第9話 メリエンネ王女
王国歴220年3月(メリエンネ21歳、ユーキ15歳)
王都に吹く風は、北から東に変わる日が増え、少しずつ春めきつつある。
国王への謁見から一か月以上が過ぎ、ユーキの周りも少しずつ落ち着いて来た。
学びや剣の修行だけでなく、公務や閣議の傍聴などの仕事も少しずつ増えている。
そんな中、メリエンネ王女がシェルケン侯爵に依頼してから程なく、ユーキに東宮局から見舞いの依頼が届いた。
メリエンネ王女はユーキが乳児の頃の姿を知っているが、ユーキの方は王女の面識がない。
意図を訝しんだが、依頼状には『成人のお祝いをお伝えしたいとのメリエンネ殿下の御意向もあり、御挨拶の機会とされてはいかがかと』とある。
確かに、王太子を除けば、王族の中で全く面識がないのはメリエンネ王女だけである。
両親に相談してみると、最近は王女を見舞う貴族もめっきり減り無聊を託っているはず、人恋しさもあろうから、深く考えずにお見舞いしてはどうかと勧められた。
「何だったら、私が一緒に行ってあげるわよ。母上様に頼んでも、喜んで行ってくれると思うけど」との母のマレーネ王女の申し出は丁重に断った。
成人したのに、保護者同伴でないと出歩けないと思われては堪らない。
どうせ儀礼的なお見舞いなら、短時間で済むことだろうし、と軽く考える事にした。
ただし見舞いの品は、どうすれば良いか全くわからないので、母親の勧めを全面的に採用した。
小さめのクーヘンの詰め合わせと可愛いピンクの花のアレンジメントをあらかじめ届けることにし、クーヘンは侍女一同にも慰労として行き渡るように、別箱で多めの量を添えた。
当日、ユーキはクーツを伴って東宮局に向かった。
クルティスはまだ成人の儀を済ませておらず、今回も留守番である。
来年からはクルティスも供に加わることになるだろう。
クーツによれば、護衛としての修行は着々と進んでいるが、従者としてはまだまだだそうだ。
東宮局でシェルケン侯爵の出迎えを受け、案内を受けてメリエンネ王女の執務室に向かう。
執務室と言っても、寝室に隣接した居間がその実態らしい。
廊下を歩きながら、シェルケン侯爵はユーキに気安く話し掛けて来た。
「殿下、姫様は体質がお弱くていらっしゃいます。何卒、大きな声や刺激の強い話題はお避け下さるよう、お願いいたします」
「承りましたが、刺激の強い話題とは、例えばどのような?」
「まあ、そうですな。男女の深いことであるとか、血の流れる戦のことであるとか、ですかな」
「……そもそも、両方とも私にはまだ無縁ですので、御心配には及ばぬと思います」
「これは、失礼。戦はともかく、令嬢方との御縁とか、それを匂わすような貴族諸侯からの茶会のお誘いとか、春雨のごとく途切れなく降ってきているかと思いましたが」
「全くございません。それにまだ成人の儀を済ませたばかりの身では、政の学びに忙しく、それどころではありません。そのようなことは全て陛下と母にお任せしております」
「何をおっしゃいます。それはそれ、これはこれ。よろしければ、愚生の存じ寄りの令嬢を紹介申し上げましょう」
「いえ。それについては固くお断りいたします。侯爵閣下、私は学びに全力を尽くしたいので、どうか御放念ください」
「失礼いたしました。やはり、噂通りの真面目ぶりでいらっしゃる」
「堅物で申し訳ありません」
「なんのなんの。ああ、こちらでございます」
シェルケン侯爵が立ち止まり、扉をノックして名乗った。
「シェルケンであります。ユークリウス殿下をお連れ致しました」
「どうぞお入りください」
従者の女性が開けた扉をくぐってユーキが部屋に入ると、真ん中の大きなテーブルの向こう側にほっそりした女性が腰掛けているのが見えた。
濃い目の金髪に翠玉色の瞳、顔色は心配になるぐらい白い。恐らく殆ど日に当たらないせいだろう。
細い体型を隠すようなゆったりとした緑色のドレスは瞳の色に合わせたのだろうが、顔に映って、ただでさえ良くない顔色がさらに蒼ざめて見える。
不自然に赤い唇と相まって、折角の大きな瞳や整った顔立ちを損なっているように思える。
ユーキに引き続いて入室したシェルケン侯爵が、女性に向かって話しかけた。
「姫様、紹介させていただきます。マレーネ・ヴィンティア殿下の御息子、ユークリウス・ウィルヘルム・ヴィンティア殿下であらせられます。ユークリウス殿下、こちらが王太子殿下の御息女、メリエンネ・ヴィンティア殿下であらせられます」
「侯爵閣下、御紹介、大儀に思います。また、本日のお取り計らいについても感謝します」
「姫様、もったいないお言葉です」
「それでは、お仕事がお忙しいでしょうから、お引止めいたしません。殿下が御届け下さったクーヘンを閣下の執務室にも運ぶよう申しつけましたので、お仕事の御手休みに召し上がれ。ああ、殿下の御帰りの案内はドロテアに致させますので、御心配は御無用に」
「そうですな。では、後はお若い方々で、ですかな? はっはっは。いや、これは失礼。では、殿下、ごゆるりと」
シェルケン侯爵は頭を叩いてお道化た格好をすると、すたすたと部屋から出て行った。
ドロテアが扉を閉めると、メリエンネ王女は溜息をついた。
「あれで面白い冗談を言っているつもりなのですわ。笑えません。困りますわよね」
「……」
ユーキはどう答えていいかわからない。
無言のままでいると、王女は慌てて謝った。
「あら、失礼いたしました。ユークリウス殿下、座ったままお迎えして申し訳ありません。このような体なもので。どうかお許しください」
「いえ、お気になさらないで下さい、メリエンネ殿下」
「殿下、どうぞお掛けください。ドロテア、お伴の方にもお椅子を」
「はい、姫様」
壁際に用意された椅子に、クーツも腰掛けた。
「失礼いたします」
侍女の一人が運んできた紅茶とクーヘンをドロテアが給仕する。
「貴女も座っていていいわよ」
「はい、ありがとうございます、姫様」
給仕し終わったドロテアが脇に下がって小さな椅子に腰かけ、他の侍女が退室するのを待って、メリエンネはユーキに向き直った。
「殿下、本日はお越し頂き、ありがとうございました」
「いえ。こちらこそお招きいただきありがとうございます、メリエンネ殿下。ユークリウスと申します。お見知りおきの程、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。また、御成人されたこと、お祝い申し上げます」
「重ねてお礼申し上げます。ありがとうございます」
ユーキが礼を言うと、メリエンネは微笑んでちょっと口調を変えた。
「お固いことは、この位にしませんこと?」
「はい。殿下がそれでよろしければ」
「ええ。よろしければ、『殿下』呼びも止めていただければ、嬉しく思います。同じ王族で、ここは私的な場ですので」
「よろしいのですか? ええと、メリエンネ様」
「はい、それで。本当は呼び捨てにしていただいても構わないのですが」
随分と気安く親し気な態度を示されたが、さすがに六歳上の女性、それも自分よりも王位に近い王女を呼び捨てにはできない。
「それはさすがに出来かねます」
「残念。私もユークリウス様とお呼びしても?」
「はい、もちろんです」
「うふふ。嬉しいですわ」
「思っていたよりもお元気そうで安心しました」
「ええ、今日は久し振りのお客様ですから。昨夜は頑張って早くから眠りました」
「私のために? 光栄です。ですが、久し振り、なのですか」
「ええ。最近は殆ど。……私の外祖父の事は御存じで?」
「はい。それとなく」
「そう。あの事のあと、私に近づいて来る方は減ってしまいました。哀れに思って訪れて下さる方も、年を経るごとに一人減り、二人減り。ここ最近では、侍女とあの侯爵以外の者の顔を見ることもありませんでしたの。ですから今日は嬉しくて」
「それは、お寂しいですね」
「ええ」
そう言いながらも、メリエンネは微笑んで上機嫌だ。
「他の方を招かれたりはなさらないのですか?」
「私のような、立場以外に何の力もない者の招きに応じる者は、そうはおりませんわ。ましてや、辛気臭い見舞いとあってはなおのことです。嫌々来る者はいるかも知れませんが、それではお互いのためになりませんし」
「そう卑下されることは無いのでは。近しい方とか、御友人の令嬢とかは?」
「小さい頃からの知り合いは、全て祖父の息が掛かっておりましたので、一掃されてしまいました。残っているのはドロテアだけです。それにこの体で部屋に籠りきりでは、新しく親交を結ぶのは、難しくて。社交界のお話は眩しい限りですし」
「それでは、普段はどのようにしてお過ごしに?」
「もっぱら書物を読んで時間をつぶすだけ。それも最近は倦んでしまって、昼間も、うとうとして過ごしております。まるで隠居老人のようですわね」
「それはお体に良くないのでは」
「ええ。ドロテアにも、きちんと起きろ、部屋の中でもいいから少しでも歩け、車椅子でも少しでも動け、と叱られるのですが、気力が湧かなくて」
「お気の毒に思います」
「あら、嫌ですわ。私の話ばっかり。それも暗い話で申し訳ありません」
「いえ、今日はお見舞いに参ったのですから。どうぞ、何でもお話しください」
ユーキの貌に影が差したのに気づいてか、メリエンネは話題を変えようとした。
「ユークリウス様、お優しくていらっしゃるのね。あら、失礼しました。お花とクーヘン、有難うございました。可愛らしいお花は寝室の方に飾らせていただきました。このクーヘンも程よい大きさで、私のような食の細いものでも安心ですわ。侍女たちにもお気遣いいただいて、みな喜んでおりました。ユークリウス様に贔屓する者が出来たかもしれませんわね」
「いえ! 私は、そのような人気取りをするつもりでは。母の勧めに従ったまでで」
それを聞くと、メリエンネは微笑みながらも眉根に皺をよせ、人差し指を立てて見せた。
「いけませんわ。それは『今、巷で流行りと聞き、お伝えがてらに』とか、『御評判からすると、可愛いものがお好みと推察して』とか『お付きの方々にも楽しんでいただき、労っていただければ』とか、何とでも工夫して言わないと。人からの勧めをそのまま、とは隠しておくものですわ。それを言うのは、馬鹿正直と謗られましてよ」
「……良く、その言葉を言われます。お教え、胸に刻みます」
「あら、ごめんなさい。そうでしたわね、とても真面目な方とお伺いしています。どうか今の言葉は真に受けず、お聞き流し下さい」
「いえ、勉強になりました。次の機会には使わせていただきます。お教えいただいたことは隠して」
「あら、うふふ。ぜひ、そうなさって下さいね」
「はい。馬鹿正直は陛下にもお目見えの際に言われました。慣れておりますので、お気になさらないで下さい」
メリエンネは口に手を当てて、笑いを隠す。
「侯爵から聞きましたわ。陛下には随分と虐められたようで、お気の毒です。それでも御立派に対応なさったとか」
「立派だったかどうかはわかりませんが、何とか答えました」
「でも、それも羨ましいですわ。私の時は、『体調を早く整えて国民に尽くせるようにせよ』だけでしたの。ほっとしたような、がっかりしたような。車椅子でのお目見えをお許しいただいたので、仕方なくはあったのですけれど」
「では、閣議の傍聴にいらっしゃらないのも、やはり体調が整われないためですか」
「ええ。閣議の最中に倒れでもしたら、妨げになってしまいますから。止むを得ず、見舞いに来て下さる方に閣議の様子を聞かせて頂いたり、書物で勉強したりしていたのですが、最近は見舞いに来てくださる方もなく」
「そうなのですか。では、私が参ります」
「ユークリウス様が?」
「はい、私は可能な限り、傍聴させていただいております。よろしければ、できるだけこちらに伺わせていただき、様子をお伝えいたします」
ユーキの言葉に、メリエンネは再び口に手を当てる。
今度は笑いが大きく、隠しきれていない。
「よろしいのですか?」
「はい、見て聞いて学んだものを、自分なりにまとめてお話しすれば、学び直しになって自分にも役立ちますので」
「いえ、そうではなくて、同じ女性の部屋をしばしば訪れては、噂になって貴族たちの口の端に上りますわよ? そのお覚悟があっての事かしら?」
ユーキは狼狽した。
声もつい大きくなる。
「いえ、そんなつもりは! 私はただ、メリエンネ様をお慰めしたいと思ったばかりで、そのような失礼な事など、欠片も思っておりません」
「あらあら。欠片もなどとは、それも失礼ですわよ? 私はそんなに魅力が無くて? まあ、病にやつれた見る影もない身では仕方ありませんわね……」
「いえ、決してそのような! メリエンネ様はお美しくていらっしゃいます! ただ私はそのような目で見るようなことは、と」
「ごめんなさい。真面目な方と知っていて、揶揄ったりして」
「揶揄い、でしたか」
「ええ」
「ほっとしました」
「それも何だか癪ですわね。そう、それではもう一つ、揶揄って差し上げましょうか」
「……できればお許し願いたいですが……何でしょうか?」
「ユークリウス様、心に想い定めた女性がいらっしゃいますでしょう」
長くなったので次話に分けます。




