第56話 ケン対アンヌ
承前
ケンは何が何だか訳が分からないままに、辺境伯の従僕の一人に案内されて館の訓練場に面した更衣室に導かれ、そこで与えられた稽古着に着替えて防具を着けさせられた。
防具は初めてなので着け方がわからず、案内してくれた者に手伝ってもらった。
着替え終わると模造剣を与えられ、「頑張って下さい」と訓練場に送り出された。
その声に同情と諦めの音色が混ざっていたのは気のせいだろうか。
広い訓練場に、まだアンヌは来ていない。
今のうちに体を動かしてみる。
防具のせいか体が少し重く感じたが、少し走ったり、体を捻ったりしているうちにすぐに慣れた。
今度は模造剣を振ってみる。
感触を確かめながら、二度、三度と素振りを繰り返す。
普段、稽古に使っている木剣と比べると細いが、持ち重みはそれほど変わらない。
柄は握りやすく手に馴染んだ。
父に貰った剣に感じが似ている。
模造とはいえ、さすがに上級貴族が使う物は造りが違う、と感心する。
体が温まって来ると共に、気持ちも落ち着いた。
まあ、何だかよくわからないが、アンヌの稽古の相手をすれば良いのだろう。
この国では女でも武術をする者、衛兵や傭兵になる者も少なくない。
だから不思議ではないのだろうが、アンヌの見た目の雅やかさからは、武術を嗜みそうには見えなかった。
ま、令嬢の酔狂だったとしても俺には関係ない。
適当に相手をしてやれば満足してもらえるだろう。
御機嫌を損ねないように気を付ければそれで良い。
ケンがそう気楽に考えながら待っていると、アンヌがモリアを従えて訓練場に入って来た。
槍に似た長物を携えて歩くその姿を見て驚いた。
背筋を伸ばして顎をひき、前を見据えて音も立てずに近づいてくる。
頭がほとんど上下せず、水の上を滑るように進むその歩容には、一瞬の乱れもない。
冗談じゃない、これはただ者ではない。気を引き締めてかからないと。
アンヌは三間の間をおいてケンに向き合った。
ケンもアンヌに真っ直ぐに向き合う。
互いに礼をした後に、ケンは試みに尋ねてみることにした。
「失礼ですが、その武器は何というのでしょうか?」
「『薙刀』といいます」
アンヌは気息を乱さず、わずかに微笑んで静かに武器の名前を答え、その薙刀を両手で捧げ持つ。
「では、お願いいたします」
そう言うと、薙刀をすっと上げて八相に構えた。
ケンは一歩下がって模造剣を両手持ちにし、真っ直ぐ構えてアンヌを見据えた。
剣を小さく静かに揺り動かしながら、相手の姿をじっくりと上から下まで見回す。
だが何度見ても、隙が見つからない。
迂闊に近づくと瞬殺される、そう告げている直感に素直に従うべきだろうか。
とは言え、待っていて先に動かれ、押し込まれるのも嫌だ。
ゆっくりと一歩、二歩と間合いを詰めていく。
三歩目でアンヌの目が光り、大きく踏み込んで鋭い振りで袈裟懸けに切って来た。
ケンはそれを剣で受けると見せて、刃同士が当たる寸前に大きく後ろに跳んで躱した。
すると、薙刀の起こす太刀風が左から右から、二度起こった。
やはりただ者ではない。右からの返しは見えなかった。
もし初手を剣で受けていたら、返しの石突に右の小手か脇腹を襲われている。
防具が無ければ骨をへし折られているだろう。
どんなに良くても剣を吹き飛ばされていたところだ。
マーシーより強いかも知れない。いや、きっと強い。
背中を冷汗が流れていく。
慌てるな、相手を良く見るんだ。
自分に言い聞かせてアンヌの顔を見ると、眉を上げて驚いた表情をしている。
だが、その八相の構えには揺るぎはない。
このままでは駄目だ、何とか相手を動かして隙を作らせないと。
どんなにすばしっこい銀鹿でも、跳んで着地する瞬間は無防備になる。
黒狼になってそこを狙うんだ。
再び剣を構え、ゆっくりと元の間合いに戻り、さらに前に進む。
再び左から袈裟切りが襲って来たのでまた後ろに跳んで躱し、今度はすっと左半身で前に出る。
今度は石突が右から回って来るのが見えたので剣でがっちり受けておき、再び薙刀が逆回転し始める途端に跳び下がってまた躱した。
得意の手が不発に終わったにもかかわらず、アンヌの眼は喜びに輝き、口がほころび始める。
剣を構えると、今度はアンヌも中段に構える。
そろりそろりと前に出て、薙刀と剣が交わった瞬間に、ケンは切っ先で薙刀を押し下げて前に走った。
アンヌは薙刀を跳ね上げながら己の右に足を運び、回って躱す。
得物同士が離れてケンの態勢が崩れたところに、その右上から石突が回って来る。
ケンはしゃがんで躱し、その瞬間今度は跳び上がる。
その刹那、片膝突いたアンヌの振った刃がケンの足下を通って行った。
ケンは足が地面に着くと同時に振りかぶって跳びつくように打ちかかるが、アンヌが手を交差したまま上げた柄で受け止められる。
慌てて下がるケンの面前を刃がかすめ過ぎ、さらに下から左手一本で突き出された切っ先が伸びて来た。
弾きながら下がる、下がる。
相手の間合いから出たところで止まり、構え直す。
大きな動きが続き、ケンの息は乱れて来た。
しかしアンヌはより一層の笑顔で、既に中段に構えて静かに待っている。
こちらはもう、長くは緊張が保ちそうにないというのに、その余裕は何なのだろうか。
特別に背が高い訳でもない姿が、今は山のごとくに大きく見える。
もし先に動かれてしまえば、そのまま圧し潰されてしまいそうだ。
次で決めねば、もう後は無い。
臍下に気を集めて何とか呼吸を整え、もう一度薙刀の切っ先を押し下げながら前に出る、と見せて、また跳ね上げて来た薙刀から力を込めて剣を横に外すと、勢い余った薙刀が大きく流れてアンヌの頭ががら空きになった。
ここだ! 全力で打ちかかる、決まった、と思った刹那、アンヌの姿が消えた。
いや、こちらの手を読んでいて、右に大きく体を捌かれたのだ。
『あっ』と思って手を止めようとしたが、下からの薙刀の振り上げを受けて、剣を大きく上に弾かれる。
態勢を立て直そうとしたが間に合わず、薙刀の切っ先が突き出されてケンの首の前でピタリと止まった。
「参りました」
降参を告げるケンの声を聞いて、アンヌは破顔した。
まるで大輪の芍薬が咲いたような笑顔だ。
結局、付け入る隙は無かった。
負けた。だが、悔しくはなかった。
闘ったというより、何かを教わったように思えた。
そもそも、闘いにならないほどアンヌは強かった。
上には上がいる、奥には奥がある。
もっともっと深く考えて、先を行く相手のその先を行かねばならないのだ。
今は負けたけれど、この人に手合わせで勝てる日は来ないかもしれないけれど、これで良かったのだろう。
「あなた、お強いわ。よろしければ、もう一手!」
アンヌの声がはしゃいでいる。
「いえ、全く敵わないことが良くわかりました。お許しください」
「えー。そうおっしゃらず。もう一手、一手だけ」
「アンヌ、無理強いは止めなさい。彼は大事な体なのだ。かなり息が切れている様だ。疲れたままに手合わせして、怪我をされては困る」
いつの間に来ていたのか、辺境伯から声がかかった。
「そうなのですか……。でももう一手ぐらい……。でも……とてもとても残念ですが……仕方ありません」
「御指南、有難うございました」
諦め切れなさそうにするアンヌに、ケンは頭を下げて礼を言った。
すると踏ん切りがついたのか、アンヌは明るい声に戻って手合わせを振り返った。
「何か、不思議な剣筋ですわね。守り、特に躱すことを第一にしていたようですけれど」
「剣は傭兵の人に教えていただいています。躱すのを第一にというのは、我流です」
「我流、ですか?」
「はい、お恥ずかしいのですが。自分で考えて」
「どのように? よろしければ教えていただけますこと?」
アンヌが笑顔で尋ねて来る。
我流を人に説明するのは恥ずかしいものだ。ケンは少し躊躇った。
だが、相手は達人だ。自分のような未熟な者を嗤う事はしないだろう。
そう考えて、正直に打ち明けることにした。
「私は黒狼を見るのが好きで」
「狼ですか?」
「はい。黒狼が獲物の銀鹿と闘うのを参考にしています」
「狼と鹿。狼の方がとても強そうに思うのですが」
「ええ、一般にはそう思われがちなのですが、実は大人の雄の黒狼と銀鹿では、銀鹿の方が体格が大きく、鋭い角もあり、一対一でまともに闘えば狼はなかなか勝てないのです」
「そうなのですか」
「それで、狼は負けないように、鹿の突進を受けて自分が傷つかないように、闘うのです。自分が鹿のボスを引き受けている間に、群れの仲間が他の弱い鹿を狩ってくれればそれで良いのです」
「そういうことなのですね」
「自分は相手を躱し、隙があれば狙う。決して無理はしない、自分の命を大切にする。そのような黒狼を見て、先程のような戦い方を考え付きました」
「工夫されたのね。素晴らしいわ」
「有難うございます。ですが、一対一の手合わせでは、息が続かないことが良くわかりました。お嬢様には到底敵いません」
「そうね。動きに、やや無駄が多いかと感じました。常に飛び跳ねるのではなく、足の運びを摺り足にすると、息の保ちが変わると思います。跳ぶのはここ一番のために取って置くことにされては?」
「なるほど」
ケンが真剣に肯くと、アンヌは真顔になった。
「もう一つ。守り、躱しを主体とされるのであれば、焦って先に動くのはどうかな、と思います。先に攻められても、押し込まれそうになっても動じない、心の強さを持たれないと」
「……動じない心の強さ」
「ええ。守りに何より必要なのはそれです。そして相手の攻めの手を狭めていくように守るのです」
「相手の手を狭める、ですか?」
「そうです。ある手を守り切って見せれば、相手が使える手は減ります。守れば守るほどに、次の手が読み易くなるのです」
「確かに……。そうすれば」
「ええ、隙を作らせて狙うのも容易になるでしょう」
「はい。御教授有難うございます。鍛錬します」
ケンがまた頷くのを見て、アンヌは楽しそうな笑顔に戻り、期待に弾んだ声で言った。
「では、次の機会には、もっと楽しませていただけそうですね」
「……」
ケンが答えに窮していると、辺境伯が救いの手を出した。
「その位で良いかな? では、ケンは着替えて私の部屋に戻ってくれ。家の者に案内させる。アンヌ、お前も自分の部屋に戻りなさい」
「はい、お父様。ケン、楽しうございました」
「有難うございました」
アンヌはもう一度にっこりと笑うと、モリアを従えて館の中に去って行った。
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アンヌが部屋に戻り着替えを済ませて一休みしようとした時に、扉を叩く音がした。
モリアが誰何する。
「どなたでしょうか?」
「私だ」
辺境伯の声だ。
アンヌが頷くと、モリアは扉を開けて辺境伯を招き入れた。
「お父様、どうなさいました?」
「疲れているところを済まんが、ちょっと尋ねたいことがあってな。モリア、ちょっと外してくれんか?」
モリアが頭を下げて部屋を出るのを待って、アンヌは改めて尋ねた。
「何でしょうか?」
「ケンのことだ。手合わせして見て、思ったことを聞かせてくれんか」
「ケンですか? 結構な腕前ですね。普段は何をなさっているのか存じませんが、普通の衛兵や傭兵よりは強いでしょう。そう、うちの領兵として前線に立っても、十人並み以上の手柄を挙げそうに思います。剣癖が強く、相手の隙を誘い出すのが巧いので、剣術を普通に習っている者には嫌な相手でしょう。もし修行を続ければ、難剣の使い手になりそうです。ただ……」
「ただ?」
「自分でも言っていましたが、一対一で闘うより、仲間と一緒に、あるいは率いて闘うのが得意なのではないでしょうか」
「なぜそう思った?」
「人を見る力、観察する力、とでもいいましょうか。そういう事が得意なのでは、と。最初に会った時には、私の事を、普通のか弱い女と思っていたようでした。それが訓練場では、向き合う前に私の歩く姿を見ただけで、既に侮りを捨てておりました。一合の後は自分の方が弱いことを悟り、その後はいかにして負けまいか、少ない勝つ可能性を少しでも上げるにはどうすれば良いか、私に何か癖は無いか、勝つ道を一心に探していましたから。負けた後ですら、何か考えているようでした。味方も敵も良く観察し、良く考える人なのでは。恐らくこれからも成長するでしょう」
「そうか。それで助言をしたということか」
「その必要は無かったかも知れませんけれど。単に良兵に留まらず、良い指揮官になるのではと思います。お父様、その気がおありでしたら、ぜひお召し抱えになっては?」
「随分と高い評価だな」
「はい。ぜひ」
この娘は、普段は大人しく、差し出口をするようなこともないが、手合わせをした相手の人物評価には間違いがない。
以前には現ピオニル子爵と立ち合い、プライドがずたずたになるまでその手から剣を跳ね飛ばし続けた。
その後に評価を尋ねた時には、微笑んで何も言わなかった。
つまり、言うべきことも無い人物、ということだ。
今の所、見事に当たっていると思う。
「残念だが、それはできん。ケンは今、自分の村の難事に当たっている。お前にもわかるだろうが、身内を見捨てるようなことはしない男だろう」
「そうでしたか。確かに、顔つきに決意のようなものを感じました。それでは、その村民丸ごとこちらへ引き受けられてしまっては?」
「……何を言いだすんだ。子爵に正面から喧嘩を売れ、というのか」
「いけませんでしょうか」
「いかんも何も。他領の村民を丸ごと引き抜くなど、前代未聞だ。私が子爵に訴えられてしまう」
「気にすることはないようにも思いますが」
「まあ、いざとなったら考えてみよう。お前の意見はわかった。このことはくれぐれも内密にな」
「はい」
「邪魔したな」
お読みいただき、有難うございます。




