一触即発-6
ナッシュらはカードキーを壊して中に入ろうとしていた。
「これって、此処にノールズさん達が居なかったら、俺ら器物破損で訴えられるんじゃないですか?」
キーを壊しながら、ビクターの顔が青ざめていく。
「仲間の緊急時に何を心配してるの!!」
彼の後ろからケルシーが顔を覗かせると、ビクターの手の中にある斧を取り上げた。そして、それを大きく振りかぶる。
「いっけええ!!」
彼女の重い一撃は、扉を壊すのに十分な破壊力を持っていた。エラー音が鳴って、やがて扉の機械が壊れたらしい。ケルシーは後ろのナッシュを振り返る。
「壊れました!! 中に入れます、ナッシュさん!!」
「よくやったよ、ケルシー! さあ突入だ!」
ナッシュが先頭になって施設の中に飛び込む。そこはショッピングモールのような構造の建物になっていて、白衣を着た研究員らしき人達が此方を見て驚いた様子で固まっていた。すると、けたたましい音で放送が鳴り響く。
『侵入者を確認、侵入者を確認!! 研究員は戦闘態勢に入り、直ちに攻撃を始めよ! 繰り返す......』
「放送されてますけど!!?」
ジェイスがナッシュの背中に向かって叫ぶ。
「構うもんか!! 走れ!!」
ナッシュが先陣を切って人混みの中を突っ切っていくので、ジェイスらはその背中を見失わないように必死に続いた。
*****
部屋の中は静かであった。針を落とす音さえ聞こえそうな程に、しんと静まり返っている。カーラは未だに揺れる思いを抱えたままであった。
人類の幸福にこんな小さな命が貢献出来る_____。
この仕事を、死んだ両親が自分に残してくれたものだとしたら_____。
「君が最も幸福にしたい人間は誰だ? カーラ君」
ベルナルドが口に笑みを浮かべて彼女に優しく問う。最初に会った時よりもずっとずっと甘い声をしていた。
カーラはそんな彼をぼんやりと眺めながら考える。
幸せにしたい人など、居すぎて困ってしまう。
カーラは口を閉ざしたままそう思った。が、考えてみればさっきから一人の人物の顔がずっと頭の中にあるのだ。ドワイトである。自分の一番近くに居てくれる、カーラにとってかけがえのない存在だ。
ああ、そうだ。自分は彼の幸福を心の底から望んでいる。
ナッシュから彼の過去の話を聞いた時、あまりに残酷な彼の過去に、彼女は強く願い、思ったことがある。彼の笑顔が過去に囚われず、増えて欲しいと。
そして、彼に溢れんばかりの幸福を、自分が与えられたらどんなに良いだろうと。
彼が幸せの中に居てくれたら、自分は何も思わない。
ドワイトは、果たして喜ぶだろうか。自分を犠牲にして手に入れた幸せを。人類の幸福追及に貢献した助手を持てたことを誇りに思ってくれるだろうか。
だが、はて、ひとつ疑問がある。
自分がもし宇宙に飛ばされたとして、ドワイトは幸せになるだろうか。彼の幸せとはおそらく、もう二度と助手を失わないことだろう。
だとしたら、今回自分が宇宙に飛び立つことは、あの悲劇をもう一度繰り返していることになるのではないだろうか。
ドワイトは、本当に幸せになるのだろうか_____。
「カーラ、考えすぎてはいけない。その脳には、もう新しい知識も言葉も考えも必要ない。君は無になればいい」
「......無、ですか」
「ああ、そうだ。君を眠らせて、ゆりかごのようなロケットに乗せて送らせてやるのだ。心地いい、まるで赤子に返ったような気持ちになるだろう」
「赤子......」
「夢を見られるかもしれないな。素敵な夢を」
「私......」
「怖がらなくていい」
ベルナルドがゆっくりと階段を降りてくる。手にはいつの間にか注射器を持っていた。透明な液体が中で揺れているが、それを見てもカーラは動くことすらしなかった。
「この部屋の奥にロケット隠してある。眠る時間だ、カーラ。今この瞬間にも、人類は幸福を求めている。早く結果を出さなければならんのだよ」
カーラはぼんやりと、階段を降りてくる彼を眺めていた。頭の中が、深い霧で覆われているかのように何も考えられない。何だか、眠くなってきた気がする。彼の甘い言葉と声色に、カーラは瞼が重くなっていくのを感じた。
その時、
「そこまでだよ!!」
鋭い声がした。驚いて振り返るカーラの目に映ったのは、武器を持って此方を睨むナッシュの姿だった。更にその後ろにケルシーやビクターの姿もある。
「ナッシュさん......」
カーラの頭はまだぼんやりしていた。
「大切な親友の助手を返してもらおうか、ベルナルド!!」
ナッシュの言葉にベルナルドは少しだけ驚いた様子で目を見開いた。
「俺の名前を知っているということは、ブライスとそれほど仲がいいということか」
しかし、何かを思い出したのか、ベルナルドの目が細まった。
「......なるほど、老けたな、ナッシュ・フェネリーか」
ナッシュの後ろから、ケルシーが顔を覗かせた。
「カーラちゃん!!」
彼女が手を伸ばすが、カーラとはかなりの距離がある。カーラは立ち上がりかけたが、
「無駄だ、カーラ。お前が俺に背を向けた時、お前は心臓に銃弾を受けることになるだろう」
「......!!」
カーラはベルナルドを振り返る。彼はいつの間にか自分に拳銃を向けていた。カーラは恐怖で腰が抜け、その場から全く動けなくなった。
「くそ......」
ナッシュの後ろから拳銃を構えていたビクターが、苛立たしげにそう呟いた。彼はベルナルドに向かって拳銃を構えていたが、この位置ではベルナルドではなく、手前のカーラに当ってしまう。きっとこれも彼の作戦のうちである。
「今は大事な話中だ、ナッシュ。邪魔をされては困る」
「そうかい。意味のわからない実験の材料にカーラを使う気じゃないだろうね」
「お見事だな。だが、意味のわからない実験とは何だ? 我々が目指す目標も知らない奴にそんなことを言われる筋合いはない」
ベルナルドが片手をスっと挙げた。すると、複数の足音が聞こえてきて、二階の扉と一階の中央の扉から武装した男たちが現れる。
「ネズミ共の始末をしろ。殺しても構わん。実験で使えないやつは、生きたところで価値のない者ばかりだ」
「そんなことありません!!」
突然、鋭い声がこだました。カーラである。ベルナルドの片眉が微かに上がった。
「驚いたな。洗脳していたつもりだっだが。一体何処にお前の洗脳を解くワードが入っていたんだ?」
カーラは大きく深呼吸をする。頭の霧が少しずつ晴れていく。自分が何故ぼんやりしていたのか、カーラは今の彼の言葉で理解した。自分は洗脳されていたのだ。彼にまんまとロケットに乗せられそうになっていたのだ。
だが、違う。人類の幸福だとか、そんな簡単に手に入るものではない。もっと方法はあるのかもしれないが、少なくとも、自分のこの命が使われていいわけではない。
カーラはベルナルドを睨みつけた。
「私は......あなたの実験に協力なんてしません! 私は今幸せなんです! 今しかない幸せを噛み締めているんです! あなたの実験にそれを壊されるなんて、そんなの嫌です!! たとえそれが人類の幸せのためだったとしても、私は命を捨てる気なんて更々ありません!!!」
カーラは叫んだ。体が熱く、底から何かが這い上がってくる。それがエネルギーとなって、口から言葉が出ていく。
ベルナルドは目を細めた。
「......ほう、なかなか口が達者になったな。背中に仲間が居ることがそんなに嬉しいか。そいつらが今誰のせいで命の危険に晒されているか考えた方がいいんじゃないのか」
恐ろしく冷たい声だった。カーラは途端、今まで感じていた熱が冷めたような気がした。それは背中から徐々に冷えていき、カーラの言葉を奪い取った。
カーラは口をつぐみ、彼から床へ目を逸らした。
「お前のわがままで何億の人々が不幸の中命を落とすのだぞ。お前の協力で何億の人々が幸せを得られるのだぞ。どちらがいいかなど考える程でもない」
ベルナルドは構えていた拳銃をカーラの心臓部分へと下ろした。カーラはぎゅっと身を縮める。あの距離では誰も助けに来られない。自分はもうすぐ死んでしまう。
「脳さえ傷つけなければいいと言うことだ。痛みを分からせれば、その口も少しは大人しくなるだろう」
彼が引き金に指をかけたのが見えて、カーラは小さく息を吸い込む。ひゅ、と音が鳴って、体が完全に固まった。
_____死にたくない。
「やめろっ!!!!」
ベルナルドが引き金を引いたのと、カーラの前に誰かが飛び出してきたのが同時だった。カーラは、誰かの腕の中に居た。強い圧迫感が彼女を襲う。そして、泣きたくなるような優しい香りがした。
「ドワイトさん......」
「ごめんよ、カーラ。遅くなってしまった」
ドワイトが微笑んだ。
今日という一日だけで、彼のこの優しい声と顔をカーラはどれほど望んだだろうか。どんなにイザベルに頭を撫でられても、ノールズに優しく声をかけられても、やはりそれは違かった。カーラがずっと望んでいたのは、ドワイトだった。
カーラはじわりと視界を滲ませて、彼のコートにぎゅっと額を押し付けた。
「......?」
しかし、ふと鼻腔を擽る鉄の臭いに、カーラは弾かれるようにして彼から額を離した。彼は、左の横腹から血を滴らせていた。コートにじわりじわりと血を滲ませて、やがて真っ白な部屋の床に鮮明な赤い模様を描いていく。
カーラは血の気が引いた。まさか、今のベルナルドが放った弾が当たったのか_____。
「ドワイトさん......?」
「怪我は、ないかい」
「私はありません......でも、ドワイトさんが_____」
「掠っただけさ」
ドワイトがカーラの髪を愛しげに撫でた。
「こんなの、すぐに治るよ。......それより」
彼はカーラを抱きしめながら、後ろのベルナルドを振り返った。彼は冷たい目で自分たちを見下ろしていた。
「見違えるほど勇敢な男になったな、ドワイト。そして、随分と幼い助手をとったようじゃないか」
「まあね......でも、よくも私の助手をこんな目に遭わせてくれたな、ベルナルド。いいかい、君にやるものなんてこれっぽちも無いんだ。カーラはね、カーラは、私の大事な、とっても大事な助手なんだ」
カーラは気づいた。ドワイトの顔が、これまでにないほどに怒っていることに。穏やかな口調に滲み出る怒りにその場の空気が震え出す。
「君みたいなやつにカーラの何が分かるってんだい。何もかも自分の思い通りになると思えば大間違いだよ、ベルナルド。君に大切な助手の命を託すほど、そしてそれを許すほど、私は優しくない!」
ドワイトがカーラを抱く腕に力を込める。
「幸福なんてものはね、そんなに単純じゃないんだ! 君が思うほどの単純な幸福がこの世に存在してたまるか!!」
ベルナルドは瞬きすらせずにドワイトを見つめていた。彼の目に、冷たさが層のように重なっていく。
「全く......これだからB.F.職員は。汚れた頭の中身は誰も変わらないというのか。誰にそんな口を利いている。お前も偉くなったじゃないかドワイト。その助手が何だと? カーラは我々の希望だと言っているじゃないか。そんなに怒ることでもないだろう」
ベルナルドが淡々と言葉を吐いていく。それが終わって、ふと、ああ、と思い出したように笑った。彼の目が三日月のように弧を描く。
「死が怖いか。聞いているぞ。助手を一人亡くしているようじゃないか」
「......!!」
ドワイトが息を呑んだのがカーラには分かった。
「簡単に死ぬ命の何処に需要があるというのだ。仕方ないな、ドワイト。お前に、我々が望む、この世の未来の姿を教えてやろう」
ベルナルドが一呼吸置いて、口を開く。
「永遠の命の創造だ」
「永遠の......命、だって......?」
「そうだ。死ぬ事もなければ、痛みを感じる事もない。人間が求める幸福の極地だ。全ての人間の幸福が行き着く場所はそこだ。どうだ? 我々の実験も少しは希望が持てるだろう」
ベルナルドは薄く笑って続ける。
「簡単ではないからこそ、研究は楽しいのだろう? 一筋縄では行かないからこそ、追求は止められないのだ。エスペラントがそうならば、B.F.もそうであるはずだ。血にまみれた両社の記憶を無かったことにできるのだぞドワイト。素晴らしいことだとは思わないか?」
「......」
「死んだ者が戻らない。それはそうだろう。生かされた自分たちが何をするか。そう、同じ過ちを繰り返さないのさ。死んだ者を見て学習するのさ。道徳的な考えだろう」
「......」
「ドワイトさん......」
カーラは固まるドワイトの横顔を見て、小さく声をかける。
ドワイトの頭の中に、あの日の景色があった。水色の髪の、誰よりも優しく、誰よりも真っ直ぐなあの少年。自分に手を伸ばして、自分の頬を撫でて、彼は腕の中で息絶えた。
「つまり、つまりだな、ドワイト」
ベルナルドはドワイトの顔を見て、まるで滑稽だと言わんばかりに口の端を釣り上げた。
「死んだ者など、ただの実験材料にすぎないのだ」
ドワイトの中で、何かが切れた。
「ふざけるのも_____」
ドワイトの声が震えている。カーラはドワイトの服をぎゅっと握り締めた。
「ふざけるのも大概にしろっ!!!」
ドワイトが大声でそう叫んだ。
「お前の言っていることが理解できない! お前は今何て言った!? 死んだ者が実験材料だと!! 彼らがどんな思いで命を散らしたか理解しろ!! 理解する努力すらできないお前にはその実験を行う資格はない!!」
彼はカーラの頭に手を添える。
「命は確かに大切だ、だが、それと天秤にかければ釣り合うものだってこの世に存在するんだ!! 言葉で言い表せないくらいの気持ちだ、温かさだ、幸せだ!! 自分で理解出来ていないことを他人に押し付けるなっ!!!」
カーラはポタポタと上から降ってくる雫に気づいた。彼が、泣いている。
「死が怖いのはお前の方だっ!!!!!」
震えた声を、彼はその部屋に轟かせる。
「お前に......お前にはやるものなんて何一つない!!!」
ベルナルドが、ドワイトを静かに見つめている。その顔は無表情だった。彼の指がゆっくりと銃の引き金に置かれる。
「お前に議論を施した俺が間違いだったか?」
ベルナルドの銃の先にはカーラとドワイトが居る。
「親子揃って此処を墓場にしたいんだな?」
ベルナルドが笑う。
「不幸のまま死にたいんだな?」
カーラが身を縮めた。ドワイトがそれを抱き締めて、ベルナルドを睨みつける。
「ドワイトさん!!」
物陰からB.F.の研究員らが叫ぶ。しかし、それを遮るような乾いた音が部屋中に響いた。
「俺の部下を此処まで痛めつけてくれたか」
低く冷たい声が、はっきりと部屋に響く。ベルナルドの手には拳銃が無かった。それは遠くの床に音を立てて転がり、何度か回転した後、何事もなかったかのように止まってしまった。
「我々B.F.の優秀な研究員を穢れた言葉でどれほど汚してくれたことか。いいや、そんな言葉で穢されるほど我々の職員は落ちぶれていないな」
冷たい声はまだ続く。静かな怒りを含んで。
「貴様の、いつまでも改めないその態度に俺は腸が煮えくり返りそうだ。ベルナルド・ウィンバリー」
カーラやドワイトらの後ろの扉から出てきたのは、ブライスだった。
今日はいつもよりも彼が纏う空気が冷たく、ビリビリと恐ろしいオーラを放っている。ベルナルドはそんなブライスを見ても、自分が持っていた銃が消えても、余裕の笑みを浮かべていた。
「久しぶりだな、ブライス。どうだ? この施設は。非政府でも此処まで出来るということを褒めて欲しいくらいだ」
「そんなことを聞きに来たわけじゃない」
「じゃあ何だ? ネズミ共なら此方で片付けるぞ。ああ、そうか、こいつらはお前の部下だったな」
ベルナルドが嘲笑して言った。
「......何様のつもりだ」
ブライスが彼を鋭く睨みつけた。
「実験の邪魔になるものは排除する。普通のことだろう? まさかそれさえ否定すると言うんじゃあるまいな」
「俺とお前では思考回路が違いすぎている。お前にも分かるように懇切丁寧に言ってやる」
ブライスが一段と声を低くした。
「俺の部下を痛めつける必要が何処にあったかと聞いている。人の部下に手を出しておいて、ただでおかれると思っているのか」
「驚いたな、ブライス」
ベルナルドが大袈裟に両腕を広げてみせた。
「人の死をなんとも思わないお前が何、綺麗事ほざいているんだ? 墓を作って満足しているようだが、お前も俺としていることは変わらないだろう」
「......」
「俺はお前が助けに来ないものかと思っていたが......まあそこは上司らしいというか。自分の名誉のためか? それとも、ただのヒーローごっこか?」
ベルナルドは楽しげに笑った。
*****
「あーー......暇だなあ」
ずっと狭くて暗いトラックの中に居るくらいなら、ついていきたかったと思うバレットである。
正直、自分たちが理解しているのは、ノールズ達がこの施設の人間に誘拐されて、それを皆で助けに行く、という状況だけだ。
そして、自分たちはノールズらが逃げる時にその手助けとなるようにこの大型トラックで待機命令を出されたのだ。
此処に現在いるのは、バレットの他に、同期でありペアのエズラ・マクギニス(Ezra McGinnis)、そして先輩のコナー・フォレット(Connor Follett)、後輩のレヴィ・メープル(Levi Maple)だ。
「ほんとだよな」
コナーはトラックの助手席から降りず、窓を全開にして、地面を歩き回るバレットらを見下ろしている。
「だいたいさ」
コナーは窓枠に頬杖をついてため息混じりに口を開いた。
「モイセスさんまであっちに行っちゃったら、こっちは動くことすら出来ないんだけどね?」
「俺ら全員無免許っすもんね」
コナーの言葉にバレットは頷く。
「モイセスさん......ちゃんと戻ってきますかね......」
今にも消え入りそうな声でレヴィがそう言った。彼はこのトラックを運転したモイセス・グルーバー(Moises Gruber)の助手である。
「心配症だなー、レヴィは。大丈夫だってば!」
バレットが俯くレヴィの背中を叩く。
「うう......でも、相手はすごい会社だって噂ですし......」
「そうなの?」
バレットが隣のエズラを見る。
「何で俺に聞くんだよ。そこはコナーさんに聞けよ」
エズラがそう言ったので、バレットはコナーを見上げた。コナーはうーん、と首を捻っている。
「正直言って俺も詳しくは知らないんだよねー。でも、俺らと同じで超常現象を調べてる会社らしいけど」
「B.F.以外にもそんな会社あるんですね......」
レヴィがそう言ったときだった。
バサバサ!!!
「ひあああああっ!!!!!!」
後ろの木の影で大きく音がして、レヴィがエズラの背中にしがみついてきた。
「うおっ、何だよ」
「な、何か......何かいましたぁああ!!」
「そりゃ森なんだから動物の一匹くらい居るでしょ」
コナーは頬杖をついて大欠伸をかます。彼には全くもって緊張感が見られない。そんな彼をぼんやり見上げながら、バレットはとあることをふと思い出した。
「あのー、コナーさん」
「んあー?」
「俺、ラシュレイに電話かけて、それで違う人が電話に出たって言ったじゃないですか」
「ああ、言ったな。ラシュレイが電話落としたから、たまたま拾ってくれた人だったんだろ?」
ノールズらがエスペラントに誘拐されている事実が浮き彫りになってきたのは、バレットが外に出ているはずのラシュレイに会議室から電話をかけたことが始まりだった。なかなかラシュレイは電話に出なかったが、やっと出たかと思うと、それは違う男性の声だった。しかも、
「その拾ってくれた人が、元B.F.職員だったんでしたっけ?」
レヴィがエズラの後ろから顔を覗かせる。
「うん、そうそう」
「なんか凄い偶然だよな」
コナーが頬杖をつきながら頷いている。
「で、コナーさん」
「ん?」
「その声の主なんですけど......元B.F.職員ってなると、多分俺、知ってる人だと思うんですよね......。あの声、何となく聞いた事ありましたし......」
コナーは腕組をして考え込むように下を向いた。
「聞いたことがある声?」
レヴィが首を傾げた。うん、とバレットは頷く。
「でも、俺らが知っている、B.F.を辞めた職員なんて限られてんだろ」
エズラが言うと、そうなんだよね、とバレットが首を傾げた。
「じゃあ、その限られた職員の中の誰か、か」
「はい。コナーさんなら誰か分かりませんか?」
バレットが再びコナーを見上げたので、うーん、とコナーは首を捻る。
自分の中で知っている、B.F.を辞めた職員で思い浮かぶのは今のところ四人である。一人は定年で退職し、もう一人は暴力沙汰を起こして辞めた。
そして、かなり前にはなるが、まだコナーがB.F.に入ってそんなに経過していない時に、ケニヨン・マッカリース(Kenyon McAleese)という職員が毒で殺されて、ペドロ・スウィフト(Pedro Swift)という研究員がその犯人である可能性から、彼がB.F.から追放された。
そしてもう一人が、ノールズの先輩であるジェイス・クレイトン(Jace Clayton)である。
ジェイスに関して、コナーはかなりノールズと仲が良かったというイメージしかない。まだ自分がナッシュとペアを組んでいた時代だが、食堂でよく彼らを見かけた時は、楽しげに会話を弾ませていたのが印象的だった。優しい先輩だったのだろうし、雰囲気からもそう感じ取れた。ノールズも優しい性格であるから、きっとそうである。
「まあ、思い浮かぶ限りでは......ジェイスさんかな」
「ジェイスさんですか」
バレットはあまりピンと来ていないそうだ。彼らがB.F.に入ってきてすぐにジェイスは出ていったのだから無理もない。ただ声は聞いたことがあるようだ。
「ノールズさんとペアを組んでいた人ですよね」
エズラの言葉に、バレットが「ああ!」と思い出したように大きく頷いた。
「そうだそうだ!! 居たよ!!」
「でも何で......どうして仮施設の前なんかに居たんですか?」
眉を顰めたのはレヴィである。
「何か悪いことしてたわけじゃなさそうだけどね。実際にラシュレイのところに電話は届けようとしてくれてたみたいだし」
「ジェイスさんは悪いことするような人じゃないでしょ。まあ、俺もそこまで知らないけどさ」
コナーはそう言って、二度目の大欠伸をかました。
「ほんとに暇だなー。俺らも行く?」
「いや、怒られますって......」
バレットが苦笑した。
「あっちにはブライスさん達が居るんですよ......」
エズラもまずいと思ったのかあまり乗り気では無さそうだ。
「だって、こんなに時間を無駄にしてるより、折角の外なんだぜ!!? 遊び足りないだろうが!!」
「いや......遊ぶ、っても......」
エズラが周りを見回す。外出を原則禁止にされているB.F.職員からしたら外に出るということはかなり貴重である。しかし今は緊急事態で外に出ているわけだからそんなことできない。そもそもこんな森の中で遊ぶだなんて......できるのはかけっこくらいじゃないか、とエズラは思った。
「あーーー!! つっまんねー!!!!」
コナーが天井を仰いでそんなことを叫んだその時。誰かの電話が鳴った。
「んあ? 俺かー......」
ポケットで振動する機械を取り出して、それを操作するとコナーは耳に当てた。
「もしもしー......って、あ、はい、ナッシュさん、こんちは」
今の今までだらけていたコナーが急に背筋を伸ばして姿勢を正した。電話の相手はナッシュらしい。コナーとナッシュは昔ペアで活動したが、とある事件をきっかけに、コナーは星4になってすぐ彼の元から独立してしまった。
「はい、森の入口で待機してますけど......え? バレットとエズラとレヴィです。はい......はい..................まじっすか!!?」
突然、コナーが大声を出したのでトラックの下で待機していた三人の肩がびくん、と動く。しかし、コナーは嬉しそうに電話に向かって喋っている。
「いいんすね!? ほんとに!! わかりました!! 任せてくださいっす!! 俺の技術見せつけてやりますよ!」
コナーは笑顔で電話を切った。そして、
「お前ら乗って!! こっち!」
と、突然扉を開け放つと、三人を助手席に引き上げた。
*****
ブライスは銃口を彼に突きつけたまま黙っている。ベルナルドは勝ち誇ったような笑みを浮かべて彼を見つめていた。
「いい顔をするなブライス。痛いところを突かれて声も出なくなってしまったのか?」
「......」
ドワイトが不安げに「ブライス......」と呼んで彼を見る。ドワイトの顔が歪んでいる。被弾した腹部の痛みに耐えているようだ。
ナッシュは物陰に隠れて銃を持っていたが、構えようとはしなかった。というのも、さっきからベルナルドが居る向こうの物陰で彼の手下たちが動いているのだ。おそらくブライスやドワイトをいつでも撃ち殺せるように待機しているのだろう。今此処でベルナルドを撃つとなると、ブライスとドワイト、カーラに危険が及ぶ。仲間のピンチに手も足も出ない状況だ。
ナッシュは焦る気持ちを抑えて、ポケットに手を伸ばした。
「ジェイス、此処を少し代わってくれ」
「え......はい、でも、どうして......?」
一番近くに居たジェイスがナッシュと場所を交代する。ナッシュはポケットから手を抜いた。その手に握られていたのは携帯電話だった。
「電話をする。脱走劇の準備だよ」
ナッシュは電話を耳に当てた。
*****
「ちょ、ちょっとコナーさん!!! 何て言いました!!?」
バレットの声が車内に響くが、それは激しい音で掻き消されてしまいそうになる。
コナー達が乗ってきたトラックが、山道を物凄いスピードで登っている。車体は大きく傾いては体制を立て直し、再び大きく揺れたかと思うと、次は上に大きく跳ねた。
「だーかーらー、俺がエスペラントの施設に突っ込んで壁に穴開けて、ノールズさん達を荷台に乗せて、森から逃げるんだっつの!!」
ハンドルを握るのはコナー・フォレット。勿論、無免許である。
「でも、だからって無免許運転は......!!」
レヴィが言うがコナーは、はっ、と嘲笑した。
「こんな緊急事態に何言ってんだよお前は!? ナッシュさんの命令なんだから仕方ないだろ!!」
そう言うコナーの横顔が今までに無いほどに輝いていた。初めて運転する車がこんな大型トラックな上に、走るのが難しい山道であることが、彼の心に火を付けているらしい。MAXスピードで跳ねて転がりそうになりながら、トラックはグングンと山道を登って行く。勿論、助手席に座る三人は完全に死を悟ったような顔をしている。
「ちょっとスピード出しすぎじゃないですか!?」
バレットが天井に頭をぶつけそうになりながら、隣のコナーに叫んだ。
「今ブレーキ踏んだら一回転するかもなっ!!?」
とんでもない事を言うコナーだが、その顔はキラキラと少年のように輝いている。
「ああああああっ!!! 終わったよエズラ!!!! 今までありがとうな!!!」
「黙れっ!!舌噛むぞ!!」
叫ぶバレットに対してエズラが怒鳴るようにして返す。
「コナーさん!! このトラック壊したらとんでもない額弁償させられますよ!!?」
エズラとバレットの間に座って二人にしがみついているレヴィが顔を真っ青にしてそう叫んだ。
確かにコナーのこの運転では、トラックが大破する未来しか見えない。そして三人は、その大破の影響を得と味わえる特等席に座らせられている。
「んなの関係ねぇぇえっ!!! ナッシュさんにでも払わせればいいだろっ!!!」
施設が見えてきた。コナーは更にアクセルを踏み込む。ギュンギュンとこの世のものとは思えない音を聞いて、三人はいよいよ死を悟った。
「あぁぁぁぁぁあああっ!!! ナッシュさんごめんなさぁぁあいっ!!!!」
そして、白い大型トラックはエスペラントの施設の壁に大きな大きな穴を開けたのだった。
*****
「殺してみろよ、ブライス」
ベルナルドが彼を嘲笑うようにして言った。
「俺を撃ち殺せば、当然お前の部下の命も飛ぶ。此方にも兵が居ることを忘れるな」
「......」
ブライスは厳しい顔のまま彼に狙いを定めていた。ベルナルドの言う通り、今この引き金を引いてしまえば、この場にいる全員が助からないかもしれない。それでなくてもこの状況は危険すぎるのだ。誰かが誰かに銃を向けている緊迫している状態。
ブライスは小さく息を吸った。
「おい、ナッシュ」
「なんだい」
物陰から相棒の声がした。ブライスはベルナルドに銃口を向けたまま彼に言う。
「扉を開け放て」
すると、左右両方の扉が勢いよく開く音がした。
ブライスは更に言う。
「怪我人の保護優先。武器持ちの職員は援護射撃を行え。外で合流しろ。一人も殺すなよ、いいな」
「はいっ」
B.F.職員全員の返事が響いた途端、弾丸の雨が降ってきた。
「逃がすな」
ベルナルドの声が弾丸の中で聞こえる。
ドワイトはポケットから楕円形の機械を取り出してカーラに握らせた。この機械を使うと、周りに薄いバリアを張ることが出来る。何かあった時の為にとブライスが自分に押し付けてきたのだ。
「カーラ、掴まって!」
「は、はい......!!」
ドワイトは弾丸の雨の中、彼女を抱えてナッシュらが待つ扉へと走り出した。
辿り着くとナッシュとジェイス、ビクターでその背中を守りながら、全員は廊下へと出ていく。
前からも敵が来るので、ケルシー、そして他の研究員でそれを倒して道を作る。誰がどう見ても完璧なチームワークであった。
「逃げ道は確保してあるんですか?!」
ジェイスが振り返らずにナッシュに問う。
「ブライスと僕で応援を呼んだ! 外に待機させてあるから、それに乗り込むんだ! そして、皆で帰るぞ!」
「はいっ!!」
B.F研究員たちは必死に足を動かしていきながら全員で施設の入口へと向かっていく。
「ドワイトさん......助けに来てくださって、本当にありがとうございました......」
カーラはドワイトの腕の中で声を押し殺して泣いていた。実はドワイトが助けに来てくれた時からずっと涙は止まらなかった。彼が助けに来てくれたことも、彼が自分のせいで怪我をしてしまったことも、彼があんなに怒っていたことも_____なんだか色々な感情が混ざって自然と涙が溢れてきてしまったのだ。
「大事な助手を助けない先輩が何処にいるんだい、カーラ。怖い思いをさせてしまってごめんよ」
ドワイトは腕の中の彼女に優しくそう言った。
*****
やがてほとんどの研究員が外に出ることが出来た。外には大きなトラックが壁に大穴を空けて停まっている。更にその後ろにはワゴン車もあった。
「怪我人はワゴン車に乗れ。ノールズ、ラシュレイをこっちに寄越せ。お前はワゴン車組だ」
ブライスがノールズから、まだ目覚めないラシュレイを預かった。
「ちょ、いや、え!? 俺怪我してないのに!!」
ノールズはブライスに、ワゴン車へと押し込められるようにして乗せられる。
「びょ、病院行きの車ですか?」
「行先は運転手にでも聞け」
ブライスはそう言うとラシュレイを抱えたまま大型トラックへと向かった。ノールズが乗ったワゴン車は不思議な造りをしていた。運転席、助手席と後部座席の間に壁がある。本来なら後部座席がある場所には、ベンチが両脇に置いてあった。外から見れば普通のワゴン車だが、中はまるで救急車のようである。そして、運転席、助手席と自分らのいる後部座席を隔てる壁には小窓がついていた。
その小窓をノールズは覗き込んで、げ、と顔を引き攣らせた。
「なんでベティさんが此処に居るんですか!?」
運転席に座っていたのは、元B.F.職員のベティ・エヴァレット(Betty Everette)だったのだ。
「医者として呼んだんだ」
ラシュレイを大型トラックに置いてきたらしいブライスが戻ってきて短く言った。その後ろからカーラを抱えたドワイトがやって来る。
「ドワイト、お前も乗れ」
ブライスがドワイトの背中を押す。
「うん、カーラも乗るかい?」
ドワイトはカーラを抱えたまま乗り込むと、ゆっくり彼女をベンチへと下ろしてあげていた。
外にはまだまだ研究員が溢れている。
「キエラも乗りなさい」
ワゴン車の荷台の扉の前に現れたのはイザベルだった。さっきまでモイセスの背で眠っていたが、目を覚ましたようだ。
「イザベルさん!! いつの間に起きたんですか!!?」
ずっと心配していたらしいキエラが今にも泣き出しそうな声色で彼女に駆け寄る。
「いいから乗って。もう時間が無いんだから」
そう言われて、キエラは素直にワゴン車に乗り込み、ノールズの隣に腰を下ろした。
ブライスは4人がワゴン車に乗り込んだのを確認して、扉に手をかける。
「お前らはベティのもとで治療を受けてからB.F.に戻ってこい。いいな」
「分かりました」
「うん」
ドワイトがチラリと外を見る。敵の追っ手をジェイス、ビクター、ケルシー、ナッシュらで応戦しているようだ。大丈夫だろうか、と心配しているうちに扉は完全に閉められた。
*****
「ブライスさん!! そろそろこっちが限界です!!」
ケルシーが叫んだ。走り出したワゴン車を見送ってブライスは此方にやって来る。
「よし、近いものからトラックに乗れ。ナッシュ、ジェイス、後輩らの背中を守ってやれ」
「勿論、言われなくたってそうするさ」
ナッシュは銃を構えたままそう言った。
戦える人間の数は圧倒的にエスペラントの方が多い。これだけ足止めできたのは奇跡と言ってもいい。
ブライスは続いてトラックの運転席の扉を開く。コナーが乗っていた。ナッシュが彼に命令して此処までトラックを運ばせたのだ。
「コナー、そこを変われ。俺が運転をして帰る」
ブライスが彼を見上げてそう言うと、コナーは「えっ」と残念そうな顔をした。
「俺にやらせてくれるんじゃないんすか......」
どうやら随分運転するのが楽しかったらしい。
「当たり前だ。無免許に数十人の命預けられるか」
淡々と言うと、彼は渋々と言った様子で運転席から降りてきた。それと入れ替わるようにブライスが運転席に乗り込み、ジェイスも助手席へと乗り込んできた。
「これで、全員なのかい?」
ナッシュもジェイスに続いて助手席に乗ろうとして、後ろのコンテナを振り返る。
「あとはもう一台、怪我人用の車両の他に応援の車が来ているはずだ。モイセスが運転しているが......そっちに乗るか?」
「ああ、うん、ちょっとやり残したことがあったから。すぐ済むことなんだ」
ナッシュがそう言ったので、ブライスは小さく目を見開いた。ジェイスも口をぽかんと開けている。今にも後ろから敵が迫ってきているというのに、彼はこのトラックに乗って逃げるつもりがないようだ。
「ナッシュさん、でも、あいつら、俺らを殺す気満々ですよ!!?」
ジェイスが彼を引き上げようかと手を伸ばすが、ナッシュは首を横に振る。
「大丈夫だよ。ブライス、いいかい?」
ブライスは少しの間黙っていた。が、やがて小さく頷く。
「......分かった。無理はするなよ。行け」
ナッシュはありがとう、と微笑んでトラックに乗り込もうと、かけていた足を下ろす。そして、森の闇へとその姿を眩ませた。
「ブライスさん、いいんですか? いくら用があるとはいえ、追っ手が......」
ジェイスはまだ納得しきれない様子で、ナッシュが消えた辺りを見つめている。ブライスは無表情で、
「彼奴には、会いたい奴が居るんだろ」
と、そう言ってトラックを発進させた。
*****
「ドワイトさん、痛みますか?」
カーラは、ドワイトに問う。車に乗っているドワイトは、少しだけ辛そうだった。止血するために縛った布には生々しい血痕がある。カーラは震える手をずっとドワイトの手に重ねていた。片時も彼から離れたくないと言う一心で、彼に寄り添っていた。
不安げに自分を見つめるカーラに、ドワイトは優しく微笑んだ。
「大丈夫だよ。ベティの手にかかればこんなのすぐ治っちゃうさ。ねえ?」
と、ドワイトは小窓に向かって問う。ベティがハンドルを握っているのが微かに見えた。
ベティはドワイトの質問には答えなかった。ただ前を向いたまま、
「子猫ちゃんは、怪我ないのね?」
と問う。
「はい......ドワイトさんに守ってもらったので......」
カーラが頷くと、ベティは「そうなの」と言いながらハンドルを切る。
「良かったわね。あなたは、正真正銘の幸せ者よ」
ベティの声が優しい。カーラは、はい、と微笑んだ。
その席の向かいで二人の仲睦まじい姿を見ていたキエラ。いいなー、と指を咥える彼の隣でノールズは何やら神妙な面持ちで車の外に見える景色に目をやっていた。
「どうしたんですか、ノールズさん。さっきから黙りっぱなしですけど......」
キエラがそんな彼に気づいて声をかける。
「酔ったかい?」
ドワイトも問う。いいえ、とノールズは首を横に振った。そして、
「あの......ジェイスさん......見かけた気がするんですけれど......」
と、まるで幽霊でも見たかのような顔と声色でそう言った。
彼にとったらきっと天地がひっくり返ったような衝撃だったに違いない。だが、まだ信じられない様子だった。
ドワイトは微笑み、
「どうだろうね」
と、短く言った。
ノールズは、はあ、と曖昧な返事をして、もう一度窓に目を向ける。そして小さく、
「やっぱり、夢だったのかな」
と、呟いた。
*****
ブライスはトラックを運転していた。ジェイスはその隣で窓の外に目を向けている。特に会話が飛び交うことも無い。荷台の方も、疲れているのかこれといった会話が聞こえてくるわけではなかった。
自分はもう少しでこの逃走劇とはおさらばしてしまう。
ジェイスはずっとそんなことを思っていた。
まだもう少し、「B.F.研究員の一員のように」この空間にいられたらな。
ジェイスが黙っていると、突然ブライスが口を開いた。
「ノールズには会えたか」
「え?」
「お前の助手には会えたかと聞いているんだ」
ぽかんとしていたジェイスだったが、口元を緩ませて答えた。
「......姿だけは見えましたけど......ちらっとだけ、ですけどね」
「......そうか」
「はい」
会話が途切れてしまう。ジェイスはブライスに送っていた視線を窓の外に戻す。闇に覆われた外の世界。
もし、今からでも自分がB.F.に戻ると言ったら皆喜ぶのだろうか。しかし、そんなことになったとしてもきっと笑われるだろう。天国にいる仲間に。もしくは、過去の自分に。
今更何を言っているんだ、って。もう一度同じ罪を被りたいのか、って。
今回の出来事でそろそろ腹を括らなければならない。自分がB.F.から完全に脱却するために。過去に囚われて何処にも行けないのはもう止めよう_____。
夜の闇に彼はそんなことを誓った。
*****
ナッシュは暗い森の中を歩いていた。そして、
「ああ、やっぱり居た」
闇の中に佇む、白衣を纏った背中を見た。それは男性で、ナッシュと同じ髪色をしていた。キュルスである。
「......よく分かったね」
振り返らずに彼は言った。煙草の匂いがする。ナッシュは微笑んだ。
「君なら此処に居るんだろうな、って思ったんだよ。ほら、薔薇が綺麗に咲いているしね」
ナッシュが目を向けた先には、小さな植物園が建っている。それは闇の中でこうこうと輝いていた。そんな光の箱の中には、色とりどりの薔薇が咲き誇っているのだ。
ナッシュは山を登っている時にその存在に気づいた。植物園と、その中に咲く薔薇、異様に捨てられた煙草の吸殻。
「......探偵になった方がいいんじゃない?」
キュルスは相変わらず振り返らなかった。
「まさか。僕は今の仕事で満足しているんだ」
肩を竦めるナッシュを、ようやくキュルスは振り返った。その顔は少しだけ引き攣っている。そしてそれを悟られないようにか、声色だけは優しく、
「兄さん」
と、短く言った。
*****
「はい、これで大丈夫よ」
此処はベティが持つ診療所である。ベティはB.F.を脱退してから一般人向けの医者として働いている。この診療所には彼女の助手として男性と女性の看護師が一人ずつ居るようだが、夜は基本的にベティが一人だけのようだ。
「ブライスから少しは聞いていたけれど、まさか本当に診療所を建てているなんて」
綺麗な診察室を見回しながら、ドワイトはそんなことを言った。彼は今、ベティに傷口の治療を受けたところだった。傷は掠っただけで深くはなく、傷跡も残らずに治るという。安心したカーラの隣で、ノールズはまだぼんやりし、キエラはベティに魅入っている。
「あの......失礼ですが、ブライスさんの彼女さんなんですか?」
「まあね。元って付くかもしれないけれど。今回の件は大目に見るけど、本当なら助けるつもりなんて無かったのよ? ブライスったら、私の家になんて言って入ってきたと思ってるの!」
ベティはこめかみに手を当ててうんざりした様子で言葉を続ける。
「手伝え、だって。ほんっと、私をなんだと思ってるのかしら!!?」
興奮して思わず声を荒らげるベティをドワイトは「まあまあ」と宥める。
「彼も彼で頑張ったんじゃないかな。こうしてみんな無事に脱出できたし、大目に見てくれないかな」
「そうは言うけれど、いつもそればかりよ......まあ、いいわ」
ベティは溜息をつき、ところで、とノールズに目を向けた。
「彼は何でそんなに静かなわけ?」
ノールズは診察用のベッドに腰をかけたまま、何処か空中をぼんやりと眺めている。
「ふーむ......ちょっと彼なりの大事件が発生したみたいでね。こっちの話さ」
「あら、恋の病ならお薬出すけど?」
「そんな薬あるのかい......」
驚きというよりかは、呆れ顔でドワイトは言った。彼からしたら彼女のオリジナルの薬というのは、苦い思い出しか無かった。ドワイトを始めとしたブライス、ナッシュの三人は昔よくベティの人体実験に付き合わされていた。勿論、表向きは治療薬だが、中身は何を使ったのかすら分からない怪しい薬である。
ナッシュとドワイトはともかく、ブライスは二人の倍の量を飲まされていた。きっと媚薬か何かだったのだろう。ブライスがベティに対してベッタリすることは無かったものの、彼が顔を青くして会議に出ていたときは流石に可哀想であった。
「子猫ちゃんは恋のお薬必要かしら?」
「えっ!?」
「あらあら、真っ赤になっちゃって。可愛いわねえ」
ベティに笑顔を向けられ、カーラは顔を真っ赤にして俯いた。彼女には自分の思いを完全に見破られているようだ。
「ベティ、からかいすぎてはいけないよ」
ドワイトが軽く咎めた。
「はいはい、全く、男ってのは何にも理解してないんだから......」
ベティの言葉に対して、カーラはドワイトの後ろで、こくこく、と小さく頷いた。ドワイトとキエラがキョトン、とした顔で顔を見合わせていると、誰かの電話が鳴った。
「あら」
「私だね」
ドワイトがポケットから携帯を取り出して電話に出た。どうやらブライスからのようだ。電話をとった彼は軽く現状を説明して、何事も無かったことを告げると、少しの間沈黙した。どうやらブライスが話しているようだ。ドワイトはやがて、嬉しそうに微笑んだ。
「ああ、わかったよ」
そして、電話を切った。
「ブライスさんですか?」
キエラがいよいよ帰る雰囲気を察したのかベッドから降りてくる。
「うん。もう帰ってきても大丈夫だって。ベティ、じゃあ私たち帰らないと」
「ええ、そうなの? 子猫ちゃんはせめて置いていって欲しいんだけれど」
「残念だったね、カーラはこっちなんだ」
ドワイトがカーラの肩を優しく抱く。さっきのベティの質問で顔を真っ赤にしていた彼女だったが、更に耳まで真っ赤になった。そんな彼女を見てベティは楽しそうに笑った。
「羨ましいわよ、子猫ちゃん」
と、カーラに向かって小声で言い、ぱち、とウインクしたのだった。
*****
やがてドワイトらは彼の運転でB.F.へと戻った。
「お腹が痛いのに、運転して大丈夫なんですか?」
カーラは助手席に乗っていた。運転しているドワイトに不安げに問う。
「うん、平気だよ。ベティは腕がいいからね。もうほとんど痛くないさ」
ドワイトはそう言って、後部座席の様子を見るためにミラーに目をやる。
「二人とも大丈夫かい?」
「はい!」
「......」
元気よく返事をするキエラの横でノールズは未だに元気がない。ドワイトはそんな彼に微笑む。
「ノールズ君」
ノールズの目が此方を向く。
「もう少しで着くからね」
「はい」
いつもの調子は何処へやら、ノールズはどこか上の空でそんな返事をした。
*****
やがてB.F.の施設へと着いた。たった一日離れていただけで此処まで恋しくなるものか、とカーラは施設が見えた瞬間に泣き出しそうになった。
まだ施設前は騒がしい。車を車庫に入れたり、壊れた部分をどうするかを話し合ったりで、ブライスが職員に指示を出しているようだ。
「さ、降りていいよ」
ドワイトがそう言ったので、キエラもカーラも車から降りる。ノールズだけはまだぼんやりと外を見つめていた。誘拐されて疲れたのだろうが、彼にはもうひとつ、心の大半をさっきから占めて止まないものがある。それは、ジェイスを見かけたことがきっかけだった。
ジェイスはある日突然、自分を置いて施設を出て行ってしまった。辞めてしまったのだ、B.F.職員を。
ノールズは何となく理由を知っていた。三人の同期を次々に失った彼の心には、己の想像を遥かに超える傷を負っていたのだ。
彼が施設を出ていった時、ノールズは誰もいない場所で泣いた。ジェイスももしかしたら、自分が知らない場所で泣いていたのかもしれない。でも自分は、それに気づくことができなかった。
広くなったオフィスと寝室に、底なしの孤独感を感じたノールズは縋る思いでラシュレイを助手にとった。とにかく寂しくて、仕方がなかったのだ。もう彼とは永遠に会えないだろうと思っていたのだ。
しかし、少し前、ノールズはエスペラントの施設から逃げ出した時に、敵の足止めをしている懐かしい背中を一瞬だけ見た。白衣を着ていなくたって、何年も追ってきた背中を間違えるはずがない。あれはジェイスの後ろ姿だった。
でもそんな場所にいるはずもない。夢だろうと自分に何度も言い聞かせた。そう、まず自分になんて会いたくないだろう。
ノールズは薄々勘づいていたのだ。自分の存在のせいでB.F.から抜け出しにくく、同期と共に死ぬ事ができなかった彼なのだから。
「ノールズ君」
ドワイトが後部座席の扉を開けてくれた。もう車内には誰もいない。ノールズはポツン、と一人残されていた。ドワイトは優しく微笑んで彼を見ていた。
「降りよう。待ってるから」
「......はい」
ドワイトに促されてノールズは車から降りた。しかし、ドワイトは何処にも動こうとしない。皆が降りた車を動かすわけでもなく、ただノールズの隣で微笑んでいるだけだ。
「.......?」
ノールズは不審に思って、地面に落としていた視線を少しだけ上げてみた。黒いスニーカーが見えた。泥まみれだ。スニーカーだけでなく、その人が履いているジーンズの裾にまで泥が付いている。随分汚しているが、洗濯が大変そうだな、とそんなことを呑気に考えながら、ノールズはさらに視線を上げた。
白いパーカーを来ていた。当然の事ながら泥まみれになっている。ノールズは更に視線を上げ、息を呑んだ。
「よ、お疲れ様」
目の前に、ジェイスが居た。
気づけばノールズは、彼の胸に飛びついていた。
*****
キュルス・ガイラー(Cyrus Guyler)、旧名キュルス・フェネリー(Cyrus Fennelly)は、ナッシュとかなり歳が離れた弟だ。10以上は離れているが、キュルスは小さい頃から兄に懐いていた。後ろを追っては兄と行動を共にしようとする、そんな弟だ。勿論、ナッシュもそれなりに弟を可愛がっていた。
だがしかし、ナッシュが大学に上がって三年ほどしたときに、二人はとあることで衝突した。きっかけは母の体調不良だった。父親は二人がまだ幼い頃に病気で亡くなっており、母親は子供二人を女手ひとつで育ててきたのだ。そんな母も病に倒れ、ナッシュもキュルスも途方に暮れた。ストレスから何度も激しくぶつかり合った。お互い、亡き父親の頑固さだけは持ち合わせていたがために全く意見を譲ろうとしなかったのだ。
やがてナッシュがB.F.に入る頃に母親は亡くなり、二人は連絡することも、顔を見ることも無くなった。と言っても、キュルスは兄の背中を追うという癖が抜けなかったのか、兄の卒業した大学に行き、勉学に励んだ。
ナッシュはというと、まだ設立したばかりのB.F.で超常現象についての研究をドワイト、ブライス、ベティらと続けているところだった。危険が多く、謎も沢山あるような職業であるB.F.職員。兄がそんな職に就いたと知ったキュルスは、それなりに彼を止めようとした。
自分の兄がそんな危険な仕事をする必要なんてない。しかし、ナッシュはやはり譲らなかった。彼は大学で共に仕事をする仲間を見つけたのだ。そしてB.F.でも、そんな人間が少しずつ増えていく。助手としてコナーをとったり、彼に続く助手をとったりと、それなりに充実した生活を送っていたのだ。
キュルスはそれを聞いて、兄が自分だけのものでなくなっていること、そして楽しげな兄に劣等感を抱いた。
あんな仕事のどこがいいのか分からないが、彼らと楽しげに実験をする彼らの姿は、勉強に追われる自分とは大きくかけ離れて見えた。
兄が遠くへ行ってしまう。自分の手が届かないほど、遠くに_____。
キュルスは何度か兄をB.F.から連れ出そうとした。B.Fのことを調べれば調べるほど謎が多い会社だということが分かり、兄がそこにいると思うと尚更焦る気持ちは大きくなる。
早く連れ戻さなければ。兄が死んでしまうかもしれない。彼処は職員を閉じ込めて命を粗末に扱うだけの監獄だ。
キュルスは心の中でB.F.をそう罵っていた。
*****
「冬に咲くバラは綺麗だね」
ナッシュがそう言って微笑んだのでキュルスも薔薇に目をやる。確かに冬の薔薇はとても綺麗に咲く。冷たい空気の中で凛と花開くその姿は美しかった母親を思わせた。
母親はこの花が好きで、キュルスがエスペラントに入ってベルナルドに頼んで、趣味で敷地内で始めた園芸用の温室に自分で植えたものだ。許可してくれるとは思っていなかったので本当にあの時は驚いた。
エスペラントはきっとB.F.より良い状況下働くことが出来る。自分の家に帰れるし、死ぬことはほとんどないほどに、職員は大事にされる。
こんな良い会社があるのに、兄は何故、B.F.に居続けるのだろうか。
「兄さんは_____」
吐いた息が白い。冬の山はとても冷える。
「兄さんはまだ、B.F.に居たいと思ってるの?」
これで何十回目の質問だろうか。会う度に聞いている気がする。ナッシュは、そうだねえ、と優しい目で弟を見つめた。
「彼処にはどうしても捨てられないものがあるんだ」
「大事なものってこと?」
「うん、そう」
兄の大事なもの。それはやはり自分では無いのか。
「知ってるよ」
キュルスはぶっきらぼうに言った。
「でもだからってあんな場所にいる必要は無いんじゃないか」
「あんな場所?」
「ああ、最近増えているんでしょ、死人が」
乱暴な言い方をして、キュルスは兄の反応を眺めた。ああ、とナッシュは目を伏せている。彼もまた惜しい人を亡くしたのだろう。
「そうだね。実験で亡くなった命は戻ってこないさ。ベルナルドの言葉にも一理あるよ。ただそれで職員を侮辱していいわけでは無いし命を粗末に扱っていると思い込むのも良くない」
キュルスはドキリとした。兄には何故、自分の心内が全て見えているんだろうか。
ナッシュは綺麗な目で、目の前の弟を見た。
「人はいつか死ぬよ。逃げることが出来ない大きな監獄に、元々僕らは閉じ込められているんだ。教科書に載っている偉人はさ、皆今生きているかい? 電気を作った人間も、原子を発見した人間も、今はもう、冷たい土の下なんだよ、キュルス」
キュルスは黙って兄を見つめる。いつの間にかこんなに歳をとってしまったのだろうか。ストレスできっと毎日大変だろうに。こっちに来れば夢のある実験を毎日できるのに。
何故彼はずっと彼処に囚われ続けているんだ。
「人間は死なない」
キュルスは小さく口を開く。ナッシュは微笑んでいた。お互い、話し始めたら最後まで話を聞くという、そんな性格だった。自分は兄の話を聞いている間、口を挟みたくて仕方がなかったというのに、兄はそんな素振りを一切見せない。少なくとも自分の前では。ブライスやドワイトという同僚の前ではどうだろう。兄が彼らに見せる顔を自分は知らない。それが、とてつもなく不安で、そして腹立たしかった。
「ベルナルドさんが永遠の命の研究を行っていることを兄さんもさっき知っただろう?」
うん、とナッシュは頷いた。
「夢を持つことは素晴らしいことだ。でもそれを断言するのは研究が終わってきちんと結果が出てからだ。まだ分からないことをあんな堂々と述べるものじゃない」
キュルスは兄から目をそらす。やはり、何だか昔のテンポで会話ができない。昔はもっとくだらないことを話していた気がするのだ。くだらないことを言えなくなってしまったのは、兄も自分も知識を増やしすぎてしまったからなのだろうか。
それとも、兄と自分はもう冗談すら言い合えないほどの仲になってしまったのだろうか。
「......兄さん」
「ん?」
「いつかは、覚悟を決めてもらうから。殺してでも兄さんを連れ戻して見せるから」
キュルスは兄を睨みつけてそう言った。
「楽しみだね。そう簡単に僕が諦めるとでも思っているのかい?」
ナッシュは笑ったが、キュルスはさらに眼光を鋭くした。
「僕は本気だ、兄さん。現に兄さんを殺すために練習している」
「そうか、怪我しないように気をつけるんだよ、キュルス」
ナッシュは最後、いつ見たか分からないほどの優しい笑みを自分に向けていた。キュルスは思わず口を閉ざす。
「僕はあの子たちを置いては出ていかない。彼らが死ぬなら僕も彼処で死ぬつもりだよ」
「......」
「でもね、ひとつ忠告しておくけど」
突然、冷たすぎる声に変わった。
「僕の仲間にあんなふうに手を出すのなら、僕は許さないよ。そこはドワイトととも同意見だ。ブライスともね」
「......」
ナッシュはキュルスの頭に優しく手を置くと、夜の闇にその姿を眩ませてしまった。
*****
「おおいノールズ......そんなにホールドされたら俺も帰れないんだけど......」
ノールズはさっきから黙ったまま何も言わない。時折すんすん、と鼻をすする音がするので、おそらく泣いているのだろう。
「ノールズ君、ジェイス君を一瞬だけ見たけど夢だと思っていたようだよ」
「夢かあ......まあ、信じられませんもんね」
ドワイトの言葉にもジェイスはノールズの背中をポンポンと撫でながら苦笑した。
「いつの間にかこんなにでっかくなったのかあ。もしかして俺の方が小さいっすか?」
「いや、まだジェイス君の方が幾らか勝っているかな」
「お、やっぱ先輩には勝てないな」
ジェイスがさっきからこんな調子なのは涙を堪えるのに必死になっているからだろう。
ドワイトはその様子を微笑ましく眺め、車を戻してくるよ、と車に乗り込むと車庫へと向かって行った。
ジェイスはノールズ、と肩に手を置いてあげる。すると彼は体をゆっくりと起こした。目も鼻の頭も真っ赤になっている。
「......何で此処に居るのか聞きたいんですけど......」
「俺がお前の助手の携帯拾ってさ。色んな人に電話かけまくって、色々あって、今に至る、って感じかな」
「ラシュレイの携帯を拾ったんですか......」
「そうそう。お前なあ、助手とるの早すぎ。まだ独立して全然経ってないのに、一丁前に助手なんかとりやがって」
「そんな助手を置いていったのは何処の誰ですか!!」
「あー......それは、その......ごめんな」
また泣き出すノールズの頭にポンポンと手を置くジェイス。
「そんなに泣くと明日、目腫れるからな」
「誰のせいだと思ってるんですかぁあ......!!」
「あー、はいはい」
号泣するノールズをジェイスは苦笑して抱き寄せた。手のかかる弟といった感じである。まるで昔に戻ったようだ。
*****
ラシュレイは逃走劇に使用した武器や道具をエレベーター前まで運んでいた。エレベーターの中に運び入れるのは、バレットとエズラの仕事だ。そしてそれを洗って倉庫などの元あった場所に戻すのはケルシー、ビクター、リディアの仕事である。コナーはと言うと、ブライスにしこたま怒られているらしい。
何だか大変だったようだ。
最後のダンボールを車からエレベーター前まで運び終えた頃には、少し体が汗ばんでいた。
「全く、疲れているんなら休めばいいのに」
少し息が荒くなっているラシュレイを見てバレットが呆れ顔で言う。
「助けてもらったのに何もせず戻れませんよ」
「だとしてもだよ」
「そうだ、ぶっ倒れるぞ」
エズラも頷く。確かにかなりの疲労感がある。今日はおそらくとても良く眠れるだろう。というか、今すぐにでもベッドに潜り込みたいというのが本音である。
ラシュレイはエレベーターの扉が閉まったのを見て他に何かやることは無いかと仮施設の外に出た。すると、遠くの方でノールズが知らない男性に抱きついて泣いているのが見えた。果て、あんな職員うちに居ただろうか、とラシュレイは首を傾げる。B.F.に居る人間を全員把握しているわけではないが、毎日通る廊下や食堂にはああいう顔は見たことがない。
ノールズがあれだけ泣いているのなど、記憶の焔以来見たことがない。しかし、あの泣き方はあれを上回っている。またもう一人の男性も何やら泣きそうな顔で彼の金髪を優しく撫でて、背中に手を回している。
ラシュレイがぼんやり二人を眺めていると、
「ノールズ君の先輩だよ」
隣からドワイトの声がした。見上げると彼は優しい目で二人を見つめていた。
「ジェイス君。今のノールズ君を育ててくれた人さ」
「......」
そう言えば、何度か名前を聞いたことがあった。しかし、ノールズ本人からあまり先輩のことを聞かない。何か言いたくない別れ方でもしたのだろうか。
「ジェイス君はもうB.F.職員じゃないけれど、今回は元B.F.職員として私たちに手を貸してくれたんだ」
「はあ......」
ノールズはずっと泣いている。ジェイスという彼の先輩は、「泣くなよ」とでも言っているように苦笑していた。声は此処まで聞こえないが、あの空間は誰も入れないような空気が漂っていた。
「......ちょっと妬けてる?」
ドワイトがにんまり笑ってラシュレイの顔を覗き込む。
「なわけないじゃないですか」
ラシュレイはムッとして彼らに背を向けた。
「大丈夫だよ。ノールズ君はラシュレイ君のことを誰よりも大事に思っているから」
「......それはどうでしょうね」
ラシュレイは小さく肩を竦めた。自分はおそらくイザベルにもあの先輩にも負けているだろう。彼の中のランクではせいぜい三位か四位がいいところだ。
手伝えることはないだろうか、と車庫の方に歩き出すラシュレイの後ろ姿を見て、ドワイトは優しく微笑んだ。
*****
ベルナルドは暗い部屋の中で静かに闘志を燃やしていた。
「散々言われたんじゃないの?」
そう言って笑ったのはベルナルドの右腕、フランチェスカ・エルドレッド(Francesca Eldred)だ。
「生意気な団体だ。我々の実験もろくに知らずに」
ベルナルドが低い声で言う。
「それで、女性の件はどう致しますか」
そう聞いたのはキュルスだ。
「うちの職員から一人出すか、街の女児を一人連れてこい。眠らせれば脳みそに刺激も与えんだろうしな」
「手配しておきます」
キュルスは上品に微笑んだ。
「今回は失敗に終わったが、我々にはまだ大きな武器が残っている。それを使って確実に力を増幅させ、目標を果たすぞ」
「はい」
*****
自分とベルナルド以外居なくなった部屋の中で、キュルスは彼に近づいた。
「兄と無事に再会出来ました」
キュルスは優しい声でベルナルドにそう言った。
「そうか。どうだった」
「相変わらずの頑固さです。此方も負けていられませんね」
キュルスは苦笑する。
「そのうちまた大きな作戦を行う予定だ。その時にでも引っ張り出してくればいい」
「ええ、そうします」
キュルスは大きく頷いた。
*****
キュルスも部屋を出ていくと、ベルナルドは一人、今回押収したB.F.研究員のファイルをパラパラと捲った。
「......生意気な団体め」
彼が乱暴に開いていたファイルを閉じる。そして、次は座っていたデスクの横の引き出しを開いた。そこにはかなり使い古されたファイルが入っていた。中にはたくさんの資料が挟んであるのか、机上の研究員ファイルよりかなり分厚い。そして、そのファイルの表紙には黒いペンで、ある言葉が書かれていた。
「空白の1日」と。




