優先順位
五英将の襲撃。そうした発表がなくとも、その事実を誰かが察するのは時間の問題だ。
西の端にある馬車乗り場は追い立てられるようにして集まった民間人で埋まり、恐慌の声に溢れていた。
そこにいる多くの人間は既に見ていた。人を軽く殺せる怪物達を。人を楽しく、朗らかに惨く殺していく怪物達を。裸の怪物達は生きている人間の耐久性を試すように遊び、顔の怪物は死んだ人間の身体を砂場遊びのように弄ぶ。
こんな場所にいられるわけがない。
こんな場所にこれ以上いれば、いつ自分が四肢の揃わない死体になってしまうかもわからないのだ。
「くそ、騎士達は何やってんだよ」
「俺たちまで戦争に巻き込みやがって」
「早くなんとかしろよ! こういうときのために準備してんだろうが!!」
口々に叫ぶ民間人の非難が、そこにいる騎士や衛兵、聖騎士にまで向かう。
聖騎士は貴族だ。彼らに対する礼を失した言葉は処罰の対象になるにもかかわらず、民間人の『義憤』は収まらない。
彼らは今、一塊の『非力な民間人』なのだから。
「ふざけんな! 俺たちも馬車に乗せろよ!!」
「歩ける者はすぐに走って行け!!」
声を無視して衛兵は人々に叫ぶ。なんでもいい、早く逃げてほしい。馬車も出してはいるが、数に限りがあるそれは現在貴族達優先だ。もしくは小さな子供を抱えた親も、とエーミールの方針で優先させているものの、民間人が今の緊急時に簡単に乗れるものではない。
もっとも、荷物を抱えておらず、短時間ならば馬車よりも走って行った方が早い場合もある。そのためもあって、やはり民間人を現在簡単に乗せるわけにはいかない。
火急ではない昨日までだったら、お前の願いは間違いなく叶っただろうに。そう、衛兵は喉元まで口に出しかけ、言っても意味がないと我慢した。
「隣街までの経路は騎士達が巡回している! 出来る限りの安全は確保してある早く!!」
既に巡礼に似た列は出来ている。迷うことはないが一応、と衛兵は心の中で添えた。
誰かが、あ、と声を上げた。
その声に人々が東の空を見上げる。そこにいた騎士や衛兵達も、襲撃に備えて槍を構えた。
青空を透かすように見えたのは、半透明の蛞蝓。そこに人が一人乗っている。赤い袖付き外套、大きな帽子、うねる金と茶色の混じる髪。
確認した聖騎士は衛兵達に向けて叫ぶ。
「味方だ」
あれは《悪夢》ではないのか。そう僅かな恐怖に怪訝に思いつつも、衛兵達は槍を下げる。
同時に何かが炸裂した音がいくつも響いて、幾人かは槍を取り落としていた。
がやがやという人間達の声と気配を肌で感じ、〈欠片余り〉クロエ・ゴーティエは盲いた目を僅かに開き、長い睫毛を靡かせる。
「……まだ、こんなに沢山」
この街にはまだこんなに人がいたのか、という感慨。普段から彼女も感じてはいたが、まるで祭りの日に街にいる人手に驚くように、集まった人間達の気配がより濃く感じられた。
「早く逃げればよかったのに。お馬鹿さんたち」
クスクスと笑い、自分を見上げる影を感じ取る。今彼らは何をしているのだろうか。助かりたければとにかく走って逃げればいいのに。それとも、自分が彼らを助けるとでも思っているのだろうか。
馬鹿馬鹿しい。
空中で手綱を引かれたように蛞蝓がその身を曲げて方向転換する。
もうこの辺りに悪夢はいない。今のところは。クロエの力と、聖騎士達の涙ぐましい努力によって。
ならば自分はここから東へと向かうべきだ。この作られた『清浄地』を広げるように、東へ、東へと悪夢の怪物達を掃討していく。
簡単な仕事だ。簡単で、とても自分に向いている。
クロエは目を閉じ、眼下の振動を頬で感じる。
彼女は戦争が始まるほんの少し前、エーミール・マグナの請願でこの副都へと派遣された。あのような僻地が戦場になるわけもないだろう、と笑う貴族達もいたが、占い師プリシラ・ドルグワントの勧めもあって、クロエは承諾した。
しかし今この様な状況になって思う。
まさか本当にエーミールはこの展開を読んでいたとでもいうのだろうか。
魔物使い、または〈眠り姫〉トリステ・スモルツァンドがここに来ることを予想し、そして大軍勢に対抗できる精霊使いの自分を呼び寄せた。
出来過ぎている、とも思う。
未来を読んでいるようだ。もしくは、誰かが考えた先の展開を既に聞いていたかのよう。
ラルゴ・グリッサンドではないにしろ、エーミールはムジカルの誰かと通じていた、と聞いてもクロエは否定できないと感じる。
……まあもっとも、本当にそのようなことがあっても、クロエにとってはどうでもいいのだが。
ともかく、東へ自分は向かうのだ。怪物達を殲滅するために。
「逃げ遅れた人間は無視して構わない……でしたっけ?」
エーミールはそう言っていた。部下が救うから、と。
ちょうどいい。クロエはそう感じ、楽しみに目を開く。白い暗闇の先、きっとまだ多くの命がいるだろう。
「では東へ。助けるのは聖騎士の方々にお任せしましょう」
何せ、自分は壊す方が得意なのだ。
「くそっ!!」
ミールマンの北側。街の中でウェイトが駆けずり回るように足を止めない。
悪夢は終わらない。未だに怪物達は東側から襲来し続けているし、逃げ遅れて隠れている人間達はまだ残っている。
怪物達は人間達を探して回り、そして隙あらば傷つけようと躍起だ。助けられないこともあるし、運良く助けられた人間達が逃げている最中どうなっているかもわからない。
見上げれば、細いミールマンの空には未だに怪物達が飛び交っている。髑髏の怪物はぷかぷか浮かび、石の怪物達は翼を存分に使い飛び回る。舞い降りてくる顔の怪物達は頬にべっとりとついた血を拭う手を持たず、裸の怪物は配置の目茶苦茶な顔で苦しむ顔を見せない。
倒しても倒しても尽きることのない怪物達。
彼らはウェイトよりも巧妙に、隠れ紛れて生き残る人間を察知し襲撃している。明滅するようにして壁をすり抜け家屋に侵入すると、中から悲鳴が響く。
部下が叫ぶ。
「目録一から十五は完了! 二、八から十は死亡を確認!!」
走りつつの叫び声での情報交換も慣れたもの。
少し離れた場所で併走するようにしていた部下からの報告。その情報を脳内で噛みしめつつも、ウェイトは足と手を止めない。透けるように壁から突然現れた顔の怪物も、その殺気を読み壁ごと切り払うことで回避した。
しかし、事態は芳しくない。
避難指示も聞かずに頑迷に街に残っていた貴族や要職に就く有力者たちのうち、有事にウェイトが対応することになっていた者は三十三名。優先順位の高い者から部下が『救出』し、十五人までは対応した。しかし既にその内四名は死んでいたのだという。
今のこの状況では残る者たちももはや危ういだろう。
逃げてくれていれば構わない。自力で逃走し、既に避難にかかっていてくれていれば。だが逃げ遅れているのならば、残りの者の安否はもはや。
選ぶべきだろう、とウェイトは思った。
貴族達の救出を優先するか、怪物の駆除もしくは民間人の救出を優先するか。
ウェイト達三班は五人一組。それぞれが怪物達を相手にする程度であれば重荷ではないにしろ、二つの目標で分けるのは得策ではない。今までは貴族達へ二人、それ以外をウェイトを含む三人で行ってきたが、……そのどちらかを選ぶとするならば。
「よくやった! フィリップは続行!! アンクは化け物どもの撃破にかかれ!!」
「了解!!」
貴族。貴い者たちだ。その一つの命は千人の卑人の命よりも価値があるとされる青い血の人間達。もしかしたら本当は、ここで五人全員で残る十八名を救出に走るべきなのかもしれない。
けれど、この場の裁量権はウェイトが握っている。エーミールに任された自己裁量の範疇において、その比率はウェイトが決定する。
無論ウェイトも全員を助けたい。全員が無事に生き残り、何事もなく普通の生活に戻ることを望んでいる。
だがそれが無理だとしたら。
(お前なら)
取捨選択をしなければ。もし仮に、ここで選ぶのがお前ならばどうするのだろう。
そう思いつつ、思い浮かべた『お前』。だが、ウェイトはそれが誰だか自身でもわからない。
だが、これでいい、とウェイトはすぐに気を取り直した。
化け物の数を減らすのは、どちらの命も助けることだ。民間人の救出を行いながら、怪物を減らせばそれだけ貴人が被害に遭うことも少なくなる。
今はただ、怪物達の数を。
「班長!!」
これでいいのだ。
立ち止まり、そう納得を飲み込むように息を吸って吐いたウェイトにまた部下から声がかかる。
その声に『何だ』と返す前に、ウェイトは異変に気がついた。
異変ではない。殺気。
太陽光線のように降り注ぐ殺気は、上から。
「……あれは、何だ?」
「おそらく、クロエ・ゴーティエの……」
細い空の向こう。浮いているのは硝子玉のような半透明の巨大な球体。表面は水面に浮かぶ油のようにきらきらと輝き、また青や鉄の色に歪む。
空高いわけでもない街の上。離れているわけでもないということもあり、大通りから見ても全体像が見えないような巨大なもの。
今までの悪夢のような悪意は見えない。
もっと純粋で、もっと空想めいたものは、たしかにトリステの《悪夢》の印象ではない。
「まさか」
だがその硝子玉がぶくぶくと膨れあがるのを見て、ウェイトの顔が青ざめる。
それからすぐに、ぽん、と軽い音がした。同時に弾けるようにして地面に幾本も刺さったのは、石鹸の泡の色をしたごく細く長い杭。
ウェイトの目の前で、杭が裸の怪物達を刺し貫く。声と音から、おそらく家屋の中にいる怪物達までも正確に。
そして次の瞬間には。
「ぎゃあっ!!?」
咄嗟に身体を丸め、腕で頭部を隠したウェイトの耳に破裂音が響く。
それと同時に、どこか近くで人間の悲鳴も。
(炸裂する杭……だと……?)
怪物達の身体を食い破るようにして炸裂した杭は、貫いた怪物を破裂させて消滅させた。
その効果を確認すると同時に、額に鋭い痛みを覚え、その血が目に到達するころにはウェイトはようやく気がついた。
自分にも刺さった何かの破片。きっとこれは杭の欠片で。
そして、今響いた悲鳴。
いくつもの建物が、破壊を受けて崩壊する。
ウェイトの視界の中僅か先、三階建ての建物のうち、二階の壁が崩落した。その中には、赤い血がちらりと見えた。
また上空の硝子玉が、ぷくりと膨れあがる。
「……人が……」
吐き出す声に息が切れ、ウェイトは震えるように息を吸う。肺と喉に闘気を込めて。どこにいるかもわからない、その硝子玉の精霊の主に向けて。
「やめろぉぉっ!! まだ人がいるんだぞっ!!!!」
その声に応えるよう、ウェイトの背後に落ちてきた顔の怪物を、破裂する杭が刺し貫いた。




