暗い隧道
まるで長く暗い隧道を手探りで通っているようだ。
ソラリックはそう、現状を少しでも安楽なふうに言い表そうとし、しかし手から伝わるぐにゃりとした肉の感覚に溜息をついた。
「こちらの処理を」
「はい」
ソラリックが今手に持ちあげたのは、肉の塊。増殖人面疽の肉腫が患者から分離したものである。
通常、肉腫というのは、言ってしまえばただの肉の塊だ。ぶよぶよとした、また筋肉や脂肪と同質の塊。腑分けの際、新鮮なものでは血液が滴りもするそれを持つことを、忌避する治療師もいる。
しかし今ソラリックが持ち上げたものはそうではない。
(……本当に……)
持ち上げた肉腫からは皮膚の感触がする。それはそうだろう。その肉腫はごく普通の人間の皮膚で覆われ、ただ少し湿潤というだけだ。
そして新しい皮膚ということで手触りも良く、少しだけ生えている産毛も細い。
肉腫の手足はきちんとした指先までも形作られ、爪すらも生えている。髪の毛は個体によって異なるが、それでも産毛に似た細いものが大抵のものは張り付くようにして存在していた。
大きな頭。浮腫んでいるようなぷくぷくとした顔はあどけなく、まるでただ寝ているかのような。瞼を強引に開けば大きな黒目の眼球もある。舌は薄紅色で、歯はまだ当然無い。
『生まれた』肉腫は、まるで本当に、ただの赤ん坊のようだった。見た目も大きさも、その存在感も。
このまま逆さにつるし、尻を叩いて促せば産声さえ上げようかとも思うほどの。
仮に同じく今日生まれた新生児の隣に置けば、ほとんど見分けがつかないだろう。
ただ肉腫は息をしていないだけで。身動きもしないだけで。
(……生きてるみたい)
ソラリックの目に、じわりと涙が浮かぶ。
まだ悲しめるのかと自身でも意外だったが、当然だろうとも考えて目を伏せた。
持ち上げた肉腫は温かい。今の今まで患者から血が通っていたのだから当然だ。
患者から自然と脱落する際に、肉腫は最後に臍の緒を切り離す。臍から繋がった管の先には胎盤に類するものはなく、ただ患者の肉体があるだけだったが。
増殖人面疽の患者は増え続けている。最初の罹患者が出てからもうすぐ二月目も半ばに入るところ。それだけの間に、百人を超える患者をソラリックは見ることになった。更にソラリックが関わらないところでも、その数倍は。
一人の患者からは、一つ以上の肉腫が生まれる。最初の頃こそ標本にされたり、腑分けに使われていた肉腫は、もはやこれだけの数になればそろそろ貴重なものではない。今となっては廃棄物として単に焼却に回される。
ただその焼却の際、積み上げられた肉腫の見た目は、多くの者が目を背けたくなる光景だろう。
積み上げられた赤子の死体。
それは世界の不幸の一つ。
もはや『死』に慣れてきているのではないだろうか。
肉腫を淡々と処理できる自分に、ソラリックはそう錯覚を覚えた。
勿論ソラリックは知っている。彼らは生きてなどいない。骨格や消化管、血管に神経などの内部組織はほぼ完全に再現されているが、脳があるはずの頭蓋骨の中はほとんどが脳漿で満たされていることが腑分けで判明している。
彼らが産声を上げることはない。彼らはただの肉だ。ただの肉腫と同じように。
だが、やはり見た目はそうではない。
今目の前で三つほどまとめて運ばれていくのは、人間の赤子にしか見えない肉の塊。
まるで死産だったかのように。まるで、通常の赤子が出産されたのに、その息がなかったというだけのように。
目の前にあるのは子供の死体だ。そう告げられても、ソラリックは一瞬信じてしまいそうになる。自分は救えなかったのだ、子供を。
もはや治療師たちは、ほとんど無感情にその子供たちを扱っている。
当然だろう。それはただの肉の塊だ。見た目が人間の子供のものというだけで。その手足の先についた小さな指を、丸めることもしない死んだ肉。
最初から生きてなどいない。これは人体から切り落とされた不要な肉。爪や髪と変わらない。
そう、自らに言い聞かせながら。
それに勿論、本当の『死者』も出ている。
先ほどその赤子を産み落とした男性は、顔の半分を失ってそのまま息を引き取った。最期に近いそのときには、倍以上に膨れあがった顔面を抱え、脳を肉腫に半ば浸食されながらものたうち回るようにして苦しんでいた。
彼が罹患したのはちょうど二十日前。彼は最初、酒場での喧嘩の跡だと思ったらしい。前日に深酒をして、喧嘩で薄汚れた身体を引きずって帰って、次の日の朝起きたら顔に痣があった。その日のうちに膨れあがった左半分の顔面に髪の毛様の物体が確認されたため、そう認定されて手当が始まったのだ。
彼も貴重な標本となるだろう。ソラリックはそう思うことでどうにか平常心を保つことにする。
死因は頭部からの出産。けれども、彼の身体には他にも複数の肉腫が確認されている。脇腹から背中にかけて、もしくは襟元にも。
増殖人面疽への対症薬として、やはり貝母は有効なのだろう。
有効だったのだろう。彼の場合、上からの指示であえて投与する肉腫と投与しない肉腫を分けられていたが、明らかに投与した肉腫の方が成長が遅かったのだという。
彼の死後その実験を知らされたソラリックは、仕方ないと思いつつもやはり嫌悪を隠せなかったが。
未だ、増殖人面疽に対しては姑息的治療しか光明を見出せていない。
聖教会の調査により、いくつかの薬品は肉腫の成長を抑制することがわかった。しかしそれもただ抑制するだけだ。いずれ成長した肉腫は患者の肉を、命を奪い生まれ落ちる。
現状、結局はその苦しみを長引かせているだけだと、ソラリックは暗澹たる気持ちだった。
無論そういうものだと彼女は知っている。病への特効薬など、見つかる方が珍しいのだ。数多くの人々が何代にも渡って苦しみ続け、たまたまその病に対し対抗策が見つかった一団が生き延び、その対抗策が手法として確立する。その対抗策もまた何代にも渡って練られ、ようやく皆が信用して使えることになる。それが普通のことであり、決して現時点で気に病むことではない。
だがそれを知っていててもなお、やはり苦しむのはソラリックの性だ。
まだ何か出来ることはないのだろうか。出来ることはあるのではないだろうか。
特等治療師エンバーにより集められた資料を、現在聖教会の担当員は自由に閲覧できる。資料には本来の位階では目にすることを許されていない秘匿性の高いものすらもあり、この未曾有の事態に彼は力を惜しまなかった。
ソラリックも当然読んだ。一つの病に対して関連しそうな分野の五十冊を超える論文に、その数倍ある参考資料の山。資料の中の挿絵や奥付などすらも目に焼き付けるように。
その上で、もはや手はないのかもしれない。ソラリックすらもそう思えてきた。
今回の病群は常識が通用しない。通常の肉腫やその他の病と比較しようともやはり形も期間もでたらめで、まるで自分たちを嘲笑っている誰かの笑い声が聞こえてくる気がする。
ソラリックが担当している増殖人面疽以外も同じようなものだ。参考になるかと思い、ソラリックは他の病の情報も随時取り入れている。しかし、それらも同様。もはや常識的なものは何もなく、非常識がもはや常識と化しているのだ、と誰かが笑っていた。
足下がふらつく。
汗が滴る。
憔悴するように意識が遠のく気配がする。
だがそれでもまだ、諦めるわけにはいかない、と彼女は瞬きをして絶望をやり過ごし続けた。
『彼』からの小包みがソラリックの下に届いたのは、『彼』に意見を求める手紙を出してから実に十日以上経ってのことだった。
遅い、と一瞬覚えてしまった苛つき。だが、考えてみれば当然のことだ。彼が今どこにいるかは知らないが、探索ギルドを使おうとも到着するのには当然時間がかかる。更に彼が何かを用意し、更に送り返すのにも相応な時間が。
なんとか怒りを理性で収めるように、受け取ってくれた後輩から殊更に恭しく受け取った小包みは、少し重たく感じた。
その資料の重さに少しだけぎくりと心臓が震えた。
最初は、送った資料をそのまま送り返されたのかと思った。彼ならばしないわけではないだろう。やりたくないのなら、自分には関係がない、と冷淡にただこちらの嘆願を無視して送り返してくる。
だがそうではないともすぐに思い直した。送った資料はもっと多いはずだ。厚手の油紙を縛っていた紐をほどけば、その考えも確認が取れた。
まず見えたのは、折りたたまれた質のよい紙。そして論文ともとれる分厚い紙の束。わざわざ複数開けた丸い穴に紐を通し、片端を本のように止めてある几帳面さはなんとなく彼らしい。そして最後に、三つの小瓶。
手紙だろう折りたたまれた紙を開けば、返信が遅くなった謝罪と、その理由について汚い字で書かれていた。
「薬の、材料を……」
読めばすぐにソラリックは先ほどまでの態度を自ら恥じた。
彼は、カラスはわざわざムジカル領のネルグで薬の材料を探してきてくれていたのだという。そして、調合した秘薬を同封してくれたのだ。
更に包みの中に入っていた分厚い資料は、彼が考察した病の詳細。どの病も彼にとって未知のものではあったが、それでも薬師の立場から、と断りを添えて。
資料をぱらぱらと見れば、そこにはそれぞれの病の性質、病状の変化、罹患者の傾向がまとめられていた。更には彼の書いているとおり、薬師の立場としての献策までも。
病によっては『見当もつかない』ということが多いだろう。けれども、見当がつく分野に関しては。
「鯥の肝に虎蛟の髄……」
人面疽の傾向と、それに対しいくつかの生薬が有効で、特に貝母が効くという情報を元に彼が調合した秘薬。貝母を基礎とし、薬効を求めていくつかの生薬を混ぜて、更に副作用による薬害を打ち消すように調整された彼独自のもの。
生薬の入手も大変だっただろう。
ソラリックは、使われている生薬の名前を眺めて思い浮かべる。
たとえば鯥の存在は、古い文献でソラリックも読んだことがある。
胸びれを用いて陸上を歩く魚であり、翼と蛇の尾を持つ。牛の如くに鳴く草食魚で、夏になると現れるが冬になるといない。
冬になるといないというのは冬眠をしていることだろう、とその文献の作者は述べ、その冬眠場所は発見されていないという文でその紹介は締めくくられていた。
しかし、今の季節は冬。それは温暖なネルグの中でも程度の差こそあれ気温が下がる時期。
つまり探索者カラスは、その秘伝の知識か独自の経験か、その両方かを用いてその忘れ去られつつある魚を探し出し、更に人も知らぬ冬眠場所を探り当てて採取したのだ。
使われている鳥獣草木は似たようなものばかり。
生薬は小瓶一つにつき三十種類以上。その半分以上はソラリックの記憶にもないものだったが、採取法や調合法を事細かに記してくれているのは頭が下がる。
気づけば、資料を両手で掲げるように持ち、ソラリックは下げた額を押し当てるようにしてしていた。
胸にあるのは感謝。知らぬ間に資料が二つほどの滴で濡れる。
手紙によれば、小瓶それぞれは他にも二つの病に対し、彼が有効ではないかと調合した薬なのだという。
遠方にいて、関係がないはずの彼が、力を尽くして作成した薬。
それに、論文と見紛うばかりの精緻な彼の考察。
きっと名前を隠し、聖教会の誰かが書き上げた論文と見せれば多くの治療師はそれを信じるだろう。
無論、それが役に立つかはわからない。
所詮外部の者が、情報不足のままに作り上げた分析と対抗策だ。
ソラリックの用意した一次資料を基に書かれた、ということで時間差はある。刻一刻と変わっていく状況に対応できていないこともある。中に書かれている知識は、既知のものも多い。
役に立たないかもしれない、というのは彼も書いているとおりそうかもしれない。
だがそれにもまして、この状況で、彼からの支援が届いた。
たとえそれが何の役にも立たない無力なものであっても。
手探りで進むしかない暗闇の中、立ち止まってしまった自分。
そんな中で、何かの明かりを見つけたように。
まだ歩ける道がある。まだ出来ることがある。それを知らせてくれた彼に、感謝を。
ソラリックはカラスの執筆した最新の『論文』を小声で朗読するように読み込んでいく。一文字たりとも逃すわけにはいかない。途中悪筆により読み間違えは発生しつつも、辿々しくも丁寧に。
「『効くと思われるのはごく初期の段階。仮にその薬が奏効したとしても、成長してからの治療には《再生》が必須』」
重要箇所は容易に暗唱できるまでに。止まっていた足を強引に動かすように。
やはり中の知識は既知のものが多い。
だがそれも心強い。つまりそれは、聖教会の者ではない外部の別体系の知識を持つ者も、同じように感じることだということなのだから。
自分たちの思い上がりに誤解や間違い、それを確認できるだけでも。
「『今回の調合で効き目が強く出やすいのは湿寒体質、更に望ましくは……』」
使われるべき患者の体質を思い浮かべ、ソラリックは当てはまる現在の患者を頭の中で挙げていく。まずは効くかどうか。また、効いた際には、彼が予想した経過を辿るのかどうか。
これだけにかまけているわけにはいかない。けれども、注力しなければいけない。
たとえその出口の先が行き止まりだろうと、それをその目で確認するまでは。
まずは治療実験の許可を、……いや、それも時間がかかるし、外部の者が作った正体不明の薬を患者に投与することは許されるだろうか。
作成者は〈大妖精〉アリエルの子、〈奇跡〉のカラス。そこまで主張して、まだ半々と言うところ。いっそアリエルが作成したと言い張っても……。
いや、おそらくその場合も、まずこちらで同じ材料を用いて作ってみてとするだろうし、……としても、残念ながら使われている生薬は一般的に言う『毒物』が大半だ。それを投与することが許されるかどうかわからない。
秘密裏に行うべきか、とソラリックは悩む。
一応、仲間たちと、せめて特等治療師エンバーに話を通すべきか……。
エンバーには頼みたいこともある。やはりそうするべきだろう。
うん、と頷いて決意し、ソラリックは深呼吸をした。
まずはまたエンバーに会いに行かねば。
自らの手柄にする気はないが、『考案した新薬の投与をしてみたい』程度でいいだろう。成功すればその調合を公表するということ。この最悪の事態の最中、その程度はきっと認めてもらえる。
そしてもう一つは、カラスからの頼み事で。
手紙の最後に書かれていた。無理だったらいい、という言葉と共に。
「エウリューケ・ライノラットの研究論文……」
それが誰だかはわからない。しかしその名をソラリックも昔見たことがある。カラスの名前を探した追放者の名簿の中に。
そしてつい最近も。エンバーの集めた資料の中、奥付に記された参考資料の著者、それも塗られてもわずかに消えずにうっすらと残った黒塗りの中に。
それがそんなにも重要なものなのだろうか。
そうは思いつつも、だがしかし、彼が今、何も関係がないものを求めるとは思えない。
『読んだことがある人がいれば、どのようなものがあったか教えてほしい』と彼は書いていた。
自分は読んだことがない。だから周りの人間に尋ねて回り、噂話を提供するだけでもいい、ということだろう。
けれどもやはり、実物があった方がいいだろう。せめて、手に入るかどうかだけでも。
追放者の論文は禁忌として廃棄される。もしくはそれでも貴重なものならば、禁書として一部だけ本国に保管されるのだという。
勿論、それが容易に手に入るとは思えない。
禁書とは読むことも中身を議論することも禁じられているから禁書なのだ。そもそもに本国の大聖堂にある書庫、その禁書棚から移動することも出来ないはずだ。
だが、手に入れられれば。あのカラスが言うからには、きっとその資料には何かしらの価値がある。この現状をどうにか出来る価値がある。
ソラリックはうっすらとそう感じ、席を立った。




