはもうごめんだ。いっそ消えようか、と思った。自分は透明人間。ガラスでもいい_____。


 家出をした時に咄嗟に掴んだ鞄には三本の黒いペンが入っていた。一本はほとんどインクは切れていたが、残りの二本はまだ使えそうだった。


 あのベンチは電子レンジ。あのガソリンスタンドはレストラン、あのスケートボードはムール貝。


 誰が見てない隙にそっと文字を書いてみた。小さな少年の小さな想像の痕跡だ。


 この街をそれで埋めつくして、想像に色付けて最後は消えてしまおう。透明人間のように。


 少年はそう思い、二本のペンのインクが切れるまで街を歩き続けた。


 *****


「この力に気づいたのは、本当に最近」


 少年は【透明】と書かれた自分の右腕に目を落とした。


「この能力って、書いた言葉通りの姿に変える能力?」


 バレットが問うと、少年は「うん」と頷いた。


「この力を手に入れて、俺は嬉しかった。また注目してもらえると思ったから。この力を使って皆を困らせてやれるじゃん。でも、それと同時に、消えたい思いも捨てきれなかった」


 少年が腕から、エズラに飛ばされた遠くのペンを見た。


「正反対の欲望が、俺をこんな風にしちゃった。俺、数日飯食ってない。腹減ってないし、眠くもない」


「......」


「少しずつ、透明人間になれてる気がしてきた。誰にも気づかれなかったし、誰も俺を笑わなかったから。透明人間って言うより、幽霊みたいな感覚だけど」


 バレットとエズラがチラリと視線を交わらせたが、双方とも何も言わなかった。


「最近さ、名前が思い出せない。それと、以前その物体が何だったのか、俺は何を何に変えたのか。俺自身だって。アンタ達に捕まって、少しだけ記憶が戻ってきた気がした。やっぱり消えたくない」


 少年が胸ポケットからゆっくりとペンを取り出した。


「俺、消えたくないよ。もっとみんなに見て欲しい。でもどうしたらいいんだろう、全く分かんない。このまま透明になって消えるかもしれない。誰にも認知してもらえないかもしれない」


 少年のペン先が彼の手のひらに付いた。


「ただ、見てもらいたいだけなのに」


 手のひらにぽたぽたと雫が垂れた。


「先生にも、ママとパパにも、友達にも、認めてもらいたかった。俺、ほんとはこんな力いらない。でもどうやったらこの力が無くなるか分からなくて、気づかれるまでやってた。透明になりたくない」


 少年が泣き出した。バレットは彼の頭を撫でる。


「透明じゃないじゃん。ちゃんとお前は存在してるよ」


 バレットが更に彼を抱き寄せた。


「俺が保証する。透明になって姿隠そうとしなくていいんだよ」


 バレットはだって、と彼の手からペンを取り上げた。


「透明なお前は俺らから逃げられたか? こうやって面倒くさい青髪と、俺に構われているじゃんか?」


 少年が目を見開いた。ゆっくりとバレットの腕から顔をあげる。


「な、自己紹介しようぜ。はい、エズラこっち来て」


 エズラがバレットに体を寄せる。


「こいつは、エズラ・マクギニスって言うんだ。俺の相棒なの」

「エズラ......」

「こう書くんだぜ」


 バレットがエズラの顔にペンで名前を書いた。


「エズラ・マクギニス」

 少年がそれを読み上げる。


「そ。んで、俺が」


 バレットはエズラにペンを渡した。エズラが少し戸惑った顔をしたが、バレットが頷くと、彼の頬にペン先を乗せた。


「バレット・ルーカス」


 少年がバレットの頬に書かれた名前を読み上げる。


「そんで、お前な」

「俺は......」


 バレットがエズラからペンを受け取って少年の顔にペン先を向けるが、少年は目を伏せた。


「名前も分からない。忘れちゃった。透明人間とでも書いてよ」

「いーや、ちゃんと名前あるはずだぜ? じゃあ、もっかい。エズラ」


 バレットが今度はエズラの腕に【エズラ・マクギニス】と書いた。続いてエズラがバレットの腕に【バレット・ルーカス】と書く。


 少年は首を横に振った。まだ名前を思い出せないのだ。


 バレットはまたエズラの腕に名前を書いて、自分の腕に名前を書かせた。少年は首を横に振った。


「エズラ・マクギニス......バレット・ルーカス......エズラ・マクギニス......バレット・ルーカス......エズラ、バレット、エズラ、バレット_____」


 少年の唇が震えた。


「俺......は......」

 バレットが少年の頬にペン先を付けた。


「ジャック、ジャック......ジャック・エリオットだ」


 少年がぽつりと言った名前を、バレットは彼の頬に書き出した。


「思い出せたじゃん。【透明】じゃないよ、お前は。【ジャック・エリオット】だろ?」


「......うん」

「な、俺に何か書いて」


 バレットが少年の手のひらにペンを押し付ける。


「......」


 少年は困った顔をしてバレットを見た。


「怖がんなよ。大丈夫、書いてみ」


 バレットが優しく言うと、ジャックはバレットの手のひらに【クッキー】と書いた。しかし、バレットはいつまで経ってもクッキーにはならない。


 それは彼の能力が完全に失われたことを示していた。


「な、俺は俺、お前も、お前」

「......俺、透明にならない?」

「だって、【ジャック・エリオット】なんだろ?」

「......うん」


 初めて彼が笑った。歳に相応した子供らしい笑みだ。頬が上がって、【ジャック・エリオット】の文字が歪む。バレットはエズラを見る。彼は肩を竦めた。


 *****


 ジャックは西区のゴミ置き場の隅で蹲って、衰退している姿が発見された。バレットとエズラがすぐに救急車を呼び、彼の手のひらにそっとペンを握らせた。


「気づいて欲しくてイタズラしてたんだよ。まあ、イタズラって言うよりかは救難信号だったけど」


 バレットがジャックの頭を優しく撫でる。


「心だけは抜け出して、誰かに助けてもらうのを待っていたんだな」


 エズラがブライスに連絡するために電話を操作している。


「そうだなー......幸せになってくれよ、ジャック」


 バレットが言うと、ジャックの瞳が薄ら開く。


「うん」


 それはか細い返事だったが、しっかりとコンクリートに返って二人の耳に届いたのだった。

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