第88話 ハンナとユーキ
承前
ユーキたちはマーシーとマリアに礼を言って別れ、再びハンナの家に向かった。
クルティスは結局マーシーの家には現れなかった。
訝しく思いながらユーキ達がハンナの家に戻ると、クルティスはまだそこにいた。
ハンナと一緒にしゃがむと大きな体を窮屈そうに縮めて変な仕草をして、変な声を上げながら腕を上下に振ってうろつき回っている。
「クルティス。何をしているんだ?」
「殿下、見てわかりません? 鶏じゃないですか、鶏。コケーッ! コケーッ!」
「クル兄ちゃん、へた―。こうだよ。コケーコゥコッコケーッ!」
「こうか? コケーコッコケーコ!」
「ちがうよ、こうだよ、こう。コケーコッケッコゥコーコケッ!」
ハンナの器用な物真似を見て、クルティスはしゃがんだまま言った。
「だめだ、難しい。ハンナちゃんは何をやっても上手だなー」
「えへへ。あ、このひとがさっき言ってたえらいお兄さん?」
「ああ、そうだ。家鴨の真似が巧いんだぞ」
「ほんとう? ねえ、えらいお兄さん、やってみせて、やってみせて」
「家鴨って、クルティス、お前なあ……」
だが、ハンナは近寄って来て期待に満ちたキラキラした目でこちらを見ている。
さっきの怯えた姿とはまるで違う。
クルティスがどうにかして、安心させたのだろう。
それを無碍にすることなど、出来そうにない。
僕はこれでも王族なんだけど。
王族はどうあるべきとか、威厳とか、ついさっきマーシーさんと話したばっかりなんだけど。
でも、やむを得ない。
ユーキはさらに輝きを増して見上げるハンナの目に負けて、膝を折って蹲り大きく息を吸うと、顔を高く上げながら両手をばたつかせてそこいらを歩き回った。
「グエーグエー。グヮッ! グワッグヮグワッ!」
……王子様の有り得ない姿に、気まずい静寂が場を支配した。
ハンナ以外のその場の全員の顔が真っ赤になった。
アデリーヌは口を両手で必死に押さえて肩を震わせている。
クルティスは同じように体を震わせながら空を見上げ、流れる雲を見送る振りをしている。
村長とハンナの両親は何をどうすることもできず全身を硬直させている。
ユーキは立ち上がれず蹲ったままだ。
だが、ベアトリクスが我慢しきれずに「ブフッ」と噴き出したのをきっかけに、全員が笑い出した。
ユーキも下を向いていたが、すぐに腰を地面に落とし両手を後ろに突いて顔を上げて爆笑の輪に加わった。
笑いが収まる頃、ハンナがユーキに近づいてきた。
「さすがはえらいお兄さんね。まあまあじょうずよ。クル兄ちゃんよりよかったわ」
「有難う。お褒めにあずかり、嬉しいよ」
ユーキは立ち上がり両手の砂を払って苦笑いしながら答える。
そこにクルティスが「殿下、今なら」と耳打ちして来た。
ユーキは頷いてハンナに話しかけた。
「ハンナちゃん、少しお話ししていいかな?」
「うん、いいわよ」
するとクルティスが「殿下、しゃがんでください」とまた囁いて来た。
言われたとおりにしゃがむと、目線の高さがハンナと合った。
なるほど、誰だって見下ろされて物を言われたら怖いよな。
「ハンナちゃん、嫌な話だったらごめんね。この前、よそから来たおじさんに手を引っ張られた時のことだけど」
ハンナの顔が曇る。
やっぱり怖いのだろう。どうやら事実に間違いなさそうだ。
でもここまで言ったら最後まで聞かないと。
ユーキはできる限りの優しい声で尋ねた。
「やっぱり怖かったかい?」
「ううん。すぐにマーシーおじちゃんがたすけてくれたから。ケン兄ちゃんが母ちゃんといっしょににがしてくれたから。さいしょはいたくてこわかったけどだいじょうぶだった。でも……」
「でも?」
「マーシーおじちゃんや母ちゃんがあたしのせいでたたかれて、いたいめにあって。かなしかったの」
ハンナは泣きそうになるのをこらえている。
「そうか。マーシーさんやお母さんが叩かれたのが、痛かったのが嫌だったんだね」
「うん。ねえ、えらいおにいさん、あのひとたち、またくる? あたしのせいで村のみんなに、いたいことする? ごめんなさい。あたし、いい子にするから。みんなにいたいことさせないでください」
こらえきれずに、ハンナが涙を一粒、二粒とこぼし始める。
ああ、思っていたのとは違った。
こんな小さな子でも、自分の事じゃなく、他のみんなを心配して苦しんでいるんだ。
やっぱり、この村は全員が家族なんだ。
ユーキはハンカチでハンナの頬の涙を拭いてあげながら答える。
「来ないよ。もう来ない。ハンナちゃん、良く聞いてね?」
「……うん」
「あの二人、マーシーさんやお母さんに痛いことをしたあの二人は、神様の所へ呼ばれて行ったんだ」
「かみさまのところ?」
「そうだよ。そこで、ハンナちゃんやマーシーさんに酷いことをしたことを、神様にきつくきつく叱られたんだ。ハンナちゃんは良い子でなんにも悪くありません、この村のみんなを叩いたり蹴ったりしてはいけませんって。そして、もう二度と村へ行っちゃいけません、って言われた。だから、もうここへは来ない」
「ほんとうにもうこない?」
「ああ、来ない」
ハンナは周りを見た。
クルティスと目が合うと、クルティスが言った。
「偉いお兄さんの言う事だから、間違いない。もう来ない」
ベアトリクスやアデリーヌも、ハンナと目が合うと優しくうなずいたり、「ええ、大丈夫よ」と言う。
それを聞いているうちに、ハンナの顔が次第次第に明るくなってきた。
ハンナはもう一度ユーキの顔を見ると、両手を胸の前で握り合わせ、幼な児とは思えない真面目な表情になった。
「お兄さんにおねがいがあります。『むらの人たちがあんしんしてくらせるようにしてください』って、こくおうへいかにつたえてください」
「うん。わかったよ。ちゃんと伝える」
ユーキは胸が詰まる思いがしたが、何とかそう答えると、ハンナはまた明るい表情に戻った。
「よかった! わたし、マーシーおじちゃんにおしえてくる!」
そう言うと、マーシーの家の方へと駆けて行った。
ユーキは何とも言えない気持ちでそれを見送った。
ハンナの顔が目に焼き付いて、消えて行かない。
ハンナが僕を最初に見た時の怯え顔。マーシーと母親の事を話した時の泣き顔。安寧を訴えた時の真剣な顔。そして今の安堵した顔。
王都にいる菫や菖蒲の笑顔を思い出してしまう。
彼女達は花街で禿として働いてはいても、幸せそうに笑っていた。
一方で幼いハンナはこの村で、あんな顔をせざるを得ない経験をしている。
もう二度と、そんな思いをさせたくない。させてはならない。
ハンナの姿が見えなくなると、ハンナの両親が口々にユーキに礼を言った。
「申し訳ありません。有難うございました。お蔭さまで、ハンナが元気になりました。私達から離れて一人で外へ出るなんて、あれ以来、初めてです」
「しかも、あんなに明るくなって……本当に、皆様のおかげです」
「私達は大したことはしていません。でも、よかったですね」
「本当に、ありがとうございます」
「ハンナちゃんの願いは村の皆さん全員の願いですよね」
ユーキの問いに、ハンナの父親が慌てて頭を下げながら答えた。
「申し訳ありません。多分、私達が普段、国王陛下がお助け下されば、村がまた安心して暮らせるようになればと、繰り言のように言っているのを聞いて、憶えたんだと思います。どうか失礼をお許しください」
「いえ、村の皆さんの願いとして、陛下にきちんと伝えます」
「! そうしていただければ、どんなに有難いか……何卒、よろしくお願いいたします」
「わかりました。どうかハンナちゃんと三人で、仲良くお暮しください。それでは、私たちはこれで」
ハンナの両親が頭を深く下げて見送る中、ユーキ達は村長宅に向けて立ち去った。
村長は、夕食の支度を急がせるから、と言って先に小走りに帰って行った。
彼らを急かすことにならないよう、ユーキ達は話をしながらゆっくりと帰ることにした。
「なあ、クルティス。どうやってハンナちゃんと仲良くなったんだ?」
「簡単です。ハンナちゃんが一番信頼しているのは両親です。だから、ハンナちゃんは無視して両親の作業を手伝ってました。両親と仲良くしてたら、こいつは安全だと安心するんです。そうしたら、元々は明るくて人懐っこい子らしくて、すぐに向こうからちょっかいを出して来たんですよ。そこで、自分も子供になって一緒に遊ぶんです」
「なるほど……」
「この時に、真剣に遊ぶのがコツですね。遊んでやるという姿勢や、楽しんでる振りじゃあ、だめです。見破られちまいます。むしろ自分の方が楽しいぐらいの勢いで、ですね」
「そうなんだ」
「その後に両親の許しを得て一緒に飴を食えば、もう仲良しです。あ、飴、友達と分けろ、って言って全部あげちゃいました」
「お前らしいなあ。本当に子供好きだよね、お前」
「いいえ。別に子供は好きじゃあありませんが、しょげてるところを見るのが嫌なだけです」
「そう? でも助けられたよ。有難う」
ユーキが礼を言うと、クルティスはきっぱりと首を横に振った。
「いえ、助けてはいません」
「え?」
「誰かを助けることができるのは、そいつより強い者だけです。王族はこの国では一番強い。誰にも助けてもらえない存在です」
「……」
「俺は殿下の御業をお手伝いしているだけです」
「……そうか」
「ユーキ殿下、私も殿下の御業をお手伝いしたく思いますわ」
ベアトリクスが勢い込んでいきなり話に入って来た。
「あのような事をされても、殿下はあの両親やハンナちゃんに対して威厳を失っておられない。それどころか、ハンナちゃんの信頼を勝ち取られましたわ」
「あれはクルティスのお蔭だよ」
「いえ、それだけではないと思います。もしそうなら、陛下への願いは殿下ではなく、クルティスに伝えていたことでしょう。本当にこの人は偉いのだと、ハンナちゃんに自然とそう思わせたものを、殿下はお持ちなのですわ。私もそう思います。スタイリス殿下にどう言われようと、殿下は国民のために常に全力を尽くそうとしておられます。その御業を、どうか私にもお手伝いさせて下さいませ」
「そう言われても、どうすれば良いのかわからないけど」
「こう思っている者がいる、という事をお心に留めていて下されば、それで良いのです。殿下はお一人ではないのです。他にも、私達以外にもいるはずです。殿下をお手伝いしたいと思っている者が」
気が付くと、アデリーヌもクルティスも何度も深く頷いている。
「わかった。そうするよ」
「はい、ぜひそうなさって下さいませ」
「何だか今日は、皆に教えられてばかりだな。もっともっと学ばないと。頑張るよ」
ユーキが答えると、ベアトリクスはニヤッと笑ってから、わざとらしく澄まし顔をして応じた。
「あら、家鴨の真似は今のままで十分お上手でございましたわよ?」
「最初に噴き出したの、ベア姉さんだったよね?! 本っ当に恥ずかしかったんだよ?」
「ブフッ」
今度はアデリーヌが噴き出した。それを切っ掛けにまた全員が笑い出す。
笑い声は一行が村長宅に着くまで止まなかった。
お読みいただき有難うございます。




