87話
ようやく、腰の据えられる地盤を手に入れた。
城壁に上り、豊かに広がる大地を見て、それを実感する。
流浪の日々も別に悪くはなかった。
ただ、次第に増える配下を養うには、どうしてもこういった地盤が必要だったのだ。
「殿、このようなところに居られたのですか。あまり急に、一人でどこかに出かけるのはお止め下され」
「この俺を心配するのは、先生、貴方くらいなものだ」
城壁に一人腰を掛けていたのは呂布であった。
そして、そんな呂布に苦言を呈しているのは、元々、曹操の参謀として働いていた陳宮である。
袁紹の手が伸びる并州から李粛と共に離れ、流浪を続けていた呂布を救ったのは、この陳宮だった。
ちょうどその頃、曹操は徐州に侵攻し、父の復讐を叫び「徐州大虐殺」を繰り広げていた。
曹操の本拠を守る、盟友の張邈はこれを憂慮した。
親友が、その怒りで目が曇り、董卓を超える暴君へ変貌しようとしている。
張邈はそれが恐ろしく、参謀である陳宮へ相談した。
正義感が厚く、戦乱の世に向かない程、優しい心を持った張邈に、陳宮は一計を案じる。
これなら間違いなく、曹操の虐殺行為を止めることが出来る、と。
裏切るのです。
この兗州の地を、奪いましょう。
陳宮は張邈と異なり、正義感は薄かった。
それよりもこの乱世を、自らの手腕で治めてみせたいと思う野心が強かった。
そして、己の才を活かすには、曹操は完璧すぎた。
自分の力など必要としていないだろう、と思わせるくらいには。
そこで呂布は、陳宮と張邈に持ち上げられ、兗州の地を奪った。
結局、飢饉が重なり、戦の最中で張邈も死に、曹操に兗州は奪い返された。
ただ、曹操の退いた徐州の地を、こうして幸運にも収めることが出来たのだ。
「さて、先生、俺はこれからどうすべきだ。貴方の言う通り、劉備は追い出した。これで徐州は全て、この手に落ちた」
「袁術と手を結び、曹操に抗するのです。袁紹はこれ以上の曹操の飛躍を望まないでしょうから、現在、曹操は実質的に孤立状態。今のうちに叩くべきです」
「あくまで、曹操が敵か。まぁ、そうだな」
何か言おうとして、呂布は口を閉じる。
曹操と結べば、袁紹も袁術も敵ではない。
そう言いたかったが、曹操と自軍はあまりにも因縁が深い。
到底無理な話だった。
「なぁ、先生。袁術と劉備、味方であれば、どちらが心強いか?」
「不思議な事を申される。兵力や名声を見て、その差は歴然です。傭兵集団の劉備に、何が出来ましょう」
「そうか……まぁ、俺は戦の事しか分からん。ただ、純粋に戦の事を考えれば、俺は劉備の方が心強いと思う。あとは、そうだな、無上将軍だな。ははっ」
戦乱の臭いは、まだ消えていない。
兗州の方角を眺め、呂布は来たるべき戦に血潮を熱くした。
☆
「殿、お呼びでしょうか」
「おぉ、来たか……って、相変わらず酒臭いな」
「酒毒が体に入ってないと、落ち着かないのです」
澄ました端正な顔立ちで、酒を煽るのは若き男であった。
ただその瞳は、見るもの全てを切り裂くような、鋭利すぎる程の才気が迸る。
この青年を正面から笑って見据えることが出来るのは、天下広しといえど、この曹操くらいなものであろう。
「珍しいですな、私だけをお呼びになるのは」
「荀彧には相談できない事だ、といえば、お前も察しが付くだろう。郭嘉よ」
「あぁ、漢室に関しての事ですか」
曹操は頷いて書簡を一枚、青年の、郭嘉の方へと差し出した。
「先日、荀彧宛に届いた書簡だ。差出人は、荀攸」
「荀彧殿の甥ですっけ? そして、あの無上将軍の懐刀の一人」
「荀彧は身内からの書簡という事で疑われないようにと、中身を読まずに、俺に差し出して来た」
郭嘉は曹操の話を聞き流しながら、書簡にあらかた目を通す。
普段の素行こそ横柄で問題は多いが、目くじらを立てる曹操でもなかった。
それどころか、荀彧の跡を継げるのは郭嘉しかいないとして、軍師として最も重用している程だ。
「まぁ、色々回りくどい話が書いてありますが、要するに、同盟の誘いですね。朝廷の立場なのだから、同盟と言わず、勅命という形にすればいいのに」
「自らの勢力を冷静に比較し、その権威が群雄には意味をなさないと知っているのだろう」
「正直、ここまで自力で立て直すとは思ってませんでしたね。董卓死後、どう考えても誰かの庇護下に収まらないと漢室は消えるとばかり」
「これを『英雄』の為す業と見るか、『馬鹿』が博打に勝っただけと見るか、それが分かるにはまだかかるだろう」
「それで、殿はどうするのですか?」
「決めかねている。今の俺は四方を敵に囲まれている。袁紹、袁術、呂布、劉表。さらに敵を増やすのは、あまり得策ではない」
「別に今の群雄が束になろうと、殿は勝てると思いますよ、私は。まぁ、その時は群雄も殿もこの中華ごと潰れ、もう数百年は乱世でしょうな」
「怖いことを言うなぁ」
郭嘉は書簡を返し、そのボサボサの頭を掻いた。
「結んで益少なし、むしろ危険が多い。断るべき。ここで結べば、新王朝樹立を目論む袁紹に攻める口実を与える様なもの。せめて呂布との決着がつくまでは、漢室には関わるべきでない」
曹操もその言葉に頷く。
すると、部屋の外からガシャガシャと、鎧が音を立てて近づいてくるのが分かった。
「典韋か。どうした」
「あ、いや、その……ご報告があるのですが、何と言うか」
「はっきりと申せ。別に郭嘉は気にするな」
「で、では……裏門より、無上将軍、劉協皇太子殿下と名乗る者が、非公式に面会を求めております。従者は、中軍師の荀攸。荀彧様が間違いないと、殿の判断を仰ぎたく」
「「────は?」」
曹操も郭嘉も、同じ様に口を大きく開けて、間の抜けた声を出した。




