61話
この勝負は、勝てるはずの無い勝負。
まぁ、でもそんなのは、今に始まったことじゃない。
所詮は五千円の命を元手に賭けた博打だ。
失うものなんか、何も無い。
赤兎が、駆け出した。
それと同時に、俺も前進を命じる。
作戦なんかは何もない。ただの正面衝突、力比べだ。
先頭が激しくぶつかり、呂布の方天戟に容易く切り裂かれる。
部隊を小さく固めていたとしても、この突撃は止められない。
「俺に続け!」
馬を駆けさせた。
深く切り込んだ騎馬隊の右に回り込み、派手に突撃。
しかし、止まらない。
楔を打ち込もうにも、全く歯が立たない。
激突した歩兵達は皆、弾かれるか、踏みつぶされるか。
呂布はついに、俺の部隊を貫き、再び馬首を翻す。
もう、隊列も意味をなしていない程の崩され様であった。
「小僧! この程度か!?」
こっちは体ボロボロなんだよ、あの馬鹿が。
剣を上げる。
すると部隊が二つに分かれ、中央には俺と、十数の騎馬兵のみ。
それは、道が出来たような、滅茶苦茶な隊形である。
間には何もない。呂布と俺が向かい合う、奇妙な戦場。
「確かに、狭い道を疑似的に作れば、兵の数的優位は関係ない。だがそれは、あんまり俺を舐めすぎてないか?」
「皇帝の俺が直々に、アンタを相手してやるって言ってんだよ」
「良いだろう。その安い挑発に乗ってやる」
呂布は声を上げ、直線で突っ込んでくる。
そうだよな、お前も、俺も。
売られた喧嘩は、全部買わないと男が廃る。
俺は思い切り手綱を引き、呂布から逃げるように駆け出した。
全力で駆ける。相手は、赤兎だ。それでも、呂布に背を向け続ける。
「なっ……逃げるのか!?」
雄々しき声が、けたたましい馬蹄が、背後から恐ろしい速さで近づいてくる。
姿が見えないからこそ、呂布の像が頭の中でどんどん大きくなっていく。
どうあがいても勝てないのではないか。
まるで、人間が素手で、虎に挑むようなものだ。
「小僧!!」
真後ろまで迫る。
瞬時に、剣を上げた。
道を開いていた部隊が一気に中央へ突進し、道を閉じる。
呂布の後方を駆けていた騎馬隊は、一瞬にして呑み込まれてしまった。
「なっ……」
「赤兎馬は、速すぎるんだよ。だから、後ろが呑まれちまう」
手綱を離し、両手で剣を握る。
思い切り振り被り、馬の背に足を乗せ、蹴り上げた。
あとは、呂布と、俺だけの戦いだ。
「──死ぃねやああああぁあああ!!」
馬上から体が離れ、宙に飛んだ俺の体は、身を翻して、呂布に渾身の力を叩きつけた。
振り返ってみれば、案外、呂布の体はイメージより大きくない。
恐怖心が、勝手に大きくしていただけだ。虎ではない、同じ人間じゃないか。
俺の戦いは、いつもこうだった。
この命を餌にして、全力を叩きこむ。
こんなに喰いつきの良い餌も、中々無い。
「面白いな、小僧」
呂布は、笑った。
俺の様に、無理を押し通す動きではない。
流れるような動作で、一切の無駄がなく、方天戟は俺の剣と克ち合い、この小さな体を跳ね飛ばした。
渾身の力は、容易く弾き返される。
どれ程の距離を飛んだだろうか。
思い切り地面に叩きつけられ、全身が爆発するような、あまりに大きな痛み。
車に跳ねられた時ってきっと、こんな感じなんだろうな。
剣はいつの間にか、手放していた。
もう、動けない。限界をとっくに超えていた。息をするのすら、難しい。
目の前に突き付けられる方天戟。
呂布と、赤兎の目が、俺を見下ろしていた。
旗下の騎馬隊も、遅れて包囲を突破している。
「良い戦だった、やはり俺の見込んだ小僧だ」
何か答えようとしたが、声が出ない。
痛みに喘ぎながら、地に爪を立てるだけ。
「しかし手負いの、幼き龍を屠ったとて、何の意味もない。強くなれ、その名に恥じぬ龍になれ。その時初めて、俺がお前を喰らってやる」
方天戟は俺の鼻先から離れていく。
その間に、あの部隊長の男が俺の体を抱きかかえ、呂布から距離を取る。
「しばらく、会うこともあるまい」
「……次は、俺が、勝つ」
「ハハハッ! 威勢が良いな。だが、次も俺が勝つ。後学の為に見ておけ、本当の戦ってやつを教えてやる」
方天戟は、天高く掲げられた。
すると後方に控えていた数千の騎馬隊は、隊列を組み、武装を整える。
「これより、この呂布は、陛下の勅命に従い、逆賊『董卓』を討つ!!」
兵士は一斉に「董卓を討つ」と連呼し、呂布の意思に応える。
数千の兵士が、まるで一つの生き物のように。想いを、動きを、全てを統一していた。
方天戟は、宮廷に向けられた。
掛け声が止む。
「思う存分暴れろ!!」
赤き数千の騎馬隊は、嵐の様に、二万の近衛軍に突っ込んでいった。
☆
鎧を血に濡らし、呂布は一人、宮廷を歩いた。
広い空間。
いつもはここに、文武百官が並んでいるはずだった。
しかし今は、呂布と、董卓だけがその場に居た。
「土産だ」
呂布は、董旻の首を、董卓の前に放った。
皇帝のみが座る事の許された玉座に、董卓はその巨躯を預け、大きく息を吐く。
「そうか……もう、終わりか」
「いや、まだだ」
方天戟を地面に突き立て、剣を董卓の足元に投げる。
呂布もまた、もう一つの剣を抜いて、構えた。
「戦え、董卓。百戦百勝の、戦で成り上がったアンタと、俺は戦ってみたい」
「理性的ではないな。戦って、何になる」
「俺に勝てば、俺の配下は皆、アンタに忠誠を誓う。そういう風に命令した。それを用いれば、陛下の奪取など容易い」
「狂人め」
董卓は立ち上がり、剣を抜く。
戦いは、一方的であった。
力任せに剣を振るう董卓を、子供を相手にするように、呂布はいなし、弾く。
そこにはもう、軍人の董卓の姿は無かった。暴君、董卓が居るのみである。
呂布は額に血管を浮かせ、その剣を跳ね上げた。
「こんなものか!? 馬鹿にするな!!」
「はぁ、はぁ……言っただろう。終わったのだ。俺は、あのガキに負けた」
方天戟を抜き、それを呂布に向かって振り下ろす。
その刃は、呂布に届く前に、地に落ちた。
董卓の体は、深く、斜めに裂かれ、崩れ落ちる。
「仙華は、最後に、何と言っていた」
「……あぁ、覚えて、無いなぁ」
血走った眼が、光を失う。
死んだ。
それは、はっきりと分かった。
「誰だ」
ふと、奥に気配を感じた。
呂布は剣を抜身のまま、駆け寄る。
玉座の背後。
小さく怯えるのは、透き通った白い肌をした、一人の少女。
「仙華……仙華ではないか!!」
「呂布様」
仙華は、涙を落とす。
呂布は慌てて、剣を放り、震える手を握った。
「生きていたのか」
「董卓様が、生かしてくださいました。呂布様、どうかあの御方を恨まないでください。私は、あれほど寂しく、悲しい方を見たことはありません」
「……どういうことだ?」
「ずっと、一人だったのです。ずっと、ずっと、一人でこの世界に抗ってこられた御方です」
そこでようやく、先ほどの董卓が、あれだけ生きる事を諦めていた理由を感じ取れた。
今までの董卓であれば、どれほど醜くなろうとも、決して死を選ぶ人間ではなかった。
おそらく、この少女が、一人で抗う董卓の心を、溶かしてしまった。
だからこそ、生きている。いや、董卓は殺せなかったのだ。
初めて自分の心に、入り込んできたこの少女を。
「陛下が帰還なされたと聞いた時、笑っておられました。これで、辛く、長い道も終わったと。もう、止める事は出来ませんでした」
「そうか」
「呂布様は、これからどうなされるのですか」
「天下に出てみたい。この広き中華を見て、思うがままに、駆けてみたい。お前にも、付いて来てほしいのだ」
「……私は、このような身です。目も見えず、体も弱い。きっと、足手まといになります」
「どうしても駄目なのか?」
「私は陛下にお願いし、董卓様の墓を見守る一生を送りたく存じます。もう、一人で寂しくならない様に」
「そうか……ここで、別れなのだな」
「はい。されど、いつまでも呂布様の事は、案じ続けたく思っています」
「ならば、これを渡そう」
呂布は鎧を脱ぎ、髪をまとめていた紐を解く。
その細い紐を、今度は仙華の腕に結んだ。
「これで私も、寂しくはありません」
「あぁ、そうだ。俺もお前が想っていてくれるなら、これ以上の喜びは無い。では、またいつか」
剣を拾い、呂布は宮廷を出ていった。
一九二年、董卓は皇帝「劉協」の勅命を受けた呂布により、誅殺された。
天下は依然として、乱世である。




