最終話 出発
王国歴223年6月後半
王都から勝訴の知らせがもたらされた数日後、ケンは村長に伴われて、ネルント開拓村を出発しようとしていた。
今日出発すれば、領都にはユークリウス殿下が赴任される何日か前に到着できるだろう。
あの殿下のことだ、国王陛下には単に出来事の事実を報告するだけでなく、村の事情やみんなの気持ちも伝えてくれただろうことが容易に想像できる。
歓迎と感謝の意をできるだけ伝えたい、そのために出迎えに参加したい、それが村長とケンそして村人たち全員の思いだった。
それに偵察で世話になった宿屋に、礼と、クリーゲブルグ辺境伯閣下への感謝の意も早くに伝えたい。
辺境伯閣下には、いずれ御予定を頂いたうえで直接お礼に伺わなければならないだろう。
ケンはユークリウス殿下から仕官を誘われた事を、王都から使者が来た翌日の夕食の席で家族に伝えた。
全員が一様に驚いていたが、その誘いを受けて領都に出たいとケンが言うと、まず義母が泣き出してしまった。
村長がニードに鞭打たれた時も、自分が縫った革鎧を着てケンが戦いに向かった夜明けも気丈に振る舞っていた女性が、この家族の中での初めての別れを告げられて堪え切れなくなったのだ。
村長はそれを優しい声で叱り、とてもめでたい事なのだ、ケンの将来が開けたのだから泣くものではない、永遠の別れという訳ではない、領都まではほんの一日ちょっとの距離だからいつでも帰って来られる、会いに行けるのだと諭した。
その後にケンに、「良かったな、おめでとう」と言ったが、本人も目から涙をこぼしていた。
その後は全員が何も言わずに夕食を済ませた。
義母はその間中、涙を流し続けていた。
レオンは顔を真っ赤にしてずっと黙りこくっていた。
ケンが村を離れて領都に行くことは、あっという間に村中に広まった。
会う人会う人がケンを祝い、励まし、喜んだ。
ただ、ハンナちゃんのような子供達だけは、ケンに群がってしがみつき、口々に「ケン兄ちゃん行かないで」と泣き出してしまった。
ケンも親達も、子供達をなだめるのに苦労した。
結局、ケンが一人一人を抱きあげて、これが最後じゃない、また会えると言って何とか泣き止んでもらった。
今日、領都へと出発するために村長とケンが乗ろうとする荷馬車の周りに、村人全員が集まる。
ジーモンやホルストなどの齢の近い仲間達はケンの肩を小突き、叩き、声を掛けてきた。
領都の美女に騙されてしまえと、からかってくる奴もいる。
粉屋のフレースは、これが最後とばかりにケンの背中を平手で叩いて来た。
地味に痛い。
その娘のマリア姉ちゃんは片手で赤ん坊を抱きもう片手でマーシーの片脇を支えて、二人で一緒に村人の輪の外の方にいる。
マーシーはケンと目が合うと右手の親指を立ててニヤッと笑い、左手でぽんぽんと左腰を叩き、さらに服の胸のあたりを掴んで見せた。
ケンも同じ仕草をして見せる。
そのケンの左腰には亡くなった実父にもらった剣が、服の中には例の1リーグ銀貨がぶら下がっている。
ケンが荷馬車の助手席に登ろうとした時、ミシュの「もう、何やってんの。早くしなさいよ」という声がした。
振り返ると、俯いていたレオンがミシュに背中を押されてみんなの輪の前に出て来た。
まだ下を向いていたが、ミシュに肩を思いっ切りひっぱたかれて顔を上げた。
それでも、何も言えない。
この期に及んでも仕方のない奴だなと思いながら、ケンは声を掛ける。
「レオン。義父さんと義母さん、それから村の事を頼む」
「わかってるさ、そんなこと」
「そうだったな」
ケンが苦笑いしながら馬車に向こうとすると、レオンが小さな声を出した。
「ファジアじゃないよな」
「え?」
「ジートラーだよな。ケン・ジートラーとして殿下の所へ行くんだよな。……兄さん」
「レオン?」
驚くケンに、レオンは今度は大声を出した。
「お前は、俺の兄さんだろ? この村みんなの兄さんだろ? だから、この村の村長の息子として、領都に、殿下の所へ行くんだろ? そうだよな? 兄さん! そうだよな、みんな!」
「おう!」「いいぞ、レオン!」「そうだそうだ!」
取り囲んだ全員が歓声を上げる。
ポカンと口を開いて呆気にとられるケンを置いて、レオンは顔を髪の毛と同じ真っ赤にして村人を掻き分けて走って行ってしまった。
ミシュが溜息をついて、ケンに声を掛ける。
「もう、レオンったら。『兄さん、ごめん』って言いたかったくせに」
「……」
「ケンも、しっかりしなさいよ!」
ミシュの大声で我に返ったケンに、さらにミシュは尋ねた。
「レオンに何か伝える?」
「いや、いいよ。でも……」
「でも?」
「ミシュ、俺の弟を頼む」
ぶっきら棒を装っていても、震えるケンの言葉を聞いてミシュが相好を崩した。
「わかったわ。兄さん、元気でね」
そう言うとミシュもレオンが去った方に走って行った。
それを見送って、ケンは荷馬車に乗り込んだ。
村長は既に御者席で準備を終えている。
周りにひと声掛けると輓き馬に鞭を入れて荷馬車は動き出した。
村人達が手を振り、口々にケンに別れを叫ぶ。
ケンも手を振り返す。
荷馬車が前に進み、村人達の間を通り抜けて行く。
ケンは後ろを見るが、みんなの姿はすぐに滲んでしまった。
服の袖で涙を何度も拭いて、思いきり手を振る。
村の家々が、畑が、樹々が背後に過ぎ去っていく。
昨日までは当たり前だった風景が、今日は儚く美しく愛おしく見える。
その風景に溶け込んで小さくなっていく人々に、胸が張り裂けそうになる。
みんなの姿が見えなくなる最後の時に、ケンは声を限りに叫んだ。
「みんな元気で! いつまでも!」
その声は風に乗り、周囲の山に木霊して、草原を流れて行った。
風の音と共に、流れて行った。
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ユーキがピオニル領へ出発する日になった。
今日までいろいろと準備をした。
その中で、ベアトリクスがアデリーヌを連れて、前触れもなくいきなり押し掛けて来た時は驚いた。
「ユーキ殿下、私をお雇い下さいませ。もう税務局の方は辞表を出して参りましたから、否やは聞きませんことよ」
もう戻る職場がない、実家からも了承どころか後押しを受けていると言われてはどうしようもなく、仕えてもらうことにした。
能力は既に監察団で知っているのでこちらは文句は無かったが、税務局長に『有能な者をいきなり引き抜かれては、国政に差し障りが生じかねません。残された者の業務が増え、恨まれますぞ』と苦情を述べられたのには参った。
他にも何人かの下級貴族の子弟が仕えたいと言って来た所までは良かったが、さらにもう一人、監察の際にはスタイリス王子の取り巻きだった者が、側近く仕えたいと書簡を寄こしたのには驚きを通り越して呆れてしまった。
あまりにあからさまな掌返しはユーキとしてもあざといとの気が差すし、スタイリス王子の機嫌を損ねては本人のためにも良くない。
自重するように答えたところ、それでもいずれは御膝下に参じたい、何かあればどんな事でも命じていただきたいと返事が来た。
強く断るのも角が立つので、そのまま放置しておくことにした。
また王都の子爵邸も引き継ぐことになったが、こちらの管理は両親が代理で引き受けてくれることになった。
ユーキが様子を見に行った時、ペルシュウィンの側女だったという女はまだいた。
ユーキにすり寄って色目を使おうとしたが、全く靡かぬと見るやさっさと出て行ってしまった。
無理だろうと端から半分諦めて荷物を既にまとめていた様で、あっという間に消え去った。
ペルシュウィンから巻き上げた品々は既にどこかへ送っていたらしい。
他にニードが引き込んだ者は全て既に去っており、残った古くから子爵家にいた者達は、全員引き続き雇うことにした。
ヴィオラは王城で部屋を貰うことになった。
小さな部屋であるが、王妃やテレーゼ・コルネリア侍女取締の私室にほど近い。
実は中で細い隠し通路を介して王妃の部屋につながっている、本来なら側近中の側近が使う特別な部屋である。
何かあったら相談に、あるいは甘えに来るようにとの、近しい者が誰もいないヴィオラへの配慮である。
そして王妃の身の回りの世話を手伝いながら、テレーゼのもとで主に貴族の礼儀作法や王族の慣習について修行することになった。
また、夜には書物で領主夫人の務めについても学ぶそうだ。
出発の日の朝、ユーキは実家で両親やその家臣に挨拶して激励を受けた後、国王に報告をするためにクルティスと二人だけで王城にやって来た。
クーツやヘレナやアンジェラ、そしてベアトリクスといった供の者たちは荷物を積んだ馬車の隊列とともに、王城の外で待機している。
謁見室で自分の前に立つユーキの姿を見て、国王は満足そうに顎を撫でた。
この短期間のうちに身長が大きく伸びる筈もないが、以前よりも背は高く、胸はずっと広く見える。
「ユークリウス、いよいよだな。気分はどうだ?」
「はい。今日までの学びが試されるかと思うと、身の震える思いです」
「武者震いか。まあ、固くなるな。肩に力が入ると長持ちせん。失敗も学びの内と考える事だ」
「有難うございます。頂いたこの機会を活かして、成長したいと考えています」
「うむ、それで良い。補佐の件だが、本人、当主から概ね了承したとの書簡が届いた。一度儂の所へ来させた後に速やかにピオニル領に向かわせる」
「ありがとうございます」
「何事もよく相談してな。但し、自主性は失うな。良いか、領主はあくまでお前なのだ。責任はお前にある。それを忘れんようにな」
「はい。領民のため、力を尽くします」
「うむ。くれぐれも頼んだぞ」
「はい。お任せください」
堂々と胸を張るユーキの姿に、国王は目を細めて首を縦に数度振った。
「それで、この後はどうするのだ?」
「はい、メリエンネ殿下に挨拶をしてから出発します」
「メリエンネもかなり良くなってきたようだな。昨日に王妃が見舞いに行ったが、随分と明るくなったようだ。そのうち儂にも頼みごとをしに来たいらしい。元気になったのはお前のお蔭だと言っておったそうだぞ。ユークリウス、礼を言うぞ」
「いえ、私は何もしておりません」
「そうか、まあいい。それで、ヴィオラとは暫しの別れは済ませたのか?」
「はい、一応、先日両親に紹介した後に王城まで送って来た際に済ませました。永の別れではありませんから、簡単に。それに、忙しくはありましょうが、可能な限り時間を見つけて手紙も書こうと思います。王都にも全く戻ってこないわけではありませんし」
「そうだな。あれは良い娘だ。ヴィオラが淹れた茶を飲んだが、我が娘の淹れた茶があれほど美味いとは知らんかった。王妃もすっかり気に入って、奥に戻ったら側から離さんようだ。良いか、あまり堅苦しく考えず、どんどんこちらへ顔を出すようにせよ。こちらから領政状況の報告のために上都を命じることもあるだろう。順調であれば、社交の季節はこちらで過ごしても良い。王城にはヴィオラの知り合いはおらん。できるだけ、気に掛けてやれ」
「その様に致します」
「ああ、出発前に、テレーゼの所へ顔を出してくれ。何か王妃からの言付けがあるそうだ」
「はい、承知しました」
「うむ、では、体に気を付けて行け。下がって良い」
「はい。陛下も御健勝でお過ごしください。行って参ります」
「ユークリウス様、いよいよですね」
「はい、メリエンネ様。暫しのお別れです。どうかお体にはお気を付けください」
「あなたもね。同志の門出だと思うと、私も我が事のようにどきどきするわ」
「できる限りお手紙を書いて、実際の領政についてお知らせします」
「ありがとう。私も王都の情勢について、気の付いた事をお知らせするわね。でも……」
「でも?」
「ユークリウス様ができる限りお手紙を書くべき相手は私ではありませんよね?」
「メリエンネ様……」
「昨日、王妃様が愛らしい侍女見習を連れてお見舞いに来て下さったの。ヴィオラ・リュークスっておっしゃる御令嬢で、紫色の大きな瞳がとても美しくて惹き込まれるようで。リュークス家として新しく迎えられた御養女ですってね。王妃様、それはそれは自慢げでしたわよ。うふふ」
「えーと、メリエンネ様、実は……」
「はい、ひと目見てピンと来ました。以前仰っていた、『幼き出会いの、紫青玉の瞳の君』ですね。うふふ。御再会、おめでとうございます」
「……有難うございます。実は陛下から婚約の許しを得たのですが、内々の事ですし、恥ずかしくて言いそびれてしまいました」
「だめですわよ、恥ずかしいなんておっしゃっては。素晴らしい方なのでしょう? きちんと自慢して差し上げないと。それがヴィオラ嬢への御褒美なのよ。但し、相手を十分に選んでね」
「はい。いつもお教え有難うございます」
「陛下が新たに御養女を迎えられたことは既に貴族の間で噂になっておりましょう。ユークリウス様とのこともいずれは広まるでしょうね」
「ええ、私は覚悟しておりますが、ヴィオラ嬢がどう言われるか少し心配です」
「そうですわよね。ヴィオラ嬢はお城にお知り合いがおられないのでしょう? 御不安ですわよね。……そう、王妃様のお許しを得られたら、ヴィオラ嬢をお茶にお招きしていいかしら」
「よろしいのですか?」
「ええ。ユークリウス様と御一緒したように、一緒に何かを学びながら、少しはお慰めできると思います。私の学び仲間がいなくならずに済み、楽しみができますし」
「お心遣い、有難うございます。では甘えさせていただきます。何卒、ヴィオラ嬢をよろしくお願いいたします」
「うふふ。大切な同志へのはなむけですわ。お任せください。どうか安心していってらっしゃいませ。お体にはお気を付けて」
「はい、メリエンネ様もお体をお大切になさって下さい。では、失礼いたします」
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「シェルケン閣下、ユークリウス殿下が姫様の部屋を出られました」
「ふん、これで殿下とは暫しのお別れか。お蔭で王女も使い物になるぐらいには元気になった。殿下自身は一端の力を見せて、目障りになってきたしな。ちょうどよかろう」
「王女には靡きそうもないと思ったら、陰で色街に女を作っているらしいわね。何が堅物殿下よ、なかなかやるわね」
「ペトラ姉さん、まったくですな。まあ、王都の表舞台から消えることを自分で選ばれるようなお方だ。我々の邪魔にはならんでしょう。取り込みはできんかったが、不確定要素が消えて良かったとしましょう。姉さん、我々の派閥の誰か若い男を王女に娶せるとしますか」
「そうね。そうすれば王女を完全に取り込めるわね。でも、貴方の息子でなくて良いの?」
「あやつには既に印章局員の娘を娶らせています。離縁させて、折角引き込んだ味方を敵に回すわけには行きますまい」
「そうだったわね。これがうまく行けば、後は時間の問題ね。トーシェ、準備を怠らないようにね」
「わかっていますよ、姉さん。王女もこれまで面倒を見てもらった東宮局の長官には逆らいますまい。まあ、見ていてください」
「お話し中、失礼いたします。閣下、至急のお知らせが」
「ハインツ、何だ?」
「新たに寄子になられた方々から、手切れ状が次々とお家に届いております」
「何? 何故だ! ハインツ!」「どういうことなの!」
「……わかりかねます(ピオニルを見捨てたからに決まっているだろうに……)」
「手切れ状一つとは無礼であろう!」
「使者は、閣下は寛大な方ゆえお許し下さると聞いたと申しております」
「……」
「閣下、今度は大至急のお知らせです」
「今度は何だ!」
「陛下からの書状です。御使者の方のお言葉では、宰相府次官と東宮局長官を当分の間、休職するようにとのことです」
「何? 何故だ! ハインツ!」「どういうことなの!」
「御使者の言われるには、腰痛治療に専念せよとの御配慮のようです(御前に出ないからに決まっているだろうに……)」
「どうするのよ、トーシェ! 何もかも台無しじゃない! 貴方のせいよ!」
「くそっ、儂はあきらめんぞ……」
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メリエンネの部屋から戻りテレーゼ・コルネリア侍女取締の所へ向かう途中、ユーキはクレベール王子に呼び止められた。
「ユークリウス殿下、急いでいるだろう所申し訳ないが、少し良いか」
「はい、クレベール殿下」
「今日出発だと聞いた」
「はい。この後に少し用を済ませたら、出ます」
「そうか。良かったら、これを持って行って欲しい」
クレベールは袋入りの荷物をユーキに渡した。
「南部地方の農作物に関する書物だ。何かの役に立つかも知れんと思ってな。私は王都にいるが、何かできること、手伝えることがあったら遠慮なく声を掛けてくれ」
「有難うございます。書物も、是非とも役立たせていただきます」
「スタイリス殿下と共に来られれば良かったのだが、生憎と監察成功の祝賀会の準備が忙しいようでな」
「祝賀会? 帰都された早々に既に開かれたのでは?」
「ああ、今回で三回目だ」
苦笑いしながら言うクレベール王子に、ユーキも苦笑いを返すしかない。
「ユークリウス殿下、今回は本来ならスタイリス殿下か私かが受けるべきだった。私事のために難役を回すようなことになって申し訳なく思う。どうか頑張って欲しい」
「そんな。お気になさらないで下さい。陛下が下さった、自分を試す良い機会だと思っておりますので」
「そうだな。そして殿下なら、この試練を乗り越えてさらに大きく伸びるのだろうと期待している。では、引き留めて済まなかった」
「いいえ。有難うございました、クレベール殿下。では失礼します」
「うむ」
ユーキが身を翻してクルティスを従えて去る姿を見ながら、クレベール王子は独り言ちた。
「試練を越えて大きく太く伸び、やがてこの風の国の嵐にも揺るがぬ大樹となる、か。私も本当はそうありたいが。せめて、若木が育つまでの支えぐらいにはなりたいものだ」
ユーキはクルティスと共にテレーゼの執務室へ急いだ。
そろそろ出発の時間が近い。
それにこの付近は侍女たち、女の園だ。男にとっては居心地が悪い。
足を早めて進むと、テレーゼは部屋の前で待っていた。
「殿下、お呼び立てして申し訳ありません」
「テレーゼさん、王妃殿下からのお言付けとの事ですが、何でしょうか?」
「はい、秘事ですのでこちらへどうぞ」
テレーゼが導いた先は、小部屋の扉だった。
「中へどうぞ」
テレーゼが扉を開き、促されて中に入ると部屋の奥の窓際に小さな人影が立っている。
「お言付けはこれですわ。……殿下、私はちょっと用事がありますの。重い物を運ぶので、クルティスさんをお借りしてよろしいかしら」
「コルネリア様、俺で良ければ喜んでお手伝いします。殿下、用事が終わりましたら、部屋の外でお待ちしています」
「わかった。テレーゼさん、有難うございます」
「殿下、御活躍と御健勝をお祈りしております。ではクルティスさん、行きましょうか」
「はい、参りましょう」
二人が部屋から去り扉が閉まると、窓を向いていた人影は、銀青の髪を揺らしながらゆっくりと振り返り、静々と近づいて来た。
薄いながら美しく粧った笑顔に紫色の瞳が輝き、淡い紅の塗られた唇は何か言いたげに艶めいている。
ユーキもゆっくりと歩み寄る。
「ヴィオラ嬢……えっと、これからも、二人きりの時は『菫さん』って呼んでもいいかな?」
「殿下、あの、『菫さん』は実は何かよそよそしく感じられて。よろしければ、『菫』とお呼び捨ていただけませんでしょうか」
「じゃあ、僕も二人きりの時は『殿下』ではなく『ユーキ』と呼び捨てで」
「申し訳ありません。殿下をお呼び捨てするのは難しいです。『ユーキ様』ではだめですか?」
「だめじゃないです、菫さん」
「『構わないよ、菫』」
菫がユーキを睨みながら言い直しを求め、ユーキは苦笑いして復唱した。
「構わないよ、僕の可愛い菫」
「! ずるいです、私の愛しいユーキ様」
二人はふふっと笑い、互いの手を取った。
「しばらく逢えないけど、きっと元気で頑張るから、心配しないでね」
「あい。例え何のお便りもなくても、私は何も心配致しません。皆様にこれほど良くしていただき、そしてユーキ様にたくさんの……この胸から溢れるほどのお心をいただきました。安心してお待ちいたしております。どうか御領主様のお務め、お励みください」
「うん。頑張るよ。そして胸を張って君を迎えに来る」
「あい。その時は私ももっと成長して、胸を張ってお迎えできるよう、精一杯励みます」
「うん、しっかりね。……菫」
「……ユーキ様」
「……いい?」
「……あい」
二人は躊躇うことなく取り合った互いの手を引いて近づいて行き、やがてそっと抱き合った。
もう何の言葉も要らない。
見つめ合い、微笑み合う。
二人の影は、さらにゆっくり、ゆっくりと重なって行き、菫は顎を上げ静かに目を瞑った。
ユーキが部屋を出るとクルティスが近づき、懐紙を差し出し、自分の口を手で押さえて見せた。
ユーキは少し顔を赤くしたが、差し出された懐紙で唇を押さえて軽く拭いた。
クルティスが頷くと、ユーキは頷き返して力強い声で宣言した。
「行くぞ。我が領に」
「はい。行きましょう、殿下」
ユーキは身を翻し、クルティスを従えて歩み去った。
部屋の中では、菫、いや、ヴィオラがじっと立ち尽くして頬を染め、少し俯いて両手で唇をそっと押さえていた。
しばらくしてテレーゼが部屋に戻って来ても、気付かずにいる。
「おや、まあ」
テレーゼはヴィオラの横を通り過ぎ、窓に寄ると大きく開け拡げる。
たちまち吹き込んでくる風に、ヴィオラははっと気づいてテレーゼを見た。
「ヴィオラ嬢、御存じかしら」
「何でしょうか?」
「今の季節、この窓からは、王城を出入りするお馬車の音が風に乗って良く聞こえますのよ」
「そうなのですか」
「ええ。お妃様は今しばらく、表からお戻りになりません。お呼びになられるまで時間があります。それまでの間、ここで休憩していてはどうかしら」
テレーゼはそう言って微笑むと、部屋を出て行った。
ヴィオラは窓に振り返った。
「ユークリウス・ウィルヘルム・ヴィンティア殿下の御出立である! 開門!」
気負って高らかに叫ぶクルティスの声が聞こえ、ヴィオラは窓に駆け寄った。
城門が門衛たちによって力強く押し広げられてギイッ、ギッ、ギーッとゆっくり、重々しく軋む。
御者のエイネルの力強い「ハイ!」という掛け声に馬が勇ましい嘶きで応じ、蹄と車輪の音が響き出した。
ヴィオラはユーキが乗るその馬車の音を、耳を澄ませて聞いていた。
それが徐々に遠ざかり聞こえなくなった後も、目を瞑って風の声を、風の音を、いつまでもいつまでも聞いていた。
「風の国のお伽話」第一部 完
本作の第二部の投稿を別連載として開始いたしました。
これも別連載の幕間に引き続いて御愛読いただければと思います。
以下は第一部完結時のあとがきです。
最後までお読みいただき有難うございました。
2020年の10月から連載を開始した「風の国のお伽話」、本話を持ちまして一応の完結とさせていただきます。
本作は同年の2月に思い立って構想を練り、4月頃から書き始め、本最終話までの目途が立ちエピソードの大部分が揃った10月に投稿を開始しました。当初は100話も要さず文字数としても30万字台で終わると思っていましたが、書き始めるとエピソードの不足が発覚し、また文章も見返すほどに書き込み不足と粗が目立ち、書き足し修正を繰り返すほどに話が伸びて約50万字にまでなってしまいました。一方で、展開の遅さが目立つために取り止めたエピソードもあります。そのため一部のキャラは出番が減ってしまい、申し訳ない思いをしました。
読み返してみるに、拙い話かも知れませんが、全くのド素人の処女作としてはよく頑張ったのではないかと、自分では満足しております。自画自賛をしても仕方が無いのは承知しておりますが、自分にとっては何度読み返しても面白く読め、書いて良かったと思っています。
その一方で、流行りものでもなく華やかな魔法やスキルの類も無く、戦闘シーンも地味ですので、読者の皆様には物足りなかったかも知れません。
PVは伸びず、日別のユニークアクセス数は一桁が当たり前という状況でした。あまりの不人気に、投稿を止めようかと思ったことも数度ありました。ですが、アクセス状況をよく見ると、連載開始当初から続けて読んで下さっている方も数人ながらいらっしゃるようでした。それに力を得ると同時に、読んでいただくからには書く側も無責任な事はできないと思い返し、推敲を重ねるようにしました。(それでも致命的な名前の書き間違えが再三あったことについて、お詫びいたします。御指摘ありがとうございました。)
暫くしてポツリポツリと評価やブックマークをして下さる方もあり、中盤からは力になる感想やレビューまでいただき、一日のPVが100を超える日には読んでいただくことの喜びをしみじみと感じることが出来ました。本話で取りあえずの完結までたどり着くことが出来ましたのは、偏に読者の皆様のお蔭です。繰り返しになりますが、評価・ブックマーク・感想・レビュー、いずれも作者には心を奮い立たせる大きな励みになりました。本当に有難うございました。
今後につきましては、第二部の構想はあり一部のエピソードは書いておりますが、どこから始めるべきか、第二部で終わるか第三部を構想するか、トピックからトピックへどう繋いで行くかを迷っております。またそもそも、読者が十数人に過ぎず、110話あってPVが8000にも届かない物語の続きを書く価値があるか否かについても。
もちろん第一部でまだ明らかにしていない謎、拾えていない伏線、十分に活躍していない人物等もありますので、それらを書きたい気持ちはあります。第二部を書くとしたらもう少しファンタジー色を強め、妖魔様達の登場を増やしたい。特に紅竜ローゼンには一度ぐらいはブレスを吐いてもらいたいし、ローゼンがユーキに授けた剣もまだ真価を発揮させていない。もう一つ、ケンの恋は第二部の柱になるはずです。ユーキにだけ良い思いはさせられません。といってユーキも大したことにはなっていませんが。
ただ一度投稿を始めたら完結させたいので、その目途がつくまでは投稿は控えさせていただこうと思います。
第一部と第二部の間になる話を一話だけ、「風の国のお伽話(幕間)」という名前の別連載一話目として投稿しておきます。第一部の続きが読みたい、第二部が始まったら知りたいと言う方がおられましたら、そちらをブックマークして更新チェックしていただけたらと思います。投稿再開の際にはその二話目としてお知らせを投稿します。ただ、どう早くても半年先になるだろうと予想しています。もしも始まらなければ、ごめんなさい。先に謝っておきます。
他に書いてみたい題材もあり、そちらを優先するかもしれません。気長にお待ちいただければ有難く思います。
では、本作最後のお願いとなります。
この物語がお気に召しましたら、御評価・ブックマーク・御感想・レビュー等をいただけると有難く思います。今後の創作活動の励みにさせていただきますので、何卒よろしくお願いいたします。
末筆になりますが、読者の皆様の今後の御健勝をお祈りいたします。特にケン・ユーキ・菫のように新天地へ出発される皆様、お体にお気を付けて、御活躍をお祈りいたします。
最後に改めて、本作品をお読みいただいた読者の皆様に心から感謝いたします。
有難うございました。
花時雨




