第52話 兄と弟
承前
ケンは二人の衛兵の情けを受けてピオニル子爵領側の関所を通過し、クリーゲブルグ辺境伯領側の関所に向かった。
こちら側の衛兵もケンの顔を知っていた。
退屈そうな顔で、早く昼寝に戻りたいのか何も聞かずにすぐに通してくれた。
トリニール町に近づくにつれて人通りは少し増えたが、早足に歩くケンを誰も気に留めない。
何人かケンの顔を知っている者たちもいたが、代官の弟ということで頭を下げて来るだけで、声を掛ける者はいなかった。
こちらの領に入ってからはずっと懸命に歩き続けたため、当初の思惑よりも早く、夕暮前にアルフ兄の代官役場に到着できた。
ケンが着いた時、ちょうど折よくブルーノ兄が家から出て来た。
「ブルーノ兄さん」
声をかけると、ブルーノは驚いてこちらを見た。
「ケンじゃないか。どうしたんだ」
「アルフ兄さんに頼みがあって来たんだ。兄さん、いる?」
「ああ、まだ執務室にいるだろう。行ってみな。俺も一緒の方が良いか?」
「いや」
「じゃあ、俺はブリギッテ義姉さんに知らせるとしよう。お前が来たからには、夕食は御馳走にしてもらわないとな」
ブルーノは笑いながら言ったが、ケンは急いで止めた。
「兄さん、待って。俺が来たことは、できるだけ秘密にして欲しいんだ」
ブルーノはケンの真剣な口調に驚いたが、ケンの眼差しを見て頷いた。
「わかった。それなら、執務室に行くのはまずい。手伝いの連中がいるし、いつ人が訪ねて来るかわからない。一番奥の客間に行ってろ。俺がアルフ兄さんを連れて行ってやる」
「有難う、兄さん。助かる」
客間で椅子に座って待つ間もなく、アルフがブルーノと一緒に入って来た。
「ケン、久し振りだな。元気そうで何よりだ。今日は突然どうした?」
アルフはケンに声を掛けながら椅子に座ると、出て行こうとするブルーノに声をかけた。
「ブルーノ、ちょっと待ってくれ。ケン、内密の話だそうだが、ブルーノにも聞いてもらった方が良い。ある程度事情を知っていた方が、ブルーノにしても秘密を守りやすい。もし極秘だとわかったら、その時点で席を外してもらえばいい」
ケンは迷ったが、頷いた。
それを見てアルフはブルーノにも座るように促してから、笑顔で言った。
「それに、家族の間で隠し事は無しだよな? で、頼み事とは何だ?」
ケンは座り直して姿勢を正し、二人に向いた。
「辺境伯様にお願いがあるんだ。アルフ兄さん、取り次いでもらえないか?」
「閣下に? 事と次第によるな。どんなお願いだ?」
「それは言えない」
「言えない?」
アルフの顔がにわかに曇る。
「それじゃあ、だめだ。取り次げない」
「そこを何とかならない?」
「ならないな。内容も分からずに何でも取り次いでちゃあ、子供の店番も同然だ」
「でも、中身は村の大事な秘密なんだ。お願いだ」
つい声が大きくなり、ケンははっとして周りを見回した。
それを見て、ブルーノが口を挟んだ。
「なあ、ケン、ちょっと深呼吸しろ。大きく、ゆっくりだ」
ケンが落ち着くのを待ってから、ブルーノは続けた。
「ケン、聞いてくれ。お前がわざわざここまで来るぐらいだ、お前やお前の村にとって大事な用件なのは俺にだってわかる。もちろんアルフ兄さんもわかっている。俺たちの弟の一大事だ。それはいいか?」
「ああ」
「だけど、兄さんも代官としての仕事がある。もしもお前の頼みが、この領にとっては困る事だったらどうする? お前にとってお前の村や村の人たちが大切なように、兄さんや俺にとっては、この領と領の人たちが大切なんだ。それもわかるな?」
「……ああ」
「それにそんな話を持ち込んだ兄さんが、代官として失格だと閣下に思われてしまうかも知れない。それはお前も嫌だろ?」
「……ああ」
「だから、俺と兄さんを信じて、話の中身を教えてくれないか? 秘密は守る。約束する」
「でも、とても大切な話で、辺境伯様以外には知らせないっていう段取りなんだ。俺たちの村の話で、こっちの領に迷惑をかけるような話じゃない」
「迷惑がかかるかどうかは、聞いてみなければ俺たちにはわからないだろ?」
「でも、本当にそうなんだ」
苛立たしそうに答えるケンに、今度はアルフが話しかける。
「ケン、わかるぞ。村のみんなで良く話し合って決めた、大事な段取りなんだな」
「うん」
「段取りは大事だ。俺も仕事に取り掛かる前には段取りを良く考えろと閣下に言われているし、俺も、ブルーノや一緒に働いてくれている者たちに同じことを言っている」
「うん」
「でもな、仕事を実際に始めると、考えていた段取り通りに行かないこともしょっちゅうあるんだ。そんな時にいちいち仕事を止めて、段取りを考え直してもう一度最初からやり直すことはできないことが殆どだ。わかるな?」
「うん」
「そんな時には、その場の責任者がどうするか決めないといけないんだ。段取りとは違っても、その場でできる最善の事をする、それをその場で決断するんだ。今のお前がそれだ。最初の段取りでは閣下だけに相談することになっていた。でも、それはできなくなった。ここには村の人は誰もいない。お前だけだ」
アルフは言葉を聞いてしばらく静かにケンを見詰め、自分の言葉がケンの腑に落ちるのを確かめてから続けた。
「責任者はお前だ。お前が決めなきゃいけないんだ。俺たちに打ち明けるか、何もせずに村に引き返すか、他の手をこの場で考えるか。どうする?」
「……」
ここまで言われてもケンは踏ん切りが付かなかった。頭を抱えて考え込んでしまう。
それを見て、アルフはブルーノに頼んだ。
「俺の剣を持って来てくれ。お前のもだ」
「わかった、兄さん。ケン、しばらく待ってろ」
ブルーノが戻ってくるまでアルフはケンに何も言わず、考えるままにしておいた。
ブルーノが二振りの剣を持って戻ってくると立ち上がって自分の剣を受け取り、ケンの前に立つ。
「ケン、そこまで悩むということは、本当に大事な事なんだな。でも、俺たちに話してくれたら、一緒に考える事もできる。閣下にお願いできる事なら、お願いの仕方とかも相談に乗れる。俺たちを信じてくれないか? 秘密を守ることは、この剣に誓おう。閣下からいただいた剣だ。ブルーノ、お前の剣を貸してやってくれ」
「ああ。ほら」
アルフは自分の剣を逆手に持ち、少しだけ引き抜いて前に出した。
「ほら、ケン。お前も」
促されてケンは立ち上がってブルーノから剣を借り、同じように抜く。
するとアルフは刃と刃を打ち合わせ、音を立てて鞘に納めた。
ケンも真似をする。
「これでいい」
「ケン、俺ともやるか?」
アルフの声に、ブルーノがケンに尋ねた。
「いや、いいよ。アルフ兄さん、ブルーノ兄さん、兄弟なのに疑ったようで、ごめん」
「構わない。それほど大事な事なんだろう?」
「ああ。決めた。聞いてくれるかい?」
「もちろんだ」
ケンは二人に事情を話した。
増税の事、契約の事、ハンナの事、そしてマーシーの事。
国王への訴えの取り次ぎを辺境伯に依頼したいこと、そして戦う決意をしたことも話した。
話し終えると、胸のつかえが取れた気がした。
「酷いことをしやがるな」
「ああ全くだ」
ブルーノの呟きにアルフが答え、さらにケンに尋ねた。
「ケン、自分たちで直接王都に訴え出ることは考えたか?」
「ああ。でも、それは止めた方が良いって話になった。訴訟方は子爵の寄親の侯爵の手が回ってるから」
「そうだな。その通りだ。もしそうしていたら、子爵の報復で、今頃大変なことになっていたかもな」
「ああ、アルフ兄さん。俺もそう思う。ケン、もしも閣下が聞き入れて下さらなかったら、あるいは陛下がお取り上げにならなかったらどうするつもりだ?」
「どうもこうもない。戦う決意は変わらない。戦えるだけ戦う。その後はわからないけど、皆で逃げ出すことになるんだろうと思う」
「戦う……そこまで覚悟しているのか」
二人の兄は顔を見合わせた。
アルフが真剣な顔で考え込む中、ブルーノが言い難そうに、探るようにケンに尋ねた。
「ケン、お前だけ戻ってくる考えはないか? お前一人なら、何とかなるぞ」
「ブルーノ兄さん、何を言いだすんだ。俺は村の皆を見捨てるようなことは絶対にできない」
「……そうだろうな。試すような事を言って済まん。アルフ兄さん、どう思う?」
「普通なら領主は、他の領内のいざこざに手は出せないし、出さない。厄介なことになるだけで、何の利益にもならないからな。だがこの件は……」
「例の件にも絡んでくるんじゃないか?」
「例の件?」
「ああ、子爵領がごたごたしているために、うちの領としても困ったことが生じているんだ。流通とか、な」
アルフはケンに答えた後に頷いた。
「いいだろう。ケン、取り次いでやる。閣下に話してみるといい。明日は幸い閣下はお館におられる御予定だ。明日の朝、荷馬車で連れて行ってやる。ブルーノ、留守を頼む」
「わかった。ケン、閣下の所へ行くのは秘密にしたいんだよな?」
「ああ」
「そうだな。確かにそこは大事だ。有難う、ブルーノ。今の子爵や代官、ニードと言ったか? そいつらはまだうちの領に息のかかった者を送り込んだりはしていないが、シェルケン侯爵はわからん。この町は問題ないが、領都では誰かが見張っていると考えた方が良いだろう。お前の顔は領都では知られていないだろうから大丈夫だとは思うが、念には念を入れた方が良いな」
「荷物運びに新しく雇った下男、という態でいいんじゃないか?」
「それでいこう。ブルーノ、準備を頼めるか?」
「ああ、任せてくれ。ケン、荷馬車に作業着を積んでおくから、ここを出発して人目がなくなったらそれに着替えろ。それから荷物は、ちょうど閣下の料理人に納める野菜があるからそれでいいだろう」
「ブルーノ兄さん、ここから着替えて行っちゃ駄目なのか?」
「今日、この町で誰かに見られているかもしれないだろう? 親父の葬式で、お前が俺たちの弟だと知っている住民も多いんだ。それが急にみすぼらしい作業着に着替えていたら、変に思われるかもしれん。ただ弟が来ただけなら大した噂にはならんが、それが怪しい格好をしたとなったら、話は別だ。万が一にも、そちらの領に話が伝わらないようにしたい。そうだろう?」
「ああ」
「もっともそっちの関税のせいで、人も噂も、めっきり行き来が減っちまったんだけどな」
ブルーノは苦笑いをする。
「兄さんたちも、そんなことを色々考えながら仕事をしてるんだ。貴族に仕えるって、大変なんだな」
「まあな。でもまあ、習うより慣れろでなんとかやってるよ」
「迷惑をかけて、ごめん」
「何を言ってるんだ。弟の一大事じゃないか。もし戦うとなったら、命懸けだ。勝算はあるのか?」
「ああ。皆で色々考えて、準備もしている」
「どんな?」
「ブルーノ、それは聞くな。ケン、戦いには手助けはしてやれない。もし他の領から戦いに手出しをしたら、領同士の紛争になりかねない。わかってくれるな?」
ブルーノが何の気なしに発した問いをアルフは急いで打ち消した。
ケンも頷く。それはノーラや村長たちとの話し合いでも決めている。
「ああ、俺たちも、自分たちだけで戦うのが大事だと思ってる。自分たちの問題だし。それに裁きを受ける場合もその方が良い」
「その通りだな。済まん、ケン」
「ううん、いいんだ。ブルーノ兄さんたちが心配してくれてるのはわかってる。でも、自分たちで頑張って、勝つよ」
「その意気だ。それより、閣下に願い出るときの言上の準備はできてるのか?」
「一応、考えては来たんだけど」
「じゃあ、ここで練習しろ。見ててやる」
「うん。やってみるよ、アルフ兄さん」
ケンが立ち上がって練習してきた言上を始めようとする。
アルフもそれを聞こうとしたが、ブルーノが止めた。
「兄さん、その前に今日の仕事や用事を片付けてきた方が良くないか? この部屋に来てから、もうかなり経ってる。みんなそろそろ変に思い出すかもしれない」
「そうだな。そうしよう」
「ケン、お前は腹が減ったろう。お前が来てること、ブリギッテ義姉さんに言ってもいいか? もちろん内緒でだ」
「うん」
「じゃあ、何か作ってここへ運んでもらうようにするから、待ってろ。トイレは、人の目に立たないように注意して行けよ?」
「わかった。有難う」
ブリギッテは栄養があって消化が良い物をと、チーズをたっぷり加えたブリューエを作ってくれた。
ケンは義姉に感謝しながらいただいた後、兄たちに見てもらいながら、言上の練習を何度か繰り返した。
辺境伯とは、父の葬儀で少し話をしただけだ。
先代の子爵とも、数度言葉を掛けてもらっただけで、会話をしたことは無い。
それ以外の貴族などは言うに及ばずだ。
当然貴族相手の言い回しはおぼつかないので最初はつっかえつっかえだったが、アルフ兄のお蔭で結構それらしくなった。
夜までかかってやっと合格点をもらって床に就いたが、眠りに落ちるまで心の中でセリフを繰り返した。
明日は村の命運が変わりかねない大事な日である。
ケンはなかなか寝入ることができなかった。
何とか眠りについた後も、見るのは練習を繰り返す夢だけだった。
お読みいただき、有難うございます。




