空を飛ぶ夢
その幼い少年は明け方目を覚ました。閉められた扉と窓の隙間から差し込む光が目につくまだ薄暗い中で、隣に寝ている兄姉たちの寝息が聞こえる。
エッセン王国のほとんどは温暖な気候だ。冬場の肌寒さも寄り添っているうちには感じられない。遠くで鳥の鳴く声がする。
目を覚ましてから見つめる天井はまだぼんやりしていて、いつもは目についた蜘蛛の巣や埃などは見えなかった。
「…………」
ん、と雑魚寝の窮屈な中、それでも身体を伸ばして息を吐く。
これで蹴り飛ばしてしまい、兄や姉に何度叱られたことか。そう思いつつも、無意識にやってしまうこれを止められはしない。
今日は運良く誰にも手足が当たらなかったらしい。その幸運を知らず、少年はもう一息溜息をつく。もう少し寝ていたかったのに。まだ目を瞑れば眠れるだろうか。
いや恐らく、もう少しで両親も目を覚ますだろう。そうして自分たちを叩き起こし、水汲みを命じ、両親は身体を温めるためにも竈に火を入れる。
今日の仕事はなんだろうか。また藁を編んで筵でも作るのだろうか。それとも縄や靴や蓑など、その辺りを作るのだろうか。
農家である彼の家の、冬場の生業はそれだ。夏に作った作物のうち、可食部を除いた部分をとっておき、冬場にはそれを何かしらの製品に仕立て直す。
少年はまだ幼く、この夏まではその仕事に携わることにはならなかった。仕事場の隅で遊んでいることを許され、そして藁や紐を使って暇を潰していただけで。
けれども、そろそろ、と基本的なことを習い始めてからしばらく経つ。もちろん両親や長兄たちのように上手には出来ないが、しかし上達は始まっていた。綯った縄は形を作り、元の藁以上の長さに伸ばすことも出来るようになった。
やりたいとは思えない。何故それをやるのかと考えたこともない。
生まれたときから家族が行っていたこと。親や兄姉が当たり前にしていたこと。
ならば、きっとやれるようにならなければいけないのだろう。
んん、ともう一度伸びをして、兄姉たちを踏まないようにそっと立ち上がる。
五人での雑魚寝は慣れる以前に当たり前のことだ。
寝息やいびき、身動きの衣擦れ、眠るときに騒がしいのも。
彼らの間を縫うように、そっと手足のない場所を探って少年は扉へと近づいた。
五人の子供で手狭になる部屋。両親は別の同じ程度の広さの部屋で寝ている。まだ両親も起きていないだろう、と感じつつ、音を鳴らさないように扉を押した。
寝室に繋がる居間は外の光が入って、子供部屋よりなお明るい。
シンと静まる朝の空気は冷たく感じられ、まず耳が痛いと思った。
早起きは褒められることだ。寝坊よりはまだ。
少年は、その居間からまた足音を忍ばせ、そろりと外へ出る。
空は昇ってきた太陽に照らされ、その中を一羽の鳥が飛んでいた。
その鳥を見つめて、少年は今日の夢を思い出す。
視界の中はまだふわふわとしている。だがその分、身体の『内側』はしっかりとしているようで、どこか殻の中から外を見ているような、そんな気分だった。
今日の夢の中、覚えている最初は、きっとどこかの草原にいた。
どうやら自分は、刈り取られた麦畑のような少しだけ長めの草と、短い草が生えている地面に裸足で立っていたのだと思う。
どこか引っ張られるような感覚を覚え、足下にはぐにゃりとした何かがあって、少年はふわりと宙に浮かび上がった。
最初は驚いたが、しかしすぐにその感覚には慣れたようだ。
次第に空へと上る感覚は強くなり、視界はぐんぐんと開けてゆく。
頬を撫でる風。まるで星々に手が届くように、もがいた手が何かを掴んだ気もした。
見下ろせば下には街がある。きっとこの王都を見下ろせばこのようになるのだろう、というような、泥の固まったような茶色い塊が、彼方まで広がって見える。
そして見上げれば、雲。いつしかその雲も突き抜けて、広がる景色には大きな月と星々と。それにまだ小さくか細い太陽が、遠く遠くでこちらを窺っているようだった。
静かで、誰もいない空。
ぼんやりと見下ろせば、遙か遠くの街の音が、祭りの日みたいに鳴っている。
いつの間にか足下の感触もなくなって、まるでこの世界にただ一人だけ自分がいるみたいに感じて。
そして自分は、何故だか思ったのだ。
何故みんなはここにこないのか、と。
夢から目覚めて、今自分はここにいる、と少年は意識を取り戻す。
見上げているのは自分で、見上げられているのは小さな鳥。夢の中では、自分は空を飛んだというのに。
小さな名前も知らない鳥が視界を横切りどこかへ飛んでいく。
黒い影しか見えないその鳥は、模様すらも少年に見せずに消えていった。
どうだみたか、と言っている雰囲気で。
少年は見送り、ふと悲しくなる。
両親に聞いた話。友達の間でも聞く話。
魔法使いや魔術師は空を飛ぶのだという。空を飛べる者がいるのだという。
もちろん自分は飛ぶことなど出来はしない。人間は石を食べられないし、空を飛ぶことなど出来ないのだ。
でも、何故。
何故自分には出来ないのだろう。出来る人がいるのに。出来る生き物がいるのに。なのに、自分には。
少年は、無意識に手を広げた。この手がもしも翼だったのなら。もしもこの腕が羽だったのならば、自分は空を飛べたのだろうか。鳥のように自由に。
だがもちろん、人間は空を飛べないのだろう。
その重たい身体は地面から張り付いたように一寸たりとも離れず、手は空気を掴まない。
だろうな、と感じ、少年は諦観にぱたりと手を落とした。
先ほど見た夢のように、自由に空を飛ぶことが出来るとしたら。
きっと、それが出来るのは、魔法使いたち、人間じゃない者たちで、きっとそれは自分以外の誰かなのだろう。
少年はまだ子供だ。三歳を少し過ぎた程度の。
けれども容赦なく、大人たちは言葉を選びつつ少年に言い聞かせ続ける。
自分たちは凡人だ。
大金持ちではない。けれども、日々飢えることはない。
皆に褒め称えられる英雄ではない。けれども、嫌われ者でもない。
着るものもあって、住む家があって、生きていける。
そんな凡人であることに感謝しよう。
魔法使いのように飛べなくともいいのだ。
飛べるべきではないのだ。凡人の自分たちは。
凡人である、飢えることはない、そんな言葉をまだ幼い少年は理解できていない。
しかしそれでも幼心に、家族たちの言うことをなんとなく理解していた。
家族が自分を気遣って言っているのだと理解し、それが正しいことなのだと思ってもいた。
諦めろと人は言う。
飛べるはずがないと親や兄姉は言う。
でもなんとなく、諦めたくない。
少年は空を見上げる。雲が散らばり日の光に包まれた青い空を。
夢で見たその先を。
僕だって、空の上に行ってみたい。
羨ましい。
どうして僕には出来ないのだろう。どうして翼がないのだろう。
僕にはまだ、出来ることがあるのではないだろうか。
「どうしたの、ウィンク」
後ろから声をかけられて、少年はびくりと肩を震わせた。
振り向けば母親。いつの間にやら起きていて、薪をとるために外へ出てきたのだろう。
「……なんでもない」
「あんただけは早起きだね。あの子らも見習えばいいのに」
はあ、と溜息をつきながら母親がのしのしと資材置き場に歩いていく。
「じゃああんたはたまには父ちゃんと一緒に水汲みしてきな」
本来は兄姉の誰かの仕事ではあるが、たまにはいいだろう。いずれは彼もその当番に入るのだから。そう判断した母親が促しつつ背中を見せる。
ウィンクはそれにごく小さな声で「うん」と応えた。
もう一度、ウィンクは空を見上げた。
その先に何があるのだろう。あの青い空の向こうには何もなくて、ただ青い空がずっと続くと皆は言う。
でも本当にそうなのだろうか?
だって誰も見たことがないのに。
だから、行ってみたい。
空を飛んで、上に、上に。
鳥のように自由に、この地面から遠く遠くへ離れていって。
それでもそれは見果てぬ夢だ。夢は叶わないから夢という。
だから、きっと空の上を見ることは永遠にないのだと彼は幼心に感じていた。
そうして諦めを振り切るように扉を開けて、部屋に入る最中。
ふと、ウィンクは思う。
それはほんの小さなひっかかり。
次の瞬間には消えてしまうほどの。
僕は昔、空を飛んだことがある気がする。
きっと今でも飛べるのだろう。そんな気がする。
だから、出来るのだ。
どこか遠くの凄い誰かだけじゃない。
鳥だけじゃない。
自分にも、きっと。
…………。
……でも、どうやって?




