66話
華佗は薬箱を閉じ、劉協の背中をしげしげと眺める。
「ふむ、傷も化膿せずに済んどる。あとは骨じゃな。こればかりは安静にして、くっつくのを待つしかあるまい」
「どれくらいかかるんだ?」
「肋骨は幸い、ヒビだけで折れてない。まぁ、右肩は砕けとるが、上手く受け身を取ったな、綺麗に折れとる」
「なんだそれ、綺麗に折れるって」
「肋骨は、まぁ、一月。肩は二月じゃな。体力も衰弱しとるし、こればかりはよく食って、よく寝るしかあるまい」
「長いなぁ……」
「阿呆。これでも短いわ。死にかけとるんだぞ? それが二月安静にするだけで完治など、聞いたこともない」
コイツ、皇太子である俺に、阿呆って言ったな? 不敬罪ぞ?
まぁ、そんなこと言っても何にもならない相手だってのはよく分かってるんだけども。
「まぁ、先生。馬鹿は風邪ひかないといいますし、このくらいの馬鹿になると怪我の治りも早いんですよ」
はーい、蔡文姫も不敬罪ー!!
「それもそうじゃな」
「そこで納得したら医学の敗北なのですが? 華佗さん?」
「今日の治療はとりあえずここまでじゃ。夜にまた薬が切れるじゃろうから、眠りやすくなるこの漢方を湯で飲め」
「うーい」
「あと、まだ戦や軍事の話をするでないぞ。配下を入れてもならん。お前はそれで体が熱くなり過ぎて、治りが遅くなるじゃろ」
「ッ……分かった分かった!」
「蔡琰殿、よろしく頼みます」
「承知しました」
華佗はきっちりと道具を箱に詰め、そのまま寝室を出ていった。
日の光も強い真昼。
蔡文姫は機嫌が良さそうに、さらさらと竹簡に何かを書き記している。
恐らく漢方の処方量や調合の仕方などを細かくまとめているのだ。
そんなに勉強が好きなのかしらん? 俺には全く理解できない趣味だな、なんて。
「なぁ、お前は一度見聞きしたことは決して忘れないんだろ? なんで書き残す必要があるんだ?」
「それでは、私だけが知るばかりじゃないですか。書き記す事でそれは人に伝わり、歴史に残ります。人に伝えてこその学問です」
「ふーん」
「陛下は……いや、今は殿下ですね。殿下は体で覚えるものばかりを好みますから、まぁ、この学問は嫌いでしょう?」
「苦手だなぁ。考えるよりも先に体が動く」
「だからこそ、私は学問を積まないといけません。そうして、殿下のお役に立ちたいのです」
怠けきったこの体を起こす。
肩や胸は痛み、立ち眩みも酷いが、歩けない事は無かった。
「どうしたのですか? 厠ですか?」
俺を支えようと、蔡文姫がパタパタと駆け寄ってくる。
その小さく細い腕を左手で握り、引き寄せた。
細い腰を抱き止める。
蔡文姫は動揺しながらも、俺から離れようとはしなかった。
「で、殿下?」
不思議だ。いつもの蔡文姫なのに。
なのにどうしてか、いつもと違うように見える。
目を合わせようとすると、その意志の強そうな大きな瞳は、慌てて目線を逸らした。
顔が、面白いように赤く染まっていく。
「不思議なもんだな。何故か、お前が綺麗に見える。どうしてだろうな」
「な、な、な……っ!?」
「嘘じゃない。本当に、綺麗だ」
髪を撫でる。今度はちゃんと感触があった。
さらさらとした手触りで、その長い髪は水の様に靡く。
蔡文姫はその小さな手を、胸の前でキュッと固めて、一つ一つ、言葉を確かめるように呟く。
「で、殿下が戦に行くと仰られたとき、二度と、会えなくなると思いました。傷ついて運び込まれた、血塗れの殿下を目にしたとき、私は一晩中泣いているだけでした……もうあのような日々は嫌なのです。女であろうと、殿下と共に戦いたい」
「生意気を言うな。女が戦いに出るのは、男が戦うのとは訳が違う。まぁ、でも、嬉しくない訳ではない」
「殿下。私は、殿下を……」
蔡文姫は顔を上げ、瞳を閉じる。
まるで何かを待つように、キュッと強く、目を閉じていた。
あぁ、これは、いつもの蔡文姫だ。
意地っ張りで、子供っぽい、いつもの。
なんだかちょっと面白くなって、その鼻を人差し指で押し上げてみた。
「ふ、ふぐぅ!?」
「ハハハッ! やっと、いつもの蔡文姫が見れた! 急に色気づいたことするから、子供っぽくなるのさ。キスがしたいならもうちょっとその胸を大きくイッテエエエェ!?」
思いっきりスネを蹴られました。
顔は茹蛸のように赤く、目は完全に、人を殺す色をしてる。
え、マジで殺す? 死んじゃうやつ?
「ご、ごめんて、ちょっと意地悪したくなっただけやん? あの、その棍棒は薬草を調合する為の物でね? マジで、オイラ怪我人だぜ?」
「フーッ、フーッ」
「もう言葉通じひんやん。た、助けて!!」
「ぶっ殺す!!!!」
☆
「あ、あの殿下」
「ふぁい、なんでひょうか。華佗へんへい」
「どうしてそのように顔がボコボコになってるのですかな?」
「聞かないで、くだひゃい」
「あと、蔡琰殿は、なんであんなに、虫の居所が……」
「もっと聞かないでくだひゃい」
黙々と、薬草を叩き潰す蔡文姫。
何かの骨でも砕いてんじゃねぇの? って勢いです。
「あの、蔡琰殿? 殿下の顔のアレなのですが、軟膏でも、出しておきましょうか?」
「いえ、お気になさらず。それよりも先生? 馬鹿が治る薬はありますか? なんならあの馬鹿頭を開いて、見て下さいませんか?」
「ひぃ」
「こらこら、蔡文姫。あまり、へんへいを困らすんじゃないよ?」
「殿下?」
「ひぃ」
後日、急いで翠幻に取り寄せてもらった高級な「筆」を贈り、土下座をしてようやく許してもらいました。
それまでの日々は、何を食べても味がしませんでした。マジで怖かった。




