68.歌の基礎トレーニング③
リリーは基本的に、午前中は声楽の基礎トレーニングをして、午後からは歌唱そのものの練習をするというスケジュールだ。
リリーが晩餐会で歌うのは、クルール王国の伝統的な唱歌である"彩然寶頌”だ。
オーケストラの荘厳な演奏をバックにリリーが歌うその唱歌は、クルール王国の者なら誰でも知っているポピュラーな曲だ。
しかし、11年間ほぼ引きこもりだったリリーはその曲を耳にすることがなかったので、歌詞も音程も全く知らない。
そこで、劇団員でコーラスをしている女性に、歌って聴かせて貰い、音程や抑揚を覚えている真っ最中なのだ。
最初はアズール先生が歌ってみせたのだが、やはり音域が全然違うので、女性の方が良いだろうということになり、他の劇団員さんに手を貸して貰うことになった。
「ヴィオラさん、お忙しいのにすみません…」
予定外の方にまでご迷惑を掛けることになり、リリーは恐縮しきりだ。
「良いのよ、貴女にもらったパンも、りんごの入ったパイも、とっても美味しかったから!」
ヴィオラさんは笑って、
「それに、アズールに恩を売っておけば、この先役に立つことがあるもの」
といたずらっぽく笑った。
ヴィオラさんはアズール先生と同い年らしく、とても仲が良い。
だからか、アズール先生の生徒であるリリーにも、とても親切にしてくれる。
彩然寶頌は、基本的にクルール王国の成り立ちと恵みに感謝する内容の歌だ。
クルール王国の民は、貴族、平民問わず、氏名のどこかに、色が入っている。
貴族は、それに加えてその色の宝石や鉱石が氏名に入っており、それが家紋や家の象徴になっていることが多い。
リリーのミドルネームであるブロンは白、ジェイバーのミドルネームのオラニエはオレンジだ。
アズール先生は生家が分からないので名字は無いようだが、名前のアズールは空色という意味だ。
色には意味があり、その色にまつわる自然の恩恵を受けて、王国は繁栄してきたとされる。
緑の森林や草、火の赤、海や川の青、太陽と月の黄色…
たくさんの色とその恵みを尊び、大切に思うという歌詞の歌だ。
旋律は賛美歌に近く、基本的に高音を中心に構成されていて長い音が多く、オーケストラと相性が良い。
しかし、歌うテーマが結構重いので、リリーみたいな子どもが歌うには少し感情を乗せ難い歌でもあった。
最初にアズール先生が歌ってくれた時は、厳然とした曲だなと思った。
式典で聴くような緊張感があった。
でもヴィオラさんが歌うと、お母さんが歌うような優しさに包まれ、むしろ子守唄みたいに温かい。
歌う人の感情の入れ方によって、こんなに違うものかと、リリーは感心した。
自分で歌うのは、まだ歌詞と音程を覚えるのでイッパイイッパイで、とてもとてもそんな領域の話ではない。
まずは身体の基礎造りをちゃんとすることと、最低限歌詞を覚えて音程を外さないようにしなくては。
リリーは気を引き締めて練習を続けた。




