File033 〜彷徨う悪夢〜
B.F.星5研究員モイセス・グルーバー(Moises Gruber)とその助手である星4研究員レヴィ・メープル(Levi Maple)は、オフィスにて二人で背中合わせに仕事をしていた。
「はあ、そろそろ終わりにしようか」
モイセスはパソコンのディスプレイから顔を上げて壁にかかっている時計を見た。
時計の針は夜の11時を回ったところだった。今日は午後8時まで実験があり、夕食を食べ、オフィスに戻って実験記録をまとめていたらこんな時間になってしまったのだ。いつもならとっくに部屋に戻ってベッドに入るか入らないかくらいの頃である。
モイセスの後ろでレヴィはこくんこくんと眠たそうに何度も頭を下げていた。今日はかなり集中力がいる実験だったので、彼はそれなりに疲れたらしい。モイセスは微笑んで立ち上がり、レヴィの肩を優しく揺さぶった。
「レヴィ、レヴィ、お疲れ様。今日はもう終わりにしよう」
そう言うと彼はハッとして顔をあげる。モイセスと目が合うと「ご、ごめんなさい」と恥ずかしげに謝った。真面目な彼がこうして眠ってしまうのだから相当疲れていたのだろう。
「いいんだよ。寧ろこの時間までオフィスに残らせてしまって申し訳ないね。さ、片付けて部屋に戻ろうか」
「はい」
レヴィは机の上にあるお菓子のゴミをゴミ箱に入れ、散らばっていた実験記録をファイルにしまった。書きかけの報告書には眠ったことがバレバレの、ミミズが這ったような線が並んでいた。これは流石にブライスの元には提出できないだろう。明日また書き直さなければ。
レヴィは苦笑し、それも同じくファイルにしまったのだった。
やがて掃除が終わって、二人はオフィスを出た。戻る部屋は異なるが階は一緒なので、二人は途中まで共に行く。
「今日の実験は疲れたね。報告書は明日ゆっくり書くとしよう」
「そうですね」
一度実験が終われば大抵一週間ほどは時間が空く。報告書の提出期限はその実験が終わってから三日以内となっており、間に合わないとブライスかナッシュに怒られるので気をつけなければならない。
モイセスがしっかりしているのでレヴィはあの二人に怒られたことは無いのだが、噂によるとブライスよりナッシュの方が怖いという。
噂なのでどこまでが真実かは分からないが、ある職員が報告書の提出期限を守らなかったがために、報告書をプラス三枚書かされる羽目になったという。一枚でも大変なのに三枚。とにかく期限は大事だということだ。
エレベーターに乗りながら、自分たちの自室がある階へと向かう。エレベーターには誰も乗っていなかった。こんな時間まで仕事をしている職員はなかなか居ないだろう。伝説の博士でさえきっと自室に戻っている頃だ。
「そう言えば今度合同実験の予定が入ったんだ」
「合同実験ですか?」
モイセスがそうだよ、と頷く。
合同実験とは他のグループとペアになってひとつの対象を実験することを言う。
最近ではノールズ・ラシュレイペアと、とある王冠の超常現象の合同実験を行ったが、人が多いとは言え危険な超常現象だったので、レヴィはあまり合同実験に良い思い出がなかった。
ただ、外部調査と合同実験が重なった、「死の歌声」という超常現象は舞台がヨーロッパということもあって新鮮で楽しかった記憶がある。
あの時は星4研究員のコナー・フォレット(Connor Follett)、星5のカレブ・リンメル(Caleb Rimmell)、そしてカレブの助手である星3のマヤ・ピアソン(Maya Pearson)が一緒だった。
飛行機に乗ったり、海辺のレストランで食事をしたり、夜の海に出たりと、外部調査ならではのことができたので、あのような合同実験ならまたやりたい。
「レヴィは人見知りだからな。次のメンバーに上手く溶け込めるといいけれど」
「うう、そうですね」
レヴィは人見知りである。ノールズらと合同実験をする際、ラシュレイと二人だけになる時間があったが、なかなか気まずい思いをしたのだ。だが、最終的には最初に比べればかなり話せるようにはなっていた。もう一度彼らと合同実験をやるとなれば、次はそこまで緊張することはないだろう。
「この先僕がいなくてもやっていけるかなあ」
モイセスがそう言ったのと同時にエレベーターの扉が開いた。指定した階についたようだ。二人はエレベーターから降りて、人気のない廊下を歩く。
「なんとか頑張ります......」
確かにモイセスが居なくなったらこの先この仕事ができるのか不安である。会議にも出なければならないし、もっと他の人と話す機会が増えることになるだろう。
二人は自分の部屋に戻りながら、明日の話をしていた。廊下にはやはり人は居なく、しんと静まり返っている。レヴィはなるべくモイセスの横をピッタリとつくようにして歩いていた。すると、
ヴーヴーヴーッ!!!
突然天井のスピーカーから警告音のような大きな音が降ってきた。あまりにも突然のことにレヴィは驚いて、モイセスの腕に抱きついた。
「か、火事ですか!?」
「......違うよ。レヴィ、こっちに行こう」
モイセスがレヴィを引き連れて廊下を曲がった。警報はまだ鳴り響いている。レヴィは混乱していた。
一体何が起こっているというのだろう。しかし、おかしい。こんなに大きな警報が鳴っているというのに、廊下には誰一人出てこない。部屋の中で鳴っていないとしても、こんなに大きな音である。どう考えても聞こえるはずだ。
レヴィがモイセスに連れてこられたのは、小さな休憩スペースであった。自動販売機と丸テーブル、椅子が置いてあるそこは当然の事ながら誰もいない。
「え、ど、どうしたんですか博士」
火事ではないらしいが、警告音が鳴っているのだからこんな場所に連れてこられても意味がわからない。モイセスは壁に隠れて廊下の奥の方を睨んでいる。
「モイセスさん!」
警告音がうるさくて聞こえていないのだろうか。そう思ってレヴィは彼を呼ぶが、モイセスは「しっ」と唇に人差し指を当てるだけであった。
レヴィはますます混乱する。果たして何が起きているというのか。自分たちは何かから逃げているのだろうか。すると、
バチン!!
「ひいっ!!」
廊下の照明が全て消えた。後ろの自動販売機の光も消えてしまい、レヴィは一瞬にして周りが見えなくなる。
「博士、何が起きているんですか......!!」
「超常現象さ。あとで説明をする。レヴィ、机に突っ伏して寝たフリをするんだ」
モイセスがそう言ってレヴィの背中を押した。レヴィはわけもわからず椅子があった辺りの場所に歩いていく。そして椅子を見つけると、そこに座り、机をぺたぺたと触って場所を確かめ、そこに突っ伏した。
全くわけが分からないが、何やら超常現象らしい。
モイセスもレヴィの横にやってくると同じように机に突っ伏したようだ。レヴィは怖くて目をつぶった。
すると、
布が擦れ合うような音が聞こえてきた。それは少しずつ近づいてきて、レヴィらが居るこの休憩スペースの前を通ろうとしているようだ。レヴィは足が震えそうになるのを我慢した。寝ている人は体が震えるなんてことはないだろう。寝返りを打つのはまた別なのだろうか。一体どんな超常現象なのだろう。
その時、瞼を貫くような眩しさがレヴィを襲った。それは赤い光だった。レヴィは気にしない振りをするのに必死だった。モイセスは隣でビクともしない。とにかく足が震えないように、足をしっかり床につけた。赤い光はまだ続く。
10秒ほどだろうか。光が遠のいた。レヴィはまだ寝たフリを続けた。布が擦れ合う音が少しずつ遠のいていく。だがモイセスはまだ寝たフリを続けているようだ。レヴィもそれに倣った。
やがて、
パチン
と音がして、電気がついたのが目をつぶっていても確認できた。
それに続いて、
「レヴィ、もう大丈夫だ」
と声が聞こえてきた。レヴィはゆっくり目を開き、そっと体を起こした。暗闇になれていたからか、光の世界に目が慣れるのに数秒時間を要した。
「はあ、心臓に悪いなあ。急に来るんだから」
モイセスは脱力して、壁に背中をつけて苦笑している。レヴィは廊下の方を見てみるが、赤い光など何処にもない。だが、廊下には何人かの職員が出てきて、他の部屋を見たり、何か情報交換をしているのかお互いに話しているのが見えた。
「あの、博士......今のは一体......?」
「ああ、うん。【彷徨う悪夢】という超常現象だよ。五年に一回くらいの頻度でこの施設に現れるんだ。赤い目を持つ死神の姿をした人型の現象で、夜に起きている人間を殺してしまうんだよ」
「えっ!!」
レヴィが声を上げて、顔を青ざめさせた。モイセスはその意味が分かったらしい。やれやれと呆れ顔をしてレヴィの頭を撫でた。
「君があまりにも震えているから、顔を覗きこまれたんだね。あの時に驚いて目を開いていたら確実に殺されていたよ」
「ひいっ!!」
あの瞼を閉じていても感じる赤い光は、その超常現象に覗き込まれたことによって生じたもののようだ。あの時の光景を想像してレヴィは震え上がった。
「彼は目が赤く光っているから、こうして施設内の電気を全て消すことで彼が今何処にいるか分かるようにするんだよ。あの警告音も、彼が現れた時にしか鳴らないんだ」
「そうだったんですか......」
急にあんなに大きな音で警告音を鳴らされたので驚いたものの、確かにあれくらいの大きさの方が危機感が持てるだろう。それにしても恐ろしい超常現象だ。モイセスが居なければ自分はどうなっていたか分からない。
「モイセス、レヴィ君、無事かい?」
二人が椅子に座っていると、伝説の博士の一人であるドワイト・ジェナー(Dwight Jenner)がやってきた。
「はい、何とか。レヴィが顔を覗かれてしまったんですがね」
「そうだったんだ、怖い思いをしたね、レヴィ君」
「はい......」
赤い光を思い出してレヴィは全身に寒気が走った。
「皆無事ですか?」
モイセスが不安げにドワイトに問う。
「うん、今回は大丈夫そうだ。今ブライスとナッシュも皆の部屋を回って確認しているところ。モイセス、手伝ってもらってもいいかな」
「わかりました。レヴィ、君は部屋に戻るんだ」
「は、はい」
レヴィは頷き、立ち上がる。ドワイトはモイセスを連れて、他の場所へと行ってしまった。
廊下はみんな不安げな表情で情報を待っているところだった。聞こえてきた情報によれば、あとで放送が入るらしい。それを聞くまでは寝ないようにしよう、とレヴィは部屋に戻りながら思った。
*****
次の日、オフィスに行くと既にモイセスがそこに居た。彼はパソコンとにらめっこをしていたが、レヴィが入ってきたのを見て顔を上げた。
「おはようレヴィ、昨日はお疲れ様」
「はい......博士も、遅い時間までお疲れ様でした」
昨日の放送によると死者は0人だったそうだ。それを聞いてホッとしたのを覚えている。【彷徨う悪夢】は一度出現すればあとは五年ほど出ないらしいので、明日も明後日もあの脅威にビクビクする必要は無いようだ。
「あの、ドワイトさんが『今回は』と言っていたんですが、もしかして前にあの超常現象が現れた時って......」
レヴィは昨日のドワイトの言葉が気になって眠れなかった。ドワイトが「今回は大丈夫そうだ」と言っていたのが心に引っかかっていたのだ。
モイセスの表情が曇った。
「うん、五年前は六人が犠牲になったよ。その前は四人って言ったかな。皆、レヴィのように顔を覗きこまれたんだね。そして、レヴィとは違って目を瞑っていなかった。もしくは目を瞑っていたけれど赤い光に驚いて目を開けてしまった、だとかね。あの超常現象は廊下だけじゃなくて室内にも入ってくるんだ。五年前の時は皆ベッドの上で死んでいたんだ」
「そうだったんですね......」
未だに赤い光が瞼の裏側に焼き付いている。五年となるとまだまだ先のような気がするが、もう一生あんな恐ろしい思いはしたくないとレヴィは心から思うのだった。




