File043 〜忘却の花束を君に〜
「誘導員......」
腕にあった謎の痣が消えた男は白い施設の中を歩いていた。
それにしても不思議な施設である。
病院にて紹介された変な施設に連れてこられたと思えば、腕の痣をどうにかしてくれるということだった。
高額な医療費を請求されるのだと思って身構えていたが、出てきたのは元気のある黒髪長髪の医者らしき男と、その助手なのか看護師なのか、金髪の若い男であった。
的確な方法かは分からないが痣は突然消えて、すっかり腕も元通りである。
さて、黒髪の長髪の男には誘導員の指示に従って帰れると言われたものの、部屋を出てもその誘導員らしき人物は居ない。さっきから同じ廊下をぐるぐる回っているような感覚だが、この施設は白衣を着た医者しか居ないのだろうか。
何度目か分からない同じ景色を見ていると、
「あ、いたいた......!!」
前からダークブラウンの髪を持つ男が小走りで向かってきた。細いフレームの眼鏡をかけており、柔らかい雰囲気の優しそうな人だ。
「すみません、置き去りにしてしまって」
「誘導員の方ですか」
やっとそれらしい人に出会えて男はホッと息をつく。
「少し会議が長引いてしまって......本当にごめんなさい。ご案内しますね」
眼鏡の男は頭を搔いて恥ずかしげに微笑んだ。
「いえ、いいんです」
男は眼鏡の男の後ろをついて行った。
「此処の病院はお医者さんが多いんですね」
「はい。患者さんよりもお医者さんの方が多いんです」
「会議というのは手術のカンファレンスですか?」
「そうなんです。少し難しい持病を抱える患者さんの手術を控えているんですよ」
「そうだったんですね......」
二人はエレベーターに乗った。大きなエレベーターだが、不思議なことに眼鏡の男は白衣から鍵を取り出して、エレベーターの内側の壁にある小さな蓋のようなものを鍵で開けた。蓋の内側には複雑なボタンが付いている。
「手動なんですか?」
今ではそういうエレベーターは珍しいので、男は目を丸くして彼の手元を覗き込む。眼鏡の男は微笑みながら、
「そうなんです。患者さんが勝手に外に出てしまわないように此方で管理しています」
「へえー」
なるほど、と納得しているうちにエレベーターは動き始めた。この施設に入った時も感じたが、かなり地下にある施設なのだ。地下にある病院というものも存在するのか、と特別不思議に思わずに彼は此処へ来ていた。
少ししてエレベーターが止まった。扉が開くとそこはまだ施設の中だった。地上にあった自分が入ってきた場所ではない。しかし眼鏡の男はその階に降りていく。
「あ、あの......」
男は混乱してエレベーターの中から彼に声をかけた。
「治療終わりのアンケートにご協力願いたいのですが、お時間よろしいですか?」
「え? アンケート? それは構いませんが......」
何やらアンケートに答えて欲しいようだ。
男はエレベーターを降りて、眼鏡の男について行った。
*****
案内された部屋の扉には小さなプレートが掛かっていた。「立ち入り禁止」とはっきりした字で書かれている。
男が眉を顰めていると、眼鏡の男は扉を開けてくれた。その中に入ると、眼鏡の男がプレートをひっくり返す音が聞こえたが、男にとってその音は目の前の光景を見ることで薄い情報になってしまったようだ。
部屋にはテーブルがひとつ置いてあった。その上に綺麗な色とりどりの花束が置いてある。綺麗なその花束は分かったが、こんな部屋になぜ花束が? と首を傾げていると、眼鏡の男がやって来て花束を手にした。
それを自分に差し出してくる。
「退院祝いです。どうぞお持ち帰りください」
「こんなに大きな花束を貰っていいんですか......!?」
此処の施設では一日での治療も入院という扱いを受けるのだな、と男は納得して花束に手を伸ばした。馨しい香りが男の鼻腔をついた。
*****
「ナッシュ、終わったよ」
ドワイト・ジェナー(Dwight Jenner)は扉の向こうにいる同期に声をかける。扉が開いて、白銀の長髪をひとつに結んだ研究員が部屋の中に入ってきた。
彼の名前はナッシュ・フェネリー(Nash Fennelly)。花束を持ってぼんやりとしている男を見て、「うん、大丈夫そうだね」と頷いた。
「全く、外客が来ている時くらいブライスも会議を短くしたっていいと思わないかい?」
「うん、彼が勝手に部屋に入っていたりしていなくてホッとしたよ」
ドワイトは固まっている彼を見て、安堵の表情を浮かべている。
「本当だね。ところで、ブライスもそうだけれどジェイスにもお説教だなこれは。勝手に実験を終わらせて外客を自分の判断で実験室から出すだなんて。何かあったらどうするんだか」
「外客はあまり来ないから、経験がある研究員でも判断が難しいことはあるよ。それよりも彼を外に返さないと」
ドワイトが固まっている男の肩をとんとんと優しく叩いた。男がハッとした顔をして、ドワイトを見る。
今まで一緒に居たのにまるで突然現れたかのような顔をして、彼は怯えたように後ろに下がった。
「大丈夫です。今から地上に出ますよ。花束を机に置いていただけますか?」
「は、はい......」
男がたどたどしく花束を置き始めた。
やがて男はナッシュとドワイトに挟まれるようにして部屋を出た。ドワイトが扉を閉めると、扉にかかっているプレートを振り返る。そのプレートには「忘却の花束使用中」と書いてある。彼はそれをくるりとひっくり返して、再び「立ち入り禁止」の面にした。
「さあ、行きましょう」
ドワイトが歩き始めるので男はまだ怯えた様子でついていく。ナッシュはその場に留まった。
「ブライスに報告してくるよ。それとジェイスにもね」
最後の方は少し声色を変えていたことに気づいて、ドワイトは笑った。程々にね、という言葉を残して、彼は男を支えるようにエレベーターに向かって行った。
*****
「忘却の花束を君に」。ある男が見つけた超常現象だ。綺麗な色とりどりの花束の形をしており、それを手渡されたものは記憶を失うというもの。便利なのは、手渡す方が望んだ期間の記憶を消せるというもの。
例えば花束を渡す方が、三日前に起こった出来事に対して相手に消して欲しい記憶があるとする。花束を手渡すと、手渡された相手の三日前の記憶はポンと何処かへと消えてしまう。
発見者の男は、長く病を患っている妻に花束を買った。妻はもう長くはなく、あと数日持つか持たないかという話だった。
花束を抱えながら、妻の居る病棟に向かう男は、妻との日々を回想していた。
彼女に投げた言葉や行動の数々が、途端に彼女を長い間苦しめてきてはいなかったか。
あの時の言葉に心を痛めて、死ぬ間際まで悲しみに溺れているとすれば、それもすっかり忘れさせてあげられないだろうか。
悶々としたまま、彼は妻が居る病室に入った。病室には痩せ細った妻がおり、男を見ると安心したように笑ったという。男は痩せて楊枝のようになった彼女の腕に大きな花束を持たせてあげた。妻が好きな花だけで作った花束だ。妻は嬉しそうにその花々に顔を埋め、「貴方と居て嫌なことなんてひとつもなかったわ」とそう言ったらしい。男はそんなことは無いだろう、と反論したが、妻の目がそうであると静かに彼に諭していた。そして、妻は再び花束に顔を埋めて目を閉じた。その目が開くことは二度となかったという。
男は妻から花束を取り上げた際、ふと今自分が此処に居る理由が分からなくなった。しかし、目の前に動かなくなった妻と、腕に抱えた花束を見て、自分は妻を看取りに来たのだと思い出した。
「死んだ人から受け取る時は、超常現象自体の力が弱まるんだと思います」
男がB.F.の花束を持ってきた時にそう言った。
この忘却の花束は男が自らB.F.に持ってきた。手にする者が皆記憶を消してしまうので、これ以上被害が増えないようにと。
B.F.では一般人がこうして施設に超常現象を持ってくることもある。基本的には職員が出向いて受け取ってくるが、稀なケースで施設に持って来て自らの手で渡してくれるのだ。
この超常現象を持ってきた彼の推測は、この花束は手渡した人の記憶を消し、またその能力は生きる者と生きる者との間に強く見られる。一方が既に亡くなっていると花束を手にしても記憶が戻ってくる。しかし、彼は付け加えた。
「妻は私に忘れて欲しかったんだと思います。病気で入院していること、余命が近い妻に毎日自分が通っていることを」
彼は小さく笑って、愛しげに花束を見つめる。
「だから、妻から花束を取り上げた時、私の記憶は曖昧になった。でも、妻はその時既に亡くなっていたから、記憶は戻ってきたんです。妻に誤解させちゃったかな、妻との思い出は何もかも忘れたくないものだから。この病棟生活だって嫌だと思ったことは一回もないんです」
話をしている彼は、「あ」と何かに気づいたように花束を見下ろした。
「......妻には、悪いことをしました。私が彼女に対してしてしまったことを勝手に嫌な事だと解釈してしまった。嫌なことなど何も無かったという彼女の言葉は、案外真実だったのかもしれないです」
彼は花束を優しく抱きしめた。その顔を埋めて目を閉じる。
「私は忘れたくないです。最初から、何もかも」
*****
B.F.では、その超常現象が来るまで、一般人に対しての記憶処理を行っていなかった。必ず口外しないことを約束するというのが決まりだったが、花束が来てからはそれが記憶処理に役立っている。
超常現象について調べると、花束は手渡す以外の方法で相手の手に渡れば記憶の忘却は行われないことがわかった。相手に安全に花束を渡したい場合は何処かへ置いて、相手がそれを拾うという方法が有効である。
花束がこの施設に来るまでB.F.に来た一般人は数える程しか居ないが、この超常現象を持ってきた男には、記憶処理は行われなかった。
花束の能力がどれほどのものか未知数だったということもあるが、彼が消したくない記憶をこれ以上消すというのは、道徳に反すると研究員らは判断したのだ。
男は施設を出ていく際、研究員らに微笑んだ。
「もし、私のように忘れたくない記憶を持つ人が居たら、その花束は使わないであげてくれますか。それと......花束の中に必ずガーベラを入れて頂きたいんです。妻が生前愛していた花です」
「分かりました。大切にお預かりします」
「......ありがとうございます」
エレベーターが閉まった。花束を抱えた研究員が腕の中に目を落とす。
地下で光もないというのに、花々は美しく、堂々と咲き誇っていた。




