閑話:指切り
SIDE:レイトン・ドルグワント
多くの人が「知ってた」と思うであろう指の行方。
自らの身体のうち手は、とりわけ指は最もよく目にする人体であり、また人間性を示すものである。
その解体は難しく、医学を志す者にとって避けては通れない腑分けの実習時、献体の手の解剖で挫折しそうになる者もいるという。難易度の問題ではない。嫌悪感を抑えられないのだ。たとえ胸や腹を切り開いた後であっても。
「~~♪ 裏帳簿はもっとわかりにくく隠しておかないとね」
開拓村から街へと昇格した勢いをそのままに、ついには副都に迫るかと思うほど成長を続ける街クラリセン。
大きな建物が並ぶその街の中でも、一際優雅で豪華な建物である議会場兼町長宅。
その中の一室で、彼は笑っていた。
鼻歌交じりにレイトンは書類の束を捲り続ける。ぱらりぱらりと捲られ続けるページにはびっしりとクラリセンの資金の出納が記されており、慣れた者であっても読み解くのには時間がかかるだろう。
だが、レイトンの目と手は止まらない。端から見れば子供が紙の束をいじって遊んでいるほどの速さで捲られ、上下に目は動き続ける。
一枚につき三十行以上の数字の羅列、そこにそのままでも暗号になり得るほど簡素に書かれた金の行き先。更にその書類が種類ごとに分かれ、総計で二百枚以上も続く。その情報を全て精査し、レイトンはパタリと束を閉じる。
時間にして僅か五分程度のこと。だがそれだけで、レイトンはこの街の予算の流れをほぼ全て正確に把握していた。
乱雑に資料が積まれた棚に書類を戻し、それから振り返る。
「さて、待たせたね」
「………………!」
視線の先には椅子に縛り付けられ猿ぐつわを噛まされた、現クラリセン町長。シガン・シェフィールドの惨めな姿がそこにあった。
レイトンは歩み寄り、シガンの鼻先に自らの顔をグイと近づける。
「いくつか確認しておきたいから質問させてもらおうかな。……ああ、猿轡は外さないよ。反応を返してくれれば充分さ」
ニコリと微笑むその顔だけ見れば、恋に恋する若者が街角で女性を誘うような柔和な笑みだ。だが、シガンは知っている。そこに優しさなど無い。事実、いつの間にか忍び込んできたこの男に突然制圧され、そして拘束されたのだ。
誰だ? どうして? そして、どうやって忍び込んだ? 疑問は尽きない。だが、下手な抵抗をすればその腰の剣が自分に向くだろう。そう理解したシガンは抵抗をしなかった。
それはたしかに利口な行動だ。効果としては、若干の苦痛を受けずに済んだ、その一点だけだったが。
「まず、キミがトレンチワームを使う計画を話したのは、魔物使いヘレナ・クニツィアを除いて五人」
レイトンはシガンの右手を包み込むように持ち、それから質問を口にする。
「……大丈夫みたいだね」
シガンとしては、何を言ったつもりも頷いたつもりもない。
だが、レイトンにとっては十分な情報だった。汗や脈拍、視線、顔色の変化。その他の生体情報から得られる情報は膨大なものだ。
それ故に、その言葉は真実だった。シガンが秘密の詳細を明かしたのは街の重役、その中でも金の流れを把握している五人のみだ。税金の流れを把握出来る位置にいた人間のうち、反対をしそうな者や秘密を守れそうにない者は省き、必要なら別の役職に就かせて遠ざけている。
「ええと、名前としては、――――かな?」
続く、その五人の名前。シガンの頭の中に疑問符が溢れる。何故だ? 先程見ていた書類の中に、そうとわかるものはなかったはずだ。万が一に備えて、そうとわからないように書いてあったはずだ。
なのに、何故。そう考え目を細めると、目の前の男は嬉しそうに鼻で笑った。
「ありがとう、よくわかったよ」
レイトンはそう言うと、立ち上がる。そして窓に歩み寄り、外を眺めて一息ついた。
何故だ。シガンの頭の中で疑問符が飛び続ける。
先程もそうだ。拘束された後、金の流れが見える帳簿はどれかとこの男に問われた。自分はそれに答えず、沈黙を守ったはずだ。なのに、何故かこの男は『ありがとう』とだけ口に出して、迷いなく書類を掻き分けて裏帳簿を手に取ったのだ。
何故? シガンはそう思考し続ける。まるで心を読まれているかのような気味の悪さに、冷や汗が止まらなかった。
「さて、キミの処理の続きはここで出来ないなぁ。なるべく痕跡も残したくないし……ということで……」
レイトンの腕が一瞬霞む。次の瞬間、シガンを椅子に縛り付けていた縄がハラリと落ちた。だが、その手の戒めまでは解かれておらず、猿轡もそのままだ。
「じゃあ、森まで行こうか」
続く点穴。シガンの両太腿とそれと喉に鋭い痛みが走る。痛みが走ったと思ったときには遅かった。脚の力が抜け、前のめりに倒れそうになる。叫び声を上げようとしても、僅かな掠れた呻き声が漏れるだけだった。
迫り来る床。だがその顔は床に激突することなく、服の首もとを誰かが掴んだことで支えられていた。
誰かがといっても、それは一人しかいないが。
「……」
レイトンはシガンを引きずりながらただ外を目指す。
大の大人の首根っこを持ち、引きずりながら室内を移動する男。端から見れば、不自然極まりない。すぐさま衛兵やシガンの私兵が駆けつけ、取り囲まれても何らおかしくない姿勢だ。
だが、そうはならない。
曲がり角の向こうで、人の気配がする。その度にレイトンは一,二度拍子を取り、そして動く。
向こう側から来る通行人と呼吸を完璧に合わせて、死角に入り、一切の影を見せることもなく通りすぎる。
白昼堂々とした侵入、そしてシガンを連れている。そんな悪条件にも拘わらず、邸内全ての人間の認識の外を悠々とレイトンは歩き回っていた。まるで存在していないかのように。
外へ出れば、その活動はさらに奔放な動きを纏う。
建物の上、路地、荷物の陰、その他全てを利用してシガンを拉致する。レイトンの点穴により全身が麻痺しているシガンには、もはや抵抗する術も残っていなかった。
程なくして、二人の影はクラリセン北の森の奥、トレンチワームの目撃された地点にあった。
ごろりと転がされたシガンが文句を言おうとしても、点穴の効果だ、まだ声が出せない。
せめてもの抵抗にと睨み付けても、レイトンは何の反応も示さずに微笑んだ。
「……!」
そしてレイトンはシガンの手を掴むと、引っ張り投げるように横向きに放る。
その勢いのままシガンは縛られた手を差し出すように突っ伏す。レイトンはその手首を踏みつける。軽い踏みつけ、傷つけようという意図はなく、ただ単に固定するための。
そのまましゃがみ込んだレイトンの顔は、シガンから見てとても楽しそうに見えた。
「関わっていたのは五人。運が良いね、こっちの手だけで済むよ」
「?」
突然の言葉と不可解な体勢、理解が遅れたシガンの右手に、激痛が走った。
「あがぁぁぁぁ……!」
あまりの激痛で、点穴の効果も緩む。それでもまだ普通の話し声程度ではあるが、叫び声は漏れた。何だ? シガンの身体が痙攣する。麻痺した身体をよじりながら、その痛みから必死に逃れようともがくが、その芋虫のように弛んだ身体を僅かに蠢かせるまでに留まった。
ゾリッ……。
レイトンが手に持つ細いヤスリが上下に動く度、そんな音がする。指の根元、中手指節間関節と呼ばれる骨の継ぎ目に差し込み、肉を削り断ち切っていく。
当然、痛みが無いわけがない。その痛みに全身を硬直させながら、シガンは叫び続ける。
それでもなお、呻き声と呼ばれる程度に収まってはいたが。
レイトンの技量ならば、指を落とす程度、本人に気付かれないようにすることは可能だろう。日常動作のうち、突然指が外れ、鮮血が噴き出す。そんなあたかも『いつの間にか取れていた』という奇妙な状況を作ることすら出来ただろう。
しかし、レイトンはそうしなかった。
そうした場合に見られるであろう鋭利な傷口、それを見られることを嫌った。それが主な理由だ。
その雑な切り口を作るためにシガンの顔が歪み泡を吹くことなど、一切気にはしていなかった。
ぶつんと音を立て、親指が取り外される。止血は手首に巻かれた紐のみ。その後消化されてすぐに消え失せるであろう素材の、その簡素な止血帯のみだ。当然鮮血が溢れて地面を汚すが、それすらもレイトンの計画のうちだ。
「さて、一本取れた。後四本、急いでいくよ」
その言葉の通り、レイトンの指の動きは幾分か速くなる。指が落とされていくという恐怖と、それが早く終わるという希望。感情が混ざり合って溢れた涙は、シガンの両頬に伝っていた。
「はい、終わった。じゃ、仕上げといこう」
シガンに、もはや抵抗する元気も無い。腕の先にあるのは、何処が痛いのか、位置を判別することすら出来ない激痛。そしてその先の消失感。失血のために意識まで遠くなってきていた。
レイトンはその襟元を持ち、持ち上げる。抵抗出来ない身体は力なくぶら下がり、レイトンを睨むその目つきももう大分弱い。
右手から垂れた鮮血が地面を濡らす。鮮血の匂い、それは森の中ではあまり気にならないが、それでもそれを求める存在にとっては格好の目印だろう。
暫し待つ。
何をする気だろうか。痛みにシガンの脳が慣れつつあり、痛みが脳の何処かに追いやられつつある。その中で、僅かに思考が出来るほどになりつつあったちょうどその時。
レイトンの足下で、地響きがした。
足を着けていなければわからないほどの微弱な振動を、レイトンは感じ取る。ようやく来た。そう思いつつ、少し飛び退きながらシガンの身体を前方に放る。
シガンは何が起きたのかわからなかった。
突然、男に放り投げられ、そして一瞬の浮遊感を覚えた。だが、そこまでだ。理解に苦しんだのは。
力の入らない足で、たたらを踏むように着地した地面、その下が大きく揺れる。
まずい、これは。
そう思ったときには遅かった。
足下の地面にはぽっかりと穴が開き、生臭い異臭が迫る。
やがて一瞬だけ見えた牙、そして赤い粘膜の口内。ぬめっとした感触が足元を覆う。
視界が暗転し、全身に感じたのは強烈な圧迫感。そして、牙が刺さる激痛。
シガンがこの世で最後に見たのは、笑顔で手を振るレイトンの姿だった。
「へえ、見事なもんだ」
レイトンはそう嘆息する。目の前にそそり立つように現れたトレンチワームは見上げても顔が見えないほど大きく、以前ネルグの山中で偶然狩ったときのものよりも大きかった。
そしてその大きさに見合うように、固く締まった革。防具として加工すれば一級品となるだろう。売り払えば、それはそれなりに高額な物となる。
だが、そんなことはさせない。
売り払う先、ギルドも今回の犯罪に荷担していたのだ。ならば、そんな利益を与えるわけにはいかない。この後に働いてもらう分は支払おう。だが、そんな高価な物を与えるわけにはいかない。
レイトンは腰の魔剣に手を添えて、トレンチワームの食事を終えるその瞬間を待った。
トレンチワームは口中の獲物を締め付け、喉の奥で味わっていた。
血の匂いに誘われてここまできたが、こんな大物は久しぶりだ。あの心地よい雰囲気を放つ人間の意図を汲み取り、この周辺で小物を狩って生活する日々。敵は来ない、だが退屈だった。腹を満たすのも難しい。
久しぶりの大物だ。これで久しぶりに腹を満たせられればいいが。
満足感で喉が鳴る。しかし次に違和感に気がついた。違う、先程獲物は二匹いたはずだ。今自分の体の中にいるのは一匹分だけ。
気がついた彼は、喉の筋肉を蠕動させて、獲物を体内に押し込む。その方針を変更して。
この一匹で腹を満たそう。もう一匹を、改めて味わおう。
では、そのもう一匹は何処へ行った?
地面の中に身体を戻しながら、周囲を見渡す。
すぐにその獲物は見つかった。逃げていたか、姑息な奴め。
まずは弱らせよう。
そう思った彼は、身体を思い切りしならせながら、目の前の獲物に横っ腹を打ち付ける。
腹部に感じた衝撃。打ち付けた、そのはずだ。
だが、彼の意識はその場で暗転し、それきり彼の意識は途絶えた。
迫り来るトレンチワーム。人の思考はある程度把握出来るレイトンでも、魔物の思考を把握出来るわけではない。だが、攻撃されている、それは誰の目から見ても一目瞭然だ。
その迫り来る横っ腹に蹴りを入れると、レイトンの手が霞む。
魔剣・ユングヴィ。賢者にしか使いこなせないというその剣は、レイトンの手により最大限の効果を発揮する。
次の瞬間、振るわれた剣に合わせて出現する嵐のような斬撃。その一つ一つがトレンチワームの外皮を切り裂き、傷をつけていく。
苦痛に呻く暇など与えない。出現した斬撃により付けられた傷が夥しい数になり、ささくれだった外皮が弾けたようにボロボロになったその頃、ようやく神速の斬撃本体がトレンチワームに到達する。
魔剣により出現した斬撃による傷は、嫌がらせのために。
そして魔剣を振るって行われた斬撃は、獲物の命を最小限の傷で奪うために。
相反する目的は、同時に達成される。
巨体が倒れ伏すその衝撃とともに出来上がったのは、レイトンの計画通り。人を一人飲み込んだ、トレンチワームの死体だった。
その日の夜。街の各地、大抵は大きな館の中で小さな叫び声が上がる。
ある者は兎肉のテリーヌの中に、ある者はフライドポテトに混ぜられて、ある者はスープの中の腸詰め肉を突いたフォークの先に、変色した指を見た。
そして、料理の皿の下に忍ばされた手紙を見て、各人それぞれに戦慄した。
『引き継ぐのならば、次は貴方』
そう書かれた手紙と、ふやけた指。
示し合わせたわけではない。だがその日からしばらくの間、クラリセンの町議会はこの国で一番の品行方正さを保ったという。




