File087 〜涙でできた水たまり〜
「あっ、そういえばっ!」
此処はノースロップ・シティ西区にあるカフェ。フルーツをふんだんに使ったタルトが有名な店で、西区では一、二を争う人気店である。
その店の一角の席で、二人は向かい合わせに座っていた。当然、二人の前にはフルーツタルトが置いてある。既に半分以上が腹に消えたところである。
「僕、前にこの辺りですっごく美味しいケーキを食べたんですよ」
「ふうん」
店の雰囲気は明るい。午後の太陽が降り注ぐテラス席で、客の会話も自然と弾む。しかし、今の今までこの席の空気だけ、言うと、この丸テーブルの半円だけ暗い空気が漂っていたのだ。
「本当はエズラさんじゃなくて、エリーさんに教えたい情報だったんですけど......あれ、言いましたっけ。エリーさんって、本当に美味しそうにケーキを食べるんですよ! 前のクルーズ船で、一人で五切れも食べていましたからねっ」
丸テーブルのうち太陽の光が当たっている方に座っているのは、そばかすの青年。ノースロップで有名なフランス料理のレストランの見習いシェフ・ジャミソンだ。
「すごいんですよお、あの食べっぷりと言ったら! ああ、エズラさんにも見て欲しかったです......獣のようにケーキを貪る女性というのは、ワイルドで見ていて飽きないんです」
「褒めてないだろ、それ」
暗い半円の主はエズラ・マクギニス(Ezra McGinnis)だ。
彼の皿のタルトはジャミソンのものよりも明らかに減っている。フォークを進める速さに違いがあるのだ。
「褒めてますよお! 僕がいつかケーキを作ったら、あんなふうに、貪るように食べてもらいたいものです! だってそれだけ美味しいってことじゃないですかっ! それって、料理人からしたら最上級に嬉しいことですよっ!」
「そう」
「あーあ、エリーさんならこのタルトをいくつ食べられたんでしょう! 前のクルーズ船では、五切れでしたからねえ......」
「六切れだ」
「えっ?」
「なんでもない」
エズラはタルトの最後の一欠片を口に放り込んだ。本当なら皿に落ちた欠片を舐めたいが、家ではないからやめておく。
いくら貪るように食べる人が好きだからといって、今の自分は「エリー」ではないのである。
三日前、エズラの携帯に次のようなメールが届いた。
『エリーさんのアドレス、知ってますか? 僕、前の時に聞きそびれてしまって......バレットさんに聞いたら、エズラさんが知っているはずだからと_____』
バレットの部屋の扉を勢いよく開くと、彼は外出中だった。しかたなく冷蔵庫に張り紙だけして部屋に戻ったのだ。
_____今日から一週間、飯は朝昼晩お前ひとりで用意しろよ。
その晩に部屋の扉が長い時間叩かれ続けたが、エズラは無視を貫いた。オフィスでも謝られたが、エズラは無視を貫いた。
『それで、エズラさん! エリーさんはそちらにいらっしゃいますか?』
『居ない』
『ええっ!! でも、だって、エリーさんってエズラさんの代理でパーティーに参加したんでしょう?』
そういえば、そんな設定にしていたような気がする。面白がったバレットが、勝手に。
『僕、エリーさんとデートをしたいんですっ! 頼みますよお、エズラさん!! 僕に彼女の情報を教えてください!! 僕、彼女と西区のフルーツタルトを食べに行くデートプランを思いついたんです!!!』
エズラは当時の自分の心境を思い出す。
もう絶対、二度とあんな思いはしたくないが、しかし、何てものを引き合いに出してくるのだ。
西区のフルーツタルト。それは、西区で最も美味しいと言われているタルトなのだ。SNSで大絶賛、特別なチケットを持たないとそのカフェには入れない。特にタルトは数量限定で、テイクアウトは不可能。
ジャミソンはそのチケットを持っているのである。喉から手が出るほど欲しているそのチケットを、彼は持っているのだ。
もし、もう一度エリーになったら、自分はそのタルトにありつける。ごくりと喉が鳴った。メールアプリで、ケルシーの名前を探したのは言うまでもない。しかし、一文字目を打とうとしたところで指が止まった。
絶対にもうあんな思いはしたくない。
何故、タルトのためにもう一度ワンピースに腕を通さねばならない。
たかがタルト、されどタルト。
『......エリーに伝えとくから、もしダメなら俺が行く』
『えー』
そうして、今日に至る。当然、エリーは来なかった。エリーはエズラが腹を決めない限りこの世に存在しないのだ。あの一夜に限った出来事だったのである。
「あーあ、エリーさんと食べたかったなあ」
ジャミソンは何度もため息をついた。その度に足を蹴ってやりたくなったが、エズラはぐっと堪えた。このタルトを食べられたのは、目の前の彼のおかげなのだ。
エズラの提案をいやいやながら受け入れてくれたジャミソンには、感謝しなければならない。
状況は最悪だが、タルトは美味しかった。ダラダラと食べ進める目の前の彼の皿から掻っ攫いたくなるが、エズラは堪えた。
目の前の彼は、自分が非常に危険な爆弾をいくつも抱えている状況にあることに早く気づくべきだ。
「エリーさんの顔についてはお話ししましたっけ? 本当に素敵な顔ですよ。美人なんです! あれは間違いなくモテますよね。どうして同じテーブルについていた皆さんが無反応だったのか、僕は不思議でなりませんよ! バレットさんとビクターさんなんて、笑っていましたからね!!」
馬鹿にしてただけだ。
エズラは心の中で悪態をつく。携帯を開くと、メールが一件。
『デートは順調?』
相棒からだった。足を振り上げると、テーブルの脚にぶつかった。うわあっ、とジャミソンが目を丸くする。
「エズラさん、本当にエリーさんのアドレス知らないんですか?」
「知るか」
「ええーっ、一緒に働いてるのに? たしか、新入りの子でしたよね。星1、というやつなんですよね!」
「星5だ」
「ええっ!! 星5って、最高ランクでしたよね!! さすがエリーさんだなあ、きっと優秀な研究員さんなんですよね......」
「早く食えよ、タルト」
そして、この地獄の時間を終わらせろ。
エズラは携帯をしまって、西区の街並みを眺める。
西区はアパートやマンションが多く立ち並ぶ。
特に富裕層が多い場所では高級なマンションが背を競うように建っていて、此処もその入口部分である。タルトも良い値段がするし、周りも上品な貴婦人や紳士が多い。
よって、このようなカフェで出されるものの原料も一流だ。フルーツはどれも素晴らしかった。小麦すら良いものを使っている。
エズラは消えたタルトの味にうっとりしながら、今日のこのデートを終わらせて、次なる店に出向こうと思っていた。丁度近くに一件、美味しいドーナツ屋がある。
「そういえば、お前」
エズラは、タルトを紅茶で流し込んでいるジャミソンを見た。勿体ない、という言葉を飲み込む。
「はい?」
「さっき、この辺に美味い店があるって言ってなかったか」
ジャミソンは皿に残っていた欠片をペトペトと指にくっつけて、口に入れた。シェフがやることか、とエズラは今度こそ目標を定めて足を振り上げる。
「ああ、言いましたね」
エリーに喋るつもりだったらしいことなので、彼は白けたふうだ。それがエズラの心を逆撫でるが、スイーツの話題となれば何とか気持ちを保つことができるのだ。
「美味しいケーキの店でしょう?」
「それだ。どこにあるんだよ」
西区で最も有名なのは、此処のタルトだ。二番目は、次にエズラが狙っているドーナツ屋。
ケーキ屋と言われてこの地区で思い浮かぶのは三件ほどだが、広い西区。隠れた名店もあるのかもしれない。
スイーツの情報は、どんな手を使おうと手に入れたいのだ。
「知らないです」
「は?」
エズラは眉を顰めた。聞き間違いだろうか。
「忘れちゃいました」
「美味しい店って言ってたろ。食べたんだろ、そこのケーキ。どんな店だったんだよ」
「覚えていないです」
「はあ?」
エズラは眉を釣り上げた。ひえっ、とジャミソンは背を反らす。
まさか、エリーにしか教えないつもりか。そんなつまらないことしようとしているのか、此奴は。
エズラは今にも殴りかかりそうな姿勢で、もう一度聞いた。
「店名を言え」
「知らないんですよう、本当に......」
「嘘をついたって言うのか?」
「いえ、確かに食べたんですけど......どんなケーキだったのか、どんなお店だったのか、どこにあるんだか忘れちゃったんですよう!!」
ジャミソンは頭を抱えて震えている。近くの席に座っている他の客も、何か変な空気を感じ取ったらしい。怪訝な顔で此方を見てくるので、エズラは姿勢を正した。
声をなるべく平穏に保って、
「いつ食ったんだ?」
「一ヶ月前くらいです......」
「この辺りなんだろ」
「はい......でも、不思議です。忘れちゃったんです」
嘘はついていないみたいだった。嘘をついていたら、さっきのように堂々と美味い店を見つけたという報告はしないだろう。
しかし、そんなことがあるのだろうか。一ヶ月しか経過していないのに、店の場所も食べたケーキの味も忘れてしまうことなんて。
「強い雨が降っていた日で......僕、この店の下見に来ていたんですけど、定休日だったんですよう。だから、雨宿り代わりに入ったお店だったんです」
「新しくできた店なのか?」
「だから、知りません」
ジャミソンがきっぱり言うが、エズラはもう聞いていなかった。自分の知らない店など珍しいくらいである。
此処最近、仕事が忙しかったし、新店の情報を逃していたのかもしれない。
「もう帰りましょうよ......僕、食べ終わりましたし」
「ああ、そうだな」
エズラは立ち上がって、携帯を取り出す。地図アプリを開くと、無数のピンが立っているが、それは全てスイーツ屋の情報だ。しかし、この近くにジャミソンが言うようなケーキ屋は見当たらない。
「思い出したらお教えしますよう」
携帯から顔を上げると、ジャミソンが手を振っていた。
「それじゃ、エリーさんによろしくお伝えください!! 僕が今度こそ一緒にケーキを食べたいと言っていたと!! そして、素晴らしいサプライズも計画していると!!」
「ああ、伝えとく」
エズラは彼にくるりと背を向けて、早足で隣の通りへ向かった。その通りには、美味しいドーナツ屋があるのだ。
*****
「近くにケーキ屋さん? さあ、この辺りじゃ有名なのは、君が行ったところだけだろうけどね」
ドーナツ屋の店主に、ジャミソンが言っていた店の情報を伝えると、彼も微妙な反応だった。何年も此処で経営をしていて、近くの店を知らないとなれば、やはりジャミソンの思い違いなのだろうか。
「すごく小規模な店舗なのかもね。最近は流行っているみたいだから、隠れ家みたいなお店がさ」
たしかに、エズラがチェックしているSNSに入ってくるのは、客が数人しか入れないような小さな店舗のものだ。そういう店は売り物の個数も少なくて、隠れた名店と名付けられる。
買って帰るうちに食べごろをすぎてしまうものもあるので、エズラはそういうものには慎重に手を伸ばすようにしているのだ。
しかし、ジャミソンのあの感じ_____彼は店内飲食をした様子であった。そうなれば、飲食スペースを設けられた、それなりに大きな店舗だとは思うのだが。
エズラはドーナツを片手に西区を回ってみることにした。オシャレな店が立ち並ぶ通りを念入りにチェックし、ドーナツが無くなったら新しいスイーツを買って、食べ歩きながら、注意深く視線を凝らす。
「やっぱ無いな」
地図にもそれらしいものは出てこない。やはり、彼の思い違いだったのだ。間抜けな彼だから、間違った覚え方をしていることだって大いに有り得る。
エズラは小さくため息をついて、近くのカフェに入った。
*****
電話があったのは、頼んだケーキが運ばれてきた直後だった。
『あ、もしもし、エズラさんですか!? ジャミソンです!』
彼の声は電話から軽く耳を浮かしてもよく聞こえる。エズラはケーキを片手で切り分けながら、「なんだよ」と冷たく言った。美味いものだけに集中したい瞬間に、彼は顔を出してくる。スポンジの泡がプツプツと潰れる音が、エズラは大好きなのだ。
『さっきの話、覚えてます!? 僕が、西区でケーキを食べたお話ですよ!』
「ああ、お前の思い違いだったみたいだな」
『そんなことないですって!! だって僕、今思い出したんですもん!!』
ふうん、とエズラはケーキを口に入れる。此処のクリームは甘くなくて美味しい。特性のソースを好きにかけても良いことになっているので、エズラはテーブルに置かれた小瓶を開ける。
ふと、視界の端にガラスが映った。ガラス張りの壁に、水滴がついている。
「雨」
エズラは空を見上げた。いつの間にか、分厚い雨雲が西区の空を覆っていた。
*****
エズラは雨が止むのを待たなかった。せっかく注文したケーキがまだ口に入っている状態で、外へ出たのだ。傘は当然持ってきていないので、持ってきた鞄を頭の上に掲げるようにして、通りを走る。
ジャミソンとは、まだ通話を切っていなかった。肩と耳で携帯を挟むようにして走っている。
「本当に思い出したんだな」
『はいっ! でも、雨が降ってきちゃいましたね。僕、今駅に居るんです。エズラさんはまだ西区です?』
「ああ、お前が覚えている道を辿って行ってみる。地図で現在地を送ったから、教えてくれ」
ジャミソンは、会話で出したケーキ屋の場所を思い出したというのだ。さっきまですっかり忘れていたというのに。しかもそれは、やはり西区にあるのだと言う。
エズラは水溜まりを飛び越えて、庇のあるところへやって来た。鞄からは滝のように水が流れている。今日は中に濡れて困るようなものは入れていないので、大丈夫なはずだ。
「それにしても、急に降ってきたな」
天気予報は見ていなかったが、ジャミソンと別れる頃にはまだ青空が見えていた気がする。
エズラは電話のマイク機能をオンにして、肩の上から電話を外した。
「で、どうだ?」
『ええっと、エズラさん、今七番通りに居るんですよね』
「ああ、近くに服屋がある。その隣は、鞄屋」
『なるほど、なるほど......じゃあ、もっと奥の方ですね。たぶん、隣がお花屋さんだったと思うので!』
「花屋か......」
エズラは地図で大体の場所を確認した。指が濡れて端末が扱いづらい。
『すごい雨音ですけど、本当に今日行くんです? また明日にしたらどうですか?』
「......まあ、そうだな」
いつの間にか雷まで鳴り始めた。庇から落ちる水のせいで、エズラの視界は真っ白になっている。
『僕、傘買ったので迎えに行きますよ!』
「悪いな」
エズラはジャミソンが来るまでの間、地図アプリで探し続けたが、やはりそれらしい店は見つからなかった。
*****
次の日、仕事が終わるや否や、エズラはジャミソンに電話した。すると、ジャミソンは困惑した様子で、
「すみません、また忘れちゃいました」
「昨日、場所まで思い出してただろ」
「そうなんですけど......」
ジャミソンは本当に覚えていないようだった。まるで、昨日、一緒にケーキを食べた時と同じように記憶が抜けているのだ。
此処まで複数も同じことがあると、エズラはジャミソンに問題があるとは思えなかった。
「お前、昨日は急に思い出したのか?」
「は、はい。駅に着いたくらいで......」
「何か変わったことなかったか、その時」
「ありませんよ、変わったことなんて......あ、でも」
エズラは自分の記憶を辿っていた。ジャミソンと別れてドーナツ屋に行き、そこでは例のケーキ屋の情報を得ることができなかった。カフェに入って、ジャミソンから電話がかかって来て......そういえば、
「雨が降ってきたから、傘を買おうと思って近くのお店に入ったくらいですかね」
「お前が傘を買った後に、俺に電話をかけてきたんだよな」
「ええ、そうですね」
電話に答えて少しして、エズラは雨に気づいたのだ。
「それまでは、あの店のことは忘れていたのか?」
「はい......」
なるほど、とエズラは考え込んだ。
つまり、雨が降っていると記憶が蘇る可能性がありそうだ。
エズラは外を見た。エントランスの大窓からは、夕暮れの赤い空が覗いている。雨が降る気配は無さそうだ。
エズラは明日の天気をチェックした。午前に通り雨があるという予報が出ていた。エズラは、明日の朝にまた電話をかけると伝え、帰路についた。
*****
次の日、外部調査のついでに外に出たエズラは、ジャミソンに電話をかけた。やって来たのは西区である。
『良いんですか? お仕事中なんでしょ、エズラさん』
「まあ、多分これも仕事になるだろうからな」
雨が降ってきた。エズラはすぐにジャミソンに店について尋ねた。すると、
『えっと......青いバナーが立っていると思います。茶色のドアのケーキ屋さんです』
ジャミソンはその店の外見についてサラサラと口にした。道順も、エズラが昨日行った場所まで行き、そこから先も突っかかりなく道案内が進行される。
『忘れちゃったと思っていたのに......』
ジャミソンは自分に驚いているようだった。エズラは傘をさしたまま、西区をジャミソンの道案内に従って歩いた。
「......あったぞ」
そして、たどり着いた。それは、雨の中に静かに佇んでいた。アパートの一階部分がケーキ屋になっているようで、ジャミソンの言う通り青いバナーが出ており、茶色いドアも見える。ガラスは曇って中が見えないが、見るからにお菓子屋らしい佇まいだ。
エズラは携帯電話の地図アプリを起動してみるが、店名は表示されなかった。
「看板が無いな」
『ええっ、そんなことあるんです?』
「取り敢えず入ってみる。電話、切るぞ」
エズラは電話をポケットに突っ込んで、傘を畳んだ。傘立てには赤色の傘と青色の傘が一本ずつ入っている。
エズラもそこに傘を立てて、茶色のドアに向き直った。そもそも開いているのか閉まっているのか分からないが、中に人の気配は感じる。
グッと扉に体重をかけると、甘く香ばしい空気が漂ってくる。砂糖とアーモンド、小麦。エズラの頭にはまだ出会っていないケーキの姿が浮かんでいた。
「いらっしゃい」
女性とも男性とも取れる声が聞こえてくる。カウンターに人影があった。栗色のウェーブの髪がゆっくりと揺れる。柔らかな印象を持つ人物である。
しかし、その外見は、何故かエズラの脳に刻まれることがなかった。目を逸らすとどんな顔だったか、どんな声をだしていたのか、全て綺麗さっぱり忘れてしまうのだ。
「あの、此処は」
「はい、お菓子を売っているお店です。召し上がっていかれますか? お持ち帰りは......そうですねえ」
店主は外を見ているようだった。
「あまりオススメできないですね」
「じゃあ、いただいていきます」
「はい、此方へ」
案内されたのはショーケースの前だった。クッキーやマドレーヌなど焼き菓子は銀の台に丁寧に陳列され、ムースやプディング、クレームブリュレなどは陶器に入れて並べられている。ケーキは下の段を埋めていたが、どれも息を飲むように美しいデコレーションがされていた。
「値段は_____」
エズラは、その商品たちに値札が無いことに気がついた。顔を上げると、店主は微笑んでいるだけである。
取り敢えず、エズラはプディングと、ムース、チョコレートケーキを注文した。
席で待つように言われ、出入口に近い席に戻る。
外からは曇って店内が見えなかったが、店内からはまるでガラスの隔たりを感じない程クリアに外の世界が見える。
雨は弱くなっていた。もともと通り雨という予想だったので、此処に来るまで傘を持たない者とすれ違うこともあったのだ。
エズラは携帯を取り出し、
「すみません、店内の写真を撮っても......」
店主はスイーツをトレーに乗せてやって来た。紅茶も添えてある。
「もちろん、良いですよ」
店主はそう言ってカウンターに戻っていく。エズラは店内の写真を何枚か取り、店主にも写真に写ってくれるようお願いした。しかし、店主は首を横に振り、
「驚かせてしまうといけないですから」
と微笑んでいる。
エズラは不思議に思いながら、テーブルで待っているスイーツのことを思い出して、席に戻った。
フォークを手に取ってケーキを口にする。軽いホイップクリームが乗ったケーキだ。下にはクッキー生地が敷かれていて、胡桃が練り込まれていた。
「知り合いが此処のことを知っていたみたいで、でも、何故か思い出せないと言っていて」
エズラは店主を見やる。カウンターの向こうで立って、エズラを見ていた。または、客が入ってくるのを待っているようだった。店内にはまだ空席があるが、エズラ以外に客は居ない。
「そうですか」
店主は優しい声で相槌をうつ。
「雨が降り出したら思い出したみたいです。でも、止んだ瞬間にまた忘れたみたいです」
次に手に取ったのはムースだった。これはレーズンが入っていた。
「もしかして、雨が降っている時間帯しか運営できないんですか」
店主はニコニコしている。
「あんまり、そのことに気づくお客様はいらっしゃらないんですが......初めてのお客様ですよね」
「ええ、初めて来ました」
「そうですか」
店主は笑顔を崩さなかった。しかし、エズラから視線は外した。その目は、外を見ているようだった。
「雨は止んでしまうものですからね。傘は、忘れていってしまうものですからね」
呟くように、そう言った。
*****
エズラは、雨がしっとりと染み込んだコンクリートの上を歩いていた。
あんなに隠れた名店、どうして誰も知らないのか。雨が降っている間だけ、店が開かれているということは分かったが、雨が上がった途端、みんなその店の居場所を忘れてしまう。
電話が鳴った。
『あ、エズラさん!! やっと出ましたか!! もう、何度も電話かけたのに、全然繋がらないから心配でしたよ!! それで、例のケーキ屋さんはどうでした!?』
「ああ。その前にお前、ケーキ屋で食べたもの思い出せるか?」
『えっ? ああ、えっと......うーんと......』
ジャミソンが唸っている間、エズラはハッと足を止めた。
雨は上がっている。空には青空が顔を覗かせていて、太陽の光が周囲の水たまりや木々の雨粒をキラキラさせているのだ。
自分はどうして、思い出せるのだろう。ケーキ屋の居場所も、食べたものも。
『すみません、また忘れちゃいました』
エズラは気がついた。自分の右手に、行きは持っていたはずの傘が無いことに。
*****
その夜、エズラは部屋のリビングで、ケーキ屋で撮り溜めた写真を見ていた。どれもピントが微妙にズレている。きちんと合わせたつもりだが、スイーツを前にして興奮していたのか、それともあの店の特質なのか。
店主の顔は未だに思い出せない。優しい声だったこと、栗色のウェーブ髪だったことくらいだ。そして、じっと外を見つめていたこと。
エズラの頭の中には、食べたスイーツたちの姿が未だ鮮明に残っていた。チョコレートケーキのホイップの軽さや、胡桃の香ばしさや、ムースを口に入れた時の甘酸っぱさや、プディングのとろみも。
何故ジャミソンが忘れていたそれらを、自分は覚えているのだろう。
エズラは何となくその答えが見えていた。
次の日の天気予報を調べた。午後から、また小雨が降ると予報が出ていた。
*****
エズラが次の日そこに行くと、外の傘立てに傘が三本刺さっていた。間違いなく自分のものだ。忘れないうちに手に持っておこうと傘を掴んだ時、店の扉が勢いよく開いた。
そこには店主が居た。エズラと、その手に掴まれた傘とを、交互に見ている。
「また、食べに来てくださったんですか」
店主はすぐに表情を戻した。驚いたような、そして少しがっかりしたのような表情である。
「すみません、今日はテイクアウトで」
「テイクアウトですね。そうですねえ」
店主は空を見上げる。晴れ間が出てきていた。鳥が辺りで鳴き始めている。
「あまりオススメはできないのですが......」
「いえ、大丈夫です」
「ふふ、なんだかあなたは不思議な人ですね。この店の性質をすぐに見抜いちゃうし、大して驚きもしませんし......なら、テイクアウト、用意しますね」
店主は引っ込んで行った。エズラもそれに続く。今度はショーケースの中の写真、それから、店主の後ろ姿を撮った。
「すみません、正面からはダメですか」
「正面ですか......もちろん、嫌というわけではないんです、ただ」
店主は箱に商品を詰めていた。エプロンの結び目が規則的に動いている。
「勝手にプディングにしちゃいましたが、良いですか?」
「ええ」
本当は最下段のケーキたちを食べたかったが、それは何だか阻まれる行為だった。
「雨、止んだらどうなるんですか」
エズラは店主の背中に問いかけた。
「みんなが忘れてしまうと思いますね」
「でも、俺は昨日ずっと覚えていたんです」
エズラは自分の右手に引っかかっている傘を見やった。
「傘の忘れ物、外にありましたね。赤い傘と、青い傘。あれが全部持ち主に返されたら、どうなるんですか」
「私にもそれが分かっていたら、良いんですけどねえ」
店主は微笑んで、エズラに箱を渡した。その時、店の扉がゆっくりと開いた。入ってきたのは若い女性である。
「すみません、急ぎで」
彼女はショーケースの上段にある焼き菓子を二つ頼んだ。
エズラに気がつくと、はにかんで会釈する。
「今日は、もう止むみたいですよ」
彼女の声は、子どものように弾んでいた。
「でも明日は、大雨みたいですね」
「そうですか」
「明日はいっぱい買いに来ますからね!」
彼女は花のように笑って、店主からマドレーヌを受け取った。桃色のコートの肩に乗るダイヤモンドのように光る水滴に、エズラは気がついた。髪も湿度を持ち、頬や鼻のてっぺんにも、彼女は雨粒を乗せていた。
「それじゃあ」
「ええ」
彼女はバタバタと店を出て行った。マドレーヌの袋を引き裂いているのが聞こえる。食べながら歩くようだ。
「時々居るんですよ、傘を忘れていく方」
店主は微笑んでいた。
「傘が全て戻ってくれたらねえ、此処も無事に終われるんですけれど......」
エズラは外を見た。虹が出ているのだ。店主もそれに気づいたらしい。
「分かられてしまっているのでしょうか」
声は、さも嬉しそうだった。
*****
エズラが家に戻って、手に持っていた箱を開けると、箱の中にはプラスチックのカップと、その中には色とりどりの小花が活けられていた。
はて、と首を傾げる。
これを自分は、何処で買ったのだろうか。
『もしもし、エズラさん!! ケーキ屋さん、また行ったんですってね!?』
ジャミソンの電話で、彼はハッとした。携帯に撮り溜めていた写真を開くと、また全てがピンぼけした状態である。しかし、一枚だけくっきりと姿が写っているものがある。それは、店主の後ろ姿だった。
エズラは、それを見てふと思い出す。彼の柔らかな栗色の髪を。キュッと結ばれたエプロンの結び目を。
顔は思い出せずとも、何故か後ろ姿だけは思い出せるのだ。
それは、温かい背中だった。




