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Black File  作者: 葱鮪命
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向日葵の少女

 リディア・ベラミー(Lydia Bellamy)はその人物に目を奪われていた。新入社員に対してまっすぐな視線を向け、低い声がマイクを通して鼓膜を震わせた時、彼女は思わず前のめりになった。


 彼の発する言葉の一つ一つが彼女の心に染み込んでいく。一言一句逃すまいと彼女は全神経を集中させた。


 まるで、超人気バンドのライブに来たかのような興奮が彼女の全身を包み込んでいた。


 *****


「ねえ、ねえ、今の人の挨拶......!!」


 リディアは彼が壇上から降りたタイミングで隣の席に座っている金髪の美女、イザベル・ブランカ(Isabelle Blanca)に声をかけた。


 彼女もまた自分と同じ新入社員で、更には同じ歳らしい。隣に並ぶと恥ずかしくなるほど綺麗な外見をしているので、リディアは最初モデルか何かかと思ってしまったほどである。


「今の人って......ブライスさんのこと?」

 イザベルが眉を顰める。リディアは大きく二度頷いた。


「かっこよかったよね!?」

「はあ......私にはよく分からないけれど」

「えー!」


 自分のように興奮している職員がいるのではないかと思いきや、案外そんなこともないようだ。次の人が壇上にやって来たのでリディアは口を噤んだ。視線をさ迷わせてさっきの彼を探すと、壁際の椅子にて他の男性職員と何か話をしているようだった。


 リディアは決心した。B.F.最高責任者ブライス・カドガン(Brice Cadogan)。彼にいつか助手志願に行くと。


 *****


 リディアはおばあちゃん子であった。共働きの両親がいつも母方の実家に自分を置いて仕事に行くので、リディアは子供時代をほとんど祖母と過ごしたといっても過言ではなかった。大抵楽しかった思い出などを頭に思い浮かべても、まずは祖母との日々が浮かび上がってくる。


 祖母はなんでも出来た。料理や裁縫、絵や歌。常に彼女の隣にいたリディアは彼女の手元を眺めていることが多かったので、気づいたら様々なことが出来るようになっていた。手先が器用な人がものを作る過程は見ていて全く飽きない。むしろ魔法使いのようで、リディアはその魔法使いに助手入りをした気分だった。


 リディアにとって祖母は自分の理想の将来像だった。自分もああして優しい陽だまりの中で自分の好きなことをして過ごしたい。学校で出される宿題や、これから始まるであろう更に難しい勉強をくぐりぬけて、早く祖母と同じようなオーラをまといたい。


「ゆっくり生きていると、辛いことに当たった時に衝撃が少ないのよ」


 祖母はそう言っていた。


「ゆっくり生きるにはどうしたらいいの?」


 幼いリディアは問う。言動をゆったりさせるとか、祖母はそういうことを言っているような気はしなかった。包丁で果物を切る時には特別動作を遅くしているわけではないし、縫い物をしている時だって針に糸を通すのはぱぱっとやってしまうのだ。


「笑顔でいること」

 祖母は短く答えた。リディアがぽかんと彼女を見上げると、彼女は笑って続けた。


「誰かと話す上で、自分から突進しないこと。スポンジになった気持ちで、相手を受け止めるの。スポンジは指で押しても元の形に戻るでしょう。だから、相手にどんなにぶつかられても、元の自分にきっと戻れる」


 スポンジ。リディアは口の中で唱える。その日からリディアは笑うようにした。思えば、祖母はよく笑っていただろう。祖父の葬式でも、その日が雨だったとしても、傘の中で優しく微笑んでいた。


「おじいちゃんは眠くなっちゃったのね。少し疲れちゃったから、先にベッドに行ってしまったのよ。私はまだ眠くないから、大丈夫よ」


 泣きじゃくるリディアに、祖母は優しく言った。傘の中の祖母の声はしとしとと降る雨の中で特別なものに聞こえた。


 *****


 そんな彼女の訃報が来たのは、リディアが16になった歳の秋の終わりであった。彼女はどうやらリディアが知らないうちに肺病を患っていたらしい。


 最後に見たのは学校の夏休みが終わるくらいで、その時はいつものように裁縫道具を手に、椅子に腰かけて楽しそうに裁縫をしていた。


 新しいハンカチを買ったので、リディアにプレゼントするために刺繍をしていたらしい。そのハンカチがリディアの手に届いたのは、彼女の葬式の日であった。


「おばあちゃんが、リディアにだって」

 母親が、ベンチに座って項垂れるリディアの手に握らせた。そのハンカチには、季節外れの向日葵と、彼女の名前が刺繍されていた。夏に始めたものだから、向日葵を入れたのだろうか。それとも、まだ自分に笑っていて欲しいという暗示なのだろうか。


 リディアは泣き出しそうになるのを必死で堪えた。ハンカチの向日葵を濡らしたら祖母にどんな顔をされるか分からない。リディアは口の端を上げて、とにかく笑おうとした。だが、早いうちに限界が来た。ぼたぼたと涙が溢れていく。向日葵が濡れた。名前も濡れてしまった。


 笑えない。無理だ。


 リディアはハンカチを目に押付けた。


「ごめんなさい」


 リディアは声を震わせて謝った。明日から絶対に笑って過ごすことにしよう。絶対に泣かないようにするんだ。


 リディアは強く心に誓って、その日は涙が涸れるほど泣くことにした。


 *****


 そんな彼女は祖母の死から少しずつ立ち直り、祖母のような生活をするための準備に取り掛かることにした。そこで目をつけたのが、B.F.研究員だった。危険な仕事ではあるが夢のある仕事だし、祖母の言うスポンジの心を持つにはうってつけだろう。様々な人間と触れ、常に笑っていられるような人になるには、まずは強い心を持つべきだと彼女は考えたのだ。


 試験を終えて、合格通知書を受け取った彼女は初めての世界に足を踏み入れることになった。そして、その場所で再び人生の先生のような人物と出会うことになる。


 *****


 リディアは食堂にて同期のイザベル、そしてノールズと夕食をとっていた。ひとまずノールズは助手志願する人物を大まかに決めたそうだ。明日の朝にその人物にアタックしに行くという。リディアとイザベルはまだ決めてはいなかった。


「やっぱり優しい人がいいなあ」

 リディアは夕食のグラタンをつつきながら言う。


「優しい人かあ。まだ全然どんな人か分かんないや」

 ノールズは首を傾げている。


「まあでも、焦る必要は無いよね。明後日ぐらいにまで決められれば」


 そうだねえ、と相槌を打ちながらリディアはぼんやりと考えていた。ブライスのような人間は助手をとるのだろうか。いくら最高責任者とはいえ彼も一応研究員の一人である。助手くらい居てもおかしくはない。


「それにしても、この会社って広いよねえ。俺初日から迷子になりかけたよ」

「さっき班の人とはぐれてたものね」

「いや、あれはあの星4の研究員の人が足早くて......!!」

「でもあなた以外の研修員はついて行ってたわ」

「そうだけど......!!!」


 二人がそんな会話を始めてもリディアはぼんやりとしている。彼女の頭にはブライスしかない。


 助手をとるなら一体どんな人を望むだろう。やはり頭の出来が良くなければ傍には置いてくれないだろうか。星1から助手志願に行ったとしてもきっと断られるだろう。まず星4くらいまで経験を積まなければ。


「リディア?」

 気づけばノールズに顔を覗き込まれていた。リディアはハッとして、食べる手を動かす。


「さっきからどうしたのさ。考え事?」

「いや、えっと......ブライスさんって、助手募集してると思う?」

「え、リディア、ブライスさんに助手志願するの!?」


 ノールズが信じられないという顔で言った。そんなに驚かれることだろうか。やはり自分ではダメだろうか。


「どうなのかしら。ブライスさんって、助手がいるようには見えないけれど」

「そう言えば研修会のとき隣に白い髪の人座ってたよね。仲良さそうだったけど」

「ああ、あの綺麗な人......」


 リディアも思い出す。ブライスの横にはダークブラウンのメガネの男性と、白い長髪の男性が座っていた。三人とも仲が良さそうだったし、同期なのだろうか。もしかしたら三人でペアを組んでいるのかもしれない。


「助手って言うわけではないだろうけど......俺らが助手志願するには敷居が高いよ」

「やっぱりそっか......」


 まだその位には達していないということである。何かほかのことで近づけるチャンスを待つしかないようだ。


 *****


 リディアが此処に来て数日。ブライスに助手志願出来ないとなったので彼女は途方に暮れていた。正直その後のことを何も考えていなかったのだ。すっかり周りの同期に先を越され、イザベルもノールズも忙しそうに仕事に精を出している。


 一人寂しく夕食を食べながらリディアは困っていた。やはり自分には祖母のように上手くできない。スポンジが水を含んで重くなるように、リディアの心もずんずん重くなっていくのだ。コンソメスープを飲むと、その重さは更に酷くなったような気がした。


 諦めたくはなかった。リディアにとってこの会社に就職するということは祖母に一歩近づくということだ。人との接し方を学び、お金を稼いで豊かな生活を送る糧にする。今踏ん張らなければ、祖母から離れていく。笑わなければ。こういうときこそ笑わなければ。自分に嘘をついてでも、楽しいと思わなければ。


 重たくなった体にコンソメスープを流し続けている時だった。


「ねえ」


 突然、向かい側の席に誰かが座った。リディアは驚いて、顔を上げる。リディアが座っていたのは二人用の席だったが、自分が知る人でない限り向かい合わせに座る人間はいないと思っていた。


 彼女の前に座ったのは、かなり年老いた研究員だった。60代の半ばほどで、少しふっくらした体付きの女性だった。顔には優しい笑みを浮かべていて、リディアの頭の中に一瞬だけ祖母の姿がよぎった。


「こんばんは。どうかしたの?」

「えっ......」


 リディアは目を見開く。自分は何かしていただろうか。普通に座って夕食をとっていただけであるが、特別なことは考える限りではしていないはずだ。


「あの......」

「表情が暗かったから、声をかけてみたの」


 女性がそう言って、前のめりになってリディアの顔を見た。


「表情が暗い......」


 今まで言われたことがない言葉だった。自分はいつだって上手くやってきたつもりである。祖母の葬式の後は笑うように心がけていたし、理不尽なことに対してもスポンジの心で応じてきたつもりだ。


「もし辛かったら、私のところに来るといいわ。大抵医務室にいるし、居なければオフィスだから」


 彼女はそう言ってポケットから何かを取り出して、リディアに差し出してきた。リディアはおずおずとそれを受け取る。彼女は立ち上がると人混みの中に姿を消した。


 ぽかんとしていたリディアだったが、渡されたものに目を落とした。それは折りたたまれたメモ用紙だった。開いてみると、この施設の簡易的な地図が手書きで描かれていた。赤い丸が付けられている箇所が二箇所ある。それのひとつは医務室を表していた。


 *****


「それって、シャーロット先生じゃないかしら」


 自室にてシャワーから出てきたイザベルがそう言った。


 イザベルとリディアは奇跡的に同室のメンバーだった。初対面の人間と一から会話するのは疲れるのでリディアは心から安堵した。


「シャーロット先生?」

 イザベルに食堂で話しかけてきた謎の女性の話をすると、彼女はその人を知っているようだった。


「B.F.で女医をしているのよ。一番最初に貰った資料に載ってるはずだけれど」

「えっ」


 全く見ていなかった。自分がどれだけブライスに気を取られていたのかが分かる。貰った資料を持ってきて開くと、確かに写真付きで載っていた。写真の中の女性は確かにあの食堂で出会った彼女であった。


「シャーロット・ホワイトリー(Charlotte Whiteley)......」


 あの女性の名前はシャーロット・ホワイトリーといった。説明の欄にはB.F.の女医であり、医療的なことは全て彼女が管理しているらしい。一応研究員という役職もあるようだが、主に医務室で職員の治療を行っているようだ。


「凄腕のお医者さんだって、タロン先生が言っていたの」


 イザベルの話によれば、一般の医者として引退した後B.F.の設立を機に此方に連れてこられたらしい。イザベルが助手入りしたタロン・ホフマン(Talon Hoffman)はシャーロットと仲がいいようだ。


「そうなんだ......」


 リディアはひとつ腑に落ちないことがあった。自分でそれなりに周りの目を掻い潜ってきたというのに、シャーロットにだけは見破られてしまった。確かに助手志願が未だにできていない焦りが顔に出ていたのかもしれない。


「ねえ、私ってお医者さんの人に話しかけられるほど疲れているように見える?」


 リディアは不安になってイザベルに問う。彼女はじっとリディアを見つめて、


「さあ、私は素人だしなんとも言えないけれど......でも、最初に比べて元気はなくなった気がするわね」

「そっかあ......」


 リディアが膝を抱えると、イザベルが微笑んだ。


「顔を出してみたら? きっといい道に導いてくれると思うわ」

「......うん、そうしてみようかな」


 リディアは頷いて、もう一度医務室の場所を確かめた。


 *****


 リディアは次の日の夜、医務室に向かった。医務室の忙しい時間がわからず、食堂や自室、廊下で時間を潰して、結局夜になってしまったのだ。夕食を食べ終えた足で医務室に行くと、ちょうど扉からシャーロットが出てくるところだった。


「あら」

 彼女はバインダーを持って何処かに行こうとしていたようだったが、リディアに気づくと足を止めてくれた。


「こ、こんばんは」

「こんばんは。もしかして、私に会いに来てくれたのかしら?」

「は、はい。ルームメイトにも相談したら、やっぱり行くべきだって......」

「そうなのね。じゃあ此処で待っていてくれるかしら。私は今からこれを届けに行かないと」


 シャーロットは手に持っていたバインダーをヒラヒラと振る。リディアはわかりました、と頷いて医務室の中に入った。中は消毒液の匂いがした。嫌いな匂いではない。それと、薬のような不思議な香りもした。こちらも嫌な匂いだとは感じなかった。


「そこの丸椅子に座って待っていてね。それと、はい」


 シャーロットは何やら扉の横にぶら下げているファイルから一枚の紙を抜き出すと、リディアにペンと共にそれを預けてきた。


「10分くらいで戻ってくるから、それを書いて待っていてくれるかしら?」

「はい......」


 彼女が行ってしまったので、リディアはペンを握る。見てみると、腹痛、頭痛、吐き気、だるさ、などのワードが書いてあり、横にチェック欄がある。朝食、昼食、夕食は食べたかどうか、昨日は何時に寝て、今朝は何時に起きたかなど。診察する上で患者の症状を見極めるためのものらしい。


 特にペンが止まることも無く、リディアはスラスラと書いていく。最後の欄になった。


「好きなお菓子はなんですか......」


 と、そんな質問が書いてあった。


 一体どういうことだろうか。真面目な質問なのか、それともそうではないのか。


 リディアは考えた末に「クッキー」と書いてみた。好きなお菓子など特にはないが、何となく頭に浮かんだものがクッキーだったのだ。


 さて、書き終えてしまえばやることが無い。


 リディアは何となく医務室の中を見回した。デスクが二つ並んでおり各々ファイルや本で散らかり気味だ。どうやら彼女の他にもう一人医者がいるようだ。ベッドは全部で五つ。各ベッドに仕切りの白いカーテンがついているが全て開けられており、今は患者は居ないらしい。


 薬品棚と思われる棚には所狭しと薬のようなものが並んでいた。瓶に入ったもの、箱に入ったもの。綺麗に整頓されて並べられている。他にも体重計や診療用のベッドなどがあり、まるで診療所のようだ。また奥にはもうひとつ扉があった。部屋がもうひとつあるのだろうか。普通のオフィスよりは広い部屋の造りになっているようだ。


 座っているだけでは暇なのでリディアは椅子から立ち上がって、薬棚やベッドをじっくりと見てみた。医療のことに関して知識はないが、知らない場所というのはワクワクする。小さな探検をしているような気分で、リディアは夢中になって医務室を見て回った。


 気づけば10分経過していたらしい。ベッドの下を覗いていると、シャーロットが戻ってきた。四つん這いになってベッドの下を覗き込む少女は変な目で見られると思ったが、シャーロットは微笑んで、


「かくれんぼでもしているのかしら?」


 と優しく言った。


 慌ててリディアが立ち上がると、彼女はリディアが座っていた椅子に置いてあったペンと紙を手に取った。さっきシャーロットを待っている間に書いていたものだ。彼女はそれに目を通している。


「そうねえ......見た感じお疲れって感じね。あら、クッキーが好きなの?」

「え、えっと、まあ......そうです」


 適当に書いたのでリディアは曖昧に頷く。シャーロットは笑って、


「ちょうど良かった。美味しいのが入ってるのよ。お茶にしましょう」


 そう言って、もうひとつの扉を開けてその中に入っていった。


 お茶というのは、紅茶ということだろうか。医務室に行くというのは何かしら治療が施されるものだと思っていたのだが、そういうわけでもないらしい。シャーロットが入っていた扉の向こうからは、陶器が当たる音や蛇口から水を出す音が聞こえてきた。


 リディアは椅子に戻って腰掛ける。不思議な人だ、と思いながら彼女を待った。


 少しすると、


「はい、おまたせ」


 小さなトレーに陶器のカップを乗せてシャーロットが戻ってきた。彼女の持つトレーからふわりと香ばしい香りが漂ってくる。シャーロットはデスクにトレーを置いて、


「お茶は好き?」

 と聞いてきた。


「お茶ですか?」

「ええ、そう。怪我人にはそれなりの処置をするけれど、心の病や日々の疲れに、私はお茶を提供するの。はい、熱いから気をつけて」


 シャーロットがリディアにカップを手渡してくる。リディアは受け取って、カップの中を覗き込んだ。琥珀色の液体が輝いている。香ばしい香りを乗せて、カップから立ち上る白い湯気がリディアの鼻腔をくすぐった。


 カップの縁に口をつけて、リディアはそれを一口飲んだ。少しの甘みの後、鼻に抜けるすっとした味が特徴だった。


「......美味しい」

 初めて飲むもので、リディアは珍しいものでも見るように琥珀色の液体を様々な方向から眺めている。


「ルイボスティーっていうのよ。ハーブティーは知っている?」

「聞いたことは......」


 そう言えば、祖母が時々飲んでいた。リディアはあまり好んで飲まなかったが、これだけ美味しいのなら飲めばよかった、とリディアは軽い後悔を覚える。


「ハーブティーっていうのは種類が沢山あるのよ。一つ一つ効用が違くてね。ルイボスティーはストレス解消や美肌効果があるの」

「万能なんですね......」


 確かに、飲む度に心が解れていくような気がした。シャーロットも同じものを飲んでいる。優しい目で此方を見ていた。


「この前入ってきた新入社員の子ね? 今年は良い人材が沢山入ったって、ブライスさんが言っていたわ」


 知っている名前が出てきてリディアはカップを落としそうになった。そしてシャーロットを見る。


「ブライスさん......!?」

「ええ、さっきのバインダーも彼に届けてきたのよ」

「へえ......」


 素直に羨ましいと思ったリディアだった。彼のオフィスに行ったというところだろうか。彼の姿は新入社員研修会で見たのが最後である。仕事に追われているのか、廊下では滅多に見ない。


「もしかして気になっているのかしら?」

「えっ!!」


 心の底を覗かれたようでリディアはドキッとした。シャーロットの瞳に見つめられると何だか嘘をつくことが憚られる気がしてリディアは小さく頷く。シャーロットがふふ、と笑みを漏らす。


「あまり多くを語らない人なのよねえ。ミステリアスって感じかしら?」

「あの......私、いつかブライスさんに助手志願したくて......。助手って募集しているんでしょうか」

「まあ、助手志願?」


 シャーロットが目を丸くしてリディアを見る。やはりその反応ではしていないようだ。リディアが露骨に肩を落としてショックを受けるのでシャーロットは慌てて、


「きっとその他でも色々あるわ。そうねえ......ああ、ほら、放送係とかどう?」

「放送係?」


 ええ、とシャーロットが頷いた。


「会議の場所を研究員たちに放送で連絡したり、新入社員研修会で司会をしたりするのよ。ほら、研修会の時に前に立っていた女の方が居たでしょう」

「そういえば......」


 司会を担当していた女性をリディアは思い出す。時々施設内で聞こえる放送も思い返せば彼女の声であった。だが、それが何故ブライスに関係するのだろうか。


「司会は最も彼に近い位置なのよ。放送する内容や司会の話す内容の大体は彼から直接伝えられることが多いの」

「えっ!! そうなんですか!?」


 リディアは思わず前のめりになった。カップの中のルイボスティーが激しく揺れている。


「ええ、今の放送の子はたしか三代目だったけれど......彼女の場合ブライスさん目当てと言うよりはナッシュさん目当てね」

「ナッシュさんって......ブライスさんの近くにいる白い髪の方ですよね」

「そうよ。綺麗な人よねえ、羨ましいわあ」


 シャーロットが笑うのでリディアも笑った。そして、何だかこの感じは久しぶりだな、と感じた。シャーロットというこの女性は、どこか亡くなった祖母を思わせた。笑い方も、この喋り方も、若い世代では見られない穏やかさがある。


「私、放送係になりたいです」


 リディアが言うと、シャーロットが頷く。


「夢を持つことは素敵よ。あなたは綺麗な目をしている。きっと思いも届くわね」


 *****


 リディアはシャーロットに様々なことを話した。亡くなった祖母が大好きだったこと、祖母の死をきっかけにこうしてB.F.に入社したこと、そこでイザベルやノールズという仲間に出会ったこと。


 二杯目を飲み終わる頃には日付が変わろうとしていた。リディアは何気なく時計を見てぎょっとする。


「え、もうこんな時間ですかっ......!? す、すみません」

「いいのよ。若い子のお話を聞くのって楽しいわ。あなたは話し方が上手ね。惹き付けられちゃった」


 シャーロットが言うのでリディアは子どものように嬉しくなった。しかし、自分の話ばかりしていて、目の前の彼女のことを全く知らないことに気づいたのだ。


「あの、私シャーロットさんのことについても知りたいです」

「あら、私のこと?」

「はい」


 そうねえ、とカップを傾けながら彼女は考えている。


「二割が研究員、八割お医者さん、ってところかしら。B.F.にやってきたのは本当に最初の頃なのよ。小さい頃に治療した子が私を此処に連れてきてくれたの。その子は今ではすっかり立派になって、そろそろ跡継ぎも考えられるから......私はそろそろ引退を考えているのよ」


「え......」


 リディアは途端寂しくなった。シャーロットと話しているととても楽しくて時間を忘れるほどだというのに、彼女は居なくなってしまうのか。


 心のどこかで彼女に助手志願をしようか、なんてことも考えていた。祖母に似た優しい雰囲気がリディアは好きだったのだ。だが、きっと彼女の言う後継ぎというのは助手のことだろう。デスクがもうひとつあるのはその助手が使っているもののようだ。


 リディアはもうひとつの空いているデスクに目をやる。デスクの上には小さなブックラックが置いてあり、そこには分厚い医学書が何冊も入っている。リディアにはあの三分の一の知識もないのだ。


 シャーロットのもとで助手をしようだなんて発想がそもそも間違っているのかもしれない。さっきハーブティーを出された時も効用なんて考えていなかった。そんな知識もないなら尚更彼女の傍には置いて貰えないだろう。


 だが、


「もし助手になりたいって子が現れたら、私はまだもう少し此処に居ようと思っているんだけれどね」

「......!!!」


 シャーロットがいたずらっぽく笑った。


「え、今......何て......」

「そのままの通りだけれど? 何か気になる点でもあって?」

「あ、私っ......!!」


 リディアは弾かれたように立ち上がった。


 もしこの人の助手になることができたら、またあの優しい陽だまりのような日々が戻ってくるような気がした。


「私、まだ誰にも助手志願できていなくて、ずっと探していて、それで......」


 上手く言葉が出てこなかった。シャーロットはそんなリディアを優しい目で見つめていた。


「それで、私......あなたの助手になりたいんです......!!」


 リディアは一歩前に踏み出した。


「が、頑張ってハーブティー作れるようになります!! お医者さんの助手としてもお仕事できるように勉強もします!! だから、あの、助手にしてください!」


 リディアが熱く言うと、シャーロットはハーブティーを一口飲んだ。


「そうねえ、助手はいいけれど、私は育てがいのありそうな子を望んでいるのよ」


 彼女は頬に手を当てて困った顔をしている。自分は育てがいがあるように見えないだろうか。どうしたらそう見てもらえるだろう。リディアは頑張って考え、気づけば困り顔をしていたらしい。シャーロットがくすくすと笑っていた。


「でもね」

 落胆するリディアに彼女は微笑んだ。


「あなたみたいな子が居てくれたら、きっと毎日楽しいわ。ええ、きっとそう」


 シャーロットはカップを置いた。立ったままのリディアの手を取ると、優しく両手で包み込む。シワが刻まれた手がリディアに心地いい体温を感じさせてくれた。


「いいわ、あなたを助手にとりましょう」


 そう言われた途端、リディアの顔はぱっと輝いた。そして、胸の中にあったスポンジを乾かすような太陽が現れたような感覚に陥った。彼女の輝く顔は、真夏に咲く向日葵の花を思わせた。


「ありがとうございます......!!」


 こうして、リディア・ベラミーは女医のもとで働く少し珍しい研究員として一歩踏み出すことになった。

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