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Black File  作者: 葱鮪命
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File024 〜終末世界〜 後編

忙しくなるので再びお休み致します。

10月下旬には戻ってきます。よろしくお願い致します!

 異世界は、エレベーターの扉が開いたその瞬間から始まっていた。


「此処がパラレルワールドかあ」

 と、ヴィムが呟く。


 赤い空、焼けて焦げ臭いビル群。人間の姿は愚か、生き物の気配すら全くない。自分たちの知る世界ではなかった。


「よし、まずはカメラをセットするか」


 ハンフリーはリュックを開いて三脚とカメラを取り出す。固定カメラだ。この辺は見通しがいいので設置するにはピッタリだろう。


「武器も用意しておいた方がいいか?」

 ヴィムがカメラをセットしているハンフリーに聞いた。


「ああ、頼む。いつ襲われもおかしくないからな」


 ハンフリーはセットを終えて、続いて首からぶら下げるタイプの小型カメラをリュックから取り出した。そして武器を構えながら、街を二人で散策し始める。


「酷い有様だな......」


 ハンフリーは呟いた。


 その世界の建物のガラスは、無事なものが一枚ないのではないかと疑うほどに割れていて、ヒビのあるコンクリートの上に破片が無惨に散らばっていた。コンクリートのヒビからは雑草が芽を出し、建物の壁にも蔦が這い始めている。


「人が滅ぶとこうなるのか......」


 ヴィムもハンフリーの隣を歩きながら頷いた。当たり前だが、もうこの辺に人間はいないようだ。乗り捨てられた車が転がっていたり、使われなくなったらしいガソリンスタンドが不気味に佇んでいたりと、長いこと誰も手をつけていないようだ。倒れた看板や街灯もそれを物語っていた。


「ブライスさんの話によれば何人か調査隊を送り込んだって話だったよな?」


 ヴィムがハンフリーに問う。ハンフリーは「ああ」と頷いた後で、「それどころか......」と続ける。


「この超常現象は入口が移動するらしいから、今までも普通の街中に現れては色んな人間を扉に潜らせてきた」


「その人たちは......もう死んじまったのかな」


 ヴィムの問いに、ハンフリーは答えなかった。ただ、とある場所を無言で指さした。ヴィムはその視線を辿る。


「あれって......」


 今にも倒れそうな雰囲気を感じさせるビルのロビーが壊れた扉から丸見えになっていた。そこに人が倒れていたのだ。二人は顔を見合わせ、手の武器を拳銃に変えて、ゆっくりとその人物に近づいて行った。


「あ......」


 ロビーの扉を開けて建物の中に入ると、ヴィムが声を上げた。


 男は白衣を着ていた。背中を建物の壁に預けて、絶命している。その片手には拳銃を持っていた。


「研究員の一人か......?」


 ヴィムが拳銃を下ろして、男を観察する。ハンフリーも同じく拳銃を下ろした。


「だろうな。仲間とはぐれたのか、仲間が先に死んだのか......」


 白衣を着ているところを見れば、おそらくB.F.研究員の一人だったのだろう。まだ死んで数日と行った感じだ。この世界の気温はそこまで高くないようで、腐敗はそう簡単には進まないのだろう。


「自決......」


 ヴィムが男の手の中の拳銃を見てボソリと呟いた。おそらく彼はあの拳銃で自ら命を絶ったのだろう。


「あんまり見すぎるなよ」


 ハンフリーがヴィムの肩を小さく小突くと、ヴィムは「わかってる」と頷いて目を閉じた。ハンフリーも静かに目を閉じた。


 *****


 やがて、二人が建物から出ようとすると、ハンフリーは床に落ちている紙切れの存在に気がついた。


「何それ?」


 ハンフリーが拾い上げると、ヴィムが不思議そうに後ろから覗き込んでくる。


「さっきの職員が書いたみたいだな。書き置きか......遺書か?」


 紙切れは表裏文字でびっしりだった。時折ミミズが這ったような字が見られる。恐怖でペン先が震えていたのかもしれない。


 ハンフリーはそれを読み上げた。


『どうなっているんだ、この世界は。死体だらけだ。どこもかしこも、今まで迷い込んできただろう奴らの死体。


 俺は一体何をしているんだ。探索をするため、ブライスさんに命令されてやって来たにしても、こんな仕打ちあんまりだ。


 何年も共に過ごしてきた仲間がさっき、目の前で化け物に惨殺された。その化け物の目が次の獲物、次の獲物へと移り代わっていく中、俺は弱いから、怖くて怖くて逃げ出した。仲間の悲鳴と怒号を背中に浴びながら。


 どうせこんな探索何の役にも立たない。最初から分かってた。ちゃんと断ればよかった。仕事なんか辞めれば良かった、死ぬくらいなら。あいつらに、殺されるくらいなら。俺は、せめて、自分の手で』


 最後の方は文字が滲んで読めなくなっていた。ハンフリーもヴィムも少しの間黙っていた。


 震えて、消え入りそうな文字が全てを物語っていた。


 この研究員もブライスに命令をされて此処へとやってきたようだ。

 ブライスの元で何年も働いてきた者なら分かるが、彼はそう簡単に部下の命を放り出すような人間ではない。それは誰だってわかっている事だ。この研究員もきっと此処に派遣されるということは相当長いこと経験を積んできた人間だったのだろう。

 だが、彼はブライスの救済措置も目に入れながら、自分で、此処へやって来るという選択をした。自業自得とも言うべき結末である。


 彼もそれを分かってたのだろうが、やはり、絶望に面したとき、人間はどうしようもなく誰かに責任と怒りをぶつけたくなるものなのだ。この研究員が大量の怪物に仲間が殺されている時、逃げてきた彼の背中に怒号をぶつけた研究員がいたように。


「ブライスさんは_____」


 ヴィムがハンフリーの横で口を開いた。その横顔は怒っているようにハンフリーには見えた。


「自分がこんな状況下に置かれたら、どういう気持ちになるんだろうな」


「ヴィム......」


 ハンフリーが彼を呼ぶが、ヴィムは低い声で続けた。


「仲間のことをどう思っているのかは知らねーけど、俺はやっぱり彼奴が憎い」


 ヴィムの目が怒りに燃えている。パーカーを失ってから、きっと彼はブライスを心の中で酷く恨んできたのだろう。パーカーの死は避けることも出来たが、彼にあれだけの無理をさせたのも結局はブライスである。


 やはり、エレベーターの前でヴィムが見せたあの笑みも優しい言葉も、偽りだったようだ。


 ハンフリーは何とも言えない気持ちで死体を見下ろす。

 そして、小さく口を開いた。


「仲間の墓なんか作ってくれないだろ、無責任で、部下の命に興味も無い人なら」


「......」


「俺らは任務を全うすることだけを考えればいい。余計なことを考えるなよ。パーカーに会った時、暗い顔してちゃきっと怒られるぞ」


 ハンフリーの言葉にヴィムの表情が少しだけ和らいだ。


「......ああ、そうだな」


 やはり、パーカーに会いたいがために彼は此処に来たんだな_____。


 ハンフリーはそれを再確認して、少しだけ悲しかった。自分もそうではあるが、ヴィムはもう少し、周りのことに目を向けてはくれないだろうか。最年少でずっと自分のわがままを押し通してきたような子だから、自分の意見をはっきりさせるのが得意なのは分かる。


 だが......。


 ハンフリーは、自分のこともヴィムはちゃんと意識してくれてはいないのだろうか、と思ってしまう。


 自分だってパーカーに会いたくて此処に居るのに、自分勝手な理由で此処に居るのに、お前がもしわがまま言わなければこんなことにはならなかったかもしれないのに_____。


 しかし、それを言うにはあまりに子供すぎる。


 自分だってわがままだ。

 大事な相棒をひとりぼっちで置いてきたのだから。パーカーに会いたいと言って。


「......行くぞ」

 ハンフリーは紙切れをポケットに突っ込み、建物を出た。「ああ」と返事をしてヴィムもその後について行った。


 *****


 ジェイスはオフィスの机に突っ伏していた。彼の助手のノールズは報告書を提出に行ったらしく、オフィスには誰も居ない状態だった。


 一人だと、色々と考えてしまう。


 今頃ハンフリーとヴィムは何をしているのだろうか。まさか、こんなことになるなんて、誰が予想できただろうか。同期が一気に二人も居なくなるだなんて。


 ヴィムはまだしも、ハンフリーくらいは、自分の傍に居てくれるのではないかと、淡い期待をしていたのだが。その期待は結局泡のように消えてしまった。


 自分だってパーカーに会いたい。だがそれは、ノールズを一人にしてしまうことになる。先輩としてそんなことは絶対に出来ない。自分がその立場だったら、嫌だから。


「ジェイスさん。戻りましたー!」


 扉が開いて、ジェイスは慌てて体を起こした。ノールズが報告書を片手に戻ってきた。


「見てください!! 今回はぺけ無しですよ! やりましたー!」


 ノールズは満面の笑みで判子がでかでかと押された報告書をジェイスに見せてきた。ジェイスはそれを受け取って大袈裟に喜んでみせる。


「おおー!! 凄いじゃん!! やれば出来るねー! 流石は俺の助手!!」


 ポンポンと優しく頭に手を置くと、ノールズは「えへへ」と照れ笑いを浮かべている。


「この調子で次の報告書も頑張れよー?」

「はーい」


 報告書を返すと、ノールズはジェイスの後ろにあるデスクへと向かった。ジェイスは泣いていたのをバレないように、コソコソと白衣の袖で涙を拭った。


 いつまでもクヨクヨしていられない。B.F.職員は常に仲間の死と表裏一体。いちいち感傷に浸っている暇はない。


「よし、今日も仕事頑張ろうな!」

「はーい!」


 *****


 ハンフリーはふと、街の奥の方から聞こえる声に気づいた。キリキリという金属を擦り合わせたような不快な音だ。何かの鳴き声だろうか。だとしても聞いたことの無い声である。


 ヴィムも聞こえたらしい。二人は足を止めた。


「なあ、聞いたか? 今の」


 ヴィムが武器を持ち直す。


「ああ。奥の方からだな」


 ハンフリーも手の中の武器を構え直しながら、街の奥へと歩を進めていく。


 そして、二人はその鳴き声の正体をその目でしっかりと捉えた。


「なんだ......あれ」


 街の中心部。そこには、真っ黒に焼け焦げた人間のような人型の生物がひとつの建物に群がっていたのだ。数で言うなら30匹くらいだろうか。あまりに不気味な生物にハンフリーとヴィムは言葉を失ってその場に立ち尽くしていた。


 あれがブライスの言っていた、人類の代わりに反映している生き物なのだろうか。


 それにしては不気味すぎないだろうか。火で焦げたのかは分からないが、焼けただれた皮膚、ギラギラと獲物を求めて輝く目、鋭い牙と爪。資料で見た時よりおどろおどろしく感じる。


「あ、おい、おいっ、ハンフリー!? 」


 ヴィムがハンフリーの肩を突然掴んできたので、ハンフリーはハッと我に返った。一匹の化け物がこっちを向いている。


 目が合った。


「......まずい」

「気づかれたんだよ!!」


 その一匹は空に向かって吠えた。すると仲間もこっちに気づいたようだ。次々と数え切れないほどの目が二人を捉えていく。


 二人は化け物らに背を向けて走り出した。頭に入ってくる情報が多すぎて、脳の処理が追い付いていない。


「何処に逃げる!!?」


 ヴィムの声がした。後ろから迫る多くの足音と鳴き声。キリキリという、奴らの鳴き声が二人の焦燥感を一気に掻き立てていく。


「とにかく、何処か建物の中に身を潜めるぞ!!」


 ハンフリーは近くにあった四階建てのビルのエントランスに飛び込んだ。ヴィムもそれに続き、二人はすぐに階段を駆け上がる。


 最上階までやってきた所で一室に身を潜めることにした。部屋に入って、背中で扉を勢いよく閉めて、しっかりと施錠も行う。少しの間扉に耳を当てて、足音が聞こえないか注意深く聞き耳を立てたが、そんな音はしなかった。どうやら追ってきてはいないようだ。


「平気か?」


 重い荷物を背負っての全力疾走はかなり体力が必要だ。ヴィムは扉を閉めた瞬間にへなへなとその場に座り込んでしまった。


「だ、大丈夫......」


 苦しそうな呼吸を繰り返して、声を出すことすらままならないような状態での「大丈夫」はあまり信用出来なそうだ。だが、少し座っていると呼吸も落ち着きを取り戻してきた。


「さっきの奴らって......」

 ハンフリーが状況を整理するために、ヴィムに倣って床に座った。心臓がドクドクと早く脈を打っている。


「何なんだよあれ......」

「一見人間に見えたよな.......」


 ハンフリーは言いながら、部屋の中を見回す。オフィスビルだったのか、デスクとロッカーが置かれているくらいで、後は何も無い。窓がついている部屋だが、ブラインドが降りていて外の状況はここからでは見えない。


 ハンフリーは荷物を下ろして立ち上がり、ブラインドが降りた窓に近寄った。そっと隙間に指を差し入れて、外の様子を伺う。地面を覆うほどに黒い大群がアスファルトの上でうごめていた。場所はバレていないようだ。知能はそこまで高くはないらしい。


 しかし、あの数で襲われては溜まったものではない。よくさっきの大群から自分達は逃げてこられたな、とハンフリーは思った。


「大丈夫かあ......? 怖いからあんまり見すぎちゃダメだぞ」


 ヴィムの不安げな声が聞こえたが、ハンフリーは外を見るのを止めなかった。黒い化け物らをこうしてじっくり観察すると、ふと、彼の頭の中にひとつの考えが浮かび上がったのだ。


「なあ、ヴィム。ブライスさんが、此処は人類が滅んだ世界だって言ってたよな」


「ああ、そういや、言ってたなそんなこと」


 この超常現象への派遣を頼まれる時、ブライスは、この世界は人類がとっくの昔に滅ぼされてしまった世界だ、とそんなことを言っていた。この世界はパラレルワールドで、あったかもしれない平行世界である。


「でも、それがどうしたんだよ?」


 ヴィムが問うと、ハンフリーはブラインドの外に目を向けたまま「いや、もしかしたらさ」と口を開く。


「あいつらがその人類なんじゃないか?」


「え? 滅んだっていう?」


「そうだ。 今観察してみて分かったんだが、一見見た目は同じに見えるんだけどな、身長も肌色も顔も形も若干個体ごとに違うんだよ。全部、元は普通の人間だったのかもしれないな」


「人間......あいつらが......?」


 ヴィムは信じられない、と顔を横に振り、確かめるために立ち上がってハンフリーの横にやって来た。そして、恐る恐る窓の外を覗く。


「まあ、敵意は剥き出しだったからな。仲間意識が芽生えるのは、ああなってからなんだろう」


 地面でうごめく黒い化け物は、ハンフリーの言う通り、身長も肌色もよく見れば違う。子供くらいの小さなものから、大人サイズまで。肌の色も、全員真っ黒に焦げてはいるのだが、その中でも比較的茶色に近かったり、赤に近かったりする。


「研究員のメモには、化け物に惨殺されるって書いてあったよな......」


 ヴィムは化け物達から目を離してハンフリーに問う。ハンフリーはまだ彼らから目を離さない。


「ああ、おそらく、ウイルスか何かだろうな。近いもので言ったらゾンビだろう。噛み付かれたり引っかかれたりすることで、傷口からあいつらが持つウイルスが入って、感染する。食われるって言っても、噛みつかれて終わりなのか......ああでも、頭とか肩がほとんど無いやつもいるな。完全に感染するまでは捕食を止めないのかもしれないな」


 ハンフリーが冷静に分析を行う隣で、ヴィムは少しだけ震えていた。


 覚悟を決めて此処にやって来たはずなのに、怖くなってきてしまった。勿論、それを口に出すのは彼のプライドが許さない。今更後に引けないのだから、黙って死ぬしかないのだ。


 ハンフリーは観察を続けていた。化け物の集団はなかなか場所を移動しない。おそらく自分たちを探しているのだろうが、此処まで上ってくるという脳はないようだった。


「あいつらが群がっていたビルには何かあったのかな」


 ヴィムはハンフリーに聞いた。ハンフリーは、さあな、と言ってようやくブラインドを覗くのを止めた。


「取り敢えず、此処であいつらが落ち着くまで待つしか無さそうだ」


「ん、分かった」


 *****


 一時間は経過しただろうか。


 ハンフリーとヴィムはやる事が無いので部屋を散策したりしてみたが、基本的には誰かが逃げる時に持っていったのか何も見つからなかった。


 また、ブライスと連絡を取ろうとしてみたものの、どうも圏外のようだ。分かりきっていた事ではあるものの、どうにかして繋がらないものだろうかと粘ってみたが、これで繋がったら今までの犠牲者はゼロだったのだ。ハンフリーは苦笑し、諦めたのだった。


「あー......腹減ったー」


 隣でヴィムが壁に背を預けて、何も無い空中に向かってそう呟いた。


 二人はある程度バリケードを作って、扉を塞いだ。今寄りかかっているのは扉と反対側にある窓の下の壁である。床に座り、電波を探すために試行錯誤をしているハンフリーの隣で、ヴィムはやることも無く暇を持て余していたのだ。さっきまでは武器である銃をガチャガチャといじっていたのだが、誤射しては大変なのでハンフリーが止めさせた。それ以来ぼんやりと空中を見ることしかやることがないらしい。


「全く、子供かよ......」


 ヴィムの呟きにハンフリーはため息をつく。そして、ガサゴソとリュックを漁る。


 帰る見込みなど最初から無いのだから、生き残るための道具はほとんど持ってきていない。頑張って探して見つかったのはカバンの底で潰れていたスナック菓子だった。


「食料が少ないんだ。少しは我慢しろよな」


 ハンフリーがスナック菓子を渡すと、ヴィムは顔を輝かせて袋を受け取った。そして、潰れてほとんど粉状になったスナック菓子をザラザラと口の中に流し込んでいる。


「ハンフリーって、パーカーの次に頼りになるよなあ」

「はあ......? 嬉しくはないけど、まあ、ありがとな」


 ハンフリーは苦笑し、リュックの中に何か暇つぶしになるものはないかと再びガサゴソと漁り始める。


「んー......俺らが生きて帰れたらさあ」


 ヴィムがスナック菓子の袋をくしゃくしゃと丸めながら話し始める。


「ブライスさん暗殺計画でもやるかあ」


 ハンフリーはギョッとして彼を振り返ったが、彼の表情からして何となく冗談であることを察した。


「暗殺って......お前なあ」

「生きて帰れたらの話だって。無理に決まってんじゃん」


 ヴィムはニッと笑った。子供のような純粋な笑顔は、暗殺を企てているとは思えないほどに無邪気だった。


 *****


 ブライスとナッシュはパソコンを見つめていた。


 あっちの世界からの情報は何一つない。前に送り込んだ研究員達も同じだった。分かっていたが、もうこれ以上は調査を進めるのは厳しいということなのだろうか。打てる手は全て打ったと言っても過言ではない。


「来ないね」


 ブライスと共に画面を覗き込んでいたナッシュがボソリと呟く。ブライスもああ、と返事をした。


「正しかったのか、正しくなかったのか......もう判断すら出来ないな」


 ブライスは小さく口を開いてそう言うと、デスクトップからふっと目を逸らした。


 デスクトップには、何も映らないカメラの映像と、音声認識の棒が波打つことも無く映っているだけだった。


 *****


 ジェイスはノールズと自室に戻り、寝る準備はせず、代わりに他のことを始めようとしていた。


「今日はお祝いだ! ノールズぺけ無しデー!!」


 ジェイスは部屋の真ん中で腕を広げてそう宣伝した。ノールズは顔を輝かせてそれを見上げている。


「お菓子パーティーでもするんですか!!?」

「んー、どうしようねえ? ドーナツパーティー? それともアップルパイがいい?」

「どっちも!!!」

「よーし、準備開始ー!!」


 ジェイスは自分が無理をしていることを理解していた。


 本当なら、自分も共に行くべきだったのだ。彼らの同期として。


 彼らと共に行かないといいことは、言い換えればパーカーの死に自分は無関心だと言っているようなものなんじゃないのか?


 そんな疑問がさっきから頭の中をぐるぐると回っている。


 だが自分にはノールズを最後まで育てるという重要な役目がある。助手の成長を最後まで見守るのが先輩の仕事なのだ。


 ジェイスはそう自分に言い聞かせる。


「ジェイスさーん! 飲み物は何にしますかー?」

「ん!? あー、コーラにしよう!! 氷たっぷりね!」

「はーい!」


 これでよかったのだろうか。

 やはり、彼らにだけ押し付けることではなかったのではないか。


 自分はノールズを利用して死なない道を選んで逃げているだけなのではないのか。


 ジェイスは自分の胸をぐっと服の上から押さえつけた。ドクドクと脈が早いのを感じる。


 仲間を処刑台に立たせてしまった。死ぬと分かっているのに、送り出してしまった。その罪をこれから死ぬまで背負い続けるのか。


「......」


「ジェイスさーん?」


 物陰からノールズがジェイスを呼んだ。いつもの調子でガンガン喋らない先輩に違和感を抱いているようだ。


「大丈夫ですか?」


 ノールズの声にジェイスはハッと我に返った。そして、慌てて笑顔を作ってみせる。


「大丈夫大丈夫。ちょっと考え事してたんだよなー」


「え、ジェイスさんが!?」


「おー!? お前なあ、そのセリフは一人前になってから言うべきだぞ! 少なくともまだお前が使っていいものじゃなーい!」


 紙皿を用意していたノールズを後ろからくすぐると彼はケタケタと楽しそうに笑って部屋の中を駆け回る。


 ジェイスは滲み始めていた視界を素早く袖で拭った。


 報いを受けるのは、何も今じゃなくてもいいだろう。ノールズが独立してからだって、遅くないだろう。


 ジェイスはそう思って、精一杯に笑った。


 *****


「......さみいな」


 ハンフリーは膝にかけていた毛布を肩まで引き上げた。なかなかあの集団があの場所から動かないので二人は未だ建物の中から動けずいた。彼の隣では寒さに縮こまったヴィムが毛布を被って寝息を立てている。


 こんな状況下で眠れるとは、どんな精神をしているのかと疑いたくなるハンフリーだったが、彼の場合もう怖いものなど存在していないのだろうなと考えると納得がいった。


 彼が此処に来た本当の理由は調査なんかではない。死ぬためなのだから。


 ハンフリーは自分の毛布を彼にかけ、体を起こして外を見た。赤黒い空はさっきと全く色を変えない。不気味な色をしている。


 いつまで経ってもハンフリーはジェイスのことだけが気がかりだった。


 彼とは長い。相棒だった頃もあったし、いつも隣にいるのは大抵彼だった。明るく、誰にでも平等な性格は自分たちのチームの雰囲気だけでなく、B.F.内の雰囲気を明るくさせた。


 彼にもついてきて欲しかったなどとは、思ったとしても安易に口にできない。言わばこれは道連れだ。望んで行くか、行かないかの問題なのだ。


 ジェイスはきっと酷く寂しがっているだろう。

 彼は優しいから、きっとノールズを置いてけぼりにするという選択は出来なかったのだ。

 彼からしたら堪らないのだろう。仲間が二人も居なくなるという状況は。


 だが、それが正解なのだ。その思いこそが正解なのだ。

 普通は死んだ人間に会いに行きたいと、自ら死を選ぶ方が変わっているのだ。


「......」


 ハンフリーは隣で眠っているヴィムを見た。


 彼は、ジェイスをどう思っているんだろうか_____。

 こう見えて色んなことを考えているやつだった、ということは、今回の件で明らかになった。


 彼はパーカーという兄思いだった。


 だが、それをパーカーはどう思うだろう。死という世界で待つ彼は、生きることを辞めた自分たちを迎えてくれるのだろうか。


 そもそも、死んだらどうなってしまうのだろうか_____。


「......少し歩くか」


 ハンフリーは立ち上がって、壁に立てかけておいた銃器を手にして部屋を出た。ヴィムは相変わらず寝息を立てている。恐らくまだ起きないだろう。


 *****


 建物を出たハンフリーは、そう言えば、と思い出す。


 外が静かだ。あの化け物たちが居なくなっている。特に荒らされた形跡もない。


 ハンフリーはあの生き物たちを初めて見た時に、彼らが群がっていた建物を思い出していた。何故、彼らはあそこに群がっていたのか。


 それを確かめるために、彼は銃を持ち直し、歩き出したのだった。


 *****


 そこには、焦げくさい臭いが充満していて、ハンフリーは鼻が曲がるような気がした。まだ建物には入っていない。もう踵を返して戻りたいという気持ちにさえなるが、調査のために来たのだ。中に入らないわけにはいかない。


 建物の中は暗く、静かだった。臭いはやはり強かったのだが、特に何かがいるわけではなかったので、ハンフリーはホッとして建物の奥へと進んで行く。


 建物は三階建てで、一階部分、二階部分には特に何か目を引くものがあるわけではなかった。三階までハンフリーは上がっていく。そして、階段を登りきって見えた景色に絶望した。


 三階には部屋が一つだけあったが、その部屋の扉が壊されていた。外から強く力がかかったのか、扉に隣接する壁が凹んでいたり穴が空いていたりしている。


 ほとんど何も無くなった壁と廊下の隔たり。部屋の中が階段を上りきったその瞬間によく見えた。


 部屋の中は生活感が溢れていたが、何もかもが血に染っていた。破れた衣服、食い荒らされたように見える食料、処理しきれなかったらしい汚物、バリケードにしていたらしい重量感のある荷物。その全てが赤黒い液体と共に床に散乱している。


 一人二人の量ではない。十数人......いや、もっとか_____?


 とにかく、想像を絶するようなに人数の人間がこの狭い部屋の中で生活をしていたようだ。食料は尽きたのだろうか。それとも仲間内で喧嘩でもしたのだろうか。


 二階、三階が綺麗だったことからきっと三階の階段まであの化け物たちに責め込まれていたのだろう。そしてとうとう力尽きて、全員食べられてしまった。さっきの自分の仮説でいけば、噛まれて感染したと言った方が正しいだろうが。


 此処に居た人間たちがB.F.職員だったのかは分からない。だが、ハンフリーとヴィムが初めてあの化け物たちを見た時、化け物たちはこの建物に群がっていた。つまりそれは、それまでは、この部屋の人間は確かに存在していたのだろう。生きていたのだろう。


 ハンフリーは部屋の中には入らず、廊下からその凄惨な状況を嫌でも目に浮かばせる一室を黙って眺めていた。


 ****


 建物を出たハンフリーはもう少し街を観察してみようと更に歩いた。


 街中は静かだ。鳥の気配すら無く、風すらも吹かない。


 誰もいない街。これは自分が生まれていたかもしれない世界。と、いうよりパラレルワールドなので生まれてはいるのかもしれない。ただ、生まれていたとしてとっくの昔に死んでいるだろう。


 この世界線の自分は、B.F.に入社しているのだろうか_____。


 ふと気づくと、ハンフリーは自分が随分遠くまで歩いてきているということに気づいた。空を見上げても、やっぱり赤い。時計は持ってきていない。この世界に来てから恐らく三、四時間は経過しただろうが、今が朝なのか夜なのかは全くわからなかった。


 帰るか、とハンフリーは来た道を戻り始めた。何か調査に手がかりになるものはないだろうかと色々な場所を探してみたが、血溜まりや破れた衣服の切れ端があるだけで、自分の気分を害しただけだった。


 ヴィムはもう起きた頃だろうか。起きたら、きっとまた腹が減ったと言って何かをねだってくるだろう。死ぬのなら、最期くらい腹いっぱい食わせてやりたいな、とハンフリーは思いながら歩いていた。


 その時だった。


「!?」


 突然、視界がぐるぐると回った。そして、赤い液体が宙を舞っているのが見えた。だがそれは一瞬の出来事で、気がつくとハンフリーは地面に転がっていた。


 腹から絶えず何かが溢れている。そしてそれは、地面に赤い模様を描いていく。


 何が起きたのか全く分からなかった。意識が朦朧としていく。血がドクドクと出ているからだろうか。かろうじて、自分が怪我をしたのだ、ということだけは理解出来たが、一体それが何によって付けられた傷なのかは分からない。


 しかし、


「あ_____」


 彼の視界の中に真っ黒く焦げたような脚が二本見えた。


 化け物だ。


 目線を更に上へと上げていくと、ハンフリーは、まずい、と瞬間的に思った。化け物が空を仰いで、口を開けている。キリキリという金属を擦り合わすような音が聞こえてきて、そこから一気にライオンの雄叫びのような咆哮が真っ赤な空へと響き渡った。


 仲間を呼んでいる_____。


 そう思ったハンフリーは地面に転がっていた銃を掴んでズルズルと引き寄せた。化け物はまだ咆哮を止めない。ハンフリーは黙らせようと銃口を化け物に向けようとするが、照準が上手く定まらない。


 無理な体制だからか、それとも怪我のせいなのか、腕が震えて力が入らず、上手く構えられないのだ。


 その間に化け物は咆哮を止め、ハンフリーを見下ろしてくる。


「くそっ!! くっそっ!!!」


 こうなったら化け物の足でも撃ち抜いてやる。せめてもの足掻きだ_____。


 ハンフリーは視界を滲ませながら引き金に指を入れた。その時、


「ハンフリー!!」


 突然、化け物の頭が消し飛んだ。赤黒い液体が上から降ってくる。


「大丈夫かっ!!?」


 ヴィムだった。


 走りよって来て、ハンフリーの腹をぐっと押さえつける。どうやら自分はそこを怪我しているらしい。ヴィムは止血をしようとしているようだ。


 だが、此処に居ては彼もいずれやってくる化け物の群れに殺されてしまう。


「いい、いいからっ......お前は早く逃げろ......仲間を呼ばれたんだ......」


「んなことするわけねーだろっ!!!」


 ヴィムが自分の服を乱暴に引きちぎって、ハンフリーの腹に巻いた。


「ジェイスの大切な相棒を俺のわがままで連れて来ちまったんだ! 生半可な気持ちでこんな場所に来たわけじゃないんだぞ!!?」


 ハンフリーは驚いて彼の言葉に耳を傾けていた。


 まさか、ヴィムはそんなことを考えていたのか。


 パーカーだけじゃない。


 ジェイスのことも、俺のことだって_____。


「死ぬ時は一緒だ馬鹿野郎!! 抜けがけなんかさせるか!! 俺とお前二人で、一緒にパーカーに逢いに行くんだよっ!!!」


 「ほら、これ持て!!」と、ハンフリーはパーカーに銃を渡された。


 ハンフリーは自分の腹を見る。布にはじわじわと血が滲んでいる。


 そして、顔を上げると遠くからさっきの化け物が呼んだであろう群れが押し寄せてきていた。


 何十では足りない。何百も居る。あれでは勝ち目はないだろう。


 ヴィムは自分も持ってきたらしい銃器を構えた。


「お前は座って援護射撃な。とにかくまだ死ねるかよ! 気持ちよく死ぬには......気持ちよく暴れねえとなっ!!」


 ヴィムの楽しげな横顔にハンフリーは、はっ、と乾いた笑いが出た。


 映画みたいなことを言いやがる_____。


「そうだな......やってやろう」


 _____俺らの最期の悪足掻きだ。


 ハンフリーは銃を構えた。


 *****


 ジェイスは、眠ってしまったノールズを見つめながら、ぼんやりとスナック菓子を口に放り込んでいた。味わってもいない。腹も減っていない。ただ、その行動を繰り返すことが、まるで今の自分に課せられている仕事のように_____黙って咀嚼を繰り返している。


 彼は一人でパーティーを続けていた。

 祝うはずの本人はもう既に眠っているのだが。


 ジェイスはノールズの寝顔を見て、小さくため息をついた。

 ノールズはもう少しで星4になる。つまりは、独立ができるようになるのだ。


 ジェイスはパーカーの事件で自分もヴィムに負けず、かなり無理をしているということを感じていた。きっとそれはハンフリーも同じだ。


 それでも三人は、まだ何とか前を向こうと必死になっていた。パーカーの死に深く入り込みすぎないように注意していたつもりだった。


 だが、それをしようとしていたのはジェイスとハンフリーだけだった。


 ヴィムは一人でパーカーの死を抱え込んでいたのだ。ブライスにだけは自分の胸の内を打ち明けたのか、墓を作ってもらっていた。

 だが、それはジェイスとハンフリーには黙っていた。


 きっといつまでも引きずっているということを二人に悟られたくなかったのだ。


 ヴィムは強がりだ。


 人一倍甘えん坊であり、だからこそ自分の気持ちは本当の兄のように慕っていたパーカーにしか伝えていなかったのかもしれない。


 ジェイスは膝を抱える。


 自分も十分強がりだ。


 ヴィムとハンフリーに「行かないで」と言えば良かったくせに、良い兄貴ヅラをして、安安と二人をエレベーターに乗せてしまった。置いていかないで、と言いたかった。心の底から叫びたかった。


 勇気すらないのに。助手を利用して死を遠ざけるような人間がしていい事じゃない。


 ジェイスは顔を膝に埋める。


 寂しい。辛い。今にも、叫びたい。泣き喚きたい。


 彼らと笑いあった日々が昨日の事のように瞼の裏に浮かび上がってくる。もう二度と戻らない日々が。


「......」


 ジェイスは、顔を上げた。その目に映るのは、やはりノールズだった。ベッドで、すやすやと無垢な寝顔を見せている彼に、ジェイスは小さく微笑んだ。その頬に、キラキラと雫が光っている。


 そして、彼はある大きな決断に踏み入ることを決めたのだった。


 *****


 迫り来る化け物たちの頭が派手に弾け飛ぶ。


「あっはは、すげえ、ゲームみたいだ!!」


 ヴィムが楽しそう銃を乱射している。ハンフリーも彼の足元で座りながら援護射撃を行っていた。勿論、銃の弾数と敵の数を考えて、もう自分たちに勝ち目が無いことはわかっている。


 大怪我をしているハンフリーを抱えては無理だが、ヴィム一人でならまだ逃げられるはずだ。それでも彼は、ハンフリーに寄り添うようにして近くに居た。


 ハンフリーはもうほとんど自力で体を支えられない。力が入らないのだ。援護射撃をすると言っても放った弾は敵の足元やはるか頭上を飛んでいってしまう。


 だが、それでも撃つのは止めなかった。


 この背中に、自分たちはそれほどの人間の思いを背負っているのだろう。自分たちはどれほどの人間に苦しみを与えてきたのだろう。罪滅ぼしとまではいかない。ただ、少しでも感謝をしたかった。心の底から。


 だから、今は一秒でも長く、この世に居たい_____。


 笑えてくる。今更すぎるぞ、と。遅すぎるぞ、と。だが、此処まで追い詰められたからこそ分かったことは少なくない。


 ハンフリーとヴィムの思いは全く同じだった。


 ジェイスも、パーカーも、ブライスだって。


 この世から出ていくことを許してくれた仲間や上司に抱えきれない感謝を込めて_____。


「あ......あー........弾切れちまったよー」


 ヴィムが残念そうに呟いて、持っていた銃器を、割れたコンクリートの上に放り投げた。


「こっちも弾切れだ」


 ハンフリーも苦笑し、銃を置いた。


「終わっちまったなあ」


 ヴィムが押し寄せてくる大群を見て他人事のように言った。「ああ」とハンフリーも頷く。


 大軍の前線はだいたい倒したのではないだろうか。ただ、その後ろから迫ってくる幾多の化け物には、もう太刀打ちできない。


「......逃げなくていいのか?」


 ハンフリーが突っ立ったままのヴィムを見上げた。ヴィムはニッと笑う。


「逃げない。もう、もういい」


 そう言って、彼はハンフリーに背中を預けるようにして座った。ハンフリーを支えてくれているようだ。


 ハンフリーは腹の傷を止血している布の上から優しく撫でた。止血はしたが、完全に止まってはいない。今もどくどくと血が体外に溢れだしているのが分かる。


「......傷、痛むのか?」

 ヴィムの声が後ろからした。


「ちょっとだけな」

「ふーん」

「お前だって傷だらけじゃねーか」


 ヴィムは擦り傷だらけだった。転んだのか、それともどこか狭い道を通ってきたのか、顔から足まで全体に傷が見える。


「そりゃそうだろー。起きたらハンフリー居なくなっててさあ、もう心臓止まるかと思ったんだからなー」

「はいはい。そいつはごめんな」


 ハンフリーが笑うと、ヴィムは「反省してる声色じゃないだろ」と苦笑する。そして、赤黒い空を見上げた。


「そんで......どうするよ」

「どうしような」


 赤い空の下、積み重なる黒い死体を踏みつけて、二人に向かってくる飢えた数百の化け物たち。これだけの数に勝ち目などない。囲まれてしまい、もう逃げることはできない。


「なあ、ハンフリー」

 ヴィムが口を開いた。その顔は優しく、穏やかだった。


「見てみろよ。空、綺麗だなー。夕焼けみたい」

「夕焼けなあ......」


 研究員になって空などもう長いこと見ていない。夕焼けの空がこんな赤黒い色をしていたかと問われれば首を傾げる者も居るだろうが、ヴィムにはそれがとても綺麗な夕空に見えたようだ。


「パーカーは、あの向こうに居るのかなー」

「そうだな、きっと」


 ハンフリーは微笑んだ。ヴィムの口調が四人でいる時に見せる、あの末っ子らしい喋り方に戻っているのが、嬉しかった。


 もう化け物はすぐそこまで来ている。二人に向かって、幾多の手が伸びてくる。


「ジェイスもこっちに来たらさ、四人で美味いもん腹いっぱい食べような」


 ヴィムが言う。きっと、今の彼は腹が減っているのだろう。ハンフリーは頷き、「ああ」と返す。


「そんでさ、また四人でくだらないことで笑って、ブライスさんに怒られような」


 何だそれ、とハンフリーは笑いそうになる。ブライスに怒られるなんて、もうごめんだ。彼の説教は長いし、一度目をつけられると面倒なのだから。そう思いながら、ハンフリーは「ああ」と返す。


「......ハンフリー」

「......あー?」


 ハンフリーの声が掠れていることに、ヴィムは気づいた。もう、彼には時間が残されていないようだ。


 ヴィムは彼の手にしっかりと自分の手を重ねた。暖かい、大きなゴツゴツとした頼もしい手だった。ヴィムはもう片方の手をポケットに入れた。そして、何かを掴んでそれを取り出す。その手に握られていたのは、楕円形のボールだった。そのボールについたピンを、ヴィムは口で引っこ抜く。


「俺と来てくれてありがとうな」


 ハンフリーは返事をしなかった。


 ヴィムは赤い空を見上げて、小さく笑った。


 赤い空には、大きな爆発音が、いつまでも響いていたのだとか。

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[良い点] 涙なしには読めない…… パーカーの件は仲間たちに深い傷跡を遺していた まさかこんな死が確定した任務に赴くなんて 放置しておけない危険なものだからこそ信頼できる優秀な研究者を向かわさなけれ…
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