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Black File  作者: 葱鮪命
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嫉妬 中編

 男の名前はジミー・ロンドン(Jimmy London)といった。星5になって二年目の研究員だった。


 彼のオフィスに入ってまずチェルシーの目に飛び込んできたのは、ゴミの山だった。食堂から買ってきた飯をここで食べているのか、とてつもない量のゴミが無造作に袋に詰め込まれ、入り切らないものはこれからチェルシーのものになるのであろうデスクの上や床に所狭しと落ちている。


 チェルシーが唖然としていると、男は腕でチェルシーのデスクのゴミを乱暴に落とした。


「お前に最初にやってもらうことはまず報告書の書き方だ。当然、できんだろ?」

「い、いえ、できません......それは直々に助手入りした先輩から教えてもらうようにと最初の研修会で言われていて____」


 チェルシーが慌てて言うと、男は「はあ?」と不機嫌な顔を作った。


「なんで俺がお前に報告書の書き方なんて教えてやらねえといけないんだよっ!?」

「......」


 チェルシーはぽかん、とした顔で彼を見上げていた。


 一体どんな表情をしたらいいのか分からなかった。


 この男は何を言っているのだろう。


「俺は使えるだろうと思ってお前を助手にしたんだ!! つべこべ言わずに書けよっ!!」


 男が勢いよくデスクに紙とペンを置いた。インクがほとんど入っていないペンで、紙も折り目が数え切れないほどついている。


 報告書というものを見たことすらないチェルシーは本当に何も分からない。困ってジミーと、デスクの上を交互に見るが、彼はイライラした様子でチェルシーを見下ろすばかりだ。


 何とか行動するしかないらしい。

 チェルシーは急いでペンを手に取り、近くにあったファイルを捲ってみる。幸運なことに報告書らしきものが挟まっていたので、それを引っ張り出して書き方の参考にすることにした。


 しかし、はて、自分はこれから何についての報告書を書こうとしているのだろうか。


「あ、あの......」

「なんだよっ」

「な、何についての報告書ですか......?」

「そんなの、俺が三日前に受け持った超常現象の報告書に決まってんだろっ」


 チェルシーは言葉も出なかった。三日前なんて自分が此処にやってきた日である。そんな日に自分は彼の存在すら知らないのに、彼がどんな超常現象を受け持ったのかなど知る由もなかった。


 理不尽すぎる男の命令にチェルシーは完全に固まってしまった。ペン先すら動かない様子を見て諦めがついたのか、男は「もういいっ」とチェルシーの手から紙とペンをかっさらっていく。


「報告書も書けねえならお前に何ができるって言うんだよ、ええ? 助手ってのは研究員の腕なんだぞ!! それすらできなきゃ何しに来たんだ!?」


 男がチェルシーの顔に向かってボールペンを投げつけた。チェルシーはただただ黙り込むしかなかった。床に落ちたボールペンが転がり、やがて止まる。


「明日までに報告書の書き方くらい覚えておけっ!! そんぐらい出来んだろ!!」

「......はい」


 チェルシーは頷く。今にも逃げ出したいのを我慢しながら。視界に映った足も手も小刻みに震えていた。


 *****


 チェルシーはルームメイトであるマウラに、ジミーに助手にとってもらった話はしなかった。マウラも自らその話を持ってくることはない。やはり彼女は良い友達だ、とチェルシーは思った。マウラとは毎日のようにお菓子を囲んで談笑している。それが、今のチェルシーにとっては唯一の癒しの時間だった。


「えー、チェルシー彼氏いないのっ」

「だって学校に良い人いなかったもん」


 研究員でも部屋に戻ればただの少女である。マウラは今まで二人の男性と付き合ったことがあるらしい。二歳しか違わないというのに、彼女はチェルシーから見てひどく大人っぽく見えた。


「でも、付き合うならやっぱり面白い人がいいな!」

「面白い人......」

「チェルシーはどんな人とお付き合いしたいの?」

「私は......」


 ふと、彼女の頭にハロルドの顔が浮かんだ。あの優しい表情と声は未だに恋しい存在だ。


「......優しい人」

「優しい人かあ......きっとチェルシーなら良い人見つかるよ!! チェルシー可愛いからね!!」


 マウラがぽん、とチェルシーの頭に手を乗せる。チェルシーは「うん、ありがとう」と頷きながら、明日が来なければいいのに、とそう思った。


 *****


 次の日、チェルシーは朝早くにオフィスに来て軽く掃除をした。まずは通れるほどの道を作り、それから机周りのゴミを袋に入れた。


 少しはマシになったと感じ、次に報告書の書き方を見よう見まねで練習した。練習をしながらチェルシーは何度も眉を顰める。


 本当にこんな超常現象が存在するのだろうか。入社試験で蓄えた知識は膨大なものだったが、半信半疑なところもあった。やはり科学で証明できないものとなると、自分の目で確かめるまでは信じられない。


 チェルシーはペンを走らせながらため息をつく。

 今日は一日あの研究員のもとで助手をしなければならないのだ。地獄のような時間が昨日よりも長く続くのだと思うと、辛かった。他の研究員もこういう経験を経て、少しずつ一人前へと近づいていくものなのだろうか。


 だが、マウラはとても楽しそうだ。自分にはないキラキラしたものをまとって、今にもスキップをしそうな様子でオフィスへと向かう後ろ姿は自分とは比べ物にならないほどだ。


 自分は本当に此処で何をしているんだろう。自己満足のために来たのなら、きっとこの時間は何の満足にも繋がっていない。でもそれを認めてしまうのは、自分のプライドが許せなかった。何かもっと立派な理由はないだろうか。


「あ? 何で居るんだ」

 ガチャ、とドアが開いて、チェルシーは慌てて立ち上がった。


「おはようございます!」

 ジミーが入ってきた。チェルシーの体は自然と固くなる。ジミーの目線はジロジロとチェルシーを見た後、彼女の後ろにあるデスクへと向けられた。


「何で報告書なんか書いてるんだよ!? 俺が命令していないことを勝手にやるなっ!!」

 男はチェルシーは腕で押し退けて、書きかけの報告書を掴むとぐしゃぐしゃに丸めて床に叩きつけた。


 昨日、報告書の書き方を練習しておくように言ったじゃないか。あれは命令ではなかったのか。ただの気まぐれ発言だったのだろうか。


 チェルシーの中で何かがぷつん、と切れたような気がした。


「お前は上司の命令すらまともに聞けねえのか!? 報告書も書けねえ、何にもできねえ、じゃあ本当に何しに来たんだよっ!!」

「......すみません」


 チェルシーは精一杯の笑顔を作った。

 もうどうにもならないのだ。この男は理不尽すぎる。だから、自分に嘘をつくことにしよう。


 この人の元で働けることがどれほど幸せか。この人のことを自分は誰よりも慕っている。


 自分を騙すのだ。今、自分は最高に楽しいと。


「では、報告書の作成の他に違うお仕事をください。全力で頑張りますから」

 チェルシーの突然の変わりようにジミーは驚いた顔を一瞬だけ見せた。


「お前に何が出来んだよ」

「掃除でしたら出来ます」

「はっ、勝手にしてろ。俺は酒を買ってくる」

「はい、行ってらっしゃいませ」


 メイドのように、チェルシーはジミーを見送った。姿勢も正して、トーンも変えてみる。ジミーはなんだか不気味なものでも見るような目でチェルシーを見ていたが、やがてオフィスを後にした。


 さて、とチェルシーはオフィスを見回す。受け取り方や、接し方を変えてみると案外気も楽である。思い返してみれば、自分が姉よりも優れている場所はこういうところだった。相手を不快にさせないために自分を偽ってことを進める。これが自分の最大の武器であり、最強の戦法だった。


 これで何とか頑張っていけそうな気がする。


 報告書が書けないとなると、残された仕事は掃除だ。まずはこのオフィスの惨状をどうにかしなければならない。家に居た時は掃除はすべて母親に任せていた。よってこっちも見よう見まねとなるが、とりあえず自分のデスクから片付け始めた。ジミーのものに比べてものは少ないが、染み付いた汚れや小さなゴミは沢山ある。デスクの下もなかなかに悲惨である。投げ捨てられたスナック菓子や、ティッシュがポイポイと捨ててあった。


 チェルシーは書類や、紙くず、プラスチックなどを分別しながら次々とゴミ袋に突っ込んでいく。まさか、此処に来て初めてまともにする仕事がゴミ掃除とは。


 黙々と掃除を進めながら、彼女の頭には家族の顔が思い浮かんだ。娘二人が居なくなって家はきっと酷く静かになっただろうに。父親など毎日のように泣いていそうな気すらする。


 だが、自分はこの仕事を諦めたくはない。寧ろ諦めたら負けだ。姉に劣ったままでいたくないのだ。


「......私だって」


 チェルシーは机にこびりついた汚れを布で強く拭きながらそう呟いた。


 *****


 イザベルはタロンとハロルドのもとで星3の研究員として頑張っていた。


「久々に実験もないですし、食堂でゆったりご飯でも食べませんか? タロン先生」


 ハロルドは後ろのタロンを振り返ってそんな提案をした。


「ご飯かい?」

 そうだねえ、とタロンはイザベルを見る。


「イザベルはどうしたい?」

「私はどちらでも構いません」


 書類の整理をしていたイザベルが手を止めて振り返る。


「......ただ、確かに最近は実験続きで三人で食事をする機会もなかったので......」

「そうだよな、イザベル!! 先生、イザベルもこう言っていることですし、食べに行きましょうよ!!」


 ハロルドはどうしてもこの面子でご飯を食べたいようだ。


「うん、そうだね。じゃあ準備しようか」

 タロンは頷くとゆっくりと腰を上げた。


 *****


 三人は食堂にやって来て、それぞれ注文したものを受け取り、席についた。イザベルが黙々と食事を進めている間にタロンとハロルドは様々な話をしている。


「この前の報告書、書いたのはハロルドだね?」

「え、そうですけど......間違っていた場所ありましたか?」

「うん、誤字があったから直しておいたよ。次からは一度読み直しておくれ」

「そうだったんですね......次回から気をつけます!!」


 タロンは続いてイザベルに話題を振る。


「イザベルも単体実験お疲れ様。報告書はもうできそうかい?」

「はい、あと三行ほどで」

「そうかそうか、さすがイザベルだね」


 タロンが微笑むが、イザベルはどんな顔をすればいいのかわからず、小さく頷いて食事に戻った。


 三人で食事を進めていると、


「タロンさん、お疲れ様です」


 優しい声が降ってきた。


 三人の机の傍らに星5研究員のドワイト・ジェナー(Dwight Jenner)が立っている。ドワイトよりもタロンは年上だ。ほとんどの研究員はタロンに対して敬語で接している。ドワイトが敬語で話すのはなかなか珍しいからかハロルドもイザベルも食事の手を止める。


「お疲れ様です、ドワイトさん、ミゲル君も」


 ドワイトの後ろには彼の一番弟子であるミゲル・イーリィ(Miguel Ely)が居る。ミゲルは小さく会釈した。


 ドワイトは手に紙の束を持っていた。それをタロンに差し出す。


「この前頼まれていた資料です。少し手直しが入ってしまってページが前後しているところがありますが、ご了承ください」

「ああ、いいんです。どうもありがとうございます」


 この二人の間には独特の空気を感じる。タロンは昔、大学の教授をしていた。喋り方もゆっくりで、聞き取りやすい。ただ、その仕事は彼の妻が病気になったことをきっかけに辞めてしまい、妻が病死してからは此処に来て研究員をしているのだ。


「最近はどうですか?」


 ドワイトがタロンに尋ねる。タロンは資料を机に置きながら、


「特に変わりはありませんよ。強いて言うなら、イザベルもハロルドも頑張ってくれているので私はあまりやることはありません」


 と、苦笑した。ドワイトは微笑んでイザベルとハロルドを見る。


「俺は何もしてないですよ......」


 ハロルドがそう言ってはにかんだ。イザベルも自分はなにか二人に貢献できるようなことをしただろうか、とぼんやり考えていた。


 やがてドワイトとミゲルが席から離れていき、三人は止まっていた食事を再開する。


「ドワイトさんと先生って仲良いですよね」

「ドワイトさんは優しい雰囲気を持っているからね。とても話しやすい方だと思わないかい?」


 そういえば、タロンとドワイトの雰囲気はどこか似ているような気がする。類は友を呼ぶということわざがあるが、まさにこのことだな、とハロルドは思った。


「でも、最後はお互いの自慢話になってましたよ」


 そう言ってハロルドはタロンに呆れ顔を向ける。最後はお互いに自分の助手をこれでもかと言うくらい褒めたたえていたので、イザベルもハロルドも反応に困った。ミゲルもである。ドワイトの後ろに隠れてはいたが、恥ずかしげに俯いていたのを思い出す。


 だが、上司に褒めてもらえて嬉しくない部下など居ない。あの言葉たちに偽りはないだろう。


 ハロルドの言葉にタロンはふふ、と笑った。


「自分の助手というのはとんでもなく可愛いものさ。ハロルドもいつか助手をとったら気持ちが分かるよ」

「えー、俺はイザベルのことしか可愛いと思っていないので。イザベルが一番だぞ、安心してくれ!!」

「......ありがとうございます」


 どう安心すればいいのだろう。別にハロルドが他の人を助手にとったところで嫉妬などしない。


 それにしても、自分には助手をとるような未来がみえない。タロンのような立派な先輩になることができないとなると、中途半端に助手をとったところでその子が可哀想である。


「そう言えば、この前新入社員研修会がありましたよね」

 ハロルドが話題を変えた。イザベルは特に興味もないので、食事を進める。


「うん、今回は20人とったみたいだね。恐らく皆助手につくことができたんじゃないかな?」

「俺、休憩スペースでチェルシーって子に会ったんですけれど、何だか疲れきってる様子でしたよ」

「ああ、あの時ハロルドの後ろに居た女の子だね?」


 反応したのはイザベルだった。思わず咀嚼を止めて二人の話に聞き入っている。


 そんなイザベルには気づかずにハロルドは頷く。


「辛そうだったんで飴玉あげました!」

「小さい子じゃないんだから......まあ、疲れているのなら糖分は大切だよね。その子は良い人にとられているといいね」

「はい!」


 そこでハロルドはようやく黙りこくっているイザベルに気づいたようだ。不思議そうに彼女の顔を覗き込んでいる。


「イザベル、どうしたー? お腹でも痛いの?」

「......いいえ、大丈夫です」


 イザベルはフォークを持ち直して引き続き食事を進める。


 妹の名前が聞こえたような気がする。チェルシー_____名前が同じと言うだけで違う人かもしれない。


 だが、妹だとしたら何故B.F.に?

 何故自分がここに居ると分かったのだろう。


 そう言えば、自分は家の自室に教科書を置いてきた。もしかして、それを読んだのだろうか。そうだとしても......。


 イザベルの頭の中でぐるぐると疑問が回っている。こういう時はあの人に話すのがちょうどいい。


 *****


 イザベルは食後、すぐに仕事を終わらせてノールズの元へ向かった。彼のオフィスの前につく。中からジェイスと彼の楽しそうな声が漏れてくる。


 イザベルはコンコン、と扉を叩いた。


「はーい」

 扉を開けてくれたのはジェイスだ。


「あれ、イザベル? どうしたんだよ?」

「ノールズに用事があって。今大丈夫ですか?」

「おう、いいよー。ノールズ、イザベル来たよ」


 ジェイスが部屋の向こうに声をかける。「マジすか!?」と声が聞こえてきて、ジェイスの脇の下からノールズがひょこっと顔を出す。


「イザベル!! どうした!?」

「少し話があるの」

「おおー?」


 ジェイスがニヤニヤとイザベルとノールズを交互に見ている。ノールズは何を期待しているのか、顔を輝かせてジェイスの脇から顔を引っこめる。


「わかった!! 待ってて! 着替えてくる!!」

「そういう話じゃないから。別に此処でもできる話だから」

「なーんだ......」


 ノールズがしょんぼりしている。その様子を苦笑して眺めるジェイスは、イザベルを部屋に招き入れた。


「そんでー? どうしたのさイザベル」

 椅子をもうひとつ出してもらって、それに腰かけたイザベルは床に目を落とす。


「実は......」


 *****


「へえ? 妹ちゃんが此処に......」

「はい」

「イザベルって妹居たんだー」

「家を出る時にはお互い話もしない存在になっていたけれど」


 肩を竦めるイザベルにジェイスはうーん、と腕組をする。


「その子は誰のところに助手入りしたんだろうね」

「まだ名前しか聞いていないので......それに、それが本当に妹なのかは分からなくて......」

「そっかあ」

「でも、妹に会ったとしてイザベルはどうしたいの?」


 ノールズの質問にイザベルは困った。そう言えばそうである。自分は妹が此処に来ていると分かった途端、こうして誰かに話したくなるくらいにソワソワしてしまっている。それが何故なのかは分からない。もしかしたら和解したいと思っているのかもしれない。しかし会ったところで無視されてしまうだろう。


「......」

「妹ちゃんはイザベルのこと嫌ってるの?」

「多分、そうです」


 イザベルもよく理解していない。実際はわかっていない。妹にいつからか全く関心がなくなっていた。それは自分がB.F.に入るために勉強を始める時からだったろうか。


「まあ、様子見ってとこだね」

 ジェイスが頷いた。


「様子見、ですか」

「まだB.F.に入って日が浅いし、もしイザベルを嫌っているとしたら本人もかえってストレスだと思う。そっとしておいてあげたら?」

「......わかりました」


 *****


 チェルシーはジミーに認められようと頑張った。掃除、報告書の書き方、彼に食事を出す。研究員というよりまるで家政婦である。だが、


「報告書が全然なってねえよ!!」

「飯は毎日違うやつ出せよ、使えねえなっ」

「大事な報告書に触るなっ!!」


 腹や足に痣が増えていく。チェルシーはそれでも、


「申し訳ございません。次は気をつけます」

 微笑んでそう言った。


 ロボットのようになっていく心と体。人間から徐々に離れていく感覚。

 チェルシーはジミーが押し付けてくる膨大な仕事と、たくさんの暴力によってオフィスから出ることが出来なくなっていた。酷い時はオフィスの扉に鍵をかけられ、仕事が終わるまで自室に戻らないよう言われたこともあった。


 これも社会勉強だと自分に言い聞かせて、チェルシーは懸命に仕事に食らいついた。ジミーを怒らせないように、常に頭を回転させて動かなければならなかった。


 姉は今何をしているのだろう。


 きっと持ち前の頭の良さで仕事も早く終わらせて、お風呂上がりのスキンケアでもしている頃だ。

 それなのに今自分は空のボールペンを握って今にも潰れそうな心で膨大な量の仕事を片付けている。自分のものでは無い、自分の上司のものを。そして、そんな上司は今、食堂で酒を飲んでいる。


 チェルシーはペンを放るようにして置いた。

 もう嫌だ、もう疲れた。


 心がとっくに限界を超えていることを、チェルシーはよく分かっていた。だが、やめ時が分からなければやめ方も分からない。でも、もう何もかも動かなくなった瞬間、自分は壊れてしまったのだとわかった。チェルシーは目の前にあったカッターに手を伸ばした。その手にはインクがこびりついている。


 もう充分頑張っただろう。姉に無理して着いていこうとしなくてもいいだろう。


 カッターを手に持ち、チャキチャキと刃を出す。錆びた刃は切り心地が悪そうだった。それでも構わなかった。痛みなど、もうどうでもよかった。


 チェルシーは刃を首筋へと持っていく。


 楽になろう。


 目を瞑る。何故か頬を伝っていくものを感じたが、今更理由など考えようとも思わなかった。チェルシーは首筋に刃を当てて_____


 _____


「......?」

 目を覚ますと、そこには知らない天井が広がっていた。


「あら、おはよう」

 知らない天井をバックにして知らない女性が視界に入ってくる。綺麗な女性だな、と思っていると、チェルシーは気づいた。


「生きてる......」

 いや、分からない。此処は天国かもしれない。


「生きてるわねえ」

 女性は手鏡を渡してきた。そこに映った自分の首には痛々しく包帯が巻かれていた。顔色も悪く、目の下には隈ができていた。


 首は切ったことには切ったようだ。そこからの記憶は全くないが。


「起き上がらない方がいいわよ。でも、話は出来そうね」

 女性が自分のベッドの隣に椅子を持ってきて座る。手にはバインダーを持っていた。


「事情を詳しく説明してもらえるかしら」

 チェルシーは何も言わなかった。

 怖い上司に嫌気がさして自殺を図ったなど誰かに広められたら恥ずかしいし、姉の耳にでも入ったらそれこそ本気で死にたくなる。


「黙っていてもいずれバレるものよ」

 女性は厳しい顔をしてそう言ったが、言いたくないのでチェルシーは黙っていた。やがて女性は諦めたように、


「まあ、無理に聞き出そうとは思わないけれど」

 と、優しく頭を撫でた。久々の感覚だった。母親が頭を撫でてくれたのを思い出す。父親もよく撫でてくれた。小さい頃は姉とそれなりに肩を並べていたはずだったが、いつの間にか二人の関心は自分ではなくなってしまっていた。


 頭に加わる心地よい重みにチェルシーが目を細めていると、遠くで扉が開く音がした。女性が立ち上がる。


「お客さんだわ。ちょっと待ってて」

 女性が離れていくので、チェルシーはぼんやりと天井を見上げていた。


 誰が自分を此処まで運んだのだろう。ジミーなのか......いや、そんなわけがない。


 やがて、足音がいくつか自分に近づいてきた。視界に入ったのはB.F.の最高責任者であるブライス・カドガン(Brice Cadogan)という男と、ジミーだった。


「首を切ったと聞いたぞ」

「......」

 チェルシーは何処を見ればいいのか分からず、困ってしまった。返事の代わりに口元まで毛布を引き上げる。


「ブライス、ちょっと」

 さっきの女性がブライスを呼ぶ。チェルシーとジミーだけがその場に残された。


「......自殺しようとしたんだな?」

「......」

「......てめえ」

 ジミーの声に怒りが現れる。


「俺の事クビにしたいのかよ。死ぬならもっと人に迷惑かけないでやろうと思わないのかよ」

「......」


 チェルシーは笑いそうになった。人に迷惑をかけているような人間が、人に迷惑をかけるなと言っているのだ。どうしてそんなことが言えるのだろうか。


「次からは気をつけます」

 チェルシーはまたもや微笑んでそう言った。もはや自分はこの男から逃げられないのだなと確信した絶望から来る笑みだった。


 *****


 イザベルは報告書を提出するためにオフィスを出ていた。その帰り、自分の前を歩く男性と女性の背中を見た。男性の方は見たことがなかったが、女性の方はイザベルがよく知る背中だった。


「......チェルシー」

 呼んだ声は二人には届かない。何か二人で話をしているようだ。


 やはり妹だった。だが、何だろうかあのオーラは。明らかに家に居たときとは違う。いつも家に居る時は彼女はキラキラしたオーラをまとっているのだが。


 今はまるで、屍のように負のオーラをまとっている。だが、時折聞こえてくる声は楽しげだった。_____自分以外の人間が聞けば。


 でも違う。彼女は無理をしている。


 姉であるイザベルにはそれが分かった。


「......」


 イザベルは二人の後ろをついていきながらぼんやりと考える。彼女は何をしに来たのだろう。自分についてきたと言っても、最後の別れのときでさえ目も合わせなかったというのに。


 その時、イザベルはチェルシーの隣の男が、彼女の肩を強く小突いたのを見た。一瞬だったが、彼女はよろけて壁にぶつかる。男は気にした様子もなく先にずんずん進んでいく。チェルシーは黙ってその男を目で追っている。イザベルは思わず足を止めた。


 普通の姉妹なら、普通の姉ならこの時に大丈夫か、と声をかけに行くものかもしれない。


 だが、イザベルは迷っていた。


 自分が助けてもいいのか、声をかけてもいいのか。そもそも妹は自分が此処に居ることを知らないのではないか。


 だとしたら、やはり......。


「!」

 チェルシーが振り返った。イザベルと目が合う。その瞳に涙が浮かんでいるのをイザベルはしかと見た。声をかけようと何か第一声を考えているうちに彼女はイザベルから顔を逸らし、さっきの男のもとへと走って行ってしまった。


 イザベルは出かけていた言葉を飲み込んで、止めていた足を動かし始める。


 さっきの男はチェルシーのペアだろうが、何だろう、あの男は。タロンやハロルドとは違う、どす黒いものを感じる。


 イザベルは小さくなった妹の背中をいつまでも見つめていた。

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