第57話 一歩前進
承前
「済まなかったな、ケン。あれは、武術が唯一の趣味なのだ。玉に瑕、と陰口を言う者もいるようだが」
辺境伯が苦笑いしながらアンヌのことを言う。
そうは言っても、止めさせるつもりは無さそうだ。やはり娘は可愛いのだろう。
ケンはアンヌとの手合わせの後、水を被って全身にたっぷりとかいた汗を洗い落とし、与えられた服に着替えた。
今は再び辺境伯の机の前に立っている。
「いえ、達人というのはお嬢様のような方の事を言うのだと思います。良い経験をさせていただき、有難うございました」
「そう言ってくれると、助かる。あれの力が世間に知れるにつれて、相手をしてくれる者が減ってしまってな。あれの兄たちは何とか相手ができるのだが、領内の出先にいることが多いのだ。最近、アンヌは館で居させていてな。儂や妻では甘さが出るし、モリア達では相手にならん。専ら一人で鍛錬しているのだが、やはり寂しそうで、親として可哀そうに思ってしまうのだ。今日は久しぶりにあれの快心の笑顔が見られて、私も嬉しい」
「閣下とお嬢様のお役に立てたのであれば、私も嬉しいです」
辺境伯は、うむ、と頷いた。
「さて、ケン、本題に戻ろう。訴えの件だが、陛下に取り次いでも良いと思う」
「! 有難うございます!」
「但し、いくつか条件がある」
「はい。何でしょうか」
「まず、訴えについて他の町村へは知らせぬ事。ニードの耳に入っては拙いし、他からも訴えが出て事態が複雑になっても困る。お前たちの窮状が目立たなくなる恐れがあるからな」
「はい」
「それから、訴えは税率に絞る事」
「それは困ります。ニードがあのままになっては、解決になりません」
「勘違いするな。ニードをそのまま捨て置け、ということではない」
「どういうことでしょうか」
「陛下は、国民を大切にされる方だ。権力を笠に着て庶民に暴力を揮うなど、もってのほかだ」
「では、なぜ」
「まあ、落ち着いて聞け」
辺境伯は鷹揚に言い、焦って乱れたケンの呼吸が整うのを待って続けた。
「陛下は庶民への暴力を嫌われる。それだけに、税と暴力の二つが訴えられれば、暴力に目が行ってしまう恐れが強い。その結果として、税が不満足な結果に終わっては、困るのではないか?」
「はい。確かに」
「それゆえ、訴えは税に絞る。それを調査していただければ、その過程でニードの乱暴狼藉は自然と明らかになる。陛下は御自身の遣わした者が見出した暴力を捨て置かれるような方ではない。そうすれば、増税の撤回も代官の追放も、おのずとお前たちの思い通りの結果になる、違うか?」
「そうなれば、有難いのですが……」
「そもそも税も代官の任命も、本来は領主の自由裁量だ。それに口出しするのは、陛下といえども、そう気軽にできる簡単な事ではない。それを二つもとなると、一つは認め、一つは却下したくなるものだ。それを避ける方便だ。安心せよ、もしも取り調べの過程で見過ごされそうになった場合は、私が指摘する」
「わかりました。何卒、よろしくお願いいたします」
「うむ」
辺境伯は一つ頷くと、声に気を込めた。
「最後にな、これが一番肝心な所だが。私からも訴え事を添えて出す。この方が、陛下がお取り上げ下さり易くなるので、私としても都合が良いのだが」
「はい」
「絶対に、途中で折れるなよ?」
「……どういうことでしょうか?」
「もし私が訴え出た後に、お前たちが訴えを取り下げると、どうなる?」
「それは」
「私の訴えは宙ぶらりんになる。勝ち負けはともかく私は道化師も同然だ。元の寄子を恨んでいたくせに一人では訴えも出来ぬ器の小さい鼠輩めが、庶民にすら見捨てられおったと、貴族仲間のいい嗤い物になるであろうな」
辺境伯は口の片角を上げて、皮肉に笑いながら言う。
だが、その眼は全く笑っていない。
ケンは姿勢を正して言った。
「そのようなことは、決していたしません」
「本当か? 何があっても、そう言えるか? ニードが大兵を連れて高波のごとく押し寄せ、お前の家族や親しい者の命が危なくなっても、屈せずに踏み止まれるか?」
「我々は、全員命を懸ける覚悟ができております。閣下、お誓いいたします。我々は何があっても、訴えを取り下げる事は致しません」
「誓えるのか?」
「今日は持って来ていませんが、父の剣にかけて、誓わせていただきます」
「その言葉、確と聞いた。違えるなよ」
頷く辺境伯に、ケンはさらに声を励ませて応える。
「はい。閣下、失礼を承知で言わせていただきます」
「言ってみよ」
「一緒に訴えを出していただけるのであれば、閣下も我々の仲間です。仲間を見捨てるようなことなど、我々にはできません」
「ほう。なるほど、私をお前たちの村の仲間に入れてくれるのか。はっはっは」
辺境伯はケンの言葉を聞いて愉快そうに口を開けて大笑した。
髭はあっても、子供のような笑顔だ。
「ケン、失礼が過ぎる」
「アルフ、構わん。むしろ嬉しいぞ。友と呼び合ったことはあっても、仲間と言われたのは生まれて初めてかもしれん。この館を捨てて村に移り住むとするか。いや、ケン、もし訴えに敗れたら、儂も一緒に未開の地に逃散して良いか?」
「閣下、御冗談が過ぎます」
「済まん、済まん」
辺境伯はアルフに諫められて真面目な顔に戻ると、従者を振り返った。
「訴状を準備せよ。私の方は、以前に相談したあれでよい。村の方は、税率の契約の有効性確認だ。出来次第、ケンに署名させよ」
「私で良いのですか?」
「ああ、私が取り次ぐのだ。名目上の訴え人が誰であっても陛下はお気になさらんよ」
「わかりました」
「それと、上都の準備だ。準備が出来たら直ちに出発する。西回りの途中の各領で馬を借りて駆けるので、挨拶状も頼む。急ぎの旅だ、荷も護衛も少なくて良い」
「閣下、西回りは近頃、盗賊の噂がありますが」
「この領で強いのはアンヌだけではない。盗賊が出たら『尚武のクリーゲブルグ』の謂れは伊達ではない所を見せてくれるわ」
「御意」
「解決にはひと月以上かかるだろう。その間は王都に滞在する。使いを出して、次第をグレイとヘンドリックに知らせよ。ここの留守居は妻とアンヌに任せる」
「承りました」
辺境伯は、ケンに向き直った。
「ケン、儂の家族には事情を内密に知らせる。異存は無いな?」
「はい、閣下」
「ここは王都から遠い。急いでも、陛下にお目にかかり監察を送っていただくまで、うまく行って十日はかかるだろう。実際には、二週間、三週間、いや、ひと月かも知れん。その間、しっかり耐えるのだぞ?」
「はい」
「幸か不幸か、ニードが関税や通行料を上げたために、領間の行き来は激減している。儂が王都へ急行したという事もニードの耳には中々入らんだろう。入ったところでそれが自分に関係すると気付くような聡い男とも思えん。だが、決して油断はするな」
「はい。承知しました」
「先代との契約書や、ニードが押し付けていった契約書は保管してあるな?」
「はい」
「監察使以外には、絶対に見せるな」
「はい。心得ております」
「荒事になるかもしれん、その覚悟もできているな?」
「はい。もちろんです」
ケンの返事を聞いた辺境伯は頷いたが、声をさらに強めて言葉を重ねた。
「アルフから聞いたと思うが、兵や武器を貸すわけにはいかん。残念だが、それでは領間の紛争になってしまう。お前たちだけで切り抜けるのだ」
「はい。何があっても、ニードを村には入れません。その準備をしています」
「いいだろう。それと、ニードや子爵の動きの情報が欲しかろう?」
「はい。領都に村人の誰かを滞在させて調べることを考えております」
「ほう、そこまでか。大したものだ。具体的な手筈は?」
「それはまだ。子爵様の邸の目の前に宿屋があります。そこに人を泊めるようにしようかと考えてはいますが」
「それは近すぎる。こういうことには、つかず離れずの距離が重要だ。アルフ、バックスに繋ぎをつけてやれ」
「閣下、よろしいのですか?」
「ああ、仲間のためだ。構わん。それに、そろそろ交代の時期だからな」
「承知しました」
辺境伯はもう一度ケンに向き、今度は笑顔で声を掛けた。
「ケン、場所は王都と村と離れるが、仲間として共に心を合わせて戦おうぞ」
「はい、閣下。共に」
「閣下、失礼ながら、楽しそうですね」
従者が口を挟む。
「ああ、楽しいとも。元より、揉め事を厭うようでは貴族はやっとれん。ましてや暴政に苦しむ仲間を救うためだからな。楽しくないわけがない」
そう言うと、辺境伯は高らかに笑った。
その日の残りは、様々な準備に費やされた。
ケンは館のアルフ用の小部屋に一緒に泊まったが、一日の疲れと、辺境伯への使いが成功した安堵感で、ぐっすりと眠り込んでしまった。
翌日の朝にアルフに起こされた時には、自分がどこにいるのかわからなかったぐらいだった。
準備や手筈を確認した後、ケンは下男の扮装に戻ると、アルフと一緒に荷馬車で館の裏口から出発した。
見上げると、館の窓から辺境伯とアンヌが目立たぬように見送ってくれている。
失礼かもと思ったが、荷台の幌の陰から手を振ってみた。
すると、小さく手を振り返してくれるのが見えて、嬉しかった。
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「年相応の所もあるようですね」
ケンに手を振って見送りながら、アンヌが静かに辺境伯に話し掛けた。
「ああ。背負っているものが無ければ、どこにでもいる若者に過ぎなかったのかもしれん。運命とは、過酷だな」
「その運命に負けそうな者には見えませんでしたが」
「そうだな。だが、彼は耐えて来た事が多過ぎるように思う。さらにその上に戦いを積み重ねて、心が折れねば良いのだが。誰か、うまく荷物を降ろしてやってくれることを祈るよ」
ケンを労わる父親の言葉を聞いて、アンヌは遠慮がちに尋ねた。
「……お父様は大丈夫ですか?」
「何がだ?」
「ピオニル子爵はお父様の亡くなられた親友の御子息。訴訟の相手に回すのは、とてもお辛いのではと」
「そう見えるのか?」
「見えはいたしませんが。契約違反を訴えるのであれば、お父様が既に調べられた証拠だけでも容易に勝てたはず。それをなさらなかったのは、亡き子爵様の御子息を傷つけたくなかったのでは、と。関税などは、多少日数はかかっても、荷を西回りで送れば済むこと。この領はその程度の事では揺らぎませんでしょうから。もし、ケンの事がなければお父様はこのまま……」
「……アンヌ、父の心まで読むものではない」
「申し訳ありません」
「辛くはあるが、それは私情だ。ケンのような若者が仲間を救うために身を投げ出しているというのに、陛下の騎士たる貴族が私情にかまけて民の苦しみを見逃すわけにはいかん。辛くはあるが」
「お察しいたします」
「うむ。だが、訴えると決めたからには、もう負けるわけには行かん。民のため、ここまで来たケンのためにもな」
「失礼いたします。閣下、準備が整いました」
「よかろう。アンヌ、留守を頼む」
「行ってらっしゃいませ、お父様。御武運をお祈りいたします」
「ああ、どちらかと言えば不得手な口戦だがな。行ってくる」
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「ケン」
クリーゲブルグ領の領都の街中を荷馬車でゆっくりと進みながら、アルフは御者席からケンに声を掛けた。
「尋ねていなかったが、来るときには、関所は大丈夫だったのか? 出入りに金を取るようになったじゃないか。金を持って来ていたのか?」
「いいや。びっくりしたよ。でも、いつもあそこにいる気のいい衛兵、ノッポと太っちょの二人が通してくれたんだ」
「ノッポと太っちょ? ああ、ヘクストとディッキーか」
「そんな名前なんだ。金が無いことがわかったら、あの二人、眠ったふりをして通してくれたんだ。なんか間抜けそうだけど、良い人たちだよな」
「おい、間抜けとか言うんじゃない。良い人は確かにそうだけどな」
「え?」
「あの二人、ああ見えて、ヘクストは戦斧、ディッキーは片鎌槍の名手だぞ。普段から持ち歩いてはいないから、知らないだろうけど。これまでに、こっちからそっちに越境した盗賊や人殺しを何人か捕まえて、処理が面倒臭いからとこっそりこっち側に突き返しているんだ。殺さずに捕まえているんだぞ。そっち側では治安が良くて、殆ど手柄を立てる機会がないから知られていないようだが、こちら側の関係者の間では、ちょっとした有名人だ。間違っても、間抜けとか言うんじゃないぞ」
「そうなのか。知らなかった」
「ああ。アンヌお嬢様はあの二人と手合わせしたくて、うずうずしていらっしゃる。機会が無くて叶わないが」
「そんなに強いのか。強い人って、結構いるものなんだな」
「ああ。少々上達したからと言って、慢心するなよ。まあ、あの二人がお嬢様程かどうかはわからないが、多分今のお前では敵わないだろうな。もしも機会があったら、稽古をつけてもらうといい」
「でも今は、敵になるかも知れないんだよな」
「それは心配しなくてもいいと思うぞ。あの二人、理不尽なことは大嫌いな性分だ。ニードに手を貸すとか、あり得ないさ。今度も、いきなり理由もなく増税したり通行料を取ったりするのは筋が通らないから、お前を通してくれたんだと思うぞ」
「よっぽどの事情か、と聞かれたよ」
「そうでなかったら、追い返されただろうな」
「帰りにお礼を言わないと。ああ、でも帰りも居眠りのふりをしている間に通れって言われたんだ」
「ちょっと待ってろ」
アルフはちょうど通り掛かった食料品店の前で荷馬車を停めると御者台から飛び降りて店に入って行ったが、すぐに戻って来た。
「これを二人の膝に置いて通れ。饅頭がヘクスト、背の高い方、煎餅がディッキー、太った方だ。良いか、間違えるなよ」
「何か、印象と逆だな」
「ああ、武器もそうだろう? 間違えると反って怒るから気を付けろ」
「わかったよ。でも、二人とも、珍しい武器だよな。お嬢様もそうだけど」
「そうだな。あの二人以外には使う者がいないから、後輩に教えることもなく埋もれているらしい」
「もったいないな」
「そうかも知れん。でも、憶えておけ。本当にできる奴は、どこかで誰かが評価してくれているものなんだ。目の前の目立たない仕事をきちんとやることは、その誰かの期待に応える事でもあるんだ」
その日はまたアルフ兄の家で泊まった。翌日、今度はブルーノ兄が関所の近くまで馬車で送ってくれた。
別れ際には、背中を叩いて『頑張れ、仲間と一緒に生き抜けよ』と励まされた。
関所を通るとき、ケンに気付いたヘクストとディッキーは慌てて椅子に座り直して居眠りのふりをしてくれた。
饅頭と煎餅の包みを膝の上に置くと、二人とも薄目を開けてそれを見て、ディッキーは手を『有難う』というように上下に、ヘクストは『早く行け』と左右にひょこひょこと動かした。
ケンは吹き出しそうになったが、真面目な顔を繕って早足で通り過ぎ、急いで村へ帰った。
任務は成功した。一歩前進だ。
お読みいただき有難うございました。
ケンへの試練はこれで一段落です。




