第82話 ベアトリクス
前話同日
監察団全体での情報共有の会合の後、ユーキたちは衛兵長の案内を受け、ネルント開拓村に向けて街道を騎行していた。
出発する際には前日も現れた子爵の手先の男女が『途中までお見送りを』とつきまとって来たが、ローゼン大森林への道をユーキが問うと、『衛兵長が御存じです、私共は急な用事を思い出しました』と早足で逃げ帰って行った。
ローゼン大森林では森の外で他の者を待たせて、前日に女主人の店で買った菓子と、宿屋に飾られていたものを譲ってもらった一輪のカーネーションをローゼンに届けた。
ローゼンは『あら、このレープクーヘン、そこの領都では隠れた名物らしいのよ。ウンディーネやみんなと分けるわね』と花と共に喜んでいた。
『まつわりつく蠅を追い払うのに使われるとは、この紅竜ローゼンの魔の森も随分とお安くなったものよね』と笑われたが、その後にはレープクーヘンを次から次へとつまみながら、『……美味しいわね、これ……。まあ友達のためなら仕方ないわね。……独特の風味があるわね……。ああ、剣も少しは役に立ったみたいで嬉しいわ。……味が深いって言うか、香りが深いと言うか……。じゃあね。気を付けて行ってきなさいね。……うんいける……』とこちらを見ずに言っていた。
ユーキはウンディーネ達の口にも入ることを祈っておいた。
今、街道上では衛兵長の馬が少し先行し、ユーキの後ろにはクルティス、ベアトリクス・ディートリッヒ伯爵令嬢、それからベアトリクスの従者のアデリーヌが従っている。いや、後ろに従っているというのは不正確だった。
ベアトリクスは人影を見つけるとユーキに特に断りもせず何度も街道をそれ、草の葉の上にまだ消え残る朝露を散らしながら、畑のあぜ道に勝手に乗り入れて聞き込みに行くので。
ベアトリクスはディートリッヒ伯爵家の次女で、税務局に勤めている。
ユーキの父親ユリアンの実家であるウィルヘルム伯爵家の娘の、つまりユーキの従姉であるスザンネの友人である。
直接会ったことはユーキの記憶では数えられるほどしかない。
今回の監察の壮行パーティーではアンデーレ嬢の魔の手から逃れるのに助け舟を出してもらったが、その前はユーキが税務局で見習いとして実習を受けた時、その前はユーキが菫と再会する前日のパーティーの席で、いずれも挨拶を交わした程度だ。
今回の監察任務で久々の再会を果たすことになった。
ウィルヘルム伯爵とその近しい家の者たちは、王族の外戚が威を揮うという悪評を得ることが無いように、王族との交流は控え目にしている。そのためユーキの家とも交流は多くない。
ベアトリクスに言わせれば、ユーキが幼い頃にはクルティスと二人して、スザンネを『スー姉さん』、ベアトリクスを『ベア姉さん』と呼んでやたらに懐いていたらしいのだが。
ベアトリクスはその仕事柄、書類関係、特に経理に強い。
そこを買われ、またユーキに近しい数少ない貴族ということで今回の監察団に加えられたようだ。
実際に、代官の執務室で見つかった経理諸表の内容が怪しいと言い出したのも彼女だった。
それを受けてユーキが他の随行員たちに、それぞれの領でのおおまかな経費と比べてどう思うかを尋ね、その結果として、過剰経費、水増しの可能性が高いと結論づけたのだった。
今頃は他の随行員たちが、代官の部屋で発見した資料との突き合わせを行っているだろう。
『面倒で地味ですけど大切な調査ですのよ』とベアトリクスは言っていた。
ユーキの記憶にはなかったが、ベアトリクスはどうやら気楽な性格らしい。
今も少し豊かな平民といった風体の服装で、それも動きやすいように男装をしている。付き従うアデリーヌも同様だ。
ベアトリクスは身長は高くもなく細身だが乗馬は普通以上にできるようで、自分の馬を軽く乗りこなして、肩まで伸びたゆるいカールのかかった艶めく栗毛色の髪を揺らしながら、細いあぜ道にも苦も無く乗り入れている。
聞き込みは結構だが、いつのまにか後ろにいないことが度重なるので、ユーキは止む無く注意することにした。
「ディートリッヒ嬢、街道を離れる時には、ひと声掛けていただけませんか。気が付くと後ろにいなくなっておられるのは困ります」
「あら、ユーキ殿下。よそよそしい話し方はお止しになって。昔のように、『ベア姉さん』って呼んでいただいて構いませんわ。クルティスもよ」
「今日は、昨日までとは態度がずいぶん違いますね」
「そりゃあ、よその貴族の目が有ると無いとでは、全然違いますわ。今朝まではもう、肩が凝って肩が凝って」
「無理に畏まっておられたんですね」
「普通にお話し下さい、殿下。ええ、畏まっていましたわ。そりゃあもう、風の精霊の御前のフェアリーのようにね」
「フェアリーなんだ」
「殿下、お嬢様はフェアリーのように可憐で愛らしく、身が軽うございます」
アデリーヌが真剣味の籠った声で口を挟む。
どうやら彼女はベアトリクスに忠愛を捧げている様だ。
ベアトリクスは特に気にした様子もなく、ユーキとの話を続けた。
「ユーキ殿下も、スタイリス殿下、クレベール殿下の前では、構えていらっしゃったでしょう?」
「そりゃ、まあね。僕は今回は見習いの身分だし。……今朝は、止めてくれて有難う」
「どう致しまして。あんな、姿絵屋の看板野郎や陰鬱母乳中毒の言う事、お気になさる必要ございませんわ」
「えーと、それはさすがに酷い不敬では」
「あら、高位の令嬢方は、内輪のお茶会では皆様こう呼んでいらっしゃいますけど。殿下はお言いつけになる気ですか?」
「やっぱり、令嬢方って怖い……いや、僕はそんな事はしないけど」
「でしょう? クルティスもそんな子じゃありませんし」
「衛兵長さんにも聞こえているんじゃないかな」
「王族や貴族の揉め事に巻き込まれかねないようなことはなさらないと思いますわ」
前を見ると、衛兵長は騎間距離を大きく取っている。
大声でなければ聞こえない様に、という配慮だろう。
「折角、気を遣って間を開けて下さっているんですから、勝手に寄り道しないでください。衛兵長さんだけ先に行っちゃうでしょう」
「わかりました。……ちなみに、ユーキ殿下は何と呼ばれているか、御興味ございますか?」
「聞きたいような、聞きたくないような」
「『鰹節少年』」
「鰹節って、遥か東の国からたまに入って来るあの?」
「ええ。噛めば味が出そうだけど」
「けど?」
「堅物すぎて噛める気がしない」
「そんな事だと思った。削ってすらもらえないんだ。もう大人なのに少年とか言われてるし」
「あら、生真面目さからのことですから、お気になさらないで頂きたいですわ。私自身は『いが栗殿下』だと思っておりますけれど」
「それはなぜ?」
「頑張ってトゲトゲしているけれど、中身はしっかり詰まって甘ーい。ただ……」
「ただ?」
「残念、既に虫が食っている」
「……それはどういう」
「あ、また農夫がいる。行って参りまーす」
街道が領都から離れて郊外の農村地帯に入ると、穂の出揃った小麦畑のそちこちで農夫を見かけるたびに、ベアトリクスは素早く馬を走らせて聞き込みに行く。
彼女によると、『待っていても証拠は歩いてこない、だからこちらから歩いて行って探すもの』らしい。
今は街道から少し離れた畑に農夫の姿を見つけて馬を向かわせている。
アデリーヌも慌てずに、ゆったりとベアトリクスに従って街道を離れていく。
ユーキは衛兵長に声を掛けて呼び戻すと、クルティスと三人でベアトリクスたちの後を追った。
ユーキたちが追いつくと、ベアトリクスたちは既に下馬して農夫と親し気に話を始めていた。
「では、この一帯の畑も、去年の秋から新しく小麦を作り始めたのですね」
「ああ、そうだよ、姉ちゃん。村長からの指示でな。村長の言うには、領主様の方針が変更になったと代官の馬鹿野郎が言って来たらしい」
「馬鹿野郎?」
「……詰まんない事言っちまった」
「構いませんから、教えて下さいませんこと? 代官に言ったりはしませんわ」
「本当か?」
「本当です。お願い致します」
ベアトリクスが胸の前で手を組んで上目遣いに甘い声で頼むと、男は目元口元を緩ませた。
「んー、仕方ねえなあ。じゃあ言うけど、村長は断ったんだよ。小麦が合う畑ばっかりじゃないから、収量がどうなるかわからんし、そもそも種麦が足りねえって。そしたら、代官が村長を鞭で打ちやがって。増税した額を払うには、小麦を増やすしかないだろうって、無理やり、『うん』って言わせやがったんだってよ」
「それはひどいことを……」
ベアトリクスが顔を曇らせて同情の言葉を洩らすと、農夫は我が意を得た、と勢いづいた。
「ああ、そうなんだよ。そのせいで、去年の秋にこれまでの五倍の畑に小麦を作付けすることになっちまった。粉にするはずの分を蒔いてもまだ足りやしない。みんな余所から種麦を買う羽目になっちまって、足許を見られて値段は上がる一方さ。これで不作にでもなった日にゃ、大損だ」
「ご心配ですわね」
「今の所、まあまあだけどな。麦類をしばらく植えてなかった畑が多いからな。だが、これから先はどうなるかわかったもんじゃねえ。病害が出ないかずっと見張ってないといけなくて手間がかかるし。大体、中途半端にちまちま小麦を作ったところで、小麦粉の売り先は遠い王都だ。運賃が掛かるから、その分、安くしか商人は引き取ってくれないんだよ。王都の近くでとか、辺境伯様の所のように大量にとかで、仕入れたいのが当たり前だ」
「そうですわね」
「王都での小売値がいくら高くったって、ここでも同じ値段で売れるわけがないんだ。結局、領内での自給自足で終わるんなら、小麦は今までみたいに辺境伯様からの御支援を受けて、他の野菜や根菜やら豆やらを作って、近くの辺境伯様の所に売りに行った方が良いに決まってる。この領は、辺境伯様の領があってこそ成り立つんだ。代官の野郎は馬鹿なんだよ」
「そうなのですか」
「ああ。姉ちゃんも、あの代官には気を付けなよ。見境いがない野郎だから、行き会ったら難癖をつけられかねないからな。姉ちゃんもそっちの娘も、別嬪だし」
「あら、まあ、有難うございます」
「そっちの兄ちゃんたち、しっかり守ってやんなよ……って、衛兵長様がいるんなら大丈夫か。ひょっとしてお偉いさん? 勝手な事を言って申し訳ありません……」
「ああ、お気になさらないで下さい。褒めて下さって嬉しうございます。お話も有難うございました。お手間を取らせて申し訳ありませんでした。私たち、もう参りますね。豊作をお祈り致します」
「お、おう、ありがとよ。気を付けてな」
衛兵長を見て顔を引きつらせていた農夫に礼を言って街道に戻ると、一行は彼から聞いた事について話し始めた。
「また同じでしたね、お嬢様」
「そうね。どこでもほぼ同じ内容ですわね、殿下」
「うん。代官が無理やり小麦の作付け面積を四、五倍に増やさせた。断ったら暴力沙汰」
「さっきの方も申していましたけど、この領の農作物の主要な出荷先となるのは、領外ではクリーゲブルグ辺境伯領の町とか領都とかですわよね。あの領は小麦の一大産地なのに。そこと作物を被らせて、何をなさりたいのか」
「やっぱりさっきの農夫が言っていたように、代官は馬……」
「はい、そこまで。まだ確実な証拠が得られているわけじゃないから。一部の風聞だけで人を評価しちゃいけないよね、ベアトリクス嬢、アデリーヌ」
「『ベア姉さん』って呼んでいただきたいですわ、ユーキ殿下」
「うん、まあ、気が向いたら」
同じ様な聞き込みを繰り返しながら一行は街道を進んだ。
ある程度行くと畑も途切れ、両側は林や荒地が続くようになる。
右手の遠くにはローゼン大森林の黒く静まった姿が見える。
ローゼンたちはレープクーヘンを楽しんでくれているだろうか。
結構な量があったから、ローゼンもきっと他の妖魔様にも分けて一緒に食べているだろうとは思うが。
菓子屋の女主人が、贈る相手に興味深々だったことを思い出すと可笑しくなる。
クルティスの奴まで面白そうにしていたし。
そりゃ、菫さんや椿さん、菖蒲さんたちにも何かお土産を買って帰れれば嬉しいけど。
そう言えば、ローゼンも菫さんを連れて来いとか言ってたっけ。
ユーキの思いは、王都の菫の事にと移っていく。
元気で修行に励んでいるだろうか。風邪などひいていないだろうか。
たまには僕の事を考えてくれているだろうか。
そこまで思いが及んで、ユーキは頭を強く振った。
だめだだめだ、お役目中に何を考えているんだ僕は。集中、集中だ。
きちんと調べて、代官だけでなく子爵にどの程度の責任があるか、はっきりさせないと。
スタイリス殿下に『愚か者』呼ばわりされたことは、時間が経つとどうでも良くなった。
言われた瞬間は頭の中が煮えたぎる思いがしたが、冷静になったら、これまでにも酷い言われ方を何度もしていることを思い出した。
今更、馬鹿馬鹿しい。
だけど、『村人の事などどうでもいい』と言ったのは許せない。
僕たち王族の務めは、出来るだけ多くの、なろうことなら全ての国民を幸せにすることじゃないか。
あれだけは、何としても取り消させたい。
村人と言えば、クリーゲブルグ卿が亡き親友の子息を訴えてまで、他領の村人に力を貸したのはなぜだろうか。
単に自領の利益のためだけとは考え難い。
陛下は子爵と村民の契約を裁定される際に、辺境伯の意志をどう推量しどう反映されるだろうか。
その際にも参考になる情報をきちんと集めなければ。
考えなければならない事は山ほどある。
僕は『愚か者』かも知れないが、その位の事はわかるつもりだ。
でも、僕が『愚か者』呼ばわりされたって知ったら、菫さんはどう思うかな。
悲しい思いをするだろうか、がっかりするだろうか、って、だめだめ、集中だ。
またユーキが頭を振っていると、ベアトリクスが馬を寄せて話し掛けて来た。
「ユーキ殿下、スタイリス殿下の言ったことなど、お気になさらない方がよろしいですわ」
「えっ? 僕、顔に出てた? 口に出してた?」
「口にはされておられませんが、御様子を見ていましたら大体は」
「そう。恥ずかしいな」
俯くユーキに、ベアトリクスは優しい声を掛け続ける。
「あの方は、その場その場で思いつかれたことを、考え無しに口から出してしまわれますので。玉座に少し近いからとみんな追従しているだけで、あの方の話など、実際には誰も信じておりません。気にしたら負けですわ」
「有難う、ベア姉さん」
「嬉しい! やっとそう呼んで下さいましたわね!」
「あ……思わず」
「ますます嬉しいですわ! ほら、クルティスも!」
「俺は別にいいです。ベアトリクス・ディートリッヒ伯爵令嬢様」
「もう……!」
お読みいただき有難うございます。




