枯れた花
「今日の会議は以上だ」
ブライスがそう言うと、皆ホッとした顔をして席を立った。会議室内にざわめきが戻ってくる。
「ブライス、この前の実験結果、纏めたよ」
ナッシュがステープラーで挟んだ冊子を持ってきてブライスに手渡す。
「ああ、すまん」
ブライスがそれに目を通していると、
「ナッシュさん、ちょっといい?」
ナッシュが顔を上げると、一緒に会議に参加していたシャーロットが居た。助手をとった為に医者の仕事よりも博士としての仕事が増えてきた、年配のB.F.職員の一人である。
「はい」
「この前の治療したところ、あとで様子を見るから。医務室に来てくれるかしら」
「ええ、分かりました。資料を置いたら直ぐに行きます」
ナッシュが頷き、ブライスに一言声をかけて会議室を出ていく。ブライスはナッシュを見送って、引き続き彼から受けとった資料に目を通す。
何年も共にしてきた友で、彼が完璧であることはブライスも分かっているが、だからといって資料の確認を怠るわけにはいかない。この資料もいずれ政府に提出することになっているのだから。
「熱心ね、ブライスさん」
シャーロットが自分に優しく微笑みかけている。彼女の柔らかい笑みは、医務室で迎える怪我人をマシュマロのように柔らかく包み込むような包容力がある。
「仕事ですから」
シャーロットに言葉にブライスは資料から目を上げることも無くそう言う。
「でも、働きすぎは体に良くないわ。あなたが倒れることで困る人が大勢いることも忘れないで」
シャーロットがそう言って会議室を出ていく。ブライスは彼女の後ろ姿に軽く会釈して、再び資料に目を戻した。
*****
「シャーロットさん!」
会議室から出てくると、待っていたのは可愛らしい彼女の助手だった。名前はリディア・ベラミー(Lydia Bellamy)。B.F.星4研究員である。
「あら、リディア、迎えに来てくれたの?」
「はい!」
向日葵のような眩しい笑顔を持つ彼女に、シャーロットはふふ、と笑みがこぼれる。彼女の狙いは自分ではないことを、シャーロットは承知していた。
彼女のお目当ては会議室の中にいるブライスである。会議中は扉が閉められ、中が覗けないようになっているが、終われば扉は開かれる。彼女は少しでも彼の姿を見たいのだろう。会議という会議はブライスが出るのにも関わらず、彼女はまだ独立していないから会議に出る機会が圧倒的に少ないのだ。
「嘘はいいのよ。ブライスさんでしょう?」
「えっ」
完璧に見抜かれてリディアは石になったかのように固まってしまう。
「そうだわ、実はブライスさんもこれから検診しようと思っていたのよ。リディアも一緒に来る? 助手として、私のお手伝いをしてもらおうかしら」
「い、いいんですか!?」
「もちろん。ベティと一緒にね」
「が、頑張ります!!」
わざとある女性の名前を出してみたが、リディアはあまり気にしていないようだ。そこが彼女の良い所である。
「じゃあ呼んでくるから、待っていてね」
「はーい!」
*****
「ほら、ちょっと、動かないでよ」
「いたっ、ねえ君、消毒つける時は声掛けてくれるかな」
医務室の椅子に上の服を脱いで座らせられたナッシュは不満げに声を漏らす。彼の背中には痛々しい傷があり、それをベティが消毒しているところだった。
「偉そうに言うんだったら一人でやればいいじゃない」
「背中まで腕が届くと思うかい?」
「あなたは無理でしょうね」
「それどういう意味として捉えるのが正解なんだい?」
彼らは大学からの付き合いであるためか長年の付き合いを連想させる棘のある会話を展開させていた。
「君が本当にシャーロットさんの助手なのか疑いたくなる時があるよ」
「そんなことばっかり言ってると、物凄く染みる塗り薬でも塗ってやるわよ。それとも苦い粉薬でも処方してやろうかしら」
「............」
ナッシュが心の中で「鬼め」と悪態をついていると、
「あら、ベティ。今大丈夫かしら」
シャーロットが医務室に顔を覗かせる。その後ろからは彼女の助手であるリディア、そしてブライスがついてくる。
「先生。あら、ブライスじゃない。どうしたの?」
ブライスを見た途端、ベティの声はナッシュに向けられていたものより何倍も甘くなる。ナッシュがため息をつきながらシャツを着始める。
「検診らしい。この前怪我したところを診てもらえと」
「分かったわ。じゃあ此処に座って......って、ナッシュ、いつまでいるのよ。さっさと退いて」
「はいはい」
ナッシュがシャツも着終わらない内に椅子から立たされて、シャーロットが「あらあら」と苦笑する。
「じゃあ、リディアはベティのお手伝いできるかしら。私はお茶の準備でもしましょう」
「は、はい」
リディアは頷いて、ベティに近づいた。
「えーっと、リディア・ベラミーよね」
「はい!」
「そこにあるピンセットとガーゼをとってくれる?」
「はい!」
慌ただしく動き始めるリディアを、ナッシュは少し離れた椅子に座って微笑ましげに見ていた。彼女がブライスの横顔をチラチラ伺っているのが何とも可愛らしい。ベティという女性がいることを分かっていながらついてきたのだから、本当に好きなのだろう。
「健気よね」
そう言って、ナッシュに暖かい紅茶を入れたカップを渡したのはシャーロットだった。彼女は手際よく事を済ませていくベティに全てを任したようだ。そしてその隣でせっせと働いているリディアを見て頬を緩ませている。
「本当ですよね。どうしたらあんなまっすぐに育つんだか」
一人の助手を育てている最中のナッシュは苦笑してカップに口を付ける。「あの事件」以来すっかり静かにはなったものの、彼の助手は安定の口の悪さであった。
「そうねえ......やっぱり恋をしているからかしらね。恋をしている女の子って誰だって綺麗に、可愛くなるものよ」
シャーロットは暖かい目で二人の姿を見る。
確かに、リディアもベティも初めて会った時と比べれば纏うものが違くなったような。
ナッシュはそう思いながらカップの上に立ち上る湯気をふっと吹いた。
*****
「はい、終わり」
ガーゼを取り替えたベティがそう言ってピンセットとゴミを片付け始める。ブライスも数日前、実験で怪我をしてしまった。伝説の博士レベルになってくると自然と危険な超常現象を相手することも多くなってくる。
「じゃあ、これ消毒してきてくれる?」
ベティが使用したハサミとピンセットを銀色のトレーに乗せてリディアに手渡す。リディアは嫌な顔ひとつせずそれを受け取り、奥へと引っ込んで行った。
「少し上達したな」
ブライスが患部に貼られたガーゼを見下ろしてボソリと呟いた。
「まあね、毎日腕を磨いているもの」
ベティが腕組をして胸を張っている。ナッシュが何か言いたげにベティを見ているが、彼女は気づいてすらいない。その隣でシャーロットがクスクスと口を抑えて笑っていた。
「こんなに頼りになる医者がいるんだもの、私はもう必要なさそうね」
シャーロットが切なげに目を細めてそう言った。
彼女は今年でB.F.から出ていくつもりらしい。B.F.では最も年配であり、体が思うように動かないので最近ではほとんどの仕事をベティに任せているようだ。
「寂しくなりますね」
ナッシュが目を伏せる。
「ベティがいるじゃない。ねえ?」
「そうよ。何かあれば私に頼ればいいでしょう?」
ベティは得意げに胸を張ってみせる。
「もし、ベティまで居なくなったら...... B.F.に医者は居なくなりますね」
「そうねえ......。そんなときはリディアを医者にする手もあるけれど」
シャーロットが部屋の奥の方に目を向ける。ご機嫌な鼻歌が、水の音に交じって聞こえてきた。
「さっきもベティと良い感じに動けていたしね?」
「まあ......あの子ならそれなりに仕事はしそうですけど」
ベティは眉をひそめている。
「一生懸命な良い子なのよ。仲良くしてあげてね」
「はい」
ベティは頷き、じっと部屋の奥の方を見つめていた。
*****
シャーロットはその日も次々来る患者の相手をしていた。
基本的に夜の部をシャーロット、昼の部をベティが担当しており、医務室には必ずどちらかがつくようになっている。
夜の10時。シャーロットが帰った患者のカルテをまとめていると、扉がノックされた。入ってきたのはブライスだった。
「まあ」
入ってきた彼の格好にシャーロットは思わず立ち上がる。彼の右肩から腕にかけて血がぼたぼたと滴り落ちていた。彼が辿ってきたであろう道に転々と赤い痕跡が残っており、シャーロットはすぐにバスタオルを用意した。
「一人で此処まで来たの?」
「ナッシュもドワイトも既に自室ですから......」
「それはそうかもしれないけれど、こういう時は誰かに頼らないと」
シャーロットがバスタオルを持って走り寄った時にはブライスは既にその場に立てなくなっていた。血が外に出れば当然だった。シャーロットはすぐに応援としてベティを電話で呼んだ。彼女はすぐ行くと言って、本当にすぐにやって来た。
「馬鹿じゃないの!?」
彼の傷口を見た彼女の第一声である。
「また部下を庇って殺されかけたわけ?」
「ベティ、ちょっとは静かになさいな。今何時?」
「シャーロットさん、このままだとブライスが自殺を図るかもしれないんですよ!」
「あなたを置いてそんなことするわけないでしょう。ねえ?」
シャーロットに傷口を縫われている間、ベティはソワソワと落ち着かない様子だった。彼の恋人として、やはり彼が傷を負っているのを見るのはとてもじゃないが耐えられない。そしてそれが故意に負ったに近いものならば尚更だ。
「ブライスさんは部下思いなのよ。いつもみんなのことを考えてあげてるの」
「だからって自分が死んだら元も子もないです!」
「今度から気をつけたらいいわ」
ヒステリックになるベティとは対照的に、シャーロットは落ち着いた声でそう言って、丁寧に傷口を縫い合わせていく。
その時、扉が叩かれてナッシュが顔を出した。ベッドに座って治療を受けているブライスを見てほっとした表情を浮かべる。
「良かった、此処に居た」
「良かった、ですって? あんた呑気に寝てんじゃないわよ」
ベティが目を釣りあげてナッシュに詰め寄る。
「ブライスが死んだりでもしたら誰が責任をとるの!? 相棒ならピンチに駆けつけるくらいのことはしなさいよ!」
「ブライスが何も言わずに出ていったんだよ。もし気づいていたら全力で後を追うに決まってるだろう。僕に怪我をさせないようにしていたのかは分からないけれどさ、そんなに怒鳴ることないじゃないか」
ナッシュも負けじとベティを睨む。シャーロットは小さく息を吐いて、「はい、できたわ」とブライスの腕を縫い終えた。
「今度からブライスを怪我させたら相棒も責任を追わないとだめよ!」
「君だってブライスの相棒みたいなもんじゃないか。僕だけに責任があるなんて馬鹿げたこと言うんじゃない」
「二人ともそこまでよ。ベティ、お茶を入れてちょうだい」
「でも先生!!」
「今一番口を開きたいのはブライスさんじゃないかしら」
「......」
二人が同時に黙り込んだ。ブライスは縫った上から更に治療をされていた。彼の目がじっと床の一点を見つめている。
「すまなかった」
ブライスの声が小さく二人の耳に届く。ベティが何か言おうと息を吸い込んだのをナッシュが静かに止めた。
「三人の研究員から連絡があった。先に自室に戻っていたナッシュに応援を頼もうとしたが、事の一大事を考えて体の方が動いたようだ」
「その三人の研究員からは話を聞いているよ。君が体を張って守ってくれたってね。超常現象の片付けはドワイトや他の研究員たちにも任せて行わせた。僕は君の血痕を辿って此処まで来たんだ。この血がブライス以外の何者でもないと思ったね。これだけの血を流したがるのは会社で君だけだよ。まるでヘンゼルとグレーテルだ」
嫌味を込めて言うナッシュを、ハーブティーを用意していたベティが鋭く睨みつける。
「......今度からは、すぐにナッシュに電話をする。繋がらなければ、ドワイトにもな」
「ええ、是非そうして」
「僕もそれがいいと思うよ」
話が終わった雰囲気を察してシャーロットが手をパチンと叩いた。
「はい、これでおしまい。皆が楽しく話している方が私は好きだわ。ブライスさんも無茶はやめること。ナッシュさんもベティも医務室では声を荒げないこと。約束よ?」
「はい」
「すみません......」
*****
ハーブティーを四人で楽しみ、ブライスがナッシュに支えられるようにして医務室を出ていくと、ベティがどっと疲れたようにベッドに倒れ込んだ。
「もう私、毎日心臓が破裂しそう」
「そうねえ。私の電話の仕方がいけなかったかしら」
「本当ですよ。『ブライスさんが死ぬかもしれない』って、悪戯にも程がありませんか?」
「あなた、起きるまで時間かかるんだもの。ブライスさんはあなたに黙って死なないわよ。あなたを愛しているんだもの」
「それなら超常現象の目の前に飛び出さないで欲しいですね。反省したと思います?」
「さあ、それはどうでしょう」
シャーロットは楽しそうに笑って、ティーカップを四人分片付けている。ベティはベッドに転がり、少しだけ仮眠を取る事にした。心臓に悪い起き方をしたからか、今緊張がほぐれてとても眠いのだ。シャーロットに許可をとってベッドに横になった。
でももし、彼が本当に死んでしまったら_____。
ベティはゾッとした。ブライスが居ない生活なんて考えたくなかった。あんな体験、リアーナだけで十分だ。
黙って死なせるわけにはいかない。医者として、彼の恋人として、死なせるくらいなら自分が死んでやるわよ、とベティは心の中でブライスに舌を出した。
*****
ブライスがその後も怪我をして医務室を利用する機会は多かった。その度にベティは目を釣りあげて怒り、シャーロットがそれを宥めるという構図が続いた。
ベティは許せなかった。ブライスが怪我をするのは100%部下を守るためで、自分の身なんてどうでもいいとさえ思っていそうな雰囲気が見て取れた。彼の決死のガードのおかげで医務室を利用する研究員は軽症であることに間違いないが、これでは本当に死んでしまう。
そして、ベティには更に許せないことがあった。
ブライスが自分よりも部下を優先しているという事実に気づくことだった。これにだけは気づきたくなかった、とベティは思った。きっと四六時中彼のことを考えていたのが良くなかったのだ。気づけば嫉妬なんてものでは言い表せない感情が彼女の胸に溢れていた。それは気づけば涙となって溢れていた。
初めて泣いたのは、昼の部が終わって医務室の係をシャーロットと交換する際、自分は自室に戻る途中で会議室の前を通り過ぎるときだった。
風邪が流行っていたので換気のために開かれていた扉から会議室の中の様子が見えた。会議は終わったようで研究員らが楽しげに団欒している様子が見て取れた。ブライスの周りに研究員たちが集まっていた。
ブライスの表情は相変わらずだったが、あの周りを包んでいる空気は柔らかかった。自分より、あの子たちの方が大事なのだ。
何でもっと早く気づかなかったのだろう。
彼が愛しているのは自分なんかじゃなくて、この会社であり、自分の部下である。医務室で黙々と患者の世話をして、カルテを書いている自分に何の思いも抱いていないのだ。自分は研究員じゃないし、ただの女医なのだ。
突然、ベティは視界が悪くなった。ぼやけて前が見えない。頬を伝って流れるものを感じてすぐに手の甲で掬いあげる。が、また溢れてしまう。
「......何で」
今更過ぎる。分かっていたことだ。大学教授のマーロンがあの提案をした時から、彼の関心は自分なんかより、もっと遠い未来、すなわちこの会社とその部下に向いていたのだ。私の事なんて目の端くれにもなかった。
ベティは走り出した。このまま外に逃げ出したかった。大嫌いだ。この会社も、ブライスも、自分も。
*****
「何も、そんな誰にも黙って出ていくことはないんじゃないかしら」
「もう決めたんです」
ベティはエレベーターの前でシャーロットと話をしていた。ベティの足元にはひとつのバックにまとめられた荷物が置いてあった。中身は医療書などだ。彼女がこの会社に住むようになった時にそのまま持ってきたものだった。
ベティは決心した。B.F.を出ていくこと。そして、もう二度と此処に戻らないこと。誰にも言わないつもりで準備をしてきたが、シャーロットには医療書を片付け始めた時点で気づかれていた。止めるだろうかと思ったが、案外そんなことなかった。寧ろ後押ししてくれた。
「ブライスさんはあなたの事を愛していると私は思うけれどね」
シャーロットはそう言ってベティの髪を耳にかけてくれた。ベティは「もういいんです」と力なく首を横に振った。
「人を愛するって大変ね」
「......はい」
「本当に誰にも言わないでいいの?」
「.......」
ベティはちらりとシャーロットの後方に目をやった。夜中に出るのだから、マスターキーが必要なのだ。それはナッシュからそっと受け取った。ナッシュには医療品の買い出しに行くと嘘をついている。マスターキーはあとで手紙を添えてポストから返すつもりだ。
廊下はしんとしている。研究員たちの寝息が聞こえてきそうな静けさが廊下に満ちている。
ブライスがもし自分が居なくなったことに気づいて走って追いかけてきてくれたら滑稽なのに。笑ってやるのに。
嘘だ、たぶん、嬉しくて泣いてしまう。戻ってこいと言われたらきっと戻ってくる。だが、想像出来る。彼は今、自室で寝ているだろう。こんな女医の逃走劇になんて興味無いだろう。部下のことを考えながら呑気に寝ているんだ。
「......先生は」
ベティは廊下から手前のシャーロットに視線を戻した。
「恋をしたことがありますか」
ベティの問いにシャーロットは微笑んだ。それが肯定を示すのか否定を示すのか、ベティには判断しづらかった。
「恋をしている人は可愛くなるのよ、ベティ。あなたってとっても可愛いわね。私も、可愛くなりたい」
そんな言葉が返ってきた。
「私ね、頑張っているあなたが好きよ。一生懸命患者さんに向き合っているあなたも、恋をしているあなたも。何度も言うけれど、ブライスさんはまだあなたを諦めていないわ。きっと」
「......」
ベティも小さく頷いた。幼い頃から彼女の言葉には心を動かされた。今はただただ安心する。ベティは彼女の胸に顔を押し付けた。
「先生、ありがとう」
「いいのよ。困ったことがあれば言いなさいね。これ、ナッシュさんから」
シャーロットがベティの手にそっと何かを押し付けた。ベティはそれを分からず受け取ったが、今は彼女の柔らかい体を抱きしめたかった。
「いつの間にかこんなに背も伸びたのねえ。私の可愛い助手なんだから、何があっても大丈夫。私が守るわ。ブライスさんも」
「......はい」
「また会いましょう」
「......はい、先生」
ベティとシャーロットは離れた。エレベーターに乗り込み、ベティは別れ際の彼女の笑みに手を振った。エレベーターの扉が動いた。隔たれる空間の小さな隙間に、此方に走ってくる誰かの姿があったが、扉は呆気なく閉まった。
もっとも、ベティはそれに気づいていなかった。気づいていても、視界を潤す小さな泉によってそれが何か判断できなかった。
ベティは壁にもたれて、静かに手のひらを開いた。いつの間にか手のひらに力が入っていて、クシャクシャになった小さなメモ用紙があった。ナッシュの達筆な文字で数字が綴られていた。彼らのオフィスの電話番号だ。下には『あのおバカさんには黙っておくからね』という短いメッセージが綴ってあった。
ナッシュにはこの計画が気づかれていたらしい。シャーロットが漏らしていたのかもしれない。お喋りな彼女が、ティータイムを共にした研究員にベティの幼い頃の話を漏らしていたのを聞いたことがある。だが、ナッシュは自分で気づいたんだろう。
かなり鋭い親友なのだ。そして、ライバルだった。
*****
「ベティは_____」
シャーロットが振り返ると、走ってきたらしいブライスの姿があった。シャーロットは「あらあら」と微笑んだ。
「残念、見送りはもうしちゃったのよ」
「......」
ブライスはエレベーターの数字に目を向けた。地上に近づいていることを示す数字が見て取れる。彼は突然来た方向とは違う方に走り出した。シャーロットはその背中を見つめて、「大変ねえ」と楽しげにクスクス笑った。
「シャーロットさん」
少し遅れてナッシュがやって来た。
「こんばんは、ナッシュさん。ブライスさんに教えてあげたの? ベティのこと」
「まさか。彼は薄々気づいてたんじゃないですかね。このままじゃダメだって分かってたのかもしれないですけど、行動力がなかったんですよ」
「照れくさかったのかも」
シャーロットがいたずらっぽく言うとナッシュは肩を竦めた。
「それで......ブライスは?」
「んー」
シャーロットは数字を見上げる。
「エレベーターが地上に着くのと、階段を駆け上がるの、どっちが早いかしら?」
彼女が大袈裟に首を傾げて見せると、ナッシュは笑った。
「なるほど」
*****
ベティはエレベーターの壁にもたれたまま、ぼんやり数字を見上げていた。今までの彼との思い出を振り返っていた。
リアーナに服を選んでもらい、その服を着て彼とカフェに行ったり、公園にいったり。
二人が一番過ごした時間が長い場所は図書館だった。講義がない日も大学に行き、閉館まで過ごしたこともあった。大抵自分が資格獲得のための勉強をし、ブライスは数学の難しい本をひたすら読んでは講義のレポートを書いていた。
ただ、マーロンのあの提案以来、会社経営の本にシフトチェンジした様子だった。あの時既に彼の眼中にあったのは自分ではなかった。
あの頃の自分は純粋で可愛かったな、とベティは思った。ブライスのことしか見ていなかった。最初こそ彼の無愛想さにイライラしたものの、慣れてしまえば心地よい存在だった。初めての感情を植え付けた人だ。自分に色々な経験をもたらしてくれた。
「舞い上がってたのは私だけだったってわけね」
ベティは独りごちた。機械音が返事をするには長く低い音を奏でている。
「上等じゃない、あっちがその気なら私だって出てってやるんだから。恋人より仕事を優先した罪よ」
声が震えたのに気づいたが、気づいたら負けだと思って話すのをやめなかった。
「信じられる? 普通は楽な方に身を寄せるでしょ。仕事より恋人。恋人を操って遊んでる方がよっぽど楽なのにねえ」
脳は楽な方に流される。難題に挑戦するのが疲れるのも、勇気がいるのもそんなメカニズムだ。
彼はきっと常識とはかけ離れているのだ。仕事が困難な事だとして、それの方に惹かれているのだから。
会社を作ってから彼と何回唇を重ねただろう。何回手を繋いだだろう。全部思い返せば全て自分からだったということにベティは気づいた。
また余計なことに気づいてしまった。
心がズキンと傷んだ。心を消毒するようなものは今此処にはない。
「私ってそんなに面白くなかったかしらね」
面白くないから彼は会社を選んだのだ。
「努力はしたつもりだったけれど、足りなかったわよね」
彼に近づく努力を気づけば怠っていたのだ。
だから、リディア・ベラミーがあれだけ輝いて見えるのかもしれない。彼の隣に居るのが相応しいのは彼女だとすら思ってしまう。
「何で......追いかけてこないのよ」
顔を覆ってその場に崩れた。
追いかけてきてくれるのを待っていた自分が居た。勘づいて追いかけてきてくれるものだと思ってしまった。
期待をして、それが叶わないことほど残酷なものはなかった。心は既に再起不能だった。
エレベーターが、地上に着いたらしい。扉が開くと、仮施設が彼女を出迎えてくれる。
「......馬鹿」
*****
ブライスが階段で地上へと登りきったのはベティが施設を出てから三分後のことだった。過去最高に上がった息で膝に手を付き、開ききったエレベーターの扉を見て、その場に座り込む。
「......」
彼女の残り香。いつもつけていた香水の香りがする。
『今日は何かしら』
思えばいつもこんな質問を投げて自分を困らせていた。質問を重ねる度に香水について詳しくなっていった自分は今なら何をつけられても答えられる自信があった。
今日の香水は、
「......カルダモンだな」
つんとする香りが特徴のものだった。彼女の心に自分は棘を立ててしまった。恐らく、何本も、何回も。謝ったところでもう遅い。本人はもう居ないのだから。
白衣の袖で垂れる汗を拭う。そして、ブライスはエレベーターに乗った。彼女の残り香に包まれて、彼は少しの間、開け放たれた外への扉に彼女の気配を感じていた。




